清盛 - みる会図書館


検索対象: 教科書が教えない日本史の名場面
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1. 教科書が教えない日本史の名場面

禄山になぞらえたりもした。むろん、その昇進は押しとどめている。 保元の乱で目覚ましい働きをしながら、平清盛以下 そのため、信頼は天皇親政派と語らい、 の評価しかされずに不満を募らせていた源義朝をも仲間に引き入れ、打倒・信西を画策するに 及んだ。 問題は、信西と組む平清盛とその率いる平家の軍勢をどうするかにあったが、絶好のチャン 、もレャもーり・ スがまもなく訪れた。平治元年 ( 一一五九 ) 十二月四日、平清盛は嫡子・重盛やその弟の基盛、 くまの むねもり 宗盛および侍十五人を従えて、熊野参詣に出発したのである。 都では清盛の留守を好機として、信頼を中心に藤原経宗、藤原惟方らが、源義朝の武力をた のんでクーデターに踏み切った。目的は、信西の追い落としのみ。名目上は清盛と結ぶ信西が、 信頼を討つべく準備しているとの密告があった、ということにした。明らかなでっち上げであ 十二月九日ーーらまり、清盛が熊野に出発した五日後、挙兵した彼らは、後白河法皇の御所 じよ、つさい・もんいんと、つし であった三条殿に押し寄せ、法皇とその姉・上西門院統子の二人を車に乗せると、そのまま大 いつばんのごしよどころ 内裏の中の一本御書所に幽閉してしまう。 しゅっゅ、つ 乱天皇はもとより手中にある。次いで、三条殿に放火した義朝たちは、さらに信西の宿所たる ロあねがこうじせいどういん 姉小路西洞院の屋敷に攻め入り、ここをも焼き払った。が、肝心の信西は、こうした動きを察 ・知してか、大和 ( 奈良 ) 方面へと落ち延びていた。 ろくざん

2. 教科書が教えない日本史の名場面

ここで、奇妙なことが起こる 敵方であるはすの藤原経宗と惟方が、清盛方へ寝返ってきたのだ。清盛は両者と謀議し、と ほ、ってい りあえす藤原信頼に対して「名簿」を奉呈した。「名簿」を差し出すというのは、主従の関係 を正式に結ぶことを意味しており、当時においては厳正な儀式であった。 信頼はクーデタ 1 の成功を信じており、さしもの清盛も降参してきたとみてとった。この辺 り、信頼という人物の軽々しさがうかかえる ぎっしゃ 清盛は相手方を油断させておいて、まずは急務の天皇奪還を計画。女房用の牛車に女装させ 、つしのこく た帝を乗せ、見事、六波羅に迎え入れた。ときに十二月二十五日丑刻 ( 午前二時 ) であった。 同様に、法皇も脱出に成功して六波羅へ。早速、清盛は両帝を自軍に迎えたことを都中に触 ちょ、つぎ れ回らせた。なんのための宣伝であったかといえば、朝議開催のためであった。 両帝をしたって公卿たちが参集し、朝議が開かれた。この席上、事態は一転する せんじ 信頼・義朝は朝敵となり、追討の宣旨 ( 内輪に天皇の言葉を下へ伝えること ) を奉じた清盛は、 平家の軍勢を官軍として発向させた。 それにしても、清盛はあまりに手際がよすぎはしなかったろうか 一転して朝敵となった義朝は武人らしく、源氏の軍勢を率いると果敢に打って出た。その兵 力は二百騎であったという。 平家軍は、京の小路などに源氏の軍勢を誘い入れ、その隙をついて内裏を占拠してしまった。 はっこ、つ かかん せんきょ

3. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩源頼朝、本 ( ーー一一八〇年八月十七日 じしよ、つ みなもとのよりとも 治承四年 ( 一一八〇 ) 八月十七日、伊豆で源頼朝が挙兵した。 こ、つり・ゅ、つ タイミングはあまり良かったとは一言、んない 。この年、源氏のライバルである平家は興隆を極 たかくら めていた。四月、高倉天皇 ( 第八十代 ) が退位して上皇となり、代わって平清盛の娘、徳子の あんとく 生んだ子が即位して安徳天皇 ( 第八十一代 ) となったのである。三歳の幼子だった。平家を率 」よーも。り・ いる平清盛にとっては、このうえない喜びに満たされた瞬間であった。 もちろん、自らの孫を即位させることができたのは、清盛をはじめとする平家一門が各々、 朝廷の要職を独占して権力を握っていたからにほかならない。そのような状況での、頼朝の挙 兵であった。 もっとも、頂を極めれば、今度は坂道を降りていかなくてはならない。頂点を極めた平家だ ったが、一方では翳りも見え始めていた。 この頃、平家の横暴に対する人々の反感は次第に高まっていた。そんな空気を読み取って、 同じ四月、小さな謀反が起こる。 よ。り主当、 もちひとおう みっぽう 後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が、反平家勢力の結集を図ろうと密謀したのである。以 仁王は母の身分が低かったため、要職につくことができずに不満を募らせていた人物 いただき むほん 0 2

4. 教科書が教えない日本史の名場面

平治の乱 清盛は十七日には都に戻っているのだが、何の ことはない、六波羅へすんなりと入っている このことはどうみるべきであろうか 『愚管抄』はいう。 「スペカラク義朝ハ討ッペカリケルナ、東国ノ勢 のナドモ、イマダッカザリケレバニヤ、是ヲバトモ 。一カクモタセデ有ケル 蔵義朝はそのとき、清盛と決戦すべきだった。が、 しゃ兵力が不十分なため、必勝 - / 一義朝は動かない。、 じよ、つら′、 を期しがたく、東国からの軍勢が上洛しなけれ ば、戦いを挑むことができなかったのである では、清盛の方から義朝に仕掛けたかといえば、 新これまた法皇・天皇が敵の手中にあるため、速戦 即決とはいかなかった。清盛は廩重を期している 兵力では、平家は源氏を圧倒していた。先方か 語ら攻めかかってくることは有り得ない。要は、法 だっかん 平皇と天皇の奪還が先決問題であった。

5. 教科書が教えない日本史の名場面

ぎってしまう。体に水をかけると湯になってはじけ、まるで炎が上がるようである」 おおげさ と書いている。いささか大袈裟な描写ではあるが、相当な高熱を伴う病だったことは確かで あった。 病状は日に日に悪化。もはや助かる見込みのなくなった清盛の耳許で、妻の時子がこの世に 言い残しておくことはないか、と尋ねた。 すると清盛は、 、つって 「やがて打手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが墓の前にかくべし。それぞ孝養にてあらん ずる」 ( 『平家物語』 ) そう言い残し、ついにこの世を去った。享年六十四 こうしてカリスマ的存在を失った平家から、人心はますます離れていった。 ふくはらせんと 清盛が病に倒れる前に行っていた福原遷都も、平家の評判を落としていた。福原は現在の神 戸市兵庫区あたりだが、治承四年、つまり頼朝が挙兵した年の四月三十日、清盛は突然、ここ そう に都を移すと発表したのである。清盛としては、港町として発展させ、宗との貿易を活発化さ 戦せようとの狙いがあったのだが、新しい都の評判は散々だった。 合 の土地が狭く、道路も思うように造れない。そもそも寝耳に水で、いきなり移り住まなくては ルならなくなった人々が面白いはずもなかった。結局、平家の評判を落としただけで、同じ年の ⑩十月、再び都は京に戻るのである。 」よ、つよ、つ

6. 教科書が教えない日本史の名場面

が、ひとり頼朝は、 「八幡宮での舞は、関東の万歳をこそ祝うべきに、反逆人・義経を慕い、別れの曲を歌うとは、 奇怪である」 と激怒した。 これに対して政子は、静を弁護。 「君流人として豆州におわし給、つの頃、われにおいて芳契ありといえども、北条殿時宜を恐れ、 ひそかにこれをひき籠めらる。しかしてなお君に和順し、暗夜に迷い、深雨をしのぎ、君のと ころに到る。また、石橋の戦場に出で給うの時、ひとり伊豆山に残留。君の存亡を知らず、日 夜魂を消す。その愁を論ずれば、今の静の心の如し。予州 ( 義経 ) との多年の好みを忘れ、恋 慕せざるは貞女の姿にあらず」 ( 『吾妻鏡』 ) しゅ、つぎ これを聞いた頼朝は引き下がらざるを得なくなったばかりか、ついには祝儀を出さねばなら ない羽目にも陥っている。ときに、四月八日のことであった。 舞七月二十九日、静は出産した。男子であったため、産まれたばかりの子は即刻、由比ケ浜で の 殺されてしまう。 悲 頼朝自身、平清盛に生命を救われていながら、平家を滅ばした男である。危険な芽はできる 前 静かぎり早く摘み取っておこうと考えたのであろう。 ・静はその後、鎌倉を後に京へ向かった。『吾妻鏡』の静に関する記述は、ここで終わってい

7. 教科書が教えない日本史の名場面

「飢えで死んだ人が、道端に数知れないほど倒れていた。河原には死体の山ができて、馬や車 が通れないほどである」 と書かれているように、当時、京周辺は深刻な飢饉に見舞われていた。死者の数は二カ月間 に四万二千にもなったという。そういう状況下、まともな兵士を集めることなどできない。当 ひょ、つろ、つ 然、兵糧も十分ではなかった。 それでも軍を差し向けたのは、頼朝の勢いがもはや無視できなくなっていたからだ。 たいじ 富士川を挟んで対峙した源氏一一十万騎、平家七万騎 ( 『平家物語』 ) 。 つるがおかはちまん . きせがわ おうしゅうひらいずみ 出陣に際して、頼朝は鶴岡八幡に戦勝祈願をすませ、黄瀬川の陣では奥州平泉から駆けっ くろ、つよしつね けた異母弟の九郎義経と涙の対面もおこなっていた。 源氏の士気は高かった。勝敗は、戦う前に決していたといえるだろう。維盛の軍は、数万羽 の飛び立っ水鳥の音を敵襲と勘違いし、大混乱に陥って、敗走したという話もあるくらいだ。 それほど、お粗末な軍勢だったのであろう。 富士川の戦いに敗れた平家に、さらに追い討ちをかけたのが平清盛の死であった。 その清盛が、富士川の戦いから四カ月あまり後、病に倒れた その様子を『平家物語』は、 せんじゅ 「その体はまるで内側から火をたいているように熱い。あまりの熱さに比叡山の千手井から冷 たい水を汲みおろし、桶にためて、そこに体を沈めるのだが、水はたちまち湯になり、煮えた

8. 教科書が教えない日本史の名場面

信頼は、信西にかわって朝廷の実権を掌握。平家に比べて冷遇されていた源氏一門の官位を 昇らせた。さらに、ひとたびは逃げ延びた信西が、途中で三条殿、姉小路西洞院の焼き討ちを 知り、信頼や義朝たちが法皇や天皇に手荒な仕打ちをしないようにと、自らが死んで身代わり みつやす となるべく、生命を絶った。その首も、源光保によって都へ持ち帰られている せんきょ この時点で都を占拠していた信頼たちは、ク 1 デターの成功を確信したといってよい。 うしろだて 一方、いままで後盾と頼んできた法皇を奪わ めいゅう れ、盟友の信西を死に追いやられた清盛は、この 事態を旅先で知り、どのような反応を示したのか 『愚管抄』では、事態の重大さに驚いた清盛が、 つくし 平家の地盤である筑紫 ( 北九州一帯 ) に落ちて軍 勢を募ろう、と言ったというのだが、これは素直 。 ( いたたけない。 ゅあさ なにしろ、その直後に紀伊国の在地武士・湯浅 むねしげ 宗重などが援軍として清盛のもとへ駆けつけてい る。また、平家の一族郎党のほとんどは、この時 ろ / 、はら 点においてなお、六波羅の邸宅に駐留していたの である。 ′莎 ; ドデ ' みレ茂 1

9. 教科書が教えない日本史の名場面

清盛亡き後、平家の勢いは衰える一方となった。 じゅえい 前述の如く、寿永二年 ( 一一八三 ) 四月には、木曽 義仲が大軍を率いて京に攻め上ってきた。平維盛を総 ~ 0 , ' ' 、、ゞ = 募一 ~ 一 , 大将とする平家軍十万余は散々な負け方をし、京まで 逃げ返ったのがわずか二万に過ぎなかったという有 を、よ、つ、ら′、 義仲の軍はついに京洛に入る。 あんとく 平家は都を追われて、清盛の孫である安徳天皇を奉 さいごく のじ、西国へと落ちのびていくことになった。 覊しかし、このときにはまだ平家は滅んでいない西 屏国へと逃げた平家はそこで態勢を盛り返した。 一方の源氏の側では、頼朝と義仲が内輪もめを始め、 合 発これに後白河法皇のおもわくが重なり、ついには頼朝 に対して、朝廷から義仲討伐の命令が発せられるまでに至った。 のり・より・ 、つじがわ この義仲討伐軍を指揮したのが、頼朝の異母弟・範頼と義経の一一人。彼らは宇治川の合戦な どで勝利し、ついに ( 義仲を討ち滅ばすことに成功する 結果、一一人は引き続き、勢いを取り戻した平家討伐を指揮することになった。

10. 教科書が教えない日本史の名場面

源頼朝、挙兵 14 しかし、この試みは清盛の察知するところとなり、あっけなく潰された。平家の軍勢に攻め よりまさ られ、源頼政は平等院で自害。以仁王は流れ矢に当たって、戦死してしまった。ところが、事 しゅ、っそく 件は終息しなかったのである。二人がこの世を去る以前、彼等は重要なことをしていた。「平 家を討て」との以仁王の言葉を、諸国の源氏に伝えていたのだ。 この命令は源頼朝のもとにも、当然、もたらされた。頼朝は、源氏の総大将であった源義朝 の子である。このとき、三十四歳になっていた。平治の乱の後、平家の軍にとらえられ、危う いけのぜんに く殺されそうになったところを、清盛の継母・池禅尼に助けられて伊豆へ流された。すでに二 A 」ごま 6 さ まさこ 十年以上が経過している。この間、北条時政の娘・政子とも結婚していた。 命令を受けた頼朝は勇み立ったが、一方では ちゅ、っちょ 、一躊躇もしている。何といっても、兵力がなか った。源氏の総大将だった男の息子ということ で、これまでも近隣の武士が出入りすることは あったが、流されている身の上で軍勢を組織す ることなど不可能であったろう。 立つか止めるか、周囲の説得があり、また以 仁王の命令を知った平家が軍を差し向けたとの 情報もあって、ついに頼朝は挙兵を決意した。