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検索対象: 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)
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1. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

江戸の辻駕籠は何台あったか それなら、このとき、それまで三〇〇台に制限されていた江戸の辻駕籠は何台くらい増えることに なっただろうか。 辻駕籠の台数は、一七〇〇年の九月には四九三台だった。それが十月には七六五台になった。そし て十一月には一二七三台となり、一七〇一年には年平均三六一二台にもなった。それまでの制限台数 の一二倍である。これを見ると、それまでの制限がどんなに人々の要求を無視したものであったか、 分かるというものである。 ところが、その後すぐにまた辻駕籠の台数が厳しく制限される時代がやってきた。一七〇三年には 辻駕籠と大八車への課税が廃止になったが、それとともに、辻駕籠の数は六〇〇台に制限されてしま ったのだ。どうしてだろうか。それは、その前後に発せられた布達 〇一七〇一年六月、借駕籠に乗って、笠をかぶったり羽織などで覆面する者があるというが、 女以外は取り締まる。 うるう 〇一七〇二年閏八月、辻駕籠に乗っていいのは「極老、病人、女小児」だけとしたのに、「老 やり 年に及ばざる者も、そのうえ鑓などを持たせて乗っているものもある」という。そのような 者を乗せているものを見たら処罰する。 とうゆ 〇一七〇五年閏二月、「壮者なるも病と称し、晴日に桐油〔紙Ⅱ桐油をひいた防水紙〕をも て覆い乗るもの」ありという。取り締まる。 を見ると想像がつくだろう。 8

2. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

大事にした」政治と思っているが、そんなことはない。じつは私は、その「生類憐みの令」について 詳しく研究したことがあり、最近それを『生類憐みの令ーー道徳と政治』 ( 仮説社、一九九二年 ) とい う単行本にまとめた。詳しくはそれを参照していただくといいのだが、じつは、江戸の町人が辻駕籠 に自由に乗れるようになったのも、その「生類憐みの令」の結果の一つと考えていいのである。 綱吉は犬だけの命を大事にしようとしたのではなく、人間をも含むすべての生類を憐れむべきもの と考えていた。人間のうちでもとくに憐れむべき存在は、老人や病人、それに牢獄の中の囚人と言え る。そこで、将軍綱吉の時代には牢獄が改善されて、市中の老人や病人が駕籠を自由に利用できるよ うにする政策がとられもした。老人や病人が臨機に駕籠に乗れるようにするには、自家用でない「借 駕籠」っまり辻駕籠が必要である。そこで、「生類憐みの令」が実施されていた最中の元禄十三 ( 一 七〇〇 ) 年になってはじめて、江戸の辻駕籠が自由化したと見ていいのである。 一七〇〇年といえば、江戸の大八車に伝馬町助成のための税金 ( 極印手数料 ) が課せられたのもそ の年のことであった ( 第 4 話 ) 。じつはそのとき、江戸の町奉行所は、 〇一七〇〇年八月、今度、町中の借駕籠御免の御書き付けが出たので、辻駕籠は伝馬町の名主 のところで極印を受け月々銀三分の極印代を支払うこと。 という布達を出して、辻駕籠の台数自由化と引き換えに、辻駕籠にも大八車同様に、伝馬町助成の税 金を課することにした。そういう形で伝馬町からの苦情を押さえた上で、辻駕籠を「老人と病人、女 子どもに限って」自由に乗れるようにしたというわけである。 99 第 8 話

3. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

うたろうか。 江戸の辻駕籠解禁の歴史 じつは、江戸時代の初期には、江戸での辻駕籠の利用は厳しく制限されていたのである。もっとも、 その主な理由はそれが馬方などの仕事を奪うからではなかった。もともと、街道を旅する人々には、 駕籠を利用することも認められていたのである。 まず『近世交通史料集』などをもとに、辻駕籠に関係する幕府の布達を書き抜くと、こんな通達が 出ていたことが分かる。 〇一六六五年二月、江戸で町人が駕籠に乗ることは以前から禁止されている。違反のものは 捕らえる ( 諸街道のうちはよい ) 。 かり 〇一六七五年、江戸に三〇〇挺だけ借駕籠の営業を許す ( 武士と特別許可された老人だけが 乗れた ) 。 〇一六七七年四月、近ごろ町人が「駕籠ならびに借乗物」に乗っているのを見かける。近日取 り締まるから心得よ。 〇一六八一年七月、特別許可されたもの以外は一切駕籠に乗ってはいけない。 話 このとき「駕籠と乗物の区別」がやかましくなった。「乗物」というのは、立派な戸などのついた 8 駕籠のことである。そういう「乗物」でないふつうの駕籠でも〈特別に許可を受け得た五十歳以上の 老人〉でないと、江戸市中で乗ることが認められていなかったのである。

4. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

この問題を解決するには、まず「人力車の出現以前、つまり江戸時代には辻駕籠がどのくらいあっ たのか」という問題を解決しておかなければならない。 江戸の辻駕籠は自由だったか しかし、どうしたことか、江戸時代の辻駕籠について研究したものなぞ、まったく見当たらなかっ た。喜田川守貞の『近世風俗志』にいろいろな駕籠・乗り物が図解してある程度である。そこで、私 は自分で、辻駕籠の歴史を調べてみた。 私が利用し得たのは、前に江戸の大八車の歴史などを調べるのに使った児玉幸多編の『近世交通史 料集九』と徳川将軍家の歴史をまとめた『徳川実紀』、それに『東京市史・市街篇』その他の単行本だ けであったが、それでも江戸時代の辻駕籠について多くのことを知ることができた。そこで、その成 果の一部は、「江戸のタクシー〈辻かご〉のはじまり・・ーーー幕府と江戸の町人たち」 ( 『授業科学研究』第 Ⅱ集、仮説社、一九八二年 ) という文章にして発表したことがある。そこで、少しその成果を復習する ような形で書くことにする。 「明治期は人力車の時代だったのに対して、江戸時代は辻駕籠の時代だった」ーー多くの人々はそん なふうに思っていることだろう。私もそんな雰囲気で「江戸のタクシーⅡ辻駕籠」と書いたのだった。 しかし、そう言うとまず、「それなら、江戸時代には明治期の人力車のように自由に利用することが 出来たか」という問題が起きてくる。江戸時代の大坂や京都では荷車の利用も自由でなかったが、辻 駕籠に関しては、江戸の大八車のように自由な利用が認められていたのだろうか。あなたの予想はど

5. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

とっても楽で速い。そんな人力車が発明されたら、客にとっては便利でいいに違いない。しかし、駕 籠かきたちこそいい迷惑である。辻駕籠の仕事は、人力車の出現によってみるみる奪われたに違いな いのである。 じっさい、鈴木徳治郎らの人力車稼業が軌道にのりはじめると、車夫たちは、品川辺りの駕籠屋の ものたちから「商売のさわりになる」と喧嘩口論を吹っ掛けられて困ることがあったという。先駆的 な人力車製造業者だった秋葉大助は、「〈人力車が箱根山中を通りかかると、駕籠かきたちが難くせを つけて金をせびったり、衣服をはぎ取ったりする〉という話を聞いて、自ら出掛けていって、そうい う雲助たちを片はしから打ちこらした」こともあるという。 江戸幕府は、そういう争いごとの起きるのも心配して、人を乗せる車の利用など認めようともしな かったのである。そう考えると、明治の新政府は貧民に対して冷たかったかのようにも見えてくる。 あお 明治の新政府は、欧米諸国に倣って職業の自由をうたい、自由な競争を煽るだけで、弱い立場にある 貧民の生活を心配しようともしなかったのだろうか。そういう点では、「江戸時代の幕府のほうが、 人民に対して恩情的な政策をとっていた」ことになるのだろうか。 もともと「駕籠かき」という仕事は、もっとも下層の人々の仕事だった。そういえば、人力車の車 夫だって、もっとも下層の人々の仕事になったのだが、駕籠かきたちの仕事と生活は、人力車の出現 話 によってどうなったのだろうか。人力車の出現以後、それまで駕籠をかついで生計をたてていたよう 8 な人々は、みんな人力車の車夫として吸収できる見込みがあったのなら話は丸く収まるが、一体その 問題はどうなっていたのだろうか。

6. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

前回は、明治三年に発明された人力車が、最初のうち少し抵抗があったとはいうのものの、その後、 あっという間に全国に普及したことを見た。人力車はどうしてそう急速に普及することが出来たのか というと、それは、新政府がそれを助けたからでもあった。しかし、江戸幕府は人力車のようなもの の発明や普及に力を貸さなかった。幕府は、「大八車その他の新しくて便利な運送道具の導入によっ て、馬方や船方、あるいは牛方の仕事が減って、それらの人々が生活難に陥って、幕府がそれらの 人々に期待していた仕事が出来なくなるのを心配していた」のだった。そう考えると、今度は「明治 政府にとってそんな心配すべき問題はなかったのか」ということが気になってくる。 人力車が発明される前、人を乗せて運ぶ仕事は、主として駕籠かきたちの仕事であった。そこでま ず、「人力車が利用されるようになったら、駕籠かきたちの仕事が減って、社会不安が起きないか」 ということが問題になる。駕籠は一人を運ぶのに少なくとも二人の人夫がいる。しかし、人力車なら 一人の車夫で一人ないし二人の客を運ぶことができる。だから、人力車のほうが運賃も安いし、客に 第 8 話江戸の辻駕籠と東京の人力車 駕籠かきたちの失業問題

7. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

も関係があったということになる。 明治五年二月の『新聞雑誌』二十九号には、 「当府下人力車の盛んなる、実に街道も塞がるばかりにて、製造方種々これある中、三輪形な る者もっとも流行せり。 ・ : 或人、戯れに一首の狂詩を賦せり。 もち 蒸気を須いず、馬を須いず。人力縦横、客を載せ行く 三輪繁盛、母衣を掛け、四手零落 : : : 」 とある。 初期の人力車は四本柱だったが、その後の人力車の普及とともに、その構造も急速に改善された ( 図 5 ) 。石井研堂は、明治三年の人力車は、 「みな直線式のもののみにて頗る児戯に類すれども、翌四年版の絵を見れば驚くべき進歩にし て、現今の車制の式を備え、四本柱なるはほとんど廃滅に帰したるを知る」 と書いている。 その後すぐ、秋葉大助というすぐれた人力車の製造業者が現れて、人力車にばねを付けたり泥除け を付けたりして改良を重ねた。そして、今でも観光地などに置かれているような形の人力車が完成す ることになったのである。 ふさ いろいろ 93 第 7 話

8. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

人力車の流行とその構造の改良 人力車の構造も、その普及とともに急速に てる れか改善された。人力車が出現したその同じ明治 さわ 明が三年の八月には、芝会社という貧民救済施設 発の がが「母衣車」を製造して営業する許可を求め カてる願書を提出している。この母衣車というの 人れ 。現は、芝金杉の町役人でもあった内田勘左衛門 れ車が考案した〈幌付きの三輪車〉であったらし 。内田勘左衛門という人は、慶応義塾の福 沢諭吉の門下で、斉藤俊彦『人力車』による 社ろ と、『慶応義塾姓名録』に「慶応四年三月一 招ろ 段い一一日、内田勘左衛門、武蔵芝金杉一一丁目、四 京「十歳」とあるという。この人は、慶応三年に 東す 福沢諭吉が米国から持ち帰った乳母車を見て、 祥が 立だ幌付きの車を作ることを考えたのであった。 5 年じっさい、内田はその乳母車をしばしば持ち 帰って、幌付きの三輪人力車を作らせたよう である。そこで、福沢諭吉は人力車の発明に ほろ ほろ

9. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

とある。「開化進歩」の時代だから、いろいろ「試験Ⅱ実験」してみようというのである。ここにも 江戸時代とは全く違う時代意識が認められるであろう。 明治三年大阪府が、東京に倣って作った「人力車営業規則」には、 「一、人力車の儀は、運転方いまだ不手慣れにつき、往来老幼のものなど怪我いたさざるよう 厚く心掛くべきこと。 ちょうちん 一、夜中は、「御免人力車」と記し候提灯を持ち、通行いたすべきこと。 一、車一輪につき、一ヶ年金一両二分納税いたすべきこと。 右の趣あい守るべきこと」 と述べられている。 人力車は明治の新政府の支持もあって、明治四、五年のうちにはもう全国各地に普及していったの である。そこで、遅れた島根県では、一八七三年に人力車の営業奨励方を布告するほどであった。斉 藤俊彦『人力車』によると、その布告は、まず「いま流行の人力車は人民にとってたいへん便利なも のである。 ・ : すでに東京では数万台の多きに達し、その他の府県でも流行していないところはない。 それにくらべ、残念ながら当県ではまだ一台もない。なんと時代おくれであることか」と慨嘆し、営 業希望者には人力車買い入れのあっせんまでしているという。こうして、島根県でも、明治六年八月 には「人力車規則」が制定されるのである。 しる 91 第 7 話

10. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

却って車に乗らざる者は恥ずかしきほどの景況に至れり」 と書いている。 それも東京だけのことではない。人力車は、それが発明されたその年のうちに大阪にも伝わった。 江戸時代には、一六五七年に江戸に出現した大八車が百年以上たっても大坂で利用されるようになら なかったのと比べると大きな違いであった。それで結局、大坂ではべ力車が使われるようになって、 かたき それもおかみの目の敵になったのであった。ところが、人力車の場合、それを大阪に持ち込んだのは そのおかみの大阪府であった。 『明治大正・大阪市史・法制篇』には、明治三 ( 一八七〇 ) 年十二月八日付の、 「近来〈人力車〉と唱え、往来有益の乗車もつばら流行いたし候あいだ、当府下にて開業い たしたき者は、別紙規則の趣あい守り候わば、願い出しだい差し許し遣わすべきものなり」 という文書が載っている。 布達の文章はいかにも江戸時代のものとそっくりだが、はじめてべ力車が問題になった安永三 ( 一 七七四 ) 年の布達が、「〈べか車〉と唱え、材木・石などを載せ運び候車、近年は増長いたし」という 文章で始まったのと比べると、この明治三年の文面の「近来〈人力車〉と唱え、往来有益の乗車もっ ばら流行し」とは、なんと好意的であろうか。 そう言えば、大阪府の翌年十一月十五日の布達には、 きようえき 「当府下は元来路幅狭く、馬車等用いがたき境場に候えども、今日開化進歩の折柄につき、 別紙図面の路程、試験のため馬車差し許し候・ :