「上野介殿の傷は浅かったようだが、何しろ老齢であり、額という急所のこと故、どうなるか わからない」 と答えたところ、内匠頭の顔には喜色が湧きあがったという。よほどの恨みがあったに違い たむらうきようだゅうたてあき おうしゅういちのせき その後、内匠頭は、奥州一関藩主・田村右京太夫建顕の屋敷に一時預けられ、沙汰を待っ ことになったが、 その日の夜のうちに、辞世の句を残して切腹を命じられた。 風さそふ花より猶我ハまた 春の名残をいかにとかせむ ( 『多門伝八郎覚書』 ) の辞世の句を詠んで自刃して果てた。 つなよし 内匠頭の切腹については、老中の中に反対する者も多かった。切腹を命じたのは、将軍綱吉 である。老中から、内匠頭は乱心、つまり心神喪失の状態にあったに違いないから、処分の決 廊定まで時間をかけるべきだとの意見が出されたが、江戸城内、それも勅使饗応の席で刃傷沙汰 松を起こしたことについて、綱吉の怒りは収まらず、結局、即日切腹と決したのであった。 傷 一方の吉良上野介はというと、傷は出血のほどには深くなく、また、一方的に内匠頭に切り 刃 とカ ・つけられたことから、その日のうちに一切の咎め無しと決まり、傷の手当てを受けた後、静養 なお 225
①刃傷、松の廊下 えんでん ほかには、塩田を巡っての争いに着目する説もある。赤穂はいうまでもなく塩の一大産地で あるが、一方の吉良も塩の産地だった。塩の市場を巡っての争いが、ついには城内の刃傷に発 展したというのである。 興味深いが、この説も今一つ弱い。赤穂の方が塩業では圧倒的に進んでいたからだ。その進 んだ製法を探るために、吉良は赤穂にスパイを送り込んでいたという話もある 上野介が内匠頭に切り掛かったのなら、話はわかる。刀を振り回すかどうかは別にして、市 場を独占する大企業に、中小企業の社長が遺恨を抱いたとすれば一応、筋は通る。しかし、刃 傷は内匠頭が一方的に、上野介に切りかかっていた。内匠頭がこと塩に関して、上野介を敵視 する必要は考えられない。 えんこん 内匠頭の中に、何か相当な怨恨があったことは間違いないようだが、一方の上野介は生前 ついにその原因を特定できなかった。謎が謎を呼んでいる。 見方をかえれば、この曖味さが人々の想像力を刺激して、 " 忠臣蔵 ~ という国民的なドラマ を作り上げる起因になったのかもしれない 225
のために自邸へと帰っていった。 けんかりようせいばい 浅野内匠頭は切腹、吉良上野介はお咎め無しとの裁定は、喧嘩両成敗の原則に反すると、 後々、人々の批判、さらには残された赤穂浪士の怒りを燃え上がらせることになる。 しかし、なぜ浅野内匠頭が城内で刃傷に及んだのか、いまだにその原因は謎であり、さまざ わいろ まな説が後世、述べられてきた。もっとも一般的なのは、上野介に十分な賄賂を贈らなかった ため、内匠頭は何かにつけていびられたという説だ。恥をかかされ続けた内匠頭が、ついにキ レたというわけである。 だか、饗応掛もあと一日、いや半日というところで、怒りが爆発するかという疑問もある しかも、朝、一度は怒りを堪えているとするならば、刃傷に及ぶまでの数時間のうちに、し たい内匠頭に何があったのだろうか。直前に会った梶川与惣兵衛には、ごく普通の応対をして いるのも解せない また、吉良上野介は " 忠臣蔵 ~ によってすっかり悪者になってしまったが、領地においての 評判は良く、学識豊かな人物であったようだ。 ほかには、浅野内匠頭の気性に問題があったとする説もある ないとうただかっ 内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝も刃傷沙汰を起こしており、浅野一族はもともと頭に 血が上りやすい性質だったというのだ。朝、一旦は抑えた怒りが、上野介の姿を見て一気に燃 え上がった、ということもなくはあるまいか、これとて確証はない 224
内匠頭は「心得ました」と央諾する。これを聞き安心した梶川は、上野介にも挨拶をしてお しろしよいん こうと、辺りを見回した。すると、ちょうど白書院の方からやってくる上野介が目に入る。 そこで上野介を呼び止め、松の廊下の一角で立ち話を始めた。 事件が起きたのは、その時である いこん 「この間の遺恨覚えたるか ! ー ( 『梶川氏筆記』 ) そう叫びながら、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に切り掛かってきたのだ。 ひとたち 背後から一太刀、さらにふりむいたところを額に二の太刀を浴びせた。驚いた梶川は、あわ てて内匠頭に飛びつき、押さえ込んだ。すでに辺りには鮮血が飛び散っている。 内匠頭はなおも上野介をなじる言葉を叫び、切り掛かろうとしたが、変事を見て駆け寄った 周囲の者も押さえつけたため、ようやく冷静さを取り戻した。 その間、上野介は松の廊下から桜の間の方へと逃げ、前後を忘れて「医者を頼むーと何度も 叫んだという そてつま これが松の廊下の一件である。取り押さえられた浅野内匠頭は、一旦、蘇鉄の間に入れられ、 取り調べを受けた。その際、 にんじよ、つ とカ 「城内で刃傷に及んだ上は、どのような咎めでも受けるが、上野介を討ち果たせなかったのが 誠に残念だ」 と語った。事情を聞いた目付・多門伝八一郎が、 おかど 2 2 2
一よ、つ」、つ。カ・刀・り・ 彼らは儀礼や礼儀作法に通じており、勅使下向の際には、饗応掛を命じられた大名の指導 に当たることになっていた。 さて、問題の三月十四日早朝、その年の勅使饗応掛を命じられた浅野内匠頭は、松の廊下で 吉良上野介らとともに勅使がやってくるのを待っていた。その際、こんなやり取りがあったと し、つ ふと心配になった内匠頭が、念のためにと上野介に尋ねた。 「お使者は御玄関式台でお迎えすべきでしようか、それとも式台下でお迎えすべきでしようか」 これに対して上野介は、馬鹿にしたような笑みを浮かべながら答えた。 「それは申すには及ばぬこと。この期に及んでそのようなことをお尋ねになるとは、笑止千万 でござる」 もしも史実なら、何とも意地の悪い一言である。しかし、この時には内匠頭、ぐっと堪えて み 引き下がった。事件が起きたのは巳の刻 ( 午前十時 ) を過ぎた頃である。 ほ、つ A ) 、つ かじかわよそべえ 旗本の梶川与惣兵衛が、松の廊下で、奉答の式が済んだら知らせて欲しい、と浅野内匠頭に けいしよ、ついん 廊話しかけていた。梶川は、五代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院から内使を命じられてい の 松たのである 傷 勅使奉答が終わった後、桂昌院から勅使に御礼の品を贈ることになっていたので、梶川とし 刃 ・ては饗応掛の内匠頭に式の終わりを知らせてもらう必要があったわけだ。 こら 2 2 1
しかも、松の廊下以後、どうも幕府は浪士の討入りを容認していたような節がある。吉良の 屋敷はもともと呉服橋にあり、その前は鍛冶橋にあった。どちらも、いわば繁華街の真ん中で ひざもと あり、江戸城のお膝元である。それが、元禄十四年九月に本所松坂町に替えられた。今でこそ、 しゅびき 本所といえば賑やかなところだが、当時は朱引外、つまり、江戸の境界線の外であった。田舎 といってよ い。これでは浪士たちに、仇討ちをしろとけしかけているに等しい 内匠頭の切腹、赤穂藩取り潰しは、武士の中にも庶民の中にも疑問視する者が多かった。し かし、一度決定したことを変えるのは幕府の面子に関わる。 そこで、庶民を納得させるために、浪士たちが上野介を討つのを見て見ぬふりをした。それ ばっかく を策した者が、幕閣にいたのではあるまいか。そうであれば、吉良上野介は幕府の権威を保つ ために犠牲となった、とも一言えるのだが。 メンツ 2 ろ 0
臣たちが慌てて飛び出してくるところを討ち取っている。また、前夜、吉良家では茶会が催さ れており、その疲れから、油断していたことも浪士たちには幸いした。しかし、やはり、主君 を一方的に切腹に追い込まれた恨みが、常にはない力を浪士たちに与えたのであろう。 せんがくじ 討ち入りを果たした浪士たちは、主君・浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。十五日 午前八時頃、泉岳寺についた一行は、内匠頭の墓所に上野介の首を供えて焼香した。 そち よしだちゅうざえもんとみのもりすけえ この泉岳寺に向かう道中、大石内蔵助は幕府の措置を仰ぐため、吉田忠左衛門と富森助右衛 せんごくほうきのかみ 門の二人を大目付・仙石伯耆守の屋敷へと向かわせている。いわば自首であり、これがあった ために幕府の対応は早かった。 ながとふちゅう いよまつやま さっそく幕閣による評定が開かれ、取り敢えず、浪士たちを肥後熊本、長門府中、伊予松山、 三河岡崎の四藩に預ける決定がなされた。その上でさらに議論が重ねられたが、浪士たちを最 終的にどのように処置するか、意見が分かれている。忠臣として称賛すべきだとする者と、理 いかん 由の如何を問わず罰すべしと主張する者とに二分されたのである 浅野内匠頭の刃傷事件の後、即日切腹を申し 渡した将軍綱吉は、今回の討入りには非常に感 やか身」 動して、助命したがったようだが、結局は柳 さわよしやす 沢吉保らを中心とした人々の意見が大勢を占 め、浪士たちの切腹が決まった。 もん 228
⑩士ロ良邸討入りーー一七〇ニ年十ニ月十五日 げんろく 元禄十五年 ( 一七〇一 l) 十二月十四日深夜、かねてより定めていた集合場所の三カ所ーー本 ほりべやすべえ じよあいおいちょ、つまえばらいすけ 所相生町の前原伊介宅、本所林町・堀部安兵衛宅、本所徳右衛門町の杉野十平次宅ーーに集結 まっざかちょ、つ あこ、つろ、つし した赤穂浪士四十七人は改めて合流。本所松坂町の吉良上野介の屋敷へと向かった。 つぶ 松の廊下の刃傷事件によって主君・浅野内匠頭は切腹、赤穂藩は取り潰しとなったにも関わ とが いさカ らす、諍いの相手の吉良上野介には何のお咎めもない。そのことに憤った赤穂藩士たちは約一 、つ亠つい 年半の間、じっと耐えて計画を練り、この日、討入りを決行した。 実際の討入りは翌十五日の午前四時頃になったが、彼等が行動を起こした十四日は月こそ違 え、内匠頭の命日であった。 おりからの雪の降ったあと、江戸の町は墨絵のように闇のなかに沈んでいた。 ちから くらのすけ 吉良邸に到着した浪士たちは、表門から大石内蔵助率いる二十三人が、裏門から大石主税率 いる二十四人が、一斉に攻め込んだ。 吉良の家臣たちを惑わし、また慌てさせるため、一同は「火事だ ! 火事だ ! [ と叫んで屋 敷内に入っている。もちろん、門は固く閉ざされていたので、浪士たちは、表門では門の脇に おおづち 二挺の梯子をかけ、裏門では大槌で扉を打ち破った。 ちょ、つはしご ほん 226
⑤壬申の乱ー、六七ニ年六月 ちょうてい じんしん てんむ 朝廷史上最大の内乱ーーー といわれる壬申の乱は、天武元年 ( 六七一 l) 六月に勃発した。 てんぢ おおあま おおとも 皇位継承をめぐって、第三十八代Ⅱ天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の子・大友皇子が 大軍を率いて激突するという、骨肉の争いを演じた。 ひだね そもそも内乱の火種は、天智七年 ( 六六八 ) に天智帝が即位した直後からくすぶり始めた。 なかのおおえ 即位前の天智帝は中大兄皇子であり、大海人皇子とは父母を同じくする実の兄弟。一一人は大化 改新以来、固く結びつき、力を合わせて事にあたってきた。ポスト・中大兄、つまり天智帝の 次は大海人皇子と誰もが考えていたし、本人もそのつもりであった。 ところが、天智即位後、風向きが変わり、一一人の間は急速に冷え込んでいく。 天智帝がわが子・大友皇子を後継者にすべく画策し始めたからにほかならない。天智八年十 くさび ふじわらのかま 月に、大化改新のクーデター以来、一貫して二人の兄弟を結ぶ楔の役を果たしてきた藤原鎌 たり 足が病没した。天智帝は、それまでの慣行を破って「皇位継承は父系での直系」とする法典を ぬかだのおおきみ 定めたのである。また、万葉を代表する女流歌人・額田王を、大海人皇子との間に子まであ ふんまん るにもかかわらず召し上げたことも皇子の貭懣やるかたない思いにつながった、との説もあっ ほっぱっ
「飢えで死んだ人が、道端に数知れないほど倒れていた。河原には死体の山ができて、馬や車 が通れないほどである」 と書かれているように、当時、京周辺は深刻な飢饉に見舞われていた。死者の数は二カ月間 に四万二千にもなったという。そういう状況下、まともな兵士を集めることなどできない。当 ひょ、つろ、つ 然、兵糧も十分ではなかった。 それでも軍を差し向けたのは、頼朝の勢いがもはや無視できなくなっていたからだ。 たいじ 富士川を挟んで対峙した源氏一一十万騎、平家七万騎 ( 『平家物語』 ) 。 つるがおかはちまん . きせがわ おうしゅうひらいずみ 出陣に際して、頼朝は鶴岡八幡に戦勝祈願をすませ、黄瀬川の陣では奥州平泉から駆けっ くろ、つよしつね けた異母弟の九郎義経と涙の対面もおこなっていた。 源氏の士気は高かった。勝敗は、戦う前に決していたといえるだろう。維盛の軍は、数万羽 の飛び立っ水鳥の音を敵襲と勘違いし、大混乱に陥って、敗走したという話もあるくらいだ。 それほど、お粗末な軍勢だったのであろう。 富士川の戦いに敗れた平家に、さらに追い討ちをかけたのが平清盛の死であった。 その清盛が、富士川の戦いから四カ月あまり後、病に倒れた その様子を『平家物語』は、 せんじゅ 「その体はまるで内側から火をたいているように熱い。あまりの熱さに比叡山の千手井から冷 たい水を汲みおろし、桶にためて、そこに体を沈めるのだが、水はたちまち湯になり、煮えた