ぎふ そんな長政の離反に激怒した信長は、京都から本拠地の岐阜へ戻って態勢を立て直すと、対 あねがわ 決を鮮明にした浅井氏に対して、姉川の戦いをしかけたのである。 六月十九日、信長は二万三千の兵を率いて本拠地の岐阜城 ( 稲葉山城 ) を出陣した。二日後 には、長政の居城・小谷城下へ迫っている。 、、つ・カし さんろく いぶきやま が、小谷城は伊吹山につながる山麓を背後に控えた天然の要害であった。一気に攻め落とそ さくまのぶもり うとすれば三分の一の兵を失ってしまう、と佐久間信盛が進言した。そこで信長は、小谷城の 兵を平地へおびき出す作戦に切り替えた。 琵琶湖に流れ込む姉川の南岸へ本営を移し、一一十四日、全軍で横山城を囲んだのである。 この城は小谷城の南東に位置し、東西にも南北にも通じる要路にあった。この城を落とされた ら、浅井氏は北近江で分断されてしまう。 信長の予測したとおり、長政は横山城を救援するため小谷城を出て、姉川の支流・草野川の 北岸に兵八千の陣を敷いた。ここに、朝倉の援軍一万が駆けつける。同じころ、織田軍には徳 ちゃくじん 川家康が五千の兵で応援に着陣していた。 かきゅ、つし 二十七日、横山城は落城寸前の状態になった。救援を求める火急の報らせが長政のもとへ飛 戦び込んでくる。しかし、両軍の本陣は五・五キロも離れていた。距離をつめなければ、合戦に ならない。やむなく、同日の夜半、浅井・朝倉連合軍は草野川を渡り、姉川の北岸に進んだ。 ・そのときのかがり火の多さを、本営とする丘の上から見た信長は、 よこやま 145
は、こけら葺きや檜皮葺きが主流であった。重い瓦は適さなかったのである。それを信長は、 薄くて軽く、しかも強い瓦を焼ける中国人技術者に陶工たちを指揮させ、高層建築に瓦を用い 、つん、も た。その瓦は黒色だったが、雲母の粉を混ぜて焼いたことで、晴天の日には空の色を映して青 / 輝いたとい、つ さらに、何よりも注目すべきなのは、その全体が青く輝いて見えたという天守台である。天 正七年五月十一日、着工から三年半の突貫工事で完成を見た。この日、信長は正式に安土城へ 入ったのである。 余談ながら、日本で最初に天守台を備えた城は安土城だったと俗にいわれるが、そうではな きたしよ、つ かった。信長はすでに岐阜城で三層四階、越前北ノ庄で七階の天守を築いている。安土城は三 つ目であった。ただ、これ以後、安土城をまねて天守台を持っ城がつくられるようになったと いうのは事実のようである。 話を戻そ、つ。 安土城の天守台は、あらゆる点で信長らしい斬新奇抜なアイデアに満ちていた。 構造は五層七階造りで、いちばん下の階は石垣に隠れた地下である。高さは、本丸が立っ地 完表からすると、四十五メートルに達する。名古屋城より若干低い程度にすぎない。当時、これ 妣だけの高層建築を山の頂上に建てたこと自体、驚嘆させられる。 、形は不等辺八角形をしていた。五階は正八角形で、最上階の六階は ・また、不思議なことに ひわだぶ ざんしんきばっ 161
①安土城完成ー一五七九年五月 あづち てんかびと 天正四年 ( 一五七六 ) 正月、織田信長は天下人としての権威を象徴すべく、安土城の築城に 取り掛かった。 安土は琵琶湖東岸の南寄りの、場所にある。船を使えば京都へ半日で行くことができ、東海 道、中山道、北国街道のいずれにも近い。湖を背にして近江の穀倉地帯が広がってもいる。軍 事的にも、政治的にも格好の立地だった。 おだに さわやま にわながひで すでに、湖南の坂本に明智光秀、湖東の佐和山に丹羽長秀、湖北の小谷 ( のちには長浜 ) に羽 ふじよ、つ しばひでよし 柴秀吉を配してある。その中心に位置する安土に府城を据えることにしたわけだ。 城は琵琶湖に大きく突き出た、半島の安土山につくられた。湖面から山頂までは約百メ 1 ト ル。広さは百万平方メ 1 トル。この山全体を要塞化した城といえる。半島という地形のため、 陸は城の正面にあたる南の方角にしかつながっていない。守るには理想的な城でもあった。 安土城の工事は " 天下普請 ~ で行われた。その当時、信長の力が及んだ全地域ーーーすなわち、 こ、つえき 完尾張、美濃、飛騨、三河、伊賀、伊勢、若狭、越前、五畿内から侍や行役が集められ、京、奈 皮らは安土山の南に、新たに区画された城 良、堺などからは各専門の職人たちが動員された。彳 ・下町に住んだ。 てんしよう まっこく ながはま ちくじよう 巧 9
砲や弓で応戦。からくも撃退している 版 出 夕方になってから、長材が届き始めた。夜を徹して 城づくりが続き、赤々と焚かれたかがり火の下、全員 が懸命に働きつづける。土を掘っては運び、突き固め やぐら の た。柱を立て、横木を組み合わせて、櫓にしている。 へ 史 歴 ときどき対岸から、食糧が届けられた。 十三日も不眠不休で工事が続行。 十四日、美濃勢は前々日よりも人数を増やして攻撃 内 してくる。藤吉郎の軍勢の半数が死傷したが、どうに オ三 景 風 かこれを凌ぎ切った。 城 そして十五日の朝、城は完成したのである。 第な 工事の着手から、正味で三日足らずのことだった。 臣 豊 " 一夜城 ~ と呼ばれるゆえんが、ここに生まれる 本よ とりで 絵会 もちろん、城といってもこの墨俣城は砦に近い。 よすみ やぐら 四隅と中央に櫓があり、長屋は三棟だけ。このほかに建物は、本営用の殿様屋敷が一棟ある ぽ、つどよ一り・よノ、 のみ。防備の柵や塀、土塁や堀など、必要最低限の防御力を備えただけのものであった。 だが、墨俣城の完成を聞くと、信長はすぐさま千五百の手勢を率いてやって来た。藤吉郎が 0 一三ロ しの 140
しかし、そんなことで諦める家康ではなかった。城方の女、子供を恐れさせ、神経を消耗さ やしゅ、つ せる作戦を断行する。毎晩、鬨の声をあげさせ、鉄砲の一斉射撃を浴びせかけた。夜襲の恐怖 で眠れなくするためである。一方で、金掘り人夫を動員して城へのトンネルを掘らせ、その様 子をわざと籠城側へ知らせた。トンネルが城下まで通じたら、城ごと火薬で吹き飛ばす、とも 脅している。 よどどのござしょ い′、さ さらには、この戦のために家康は大砲を買い集めておいた。淀殿の御座所や天守閣をめがけ て鉄の玉 ( 当時の大砲は破裂しない ) を撃ち込んだ。強硬論の先頭に立っ淀殿も、さすがにこれ じゅだく には参ったようだ。和睦を受諾せざるを得なくなっていく。 十二月二十二日、約一カ月続いた大坂冬の陣の和睦が成立した。その条件は、籠城した将兵 をいっさい処罰せず、城の外堀を埋めることと、二の丸、三の丸の取り壊しをおこなうことで あった。 外堀の埋め立て工事は、豊臣方の思惑ではゆっくり時間をかけて、サポタ 1 ジュしながらや ろうというものであったが、 家康はそうした豊臣方の意図を読み取っていた。 とっかん 翌日から、すぐさま工事を始めさせている。徳川方の将兵は突貫工事で外堀を埋め、三の丸 陣を取り壊した。そして、豊臣方の手になる予定の二の丸の区域までも御手伝いと称して乗り込 坂 み、またたくまに二の丸を破壊して、さらには内堀までも埋めてしまった。 大 ①豊臣方は約束が違うと抗議したが、すべては後の祭りだった。 おど とき 205
の墨俣の「一夜城」ー一五六六年九月 なんてき いなばやま 桶狭間で今川義元を倒した織田信長の前に、次の難敵として立ち塞がったのが美濃・稲葉山 のうひめ 城の斎藤氏であった。信長の正室・濃姫の実家にあたる。 さいと、つど、つさん よしたっ 濃姫の父・斎藤道三は、子の義龍と戦って敗死した。信長は義父の弔い合戦を名目に美濃へ 二万以上の軍を持っ義龍は、信長といえども容易には打ち負かせなかった。 攻め入ったのだが、 力と ~ 、 たつおき 義龍の病没後は、十四歳で家督を継いだ龍興が相手になったが、断崖絶壁の山頂に立っ稲葉山 城はびくともしない。 それどころか、逆襲を受けて信長軍が敗退することも珍しくなかった。 おと 「稲葉山城を何としても陥せ」 どごう きのしたと、つきちろ、つ とよとみひでよし 信長は美濃勢の寝返りエ作を木下藤吉郎 ( のちの豊臣秀吉 ) に命じ、土豪を味方に引き入れて は稲葉山城へ迫ったが、一向に成果は捗々しくなかった。 こ、つじよ、っせん 気がつけば、最初の攻城戦から六年もの歳月が流れていた。 すのまたでじろ そこで、信長が考え出した作戦は、敵地・墨俣に出城を築くという破天荒なものであった。 えいろく 永禄九年 ( 一五六六 ) のことである。 ながらがわ 墨俣は長良川を間に挟んで稲葉山の真正面に位置していた。ここに拠点をつくれば、斎藤氏 とむら はてんこう みの 136
かやぶ その上、肝心の江戸自体が情けないような状態だった。茅葺きの町屋が百軒ばかりあるだけ しばど で、海寄りの一帯は湿地が大半を占めていた。城には石垣などなく、芝土居で囲まれているだ けというありさま。ゼロから城と城下町をつくり始めねばならないことは明らかであった。 ただ、江戸は江戸湾の奥深くの入り江に立地している。大量の物資を輸送できる舟の便をよ くすれば、政治・経済の中心地となる城下町をつくれるはずだ、と家康は考え直したに違いな 、 0 すでに秀吉は、近江の長浜や摂津の大坂でそれを実現していた。先を見越せば、あながち マイナス材料ばかりとはいえなかったのである 家康はまず、多数の家臣団の屋敷の配置を決めた。主に城の西側から北側にあたる、いわゆ る山の手を固める形にしたのである。そして、 城に近いところに御三家と重臣、その外側に旗 本層、さらにその外側に御家人層と、三段構え に配した。 その一方で、江戸城に江戸湾から直接、増築 戸 資材や軍事物資、諸国の産物を運び入れること のできる掘割の造成に着手している どうさんぼり 急いだのは道三堀 ( 現在の呉服橋から大手町 にいたる道路の北側に沿った部分にあった ) と日 徳川家康 、もと 185
り切り、手勢を率いて突き掛かっていった。 ( し力にも薄く、武 にもかかわらず、勝負はあっけなくついてしまう。家康の " 鶴翼の陣 ~ よ、、 ほんろ、つ 田の騎馬隊によって、翻弄されてしまった。もはや総崩れである。後は敗走するだけだった。 浜松城まで約七キロ、武田軍がかさにかかって追撃してくるなか、家康は必死になって逃げた。 多くの部下を失い、ようやく城に逃げ込んだ家康の姿は、まことに参めなものだった。しか も、家康が城に逃げ込んだのを確認した信玄は、あえてそれ以上追うことをせず、軍勢を整え、 再び上洛の途についたのである 家康にすれば、城を枕に討ち死にした方がよほど、武士としての格好はついたであろう。こ の時の悔しさを忘れないため、家康は帰城直後の自分の惨めな姿を絵師に描かせて、これを子 よろい 孫の教訓としている。以来、家康の慎重な性格の鎧は、一気に分厚くなった。 こうして三方ヶ原を舞台とした戦いは、一方的な結果で終わった。その後、信玄はというと、 上洛の途中、ほどなくして病に倒れ、あっけなくこの世を去ってしまった。 一説には、家康の手の者が信玄を狙撃したともいう。 しん 戦 いずれにせよ家康は再び信玄と戦うことはなく、ただその遺臣を多量に召しかかえ、信玄の の 原天下取りの夢をわがものとした。 方 そげき 1 5 ろ
存在でしかなかった。城攻めをすれば必ず勝てるが、信玄は蒔間 ~ を惜しんだ。上洛を急ぎ たいという気持ちもあり、信長に対する戦力を温存したいとの計算もあった。そこで信玄は家 康を無視して浜松城を素通りするように見せかけた。無論、これも高等戦術であった。 一方の家康は、信玄の大軍が上洛の途につき、その軍勢が浜松へ向かっていることを知らさ ろうじようせん れる。味方は一万足らずである。まともに戦えば勝ち目はない。家康は、早くから籠城戦を こも 決意していた。城に籠って戦いを長引かせ、織田の援軍を待とうというのだ。 ところがである。信玄の軍勢の接近を、半ば恐怖しながら待ち受けていた家康に思わぬ報告 がもたらされた。 「殿、信玄の軍勢が領内を通りすぎようとしております」 今に伝わる徳川家康のイメージは、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」で象徴される ように、廩重な性格と一般には思い込まれている。が、実際の家康は小心者のくせに、妙に短 気で突然、逆上するところがあった。三十歳の若さも手伝っている。己れを無視して通り過ぎ しんとう はっ ようとする武田軍に、怒り心頭に発した。 しょ一よ、つ 諏「いかに武田が大軍であっても、わが城下を押し行くのを見過ごすは武門の恥。腰抜けの所行 の いくさ 原である。城を出て戦を仕掛けるー 方 もちろん、家臣たちは家康を必死になって止めた。黙って通り過ぎてくれるのなら、もつけ きようげきせん 0 の幸いと思った者もある。織田軍と挟撃戦をやれるのだから。 15
墨俣の「一夜城」 鼻高々に信長を迎えたのはいうまでもない その後一年間、信長が宿願とする稲葉山城陥落の日まで、藤吉郎は城主として墨俣城を預か り、斎藤龍興からの攻撃を防ぎ切った。要員は、蜂須賀小六をまとめ役とする一一千の野武士集 団である。 ぶくん 墨俣の一夜城は、信長の美濃併合に決定的な意味をもち、この武勲を足場に藤吉郎は、織田 家の家臣団の中で頭角をあらわし、次々と手柄を立てて出世していく。 141