のために自邸へと帰っていった。 けんかりようせいばい 浅野内匠頭は切腹、吉良上野介はお咎め無しとの裁定は、喧嘩両成敗の原則に反すると、 後々、人々の批判、さらには残された赤穂浪士の怒りを燃え上がらせることになる。 しかし、なぜ浅野内匠頭が城内で刃傷に及んだのか、いまだにその原因は謎であり、さまざ わいろ まな説が後世、述べられてきた。もっとも一般的なのは、上野介に十分な賄賂を贈らなかった ため、内匠頭は何かにつけていびられたという説だ。恥をかかされ続けた内匠頭が、ついにキ レたというわけである。 だか、饗応掛もあと一日、いや半日というところで、怒りが爆発するかという疑問もある しかも、朝、一度は怒りを堪えているとするならば、刃傷に及ぶまでの数時間のうちに、し たい内匠頭に何があったのだろうか。直前に会った梶川与惣兵衛には、ごく普通の応対をして いるのも解せない また、吉良上野介は " 忠臣蔵 ~ によってすっかり悪者になってしまったが、領地においての 評判は良く、学識豊かな人物であったようだ。 ほかには、浅野内匠頭の気性に問題があったとする説もある ないとうただかっ 内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝も刃傷沙汰を起こしており、浅野一族はもともと頭に 血が上りやすい性質だったというのだ。朝、一旦は抑えた怒りが、上野介の姿を見て一気に燃 え上がった、ということもなくはあるまいか、これとて確証はない 224
内匠頭は「心得ました」と央諾する。これを聞き安心した梶川は、上野介にも挨拶をしてお しろしよいん こうと、辺りを見回した。すると、ちょうど白書院の方からやってくる上野介が目に入る。 そこで上野介を呼び止め、松の廊下の一角で立ち話を始めた。 事件が起きたのは、その時である いこん 「この間の遺恨覚えたるか ! ー ( 『梶川氏筆記』 ) そう叫びながら、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かってきたのだ。 ひとたち 背後から一太刀、さらにふりむいたところを額に二の太刀を浴びせた。驚いた梶川は、あわ てて内匠頭に飛びつき、押さえ込んだ。すでに辺りには鮮血が飛び散っている。 内匠頭はなおも上野介をなじる言葉を叫び、切り掛かろうとしたが、変事を見て駆け寄った 周囲の者も押さえつけたため、ようやく冷静さを取り戻した。 その間、上野介は松の廊下から桜の間の方へと逃げ、前後を忘れて「医者を頼むーと何度も 叫んだという そてつま これが松の廊下の一件である。取り押さえられた浅野内匠頭は、一旦、蘇鉄の間に入れられ、 取り調べを受けた。その際、 にんじよ、つ とカ 「城内で刃傷に及んだ上は、どのような咎めでも受けるが、上野介を討ち果たせなかったのが 誠に残念だ」 と語った。事情を聞いた目付・多門伝八一郎が、 おかど 2 2 2
①刃傷、松の廊下 えんでん ほかには、塩田を巡っての争いに着目する説もある。赤穂はいうまでもなく塩の一大産地で あるが、一方の吉良も塩の産地だった。塩の市場を巡っての争いが、ついには城内の刃傷に発 展したというのである。 興味深いが、この説も今一つ弱い。赤穂の方が塩業では圧倒的に進んでいたからだ。その進 んだ製法を探るために、吉良は赤穂にスパイを送り込んでいたという話もある 上野介が内匠頭に切り掛かったのなら、話はわかる。刀を振り回すかどうかは別にして、市 場を独占する大企業に、中小企業の社長が遺恨を抱いたとすれば一応、筋は通る。しかし、刃 傷は内匠頭が一方的に、上野介に切りかかっていた。内匠頭がこと塩に関して、上野介を敵視 する必要は考えられない。 えんこん 内匠頭の中に、何か相当な怨恨があったことは間違いないようだが、一方の上野介は生前 ついにその原因を特定できなかった。謎が謎を呼んでいる。 見方をかえれば、この曖味さが人々の想像力を刺激して、 " 忠臣蔵 ~ という国民的なドラマ を作り上げる起因になったのかもしれない 225
吉良の家臣たちが飛び出してきて、たちまち随所で切り合いとなった。戦いは約二時間続い た。ところが、ようやく戦闘が終わり、邸内に敵の気配がなくなったところで、くまなく探し こが、肝、いの吉良上野介の姿が見えない。 一度は落胆した一同だったが、上野介の寝所の布団は温もりを残していた。 「上野介はまだ遠くへは逃げておらぬ。この屋敷のどこかにいるに違いない。探せ、探せ」 そのうち、台所ロの脇にある炭小屋から微かに話し声がするのに気付いた。 しみずいちがく 戸を破ると、二人の者が出て来て切り掛かってくる。吉良家の大須賀治部右衛門と清水一学 であった。 " 、 忠臣蔵 ~ では清水一学は女の着物をまとい、二刀流で奮戦した後、大石主税に討 たれるとい、つことになっているか、これは創作でしかない すぐさま二人を切り捨てたが、まだ奥に人がいる。浪士の一人・間重次郎が槍を突き入れた ところ、脇差しを抜いて激しく抵抗しようとした。そこで、浪士の武林唯七が切り掛かり、こ れを討ち倒した。小屋の外の明かりのあるところに引き出してみると、この人物が吉良上野介 であった。こうして敵討ちは終わりを告げる。 吉良方の死者が上野介も入れて十七人、負傷者二十四人だったのに対して、浪士方には一人 入 討の死者も出ていない。 良 吉良方には総勢百四十九人の者がいたというから、浪士方の約三倍になる。浪士たちの一方 吉 ⑩的な勝利に終わったのは、一つには不意を突いたことが大きかった。「火事だ ! 」と叫んで家 227
一よ、つ」、つ。カ・刀・り・ 彼らは儀礼や礼儀作法に通じており、勅使下向の際には、饗応掛を命じられた大名の指導 に当たることになっていた。 さて、問題の三月十四日早朝、その年の勅使饗応掛を命じられた浅野内匠頭は、松の廊下で 吉良上野介らとともに勅使がやってくるのを待っていた。その際、こんなやり取りがあったと し、つ ふと心配になった内匠頭が、念のためにと上野介に尋ねた。 「お使者は御玄関式台でお迎えすべきでしようか、それとも式台下でお迎えすべきでしようか」 これに対して上野介は、馬鹿にしたような笑みを浮かべながら答えた。 「それは申すには及ばぬこと。この期に及んでそのようなことをお尋ねになるとは、笑止千万 でござる」 もしも史実なら、何とも意地の悪い一言である。しかし、この時には内匠頭、ぐっと堪えて み 引き下がった。事件が起きたのは巳の刻 ( 午前十時 ) を過ぎた頃である。 ほ、つ A ) 、つ かじかわよそべえ 旗本の梶川与惣兵衛が、松の廊下で、奉答の式が済んだら知らせて欲しい、と浅野内匠頭に けいしよ、ついん 廊話しかけていた。梶川は、五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院から内使を命じられてい の 松たのである 傷 勅使奉答が終わった後、桂昌院から勅使に御礼の品を贈ることになっていたので、梶川とし 刃 ・ては饗応掛の内匠頭に式の終わりを知らせてもらう必要があったわけだ。 こら 2 2 1
の ⑩平将門の乱ー九三九年 せいちょ、つ たいらのまさかどこうずけのこくふ てんぎよう 天慶二年 ( 九三九 ) 十二月十九日、平将門は上野国府を占拠し、正庁に入って「諸国の じもく 除目」をおこなった。 ず . り・よ、つこくし 受領 ( 国司 ) を追放し、除目を行えば、これは明らかに朝廷への反逆となる。 ひたち しもつけ だが、常陸国府、下野国府、そして上野国府を攻略したこの時点でなお、将門には明確な独 立心、京都にかわろうとの意図はなかったように田 5 われる ただひら その証左に、上野国府を制圧した時点で将門は、「摂政、の藤原忠平に上申書を送り、朝廷 に対する不平・不満を思う存分に述べていた。 べんそ 弁疏だけではない。そこには三カ国を実力Ⅱ武力で制圧した強い気概、自信のほどが語られ ていた。ただし、 「将門、領国の謀を萌すといえども、何ぞ旧王の貴閣 ( 忠平 ) を忘れんや」 忠平への恩義は忘れていない、と弁明している と、反逆はしたが、 乱 てん の この将門が、天修を求めたとは考えにくい。将門が対立していたのは、あくまで朝廷の派遣 おする役人である受領であり、受領に従う豪族たちであった。 当時、新任の受領が見回りと称して各地の民家を襲い、めばしいものを奪うといったことが 0 せっしよ、つ 0
⑩刃傷、松の廊下ーー一七〇一年三月 + 四日 げんろく たくみのかみながのり 元禄十四年 ( 一七〇一 ) 三月十四日、江戸城内松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高 けひっと、つ きらこ、つずけのすけよしなか 家筆頭・吉良上野介義央に切り掛かり、負傷させるという事件が起こった。日本史上最も有 ちゅ、つしんぐら 名なドラマ " 忠臣蔵 ~ の発端となった事件である 事件は、次のような経緯を辿った。 ちよくし その日は、朝廷からの勅使を歓迎する行事の最終日に当たっていた。三月十二日に勅使が江 みことのり ちょ′、し 戸城に登城して天皇の詔を将軍に伝え、十三日に幕府が勅使を城内でもてなし、問題の十四 日に将軍から勅使への返礼があって、一連の行事は終了するはずであった。 ちなみに、勅使が江戸を訪れることは、取り立てて特別なことではなく、年中行事の一つだ みようだい った。正月に高家の者を将軍の名代として京都に派遣し、朝廷はその返礼として勅使を江戸に 0 送るのが慣例となっていたのである 」ら いま 6 カわ はたけやま きよ、つごく 高家とは、吉良家、今川家、畠山家、京極家など足利将軍家の血筋を引く名門の末裔に与 えられた徳川幕府の役職名であった。 こ、つぶ 開府以来、朝廷との融和策を取ってきた幕府は、公武Ⅱ朝廷と幕府との橋渡し役として高家 を置いていた。この年の正月は、高家筆頭の吉良上野介が京都に上っている。 0 あこ、つ まっえい 2 2 0
しかも、松の廊下以後、どうも幕府は浪士の討入りを容認していたような節がある。吉良の 屋敷はもともと呉服橋にあり、その前は鍛冶橋にあった。どちらも、いわば繁華街の真ん中で ひざもと あり、江戸城のお膝元である。それが、元禄十四年九月に本所松坂町に替えられた。今でこそ、 しゅびき 本所といえば賑やかなところだが、当時は朱引外、つまり、江戸の境界線の外であった。田舎 といってよ い。これでは浪士たちに、仇討ちをしろとけしかけているに等しい 内匠頭の切腹、赤穂藩取り潰しは、武士の中にも庶民の中にも疑問視する者が多かった。し かし、一度決定したことを変えるのは幕府の面子に関わる。 そこで、庶民を納得させるために、浪士たちが上野介を討つのを見て見ぬふりをした。それ ばっかく を策した者が、幕閣にいたのではあるまいか。そうであれば、吉良上野介は幕府の権威を保つ ために犠牲となった、とも一言えるのだが。 メンツ 2 ろ 0
①吉良邸討入り 決定までには、数カ月を要している 浪士たちを預かっていた大名家四家に、幕府 。蔵の決定が伝えられたのが二月三日、彼らの切腹 - 多〔一 ( 。書が行われたのか翌四日のことであった。 中そして、この事件は終幕し、日本で最も人気 っゅ、つーしん、ら , 京か高いドラマ " 忠臣蔵 ~ として、現代にまで 伝えられることになったのである し迷惑と しかし考えみれば、吉良上野介はい ) い、つことかできるだろ、つ わいろ 賄賂を要求したかどうかは別にして、いきな り江戸城で切りつけられ、一命を取り止めたと 敵思えば、今度は浪士たちの襲撃を受けて殺され 「一七たわけだ。そもそも、松の廊下の刃傷事件の、 、四後の幕府の対応がまずかった。喧嘩両成敗の原 則に則って、切腹はないにしても吉良家にもそ = 中れなりに罰を与えていれば、上野介が殺される 暦ような事態にはいたらなかったはずだ。 のっと 229
「上野介殿の傷は浅かったようだが、何しろ老齢であり、額という急所のこと故、どうなるか わからない」 と答えたところ、内匠頭の顔には喜色が湧きあがったという。よほどの恨みがあったに違い たむらうきようだゅうたてあき おうしゅういちのせき その後、内匠頭は、奥州一関藩主・田村右京太夫建顕の屋敷に一時預けられ、沙汰を待っ ことになったが、 その日の夜のうちに、辞世の句を残して切腹を命じられた。 風さそふ花より猶我ハまた 春の名残をいかにとかせむ ( 『多門伝八郎覚書』 ) の辞世の句を詠んで自刃して果てた。 つなよし 内匠頭の切腹については、老中の中に反対する者も多かった。切腹を命じたのは、将軍綱吉 である。老中から、内匠頭は乱心、つまり心神喪失の状態にあったに違いないから、処分の決 廊定まで時間をかけるべきだとの意見が出されたが、江戸城内、それも勅使饗応の席で刃傷沙汰 松を起こしたことについて、綱吉の怒りは収まらず、結局、即日切腹と決したのであった。 傷 一方の吉良上野介はというと、傷は出血のほどには深くなく、また、一方的に内匠頭に切り 刃 とカ ・つけられたことから、その日のうちに一切の咎め無しと決まり、傷の手当てを受けた後、静養 なお 225