大和 - みる会図書館


検索対象: 教科書が教えない日本史の名場面
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1. 教科書が教えない日本史の名場面

てきかんさいき 沈縄へ向けて航行中の水上特攻艦隊に対して、敵艦載機 受 による攻撃が開始される。昭和一一十年四月七日午後十 二時三十分頃のことであった。 アメリカの第一次攻撃隊の二百八十機は、「大和」 ば、つく、つりんけいじん を中心に防空輪形陣を組む特攻艦隊に襲いかかった。 数約三十分にわたる第一次攻撃で、軽巡洋艦「矢矧」が はまかせ で航行不能となり、駆逐艦「浜風」が沈没。「大和」 , も魚雷一発が命中したものの航海には支障がなかっ ついで午後一時三十分頃から、第二次攻撃が開始さ はれる あさしも かすみ これにより「矢矧ー、駆逐艦「霞」「磯風ー「朝霜」 か沈没。そして「大和」も沈んだ。 月蔵 4 館「大和」には魚雷だけでも十本が命中していた。 さげん 文 しかも、そのうち九本が左舷に集中している。アメ むさし 立 国リカ軍は「大和」の同型艦「武蔵」に対して、二十本 2 米 げきちん 漑もの魚雷を命中させ、ようやく撃沈した経験があった。 いそかぜ ろ 50

2. 教科書が教えない日本史の名場面

大和、特攻 そのため、「大和」への魚雷攻撃を左舷に集中するように命じたのである ごうちん ゅ、つば′、 大和の船体は大きく左に傾くと同時に、砲弾が誘爆して轟沈した。その際、天高く噴き上が った火柱に、数機のアメリカ軍機が巻き込まれ、墜落したという 水上特攻作戦によって、連合艦隊は合計六隻の艦艇を失い、艦隊を指揮していた第一一艦隊司 いと、っせいい亠っ 令長官の伊藤整一中将をはじめ三百七十二名が戦死した。 こうして、連合艦隊は事実上、消滅したのである さげん ろ 51

3. 教科書が教えない日本史の名場面

と、燃料タンクの底などにたまっていたものをかき集め、なるべく多くの重油を参加艦艇に 配給したことによる そこみず 集められた燃料は、ダムの「底水」のようなもので、帳簿には記載されなかったことから、 連合艦隊の司令部は片道燃料で出撃したものと思い込んでいた。 それにしても、このような無謀な水上特攻作戦が、なぜ計画されたのであろうか よぎ この頃、日本はフィリピンでの戦いに破れ、連合艦隊の多くは日本本土への引き揚げを余儀 なくされていた。といっても、燃料不足から「大和」などの大型艦艇は、動くこともできない 状態に陥っていた。 そんな中、アメリカ軍の沖縄上陸作戦が開始される。 沖縄上陸作戦が実行に移された場合、「大和」をはじめとする残存艦隊をどのように運用す るか、海軍の内部では決しかねていたようだ。 かみしげのり 「大和」を水上特攻作戦に使用するよう、強行に主張したのは連合艦隊首席参謀の神重徳大佐 であった。 当然のことながら、反対意見も多かった。無謀なだけではない。ほとんど何の戦果も期待で きなかったのだから無理もない。 それが次のような経緯によって、不意に水上特攻作戦は実行へと導かれた ぐんれいぶ おいかわこしろう 軍令部総長の及川古志郎大将が、沖縄方面の戦況を奏上したおり、昭和天皇は、 0 そ、つじよ、つ ろ 48

4. 教科書が教えない日本史の名場面

0 大和、特攻ー一九四五年四月六日 すいじよ、つとっこ、つ 昭和二十年 ( 一九四五 ) 四月六日、水上特攻艦隊が沖縄に向けて出撃した。 やはぎ やまと 戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、ほか駆逐艦八隻である。 せつけん 大艦隊をもって太平洋を席巻した連合艦隊の姿は、すでになかった。これが日本の出撃可能 な全艦艇であったのだ。 ひゅ、つが ながと 日本には「大和」以外にも、「長門」「伊勢」「日向」「榛名」の四隻の戦艦をはじめ多くの艦 艇が残されてはいたが、重油不足からもはや出撃することはままならなカった。 出撃の前日、参加艦艇には沖縄への片道分の燃料が供給された。 当時の日本本土は、水上特攻作戦ですらも、燃料の重油不足のために実現が危ぶまれている。 しかし、片道分の燃料にあたる四千トンなら、参加艦艇に供給できることとなり、水上特攻作 戦は実行に移された。 このような深刻な重油不足のなかでの水上特攻作戦ではあったが、実際には計画量の倍以上 特の、一万五千トンもの重油が参加艦艇に供給されていた。 くれ これは連合艦隊機関参謀と呉軍需部長が相談の上、 ・「片道燃料で送り出すのは忍びない」 はるな ろ 47

5. 教科書が教えない日本史の名場面

「また戦いの準備をしますか」 と、逆に脅迫されるありさま 家康の秘策とは、大坂城の防御機能をないも同然とし、次の攻撃の時には完全に葬り去ると いう二段構えだったのである。そのことにうかつにも豊臣方は気づかす、まんまとしてやられ たぬきおやじ たわけだ。このあたりに、家康が後世まで " 狸親父 ~ の悪名を残すゆえんがある。 さらに家康は、豊臣方が次にどんな行動に移るかも予測していた。謀略にあったと息巻き、 いずれは再戦準備に取り掛かると読み切っていたのだ。案の定、埋め立てられた堀の一部を掘 り返し、城壁を修理し、またしても牢人を召し抱え始める。翌年の元和元年三月のことであっ 家康は豊臣方を脅しつける。秀頼が大坂城を出て大和か伊勢への国替に応じるか、冬の陣の 講和後に召し抱えた牢人をすべて退去させるかのどちらかを選択せよ、と迫ったのである。ど ちらも、豊臣方には飲めない条件であった。決戦は避けられない状況となる。 ふじいでら 五月六日、徳川方十五万五千と豊臣方五万五千が大坂城の南東、現在の藤井寺市や八尾市、 はだかじろ 東大阪市のあたりで激突した。裸城になった大坂城に籠るわけにはいかず、今回は豊臣方も野 戦を積極的に挑んだ。しかし、兵力の差はいかんともしがたく、当初は奇襲戦で徳川方にダメ 1 ジを与えたものの、後藤又兵衛は戦死し、長宗我部盛親は城へ敗走する 翌七日は、総力戦になった。 おど 206

6. 教科書が教えない日本史の名場面

ーーー吉野脱出から、わずか四日の電光石火の早業だった。 むほん この間、近江朝廷はどうしていたのか。「大海人皇子、謀反ーの急報は、上を下への大混乱 ていしん を引き起こした。反乱軍へ走ったり、故郷へ逃げ出したりする廷臣が続出したという。 きへい 大友皇子は軍議を開いた。冒頭、すみやかに騎兵を出して大海人皇子一行を追撃すべきだと たいかん の案も出たが、彼は採用しなかった。大官の有力豪族たちの戦意が、ばらばらであったことも ふんきゅう こ決まった。 手伝って、軍議は紛糾する。結局、大兵力を結集して敵を壊滅するという正攻法 ! 実はこの時点で、大友軍は戦術を誤ったといえる。東国からの派兵や募兵にはすでに時機を きびつくしだざい 失していたし、吉備や筑紫太宰など西国からは時間的に援軍は得られなかったからだ。 それでも、近江や近隣諸国からはかなりの兵力を集めることができた。敵に倍する圧倒的な 。し力なかったが、。 とうにか大海人軍を迎え撃っ態勢にはなったのである。 兵力とよ、、 七月一一日、大海人皇子は結集した大兵力を一一隊に分け、長男の高市皇子率いる主力部隊を近 江方面へ、もう一隊を鈴鹿から大和方面へ向かわせた。自らは不破関にあって、全軍を後方か ら統括する位置に立った。 琵琶湖南岸を進んだ大海人主力軍数万は、大友軍の激しい攻撃をものともせずに連戦連勝、 はちく 破竹の勢いに乗る。一方の大和方面軍は、大友軍に打ち破られる場面もあったが、着実に進軍 し、甲賀から琵琶湖方面へ進んだ。また、すでに大和では、大海人皇子が吉野を脱出したのに 呼応して、かっての雄族・大伴氏が独自に挙兵。飛鳥古京を防衛しながら、大海人軍が来るの と、つかっ おおとも かいめつ

7. 教科書が教えない日本史の名場面

①五箇条の御誓丈 ①江戸開城 の会津落城 @五秡郭、開城 ①新橋・横浜間に鉄道開通 電 ) 「ここても・つよか 朝大日木帝国憲法発布 ①日木海海戦 の関東大震災 ①天皇機関説、弁明演説 ①ニ・ニ六事件 ①真珠湾攻撃 ⑩ミッドウェー海戦 @キスカ撒退作戦 0 大和、特攻 0 日本敗戦 、 295 288 ろ 52 ろ 19 51 ろ 351 547 297 34 ろ ろろ 8 ろ 04 509 ろ 01

8. 教科書が教えない日本史の名場面

「航空部隊だけの総攻撃なるや」 かもん と下問し、それに対して及川大将は、 「海軍の全兵力を使用致します」 ほ、つ A 」、つ かもんにしきみはた と奉答したと伝えられる。この後、神大佐はこのおりの昭和天皇の下問を錦の御旗として利 用し、反対者を説得して、水上特攻作戦を実現させたというのである。 ゅ、つーり・よ ところで、昭和天皇は戦局の推移に極めて深い憂慮を抱いていた。 ガダルカナル島を巡る攻防戦のおりも、次のような感想を述べている。 「わが陸海軍は、あまりに米軍を軽んじたためソロモンでは戦況不利となり、尊い犠牲を出し たことは気の毒である」 だいげんすい 昭和天皇は大元帥として戦局を冷静に読み、正しく判断していたことが知れよう。 及川総長に「航空部隊だけの総攻撃なるや」と下問したのは、「残存した艦艇は使用しない で成功がおほっくのか」、あるいは「残存艦艇は使用できないのか」という純粋に戦術に対す る疑問を口にしたものであったろう。 もっとも、このような会話が本当におこなわれたかどうかも、確実な資料では明らかにされ たて 特ていない。が、神大佐が昭和天皇の発言を盾に、反対派を説得したのは間違いなさそうだ。 こうして、「大和」は沖縄へと出撃していった。 しかし、その動きは出港直後から、アメリカの潜水艦によって察知されていた。案の定、沖 349

9. 教科書が教えない日本史の名場面

⑦「日本」の国名の誕生ー七〇ニ年 蛇足ながら、「日本」の国名はいつ、どのようにして誕生したのか、正確に答えられる日本 人は少ない。 やまと おおやしまぐに あきずくに かって日本には、「秋津国 , 「大八州国、「大和」といった自然発生的な国名の自称があった ひざ が、目を国外に転すれば、奴隷が膝を屈する意の「倭」という蔑視の呼称でしか、わが国はア ジアの国際社会では認知されていなかった。 この屈辱的な国名を、別の国名に変えてもらうためには、アジアの一流国家の仲間入り、す なわち法治国家である " 実 ~ を示さねばならなかった。 りつりようへんさん そのためには何より、律令を編纂、整備しなければならない。 てんむ 第四十代の天武天皇の十年 ( 六八一 ) にスタートしたこの国家プロジェクトは、天武の没後、 じと、つ 」あす・か一よみがはらり・よ、つ 妻である第四十一代の持統天皇の三年 ( 六八九 ) に「飛鳥浄御原令」として結実した。「日本ー の公称はこれに拠る、とするのがわが国歴史学界の定説である もっとも、国際社会で認められるためには、大国・唐の承認を取りつけねばならない。 しなんわざ が、これが至難の技であったといえる ちょうこ、つ なぜならば、日本は唐を隣国と位置付け、臣下の礼はとらず、朝貢もしないで通交のみをし しんか と、つ

10. 教科書が教えない日本史の名場面

禄山になぞらえたりもした。むろん、その昇進は押しとどめている。 保元の乱で目覚ましい働きをしながら、平清盛以下 そのため、信頼は天皇親政派と語らい、 の評価しかされずに不満を募らせていた源義朝をも仲間に引き入れ、打倒・信西を画策するに 及んだ。 問題は、信西と組む平清盛とその率いる平家の軍勢をどうするかにあったが、絶好のチャン 、もレャもーり・ スがまもなく訪れた。平治元年 ( 一一五九 ) 十二月四日、平清盛は嫡子・重盛やその弟の基盛、 くまの むねもり 宗盛および侍十五人を従えて、熊野参詣に出発したのである。 都では清盛の留守を好機として、信頼を中心に藤原経宗、藤原惟方らが、源義朝の武力をた のんでクーデターに踏み切った。目的は、信西の追い落としのみ。名目上は清盛と結ぶ信西が、 信頼を討つべく準備しているとの密告があった、ということにした。明らかなでっち上げであ 十二月九日ーーらまり、清盛が熊野に出発した五日後、挙兵した彼らは、後白河法皇の御所 じよ、つさい・もんいんと、つし であった三条殿に押し寄せ、法皇とその姉・上西門院統子の二人を車に乗せると、そのまま大 いつばんのごしよどころ 内裏の中の一本御書所に幽閉してしまう。 しゅっゅ、つ 乱天皇はもとより手中にある。次いで、三条殿に放火した義朝たちは、さらに信西の宿所たる ロあねがこうじせいどういん 姉小路西洞院の屋敷に攻め入り、ここをも焼き払った。が、肝心の信西は、こうした動きを察 ・知してか、大和 ( 奈良 ) 方面へと落ち延びていた。 ろくざん