義仲 - みる会図書館


検索対象: 教科書が教えない日本史の名場面
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1. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩木曽義仲の最期ー一一八四年 話が前後する。源頼朝の挙兵に呼応して源義仲、俗にいう木曽義仲が立ったのは治承四年 ( 一一八〇 ) 九月のことであった。 きそだに こうすけのくに たちまち木曽谷周辺を平定した義仲は、さらに、上野国 ( 群馬県 ) にまで勢力を広げた。 しなののくに じゅえい しばらく信濃国 ( 長野県 ) を中心に勢力を蓄えた義仲は、寿永一一年 ( 一一八三 ) 四月、ついに ぜんこうじだいら ちくまがわほレ . り 大規模な軍事行動を起こす。軍勢を率いて北陸道を進み、途中、善光寺平にほど近い千曲川畔 これもり じようのながもち みちもり とものりつねまさ の横田河原で城長茂を討ち、さらに平維盛以下、通盛、知度、経正らを将とする十万にのば る軍勢を打ち破った。 このおり語り継がれる名場面が倶利伽羅峠の奇襲戦であろう。十万余の平家軍はさすがに強 たいせい く連戦連勝ーー義仲は頽勢を挽回すべく五万余の軍兵を引き連れ、兵を一一つに分け、一方を後 方へ迂回させて大勝を得た。 か、ゆ、つ、けい げんべいじようすいき たいまっ このおりに『源平盛衰記』には " 火牛の計 ~ というのが出てくる。五百頭の牛の角に松明 でんたん をくくりつけ、平家方の陣へ乱入させたというのだが、これは『史記』の列伝にある斉の田単 の奇策をアレンジしたもので、残念ながらフィクションでしかなかった。 が、義仲の圧倒的勝利にうそはなく、ついにその軍勢は京都に入ったのである。平家は都落 ばんかい よしなか じしよ、つ

2. 教科書が教えない日本史の名場面

こうして、平家打倒の最大の功労者は、同じ源氏によって討たれる身となったのである。義 のり・より・ 仲討伐の指揮をとったのが、頼朝の異母弟・範頼と義経であった。 義仲はこの二人ーーとくに軍事の天才といっていい義経によって、ついには滅ばされるのだ あいしようともえごせん が、その最期の場面に忘れてはならないのが、義仲の愛妾・巴御前との別れの名場面であろう 巴御前は『平家物語』や『源平盛衰記』のような物語に登場するものの、確実な史書には存 かねとお 在が確認されていない。一般には、木曽谷の豪族・中原兼遠の娘といわれている。義仲が平家 打倒の軍を起こしたときには、すでに二人は恋仲になっていたとか かねみつかねひら 巴は女ながらも武芸に秀で、兄弟の兼光・兼平とともに義仲につき従い、木曽谷を発して平 家討伐の戦陣に加わった。 『平家物語』によると、 「巴は色白で髪が長く容顔まことに美麗ー とあり、およそ武勇伝の持ち主とは思えぬ美人で、しかも、その強さにおいても、 「屈強の荒馬を乗りこなし、難所もなんなくこなす、弓矢をとってはいかなる鬼であろうと、 つわもの 神であっても立ち向かう、一騎当千の兵であった」 ごうきゅ、つおおだち よろい あざ とある。色鮮やかな鎧を身にまとい、強弓や大太刀を構え、組討ちも勇ましく、度々、功 すさ 名をたてたというから凄まじい。『平家物語』によれば、敗色濃い義仲勢が、ついにはわずか 七騎にまで減ってしまったときにも、巴はその中に残っていたという。もし史実なら、日本合 . みよ、つ ′、み、つ 0

3. 教科書が教えない日本史の名場面

ちし、西国へと逃れていった。 この時点では、鎌倉に腰を落ち着かせた頼朝は動いていないつまり、ここまでの過程では、 平家討伐の一番の功労者が義仲だったわけだ。 ききん しかし、義仲が入った京都は二年続いた飢饉の影響で食料事情が悪化していた。そこに数万 の軍勢がやってきたのである。食料不足はさらに深刻化した。 み、ば、つ 加えて、義仲の軍勢には粗暴な行動が目立った。公家の牛車を奪うといったことが相次ぐ こうして次第に、義仲の都での評判は悪化していった。 もちひとおう さらに、平家とともに逃れた安徳天皇の代わりに以仁王の息子を天皇にしようとしたことも みぞ あって、後白河法皇らとの間に溝ができてしまう。 義仲と後白河法皇との対立が決定的になったのは、法皇が頼朝に対して出した東国支配を許 せんじ す旨の宣旨だった。このとき、後白河法皇は、さすがに義仲の力を恐れてその勢力圏である北 陸道の支配権を頼朝に渡すことはしなかったのだが、義仲としては面白くない。平家を討った のは自分だというプライドがある。何もしていないに等しい頼朝に、大きな権力を与えるとは 最何事か いんせん こうして法皇との仲が冷え込んだ義仲は、ついに法皇を捕らえ、頼朝追討の院宣を出すよう 義 しいたいしようぐん せ、 曽 に強要し、自ら征夷大将軍を名乗るようになった。 木 当然、法皇も黙ってはいない再三にわたり、頼朝に使者を出して義仲討伐を要請した。 と、つばっ さいごく

4. 教科書が教えない日本史の名場面

ためともらんぎよう げかん 保元元年には、すでに六十一歳に達していた為義は、息子の為朝の乱行がもとで解官さル、 隠居していた。にもかかわらず、老骨に鞭打ってあえて生死を賭ける一戦に参加した主因が、 長年、藤原頼長に仕えていたから、とするだけでは弱い気がする ぐかんしよ、つ 『愚管抄』はやはり、為朝と義朝の不仲説をあげていた。 よしひら よしかたさっしよ、つ これは前年の久寿二年 ( 一一五五 ) 、義朝とその長子・義平が為義の二男である義賢を殺傷 したことを理由にあげていた。この一件は従来、さほど重視されてこなかったが、後の源頼 朝・義経と木曽義仲の関係を考える場合、実に含むものがあった。この時、義平に殺された義 賢の遺子こそが、のちの木曽義仲であったのだ。 いすれにしても、上皇方に参戦した為義は、本気で天皇方に勝利するつもりでいた。おそら そ、つし くは、目指す敵を平家の宗師・清盛にしばっていたかと思われる。 さて、こうして近親者同士が敵味方に分かれた戦いは、七月十一日の明け方に始まったが、 わずか四時間ほどであっけなく勝敗が決した。勝ったのは後白河天皇グループである ほ、つしよ、つ けんさく しりぞ なぜ、あっさりと勝負がついたかといえば、謀将為義の建策をことごとく藤原頼長が退けて しまったからだ。崇徳上皇側の参謀ともいうべき為義は、事前に三案を用意していた。 げこ、つばんど、つ うじおうみ まず、字治か近江へ急ぎ下向し坂東武士の来援を待っこと。次に来援が遅れた場合は、即戦 だいり せすに上皇を関東へ下向させて軍勢を整える。最後が先手を打って、内裏に攻め込むという作 戦であった。 きゅ、つじゅ

5. 教科書が教えない日本史の名場面

清盛亡き後、平家の勢いは衰える一方となった。 じゅえい 前述の如く、寿永二年 ( 一一八三 ) 四月には、木曽 義仲が大軍を率いて京に攻め上ってきた。平維盛を総 ~ 0 , ' ' 、、ゞ = 募一 ~ 一 , 大将とする平家軍十万余は散々な負け方をし、京まで 逃げ返ったのがわずか二万に過ぎなかったという有 を、よ、つ、ら′、 義仲の軍はついに京洛に入る。 あんとく 平家は都を追われて、清盛の孫である安徳天皇を奉 さいごく のじ、西国へと落ちのびていくことになった。 覊しかし、このときにはまだ平家は滅んでいない西 屏国へと逃げた平家はそこで態勢を盛り返した。 一方の源氏の側では、頼朝と義仲が内輪もめを始め、 合 発これに後白河法皇のおもわくが重なり、ついには頼朝 に対して、朝廷から義仲討伐の命令が発せられるまでに至った。 のり・より・ 、つじがわ この義仲討伐軍を指揮したのが、頼朝の異母弟・範頼と義経の一一人。彼らは宇治川の合戦な どで勝利し、ついに ( 義仲を討ち滅ばすことに成功する 結果、一一人は引き続き、勢いを取り戻した平家討伐を指揮することになった。

6. 教科書が教えない日本史の名場面

戦史上、最も強かった女性といえそうだ。 うちではま やがて義仲は最後の戦場となる琵琶湖畔の打手の浜に進出。巴の兄らと合流し、兵三百騎で 六千余りの鎌倉軍に絶望的な突撃を繰り返すが、巴はここでも最後の五騎のうちに生き残って いくさ 「そなたは女なのだ。何処へなりとも落ち延びよ。木曽殿は最後の戦にまで女を連れていた、 といわれては末代までの恥になる」 義仲は、巴を戦場から去らせようと懸命に説いた。しかし、巴は承知しない。 しいえ、巴は殿の最期の時にも、首を一緒に並べとうございます」 そこで義仲は、巴に使命を与えて何とか逃そうとする。 「去年の春、信濃の国を出て以来、妻子を見捨てたままなのだ。だから義仲最期の事を知らせ とむら て、私の後生を弔って欲しい。早く信濃へ忍び落ちて、この有様を人々に語ってくれないか」 さすがの巴も、主命には抗し難い い′、さ ものた、さ 「落つる涙を拭いつつ、上の山へと忍びける、粟津の軍終わりて後、物具脱ぎ捨て、小袖装束 きんだち 最して信濃へ下り、女房、公達にかくと語り」 互いに袖の涙を絞ったという はくび 義仲の最期ーー『平家物語』の「木曾最期の事 , は、この物語の中でも白眉の名場面といっ てよい。京都河原の合戦で義経に敗れた義仲は、巴を戦場から離脱させると、幼なじみの部 しゅめい おさな

7. 教科書が教えない日本史の名場面

おうみ あわづ 将・今井兼平を探して、近江 ( 滋賀県 ) の瀬田から粟津まで落ち延びた。 よろい 「いかに今井、日ごろはなんとも覚えぬうすがね ( 鎧 ) が、今日は重う覚ゆるや」 、っちじに 、っちかぶと 弱気の義仲を兼平は励まし、自害をすすめるが、義仲は内兜を射られて討死。それを見とど と さかお けた兼平は、己れも太刀を口にふくんで馬上から逆落としに壮絶な自害を遂げた。 義仲の妻子を訪問した後、巴はどうしたであろうか。『平家物語』には何ひとつ出てこない。 では、『源平盛衰記』ではどうか わだよしもり あさひなさぶ こちらでは、捕らえられて鎌倉に送られた巴は、和田義盛の妻にもらい受けられ、朝比奈三 ろうよしひで ご、つけっ 郎義秀という豪傑を産んだ、ということになっている けんりやく ついでながら、この義秀は建暦三年 ( 一二 一三 ) 五月、和田一族が北条義時 ( 源頼朝の義弟・ 、っち - じに 鎌倉幕府の執権 ) を攻めて敗北したおり、和田義盛とともに討死していた。これは史実である。 とむら が、巴は泣く泣く越中に赴き、出家して亡くなった者の弔いに余生を送り、九十一歳まで生き 長らえた、というのは史実とは言い難い。 きんせん その最期、いやその存在すら不確かな巴御前だが、やはり、日本人の心の琴線に触れる女性 であることは間違いない えっちゅう 0 0 一 8

8. 教科書が教えない日本史の名場面

①神武東遷 ②神功皇后の三韓征伐 ③日本初の徒手格闘戦 ④入鹿暗殺 ⑤壬申の乱 ⑥大津皇子謀反事件 ⑦「日木。の国名の誕生 ⑧東大寺の大払開眼供養 6 ⑨阿倍仲麻呂、遭難て帰国てきず ⑩菅原道真、大宰府へ左遷 ⑩平将門の乱刃 ⑩保元の乱 ⑩平治の乱“ ⑩源頼朝、挙共 ⑩木曽義仲の最期 ⑩壇ノ浦の合戦 ⑩静御前、悲劇の舞 ⑩曽我兄弟の仇討ち ⑩実朝暗殺 93 88 2 ろ 17

9. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩壇ノ浦の合戦ー・一一八五年三月 + 四日 こ、つりゆ、つ かっては「平家にあらざれば人にあらず」とまで言われ、その興隆を誇っていた平家であっ みやこお たが、都落ちした頃から、はっきりと衰退への道をたどっていた。 ド ) しよ、つ ふじがわ 源頼朝の挙兵から、まだ五十日あまりしか経っていない治承四年 ( 一一八〇 ) 十月、富士川 で戦われた一大決戦に大敗北を喫したのが、つまずきの始まりだった。 同じ時期、頼朝の従兄弟にあたる木曽義仲が木曽で兵を挙げ、また、甲斐の源氏一族も反乱 のろし の狼煙をあげて、頼朝のもとには続々と武士が集まっていた。挙兵のときにはわずかに三百の 兵しかいなかった頼朝だが、 「凡そ扈従の軍士幾千万なるかを知らずー と言われるほどの大軍を率いて鎌倉に入った。 こち この地は亡父・源義朝の本拠とした故地である。 ただのり 戦当然、清盛も黙ってはいない。巨大化する頼朝を討つべく平維盛を総大将に、忠度を副将と 合 と、っせい のする東征軍を派遣した。決して少ない軍勢ではなかった。が、彼らの士気は極めて低かったと 伝えられている。飢饉のため、十分な兵士を集めることができなかったとも。 に、つド ) よ、つ」 ①『方丈記』に、 およ これもり

10. 教科書が教えない日本史の名場面

⑩静御前、悲劇の舞ー一一八六年四月八日 みなもとよしつね 平家討伐に最も貢献した源義経だったが、次第に兄・頼朝との間がしつくりといかなくなっ ていく。 のり - より・ 義仲に京を追われた平家は、西国で再び勢いを取り戻した。これを討ったのが範頼と義経の 二人だったのだが、壇ノ浦で完全に平家を討ち滅ばす前、一時、義経は頼朝の怒りに触れ、源 氏軍の指揮権を奪われている。 らくちゅ、つ 一ノ谷の合戦に勝利した後、義経は一度、都に戻るように命じられ、洛中の警護や行政の仕 事に当たった。義経の活躍が突出しすぎたことに、頼朝が警戒心をもったのである。この義経 し じゅ、つごいのげけび さえもんのしようい しようでん に対して、後白河法皇は従五位下検非違使・左衛門少尉に任じ、院への昇殿を許すという破 格の待遇をおこなった。 義経は喜んでこの任官を受け入れたのだが、これが頼朝の怒りを買ったのである。 ノ、んこ、つ 頼朝は勲功を自ら行う旨、朝廷に伝えてあった。御家人たちへの賞罰を独占し、己れへの求 心力を得ようというのがその目論見であったからだ。 怒った頼朝は、一時、義経を源氏の軍勢から外してしまう。だが、義経という軍事の天才は 0 やはり必要だった。平家が勢いを盛り返したことから、義経は再び前線へ より・とーも