平八郎には、善を知っていながら善を行わないのは下等な人間だ、との信念があった。庶民 の苦しみをよそに、自己の利益のみをはかる腐敗役人と悪徳豪商 息子の格之助を通じて、意見書をしばしば奉行所へ差し出したが、効果はまったくなかった。 まつりごと それどころか、隠居した与力の身分で天下の政に意見するとは何事か、と叱責される始末。 あとべよしすけ そんな中、天保七年に大坂東町奉行に就いた跡部良弼は、大坂の米不足が深刻であるにもか 力しまし みずのただくに かわらず、江戸への廻米 ( 生産地から都市へ送る米 ) に力を注ぎ出した。跡部は老中・水野忠邦 の実弟である。幕閣内で己れの評判を高めたいがための行動であったことは明々白々であった。 けんばくしょ この件に関しても、平八郎は建白書を提出している。だが、案の定、握りつぶされるだけで あった。ここで平八郎は、ついに反乱を起こす決心を固めた。 げきぶん ちゅ、つさっ ます、檄文を門弟に回覧。幕政を批判した上で、奉行所役人と豪商を誅殺するために蜂起せ よと訴えた。同じものを印刷して、近隣の村々にも配っている きんいっしゅ せぎようふた 次に、金一朱に交換できる施行札なるものを一万枚作って、大坂市中や近郊の貧民に配った。 この札は、市中の本屋で換金してもらえるようになっていた。この資金のもとは、平八郎が自 てんま らの蔵書を売り払って得た約七百両であった。この施行札は、「天満で火事が起こったら、す ぐに駆けつけてくれ」との言葉と交換に手渡したという。天満には、平八郎の自宅があった。 このほか、門弟を通じて大砲などの武器・弾薬が整えられ、作戦も立案された。 天保八年二月十九日午前八時ごろーー平八郎は自宅向かいの与カ屋敷に大砲を打ち込むと、 0 0 240
大塩平八郎の乱 事件から四十日後の三月二十七日、平八郎親子はついに潜伏先を突き止められた。 ば′、し 絶望の中で吏に包囲され、そのことを知 0 た二人は、部屋に火薬を撒き、壮絶な爆死を遂 げたのであ 0 た。こんな平八郎の生き方に心を揺さぶられた同志たちは、その翌月から各地で 次々と反乱の狼煙をあげた。また、江戸、大坂、京都では、大塩平八郎の名をかた 0 た脅迫 状が連日のように奉行所に届いたという 義士・大塩平八郎の人気は、幕末まで跡絶えることはなかった。 じよ、つ 24 ろ
が、押っ取り刀でやって来た。 大砲まで用意してきた鎮圧軍は、まず鉄砲を撃ちかける。が、長い太平の世に慣れ、実戦の ぶざま 経験がない武士たちのすることである。その一部始終は無様の一言につきた。鉄砲の音に驚い た馬を抑え切れずに、落馬する指揮官が跡を断たない。 ところが、そんな頼りない幕府軍よりも、反乱軍のほうはもっと腑甲斐なかった。一斉射撃 の銃声を聞いただけで、農民や町民は散り散りに逃げまどうありさまとなる。平八郎と格之助 の親子も、混乱に乗じて現場から逃走せざるを得なかった。 結局、小規模の戦闘が二度ほどあっただけで、反乱はあっさり片付けられてしまう。ただ、 ちんか 火事はその後も燃え広がり、大坂の五分の二を焼いてからやっと鎮火するにいたった。 事件後、逃げた一党がひとりふたりと捕縛されていくなかで、平八郎と格之助の行方だけは、 幕府の懸命な探索にもかかわらず、ようとして知れなかった。 せんぶく なぜ、潜伏し続けたのかというと、平八郎にはどうしても確かめたいことが一つあったよう なりあき だ。蜂起の二日前、幕政の御意見番であり " 御三家 ~ の一つ、水戸藩主の徳川斉昭やときの老 中たちに宛てて、平八郎は密書を送っていた。幕府要人たちの不正を告発する証拠も添えてあ ったという。自分たちの決起を知れば、事の重大さを真剣に受けとめてくれるだろうと期待し、 何らかの反応が現れるのを待ったのだが、これらの密書はついに誰の手にも届かす、どうした ことか、伊豆山中で捨てられてしまっていた。 ふがい 242
自邸に火を放った。 突如として起こった大音響に、住民は慌てふためいた、一 / A 」し、つ 大砲を撃ち、檄文を撒きながら、火を放っての進軍が 始まった。瞬く間に天満一帯が火に包まれた。 「われらとともに起て ! ともに悪徳の役人を討てー ともに悪徳の商人をこらしめよ ! 」 平八郎らはそう叫びながら、先頭に「救民ーの旗を高 ふなば く掲げて、商人の町・船場をめざした。 そうこうするうちに弊衣の職人や人夫、農民などが 続々と駆けつけ、総勢は三百人を超える。正午すぎ、一 行は船場に到着し、豪商の屋敷を襲い始めた。 「ここが米の売り惜しみをした商人ぞ。それ、焼き払っ のてしまえ ! 」 平八郎が大声で指揮する。軍勢は大商家に、次々と火 塩を放った。 ⑩そのころになって、ようやく大坂城から幕府の鎮圧軍 幕末江戸市中騒動記東京国立博物館蔵 241
⑩大塩平八郎の乱ー一八 = 一七年ニ月 天保年間 ( 一八三〇 5 四一一 I) 、徳川幕府の政治腐敗が進む一方で、天候不順による不作が続い 十し たことから、農村部の荒廃はいっそう深刻なものとなった。とくに天保四年から始まった大飢 きん がししゃ 饉では、全国におびただしい餓死者が出た。 ひんばっ 各地で一揆や打ちこわしが頻発し、農民や下層町民が困窮を訴えていたにもかかわらず、役 けったく 人は救済の手を差し伸べようともしなかった。そればかりか、大商人と結託して利益をむさば るのがさも当然というありさま 「天下の台所」といわれた大坂でも米不足は深刻であり、米価は天保以前の二倍に跳ね上がっ ていた。飢えのために行き倒れになる者が、町中のそこかしこに見られる おおしおへいはちろう こうした悪政に怒り、「救民」の旗を掲げて武装決起したのが、大塩平八郎であった。 よ、り・一 平八郎は、親代々が大坂東町奉行所の与力を務める家に生まれている。十年間の与カ見習を の経て、十四年間、与力として働き、名与力の評判をとった。ところがどういうわけか、三十八 かくのすけ よ、つめいカ′、 歳で跡を息子の格之助に譲り、自身は隠居。自宅に陽明学の塾を開いた。陽明学者としても名 を知られていた平八郎のもとには、その気迫に満ちた講義を聴くべく、多くの門人が集まって ①くる てんほう こんきゅ、つ 259
士とーも 正面に戦って勝てるかどうか。だが、その戦力も実際に運用しているのは生身の人間である 、。バルチック艦隊の悲劇の一つは、 兵の体調が万全でなければ、数字通りの戦力とはなり得なし えんせい 遠く極東にまで遠征を余儀なくされたことにあった、航海そのものが、極めて困難であったと いえる。 、バルチック艦隊は母港リバウ軍港を出撃した。 明治三十七年十月十五日 力し。り・ 目的地のウラジオストックまで、喜望峰回りの一万八千海里 ( 一海里日一八五二メ 1 トル ) と いう大航海である。しかもその間、ロシアの基地は一つとしてない。さらには日英同盟の影響 として、フランス港湾利用の制止、石炭購入の妨害などがあり、日本近海にたどり着くまでに 彼らは七カ月の時間を要したのである。 この間、上陸・休養の機会はほとんどなく、乗り組員は疲れきっていた。一方、連合艦隊は というと、連日猛訓練に励み、士気は極限まで高まっている ほそく もし、バルチック艦隊が連合艦隊に捕捉されることなくウラジオスト 歴史にはないが、 ックに入り、十分な休養・補給の後、再び日本海へと出撃してきたなら、結果はどうなってい たかわからない。 海実際、捕捉できずにウラジオストック入港を許す可能性は高かったのである 本 連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもとには、バルチック艦隊接近の情報が次々と入ってきた ちょうせん 朝か、問題は日本近海におけるその航路であった。朝鮮海峡を通って日本海を抜けてウラジオス 5 巧
この事態に陸軍の児玉源太郎総参謀長は、密かに帰国して上層部に、停戦の準備を申し入れた ほどであった。 し / 、さ 一方のロシアはというと、負け戦を重ねてきたとはいえ、その国力は強大である。まだまだ 後方に戦力は温存されていた。もし、日本軍の消耗に気づいてカ押しの戦略に転ずれば、一気 そんななかで、日本海海戦は勃発した。 に形勢が逆転しかねない状況だったのである。 陸戦における日本軍の弱体化に気づいていないロシアは、北海のバルチック艦隊を太平洋に せいかいけん 回航して、一気に制海権を取り戻そうと画策する。制海権を回復できれば、日本本土から大陸 への補給路を遮断することができ、その上で攻勢に出れば、陸戦での勝敗も逆転できると考え たのだ。 もとより、それ以前の極東地域にロシア艦隊がいなかったわけではない。 こ、つ力いかいせん とうご、つへいはちろう 東郷平八郎大将率いる連合艦隊と黄海海戦を戦ったロシア艦隊は、多大な損害を受けて旅順 港に逃げ込んでいた。これを除く意味で、前述の旅順攻略は重要であったのである。その艦隊 ロシアにとって制海権の奪取のため、大艦隊を差し向けたの も、旅順陥落とともに今はない。 は当然といえば当然の策であった。 そ、つこ、つじゅんよ、つかん ロジェストウエンスキー中将率いるバルチック艦隊の全容は、戦艦八、装甲巡洋艦三、装 くちくかん 、いぼ、つかん 甲海防艦三、巡洋艦六、仮装巡洋艦二駆逐艦九、計三十隻というものであった ( 工作船、運 送船、病院船を除く ) 。巨大戦力といってよい。 力い、」、つ こだま だっしゅ ばつばっ 514
「上野介殿の傷は浅かったようだが、何しろ老齢であり、額という急所のこと故、どうなるか わからない」 と答えたところ、内匠頭の顔には喜色が湧きあがったという。よほどの恨みがあったに違い たむらうきようだゅうたてあき おうしゅういちのせき その後、内匠頭は、奥州一関藩主・田村右京太夫建顕の屋敷に一時預けられ、沙汰を待っ ことになったが、 その日の夜のうちに、辞世の句を残して切腹を命じられた。 風さそふ花より猶我ハまた 春の名残をいかにとかせむ ( 『多門伝八郎覚書』 ) の辞世の句を詠んで自刃して果てた。 つなよし 内匠頭の切腹については、老中の中に反対する者も多かった。切腹を命じたのは、将軍綱吉 である。老中から、内匠頭は乱心、つまり心神喪失の状態にあったに違いないから、処分の決 廊定まで時間をかけるべきだとの意見が出されたが、江戸城内、それも勅使饗応の席で刃傷沙汰 松を起こしたことについて、綱吉の怒りは収まらず、結局、即日切腹と決したのであった。 傷 一方の吉良上野介はというと、傷は出血のほどには深くなく、また、一方的に内匠頭に切り 刃 とカ ・つけられたことから、その日のうちに一切の咎め無しと決まり、傷の手当てを受けた後、静養 なお 225
ニ・ニ亠ハ事件ーー一九三六年ニ月ニ十六日 昭和十一年 ( 一九三六 ) 二月二十六日、前夜から降り始めた雪は、東京で実に三十年ぶりと いう大雪となり、そのなかを陸軍の青年将校とそれに率いられた約千四百名の兵士が決起した。 しゅ、つげき せんきょ 陸軍省、参謀本部、警視庁、首相官邸などを襲撃、議事堂を中心とする官庁街一体を占拠し た、いわゆる " 二・二六事件 ~ である。 複数の場所への一斉襲撃が行われたのは午前五時。襲撃場所の一つである首相官邸では、前 夜、与党・民政党の総選挙祝勝会がおこなわれたこともあって、人々は熟睡していた。 官邸の警備はわずかに警官四名。青年将校らの不穏な動きについて、噂はあったものの、決 起の規模、時期、否、決起そのものがあるかどうかも定かには伝えられていなかった。 くりはらやすひでちゅうい 午前四時三十分、首相官邸襲撃を担当する栗原安秀中尉率いる、第一師団歩兵第一連隊を中 心とした決起部隊、約三百名が兵舎を出発した。 件前夜、密かに連隊本部の弾薬庫をあけて武器・弾薬を取り出しており、重機関銃七挺、軽機 。け・い、」、つ 六関銃四挺、小銃百数十挺を携行していた。 午前五時。首相官邸についた栗原隊は時間を見計らい、一斉に突入した。表門からは栗原中 くりたりよ、つさく ) 」ちょ、つ はやしはちろ、つしよ、つい ・尉率いる主力部隊、通用門からは栗田良作伍長率いる約二十名、裏門からは林八郎少尉率い 十つよ、つ 52 う