後白河法皇 - みる会図書館


検索対象: 教科書が教えない日本史の名場面
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1. 教科書が教えない日本史の名場面

ちし、西国へと逃れていった。 この時点では、鎌倉に腰を落ち着かせた頼朝は動いていないつまり、ここまでの過程では、 平家討伐の一番の功労者が義仲だったわけだ。 ききん しかし、義仲が入った京都は二年続いた飢饉の影響で食料事情が悪化していた。そこに数万 の軍勢がやってきたのである。食料不足はさらに深刻化した。 み、ば、つ 加えて、義仲の軍勢には粗暴な行動が目立った。公家の牛車を奪うといったことが相次ぐ こうして次第に、義仲の都での評判は悪化していった。 もちひとおう さらに、平家とともに逃れた安徳天皇の代わりに以仁王の息子を天皇にしようとしたことも みぞ あって、後白河法皇らとの間に溝ができてしまう。 義仲と後白河法皇との対立が決定的になったのは、法皇が頼朝に対して出した東国支配を許 せんじ す旨の宣旨だった。このとき、後白河法皇は、さすがに義仲の力を恐れてその勢力圏である北 陸道の支配権を頼朝に渡すことはしなかったのだが、義仲としては面白くない。平家を討った のは自分だというプライドがある。何もしていないに等しい頼朝に、大きな権力を与えるとは 最何事か いんせん こうして法皇との仲が冷え込んだ義仲は、ついに法皇を捕らえ、頼朝追討の院宣を出すよう 義 しいたいしようぐん せ、 曽 に強要し、自ら征夷大将軍を名乗るようになった。 木 当然、法皇も黙ってはいない再三にわたり、頼朝に使者を出して義仲討伐を要請した。 と、つばっ さいごく

2. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩源頼朝、本 ( ーー一一八〇年八月十七日 じしよ、つ みなもとのよりとも 治承四年 ( 一一八〇 ) 八月十七日、伊豆で源頼朝が挙兵した。 こ、つり・ゅ、つ タイミングはあまり良かったとは一言、んない 。この年、源氏のライバルである平家は興隆を極 たかくら めていた。四月、高倉天皇 ( 第八十代 ) が退位して上皇となり、代わって平清盛の娘、徳子の あんとく 生んだ子が即位して安徳天皇 ( 第八十一代 ) となったのである。三歳の幼子だった。平家を率 」よーも。り・ いる平清盛にとっては、このうえない喜びに満たされた瞬間であった。 もちろん、自らの孫を即位させることができたのは、清盛をはじめとする平家一門が各々、 朝廷の要職を独占して権力を握っていたからにほかならない。そのような状況での、頼朝の挙 兵であった。 もっとも、頂を極めれば、今度は坂道を降りていかなくてはならない。頂点を極めた平家だ ったが、一方では翳りも見え始めていた。 この頃、平家の横暴に対する人々の反感は次第に高まっていた。そんな空気を読み取って、 同じ四月、小さな謀反が起こる。 よ。り主当、 もちひとおう みっぽう 後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が、反平家勢力の結集を図ろうと密謀したのである。以 仁王は母の身分が低かったため、要職につくことができずに不満を募らせていた人物 いただき むほん 0 2

3. 教科書が教えない日本史の名場面

禄山になぞらえたりもした。むろん、その昇進は押しとどめている。 保元の乱で目覚ましい働きをしながら、平清盛以下 そのため、信頼は天皇親政派と語らい、 の評価しかされずに不満を募らせていた源義朝をも仲間に引き入れ、打倒・信西を画策するに 及んだ。 問題は、信西と組む平清盛とその率いる平家の軍勢をどうするかにあったが、絶好のチャン 、もレャもーり・ スがまもなく訪れた。平治元年 ( 一一五九 ) 十二月四日、平清盛は嫡子・重盛やその弟の基盛、 くまの むねもり 宗盛および侍十五人を従えて、熊野参詣に出発したのである。 都では清盛の留守を好機として、信頼を中心に藤原経宗、藤原惟方らが、源義朝の武力をた のんでクーデターに踏み切った。目的は、信西の追い落としのみ。名目上は清盛と結ぶ信西が、 信頼を討つべく準備しているとの密告があった、ということにした。明らかなでっち上げであ 十二月九日ーーらまり、清盛が熊野に出発した五日後、挙兵した彼らは、後白河法皇の御所 じよ、つさい・もんいんと、つし であった三条殿に押し寄せ、法皇とその姉・上西門院統子の二人を車に乗せると、そのまま大 いつばんのごしよどころ 内裏の中の一本御書所に幽閉してしまう。 しゅっゅ、つ 乱天皇はもとより手中にある。次いで、三条殿に放火した義朝たちは、さらに信西の宿所たる ロあねがこうじせいどういん 姉小路西洞院の屋敷に攻め入り、ここをも焼き払った。が、肝心の信西は、こうした動きを察 ・知してか、大和 ( 奈良 ) 方面へと落ち延びていた。 ろくざん

4. 教科書が教えない日本史の名場面

遇に変化はなかった。昌泰二年 ( 八九九 ) には、ついに右大臣に就任。このとき左大臣になっ しれつ たのは、熾烈な昇進争いを戦ってきた藤原時平であった。時平は道真よりも二十六歳年下で、 このとき二十九歳。藤原氏の勢力がいかに侮りがたいものであったかが、この人事一つによっ ても推測できよ、つ。 この年、のちに思えば道真に重大な影響を及ばすことになる出来事が発生した。 しゆっけ 道真の庇護者であった字多上皇が、後事を醍醐天皇、道真に託して出家したのである。出家 は俗世を断っことを意味していた。この行為は、宇多法皇の影響力が政治の場で作用しにくく なることを意味するのだが : ′、ぎ ) よ、つ おりしも、道真の昇進に対する反感が公卿たちの間でますます強まっていた時期である。栄 達の頂点に立った華々しさとは裏腹に、道真は孤立無援な状態に陥ってしまう。 えんぎ 事件はそれから二年後、延喜元年 ( 九〇一 ) 一月二十五日、突如にして起こった。 みことのり だざいのごんのそっ 醍醐天皇が詔を発して、道真を大宰権帥に左遷したのである。従二位を授けられてから、 わずか十八日後のことであった。 政敵・時平が陰謀を仕掛けたのである 道真が醍醐天皇を廃して斎世親王を立てようと企てており、すでに宇多法皇にも同意を得て いる、と帝に告げたのであった。斎世親王は宇多法皇の弟で、道真にとっては娘婿にあたる 、つかっ しんぎ いとま 帝は迂闊にも、時平の言葉を信じた。策略に巧みな時平は、宇多法皇に真偽を確かめる暇を帝 しようたい と一よ あなど

5. 教科書が教えない日本史の名場面

清盛亡き後、平家の勢いは衰える一方となった。 じゅえい 前述の如く、寿永二年 ( 一一八三 ) 四月には、木曽 義仲が大軍を率いて京に攻め上ってきた。平維盛を総 ~ 0 , ' ' 、、ゞ = 募一 ~ 一 , 大将とする平家軍十万余は散々な負け方をし、京まで 逃げ返ったのがわずか二万に過ぎなかったという有 を、よ、つ、ら′、 義仲の軍はついに京洛に入る。 あんとく 平家は都を追われて、清盛の孫である安徳天皇を奉 さいごく のじ、西国へと落ちのびていくことになった。 覊しかし、このときにはまだ平家は滅んでいない西 屏国へと逃げた平家はそこで態勢を盛り返した。 一方の源氏の側では、頼朝と義仲が内輪もめを始め、 合 発これに後白河法皇のおもわくが重なり、ついには頼朝 に対して、朝廷から義仲討伐の命令が発せられるまでに至った。 のり・より・ 、つじがわ この義仲討伐軍を指揮したのが、頼朝の異母弟・範頼と義経の一一人。彼らは宇治川の合戦な どで勝利し、ついに ( 義仲を討ち滅ばすことに成功する 結果、一一人は引き続き、勢いを取り戻した平家討伐を指揮することになった。

6. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩保一兀の乱ーー一一五六年七月十一日 すとく 鳥羽上皇 ( 第七十四代天皇 ) と、その長男・崇徳上皇 ( 第七十五代天皇 ) との間が急速に冷え 込んでいた。 もともと仲が悪かった二人だが、鳥羽上皇は、近衛天皇 ( 第七十六代 ) が短命の生涯を閉じ しげひと ると、わが子・重仁親王を天皇にしたいとの崇徳上皇の希望を入れず、何と崇徳天皇の弟を天 皇にしてしまった。 ごしらかわ これが後白河天皇 ( 第七十七代 ) である。このことが、二人の仲を決定的なものにした。 ただみち 鳥羽上皇、および後白河天皇には、謀臣の藤原忠通がついて急速に権勢を伸ばしていった。 よりか 6 が 一方、打ちのめされた崇徳上皇に接近したのが藤原忠通の弟・頼長である。彼は、藤原氏の 勢いを盛り返すのはこの人物だと期待されて育ち、三十歳の若さで左大臣になるなど出世もし このえ ていた。ところが、鳥羽上皇の第九皇子・近衛天皇を呪い殺した、とあらぬ噂を流され、鳥羽 上皇の怒りを買い、出世コ 1 スから外されてしまったのである。 こうして、鳥羽上皇・後白河天皇・藤原忠通のグル 1 プと崇徳上皇・藤原頼長のグループが でき、対立が一層深まっていった。 考えてみれば父と子、兄と弟というように、 ごく近い肉親同士の感情の縺れがすべての発端 もっ

7. 教科書が教えない日本史の名場面

かげ・と医、 、こ追手の一人、梶原景時が洞穴の中で隠れていた そこへ、追手が迫ってくる。そして、つし。、 頼朝を発見した。もはやこれまでと観念した頼朝だったが、何を思ったのか景時は、わざと弓 を洞穴の中に入れてかき回し、 「弓に蜘蛛の糸がついてきたぞ。中に人がいない証拠だ」 と周囲を納得させて、引き上げていった。頼朝の姿に哀れを感じたのだろうか。それとも、 この男なら権力の頂点に座ることができる、とその将来を買ったのであろうか。頼朝が後に、 亠つよ、つよ、つ 景時を重用したのはいうまでもない。 こうして虎口を逃げ延びた頼朝は、次第に勢力を拡大して、ついには平家を討ち滅ばし、ま た、武家を中心とする新しい政治体制を確立したのである。 その過程で、朝権回復を策する後白河法皇との権謀術数のかけ引きがおこなわれた。 いんぜん 法皇は頼朝を牽制するために、その異母弟の義経を登用。義経に一度は頼朝追討の院宣 ( 院 の命令 ) を出している。が、義経軍が壊滅すると、法皇は急ぎ鎌倉の頼朝のもとへ密使を送り、 弁解につとめた。政治からの引退を表明し、手のひらを返して義経追討の院宣を発した。 、よノ、よ、つ あら 兵「日本国第一の大天狗は、更に他の者に非ざるか」 ( 宝葉』 ) 頼朝が法皇を「大天狗」と決めつけたのは、このおりのことと言われている じと、つ 源頼朝は法皇の失策につけ込み、念願の「守護Ⅱ地頭の設置」を朝廷にのませることに成功し ここ、つ

8. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩平治の乱ー一一五九年 しんぜい ほ、つげ・ん ごしらかわ 保元の乱を制した後白河法皇による院政が発足した後、一時、権勢を極めた者がいる。信西 へいじものがたり みちのり ( 藤原通憲 ) であった。鎌倉時代初期の軍記物語『平治物語』ではこの様子を、 「飛ぶ鳥も落ち、草木もなびく程也」 と と書き留めている。 信西の息子たちも、「院」に出入りして昇進を重ねた。まるで、この少し後に出現する平家 一門の繁栄を思わせるものがあった。 当然、信西の権勢が増すのに比例するように、彼を央く思わない者も増えていった。十六歳 これかた つねむね で即位した一一条天皇 ( 第七十八代 ) の側近、藤原経宗 ( 帝の叔父にあたる ) や藤原惟方 ( 帝と乳兄 こしたんたん すき 弟 ) などは、天皇親政をもくろみ、隙あらばと虎視眈々と信西失脚の糸口を探していた。だが、 たいとう のぶより 信西にとって、もっとも気になる存在は " 院側近 ~ として台頭してきた藤原信頼であった。 さひょ、つえのかみ せつかん 信頼は左兵衛督と官位は高くないが、かって、信西が追い詰めて解体を図った藤原摂関家の もとざね 当主・基実の義兄にあたる。信頼はあまり頭脳明晰のタイプではなかったようだが、信西から 見ればその軽薄ぶりも許し難かった。 ひぽ、つ げんそ、っちょ、つこ、つ あん 信西はことあるごとに信頼を誹謗し、ついには唐の玄宗に寵幸されながら反乱を起こした安

9. 教科書が教えない日本史の名場面

静御前、悲劇の舞 しかし、壇ノ浦で平家を討ち滅ばした後は、もはや義経の軍事的才能は必要なくなってしま う。否、むしろ頼朝にとっては危険なものでしかなかったに違いない。義経に対する頼朝の態 度は、再び厳しさを増した。 義経の鎌倉入りを許可せず、義経は仕方なく京へと戻ることになる。 軍事的な才能に恵まれながら、義経は " 世間 ~ というものに疎かった。この方面、凡庸であ ったといってよい。やがて、そんな義経の周囲に、頼朝へ反感を持つ者が集まり、義経をたき つけて後白河法皇を動かし、頼朝追討の院宣を出させてしまう。 ここに、兄弟間の対立は決定的なものとなった。怒った頼朝は法皇の近臣を罰するとともに、 ただちに義経討伐の軍を送り込んだ。 ところが義経は、ロ車に乗せられて頼朝追討の院宣を出すように動いたものの、兄に対して 含むところを持たなかった。ひたすら、その怒りが静まることを願って、京から幼い頃を過ご お、つしゅ、つ 、した奥州・藤原氏のもとへ、落ち延びることになる。 一つの名場面が生まれた。 しずかごぜん 義経を愛した静御前を主人公としたもの。 ぶんじ 文治元年 ( 一一八五 ) 十一月十七日、吉野の山中で愛する 義経と別れた後、捕らわれの身となった静は、鎌倉の頼朝の 静もとへと送られる。翌年三月一日のことであった。 、つと ほんよ、つ

10. 教科書が教えない日本史の名場面

蛬川の决戦ーーー一三三六年五月ニ十五日 ごだいご げんこ、つ にったよしさだあしかがたか、つじ 楠木正成、新田義貞、足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ後醍醐天皇は、元弘 三年 ( 一三三一一 I) 六月、京に戻り新政府を樹立、政治改革に取り組んだ。 けんむのしんせい 建武新政である。しかし、これは実質的にはわずか二年半しか続かなかった。 後醍醐天皇は、新しい政治をつくり出すために精力的に動いたが、その根本には古の天皇親 政の理想があった。 しいたいしよ、つぐん せっしよ、つかんばく せ、 征夷大将軍や幕府を認めず、また上皇や法皇による院政も認めない。摂政や関白も置かす、 天皇による完全な専制政治を目指した帝は、 りんじ 「これからは裁判の沙汰にしても、訴え出たことのよしあしの決定も、すべて綸旨に書かれた 通りとする」 と申し渡したほどであった。 理想はよしたが、 : 。 ' それをいかに現実に結びつけるか、建武新政に参加し、実務に携わった 人々は、あまりに政治・行政に不置れでありすぎた。仕事は山ほどあるのに、長く権力の中枢 から遠ざかっていた公家たちには、どのように仕事を進めていっていいのかがわからなくなっ ていたようだ。手柄を立てた武士の中から、役人に取り立てられた者も同断であった。 ′すのきまさしげ いんせい いにし、え 116