日本人には創意工夫の精神がなかった」ということを認めざるをえないことになりそうだ。その日本 かな まっえい 人の末裔が私たちなのだから、なんとも哀しい話である。 しかし、待ってほしい。江戸時代には駕籠にしか乗らなかった人々も、明治維新後になると途端に 人力車に乗るようになったではないか。これは一体どういうことだろうか。人力車は明治維新直後の 明治二年に日本人によって発明されたのである。こういうと、「人間が引いて走る車なんて」と馬鹿 。人力車は一人で二人を運ぶこと にする人がいるかもしれないが、人力車を駕籠と比べてみるといし ができたが、駕籠なら一人を運ぶのにどうしても二人はいる。それまで四人でしていた仕事を一人で、 しかももっと早く快適に運ぶことができるようになったのだ。実際、人力車というのは、明治最初の 日本人の大発明だった。それは、日本全体に普及しただけでなく、遠く東南アジアにも輸出されるよ うになったのである。日本人は明治維新と共に突然変異して、駕籠の代わりに人力車を創造する能力 を獲得するようになったのだろうか。 もちろんそんなことはない。時代がその発明を生み出したのである。じつは、江戸時代にだって、 そういう工夫をする人がいなかったわけではない。 中井竹山の「別駕車」のこと じゅがく ちくざん たとえば、十八世紀後半の大坂に中井竹山 ( 一七三〇 5 一八〇四 ) という有名な儒学者がいたが かやしげ そう・は、つ . きげん つまり「草や茅の茂る民間にいて国政を厳 この人が一七八九 ( 寛政元 ) 年に書いた『草茅危言』 しく論ずる」という本には、「荷車に人を乗せて運ぶ車」の考案のことが出ている。
とは言えなかった。と言って、無くて済む存在でもなかった。武士も百姓も、金がなくて困るように なれば、そういう町人に金を借りるよりほかなかったからである。金がなくてにつちもさっちもいか ないときは、 ) しくら高利貸しでも仏のような存在に思える。しかし、その借金の返済を責められる番 になると、借金取りほど憎らしい存在はないように思えるのは、いまも昔も変わらない だから、江戸時代の改革を望んだ人々にはほとんど誰一人として、「資本を回転させる町人たちの としあき 時代の到来」を待ち望む人はいなかったと言っていいだろう。その例外中の例外は本多利明と二宮尊 徳の二人だけと言っていいだろう。 本多利明 ( 一七四三 5 一八二〇 ) という人は、二宮尊徳よりも四四年も前の生まれだが、先見の明 のある人だった。江戸時代には、武士が町人のような仕事をすることの重要性を指摘した人は彼以外 には一人もいなかったと言っていいだろう。江戸時代は〈武士の時代〉とは言え、その経済的な実権 は完全に町人たちの手に握られていたのである。そこで、政治的な実権を握っていた侍たちは、政治 がうまくいかないと、それを町人たちのせいにするだけで、〈武士の時代〉の次に〈町人たちの時代〉 がくるなどとはまったく考えてもみなかったのである。 二宮尊徳は、そういう時代にあって、百姓の側から、町人的な〈資本の論理〉の重要性に気付いた 人だった。しかし彼は、「金貸しというのは、ゝ しつの時代だって好かれる存在ではない」ということ話 も知っていた。そこで彼は、〈資本の論理〉と〈封建道徳の論理〉をうまく調和させる方法を考えだ したのである。 たとえばいま、誰かに一〇両の金を貸すとする。その場合、返済能力がない人にまで貸すと、借金
この車は、荷車を人を乗せるように改良したもので、車の上に座って乗るところが明治の人力車と は違う。しかし、人間を乗せる車には違いがない。 竹山のさらに立ち入った提案 さすが、町人都市大坂の儒学者だけのことはある。しかも、中井竹山の提案は、これだけでは終わ らない。 , 冫 彼よ、その提案をさらに具体化して、次のように書いている。 おおぶ 「また、私の考えでは、この車をもう少し大振りに造って、一輛三人掛かりにすれば馬三頭分 を積み、長持ちだって積むことができるようになる。ときには駕籠・乗物〔大名が乗るような はさみばこ 上等な駕籠〕など、中に人を乗せたままで積んで、前後に挟箱〔衣類を入れて棒を通して家 ぐそくひっ くつかご 来に持たせた箱〕・具足櫃〔甲胄を入れる箱〕・沓籠までも積むことができるだろう。旅人が 少し外見の悪いのを嫌がらなければ、人足六、七人の代わりにたった三人で済むようになるだ やど ろう。また、宿駕籠を取るはずのとき、この車一輛に四人乗るようにすれば、人足八人のとこ ろが、これも三人で済むわけである。なんと便利なことではないか。 のりがけうま また、婦女子などには〈乗掛馬 ( 図 2 ) 〉に乗るのを迷惑に思う者が多いし、駕籠人足では 費用がかかるのを嫌う人が多いから、もし宿々にこの車さえあれば、その車を好んで使う人が 多いことだろう。これもまた一つの便となるわけだ。長旅で幸い青天続き、川でも何の難儀も 無いというのに、道中の人足や馬が不足のために待たされて日を過ごし、退屈といい迷惑とい そのうえその旅費も余程違うことがあるから、それと比べれば〈外見が悪い〉ことくらい
人力車を発明した人々 いずみようすけ 人力車を発明したのは、和泉要助、鈴木徳治郎、高山幸吉の三人のグループである。和泉要助 ( 一 八二九 5 一九〇〇 ) は福岡藩士で、一八五一年に藩主に随行して江戸に来て、箔屋町に住み、一八五 六年には町役人ともなったという。そして、明治元年には「西河岸割烹店、松林亭半右衛門」の名義 で、三条公や皇居などの「賄御用」を勤めるようになったという。鈴木徳治郎はその野菜を納入して いた八百屋であった。だから、要助と徳治郎とはその仕事の関係から知りあったのである。 そのころ、要助は馬車を見て、「馬の代わりに人の引く車を作ったら便利だろう」と考えていたと いう。一方、徳治郎も辻駕籠かきの横暴さに反発して、「 駕籠は二人で担ぐから、共謀して悪いこと をするのだ」と考えて、一人引きの大八車に人を乗せることを考えたことがあったという。そこで、 二人は意気投合した。さいわい、要助は新政府の車担当の福島蔵人という役人のことを知っていたの で、二人はその人に出願の手続きを相談したところ、とても好意的だったという。 明治の新政府は幕府と違って、新しいことには好意的だったのである。そこで、人力車発明への道 が開けた。そのとき「実物試験を経て東京府に願い出るように」とのことだったので、二人は以前か ら知り合いの車大工の高山幸吉に話をもちかけ、明治二年七月から試作に入った。徳治郎が明治六年 十一月に記したという「人力車発明日記」には、このとき「三輪四輪等に仕上げ試みても運動思うに うま話 任せず、二輪車にて組み立て人を乗せ試みるに運動の自由十分に出来、益々本意のことに思い、午 第 ぶんかい 〔明治三〕年二月十五日、初めて通四丁目文魁堂老舗」の横に置いたという。すると、評判になって 「往来の邪魔になる」と苦情がでるほどだった。そこで、三人は、その営業願いを東京府に提出した。
難にした」と見たほうがいいのではあるまいか。 しかし、相馬藩の人口のこの十五年の減少はまだいいほうであった。その後この藩の人口は、一七 五〇年に六万九三六〇人、一七六六年には五万八三〇〇人、一七八三年には五万三二七六人と急激に 減少した。一七〇二年から一七八三年までの八十一年間に三万六一三九人、割合にして四〇パーセン トも減少したのである。人口がほば半減してしまったのである。これではまるで、今日の過疎の村の ようなものである。どうして、そんなにまで人口が減ったのか。それは、何回かの飢饉のせいもある だろう。しかし、それよりも、藩の領民たちの生活がすでにぎりぎりの生活状態にあったことが大き いのではなかろうか それなら、百姓の数が減ったらどうなるか。一人当たりの農地が増えることになって、生き残った 百姓の生活はかえって楽になることになっただろうか。 そんなことはありはしない。貧乏症な人はとかく「百姓がいても耕す土地がない」ということばか りを気にしがちだが、現代の〈人不足〉を経験している人たちは、「いくら土地があっても、その土 地に応ずるだけの百姓がいなければ、その土地を耕すことは出来なくなる」ことに気付くだろう。じ つは相馬藩の場合も、荒廃田が増えて、それが年貢収納量の減少となって現れることになったのであ る。前回にも見たように、一七一五年に一七・六万俵を記録したこの藩の年貢収納量は、一七八二年話 第 には九・七万俵にまで落ち込んだのである。 この藩の石高は、一六九八年の検地で一三万五九五四石となっていて、その後新しく検地しなおし てはいない。だから、この藩の年貢計算の基礎は、その後もずっとその一三・六万石を基準としてい
計算し、行方郡の人口に加えると、一八八七年の旧相馬藩領の人口は、ほば八万四五二四人だったこ とになる。 つまり、一八七〇年の五万七七三三人から一六年間に二万六七九一人増えたのである。これは、年 率で言うと二・四パ 1 セントほどの増大率ということになる。相馬藩の人口は、明治維新以後、特別 にその増大をはかろうとする藩が潰れたというのに、相馬藩がそれまでさんざん苦労してなし遂げた のよりもはるかに効果的に人口を増やすことに成功したのである ( 図 3 参照 ) 。 旧相馬藩領の人口増大はその後も続いた。『相馬市史 1 』の巻末年表によると、一九一三 ( 大正一 l) 年の相馬郡の人口が九万八八二七人とある。この「相馬郡」というのは、一八九六年に宇田郡と行方 郡が合併されて生まれた郡である。つまり、一八八七 ( 明治二〇 ) 年の宇田郡と行方郡の人口の合計 六万七四九八人が二七年間に三万一三二九人だけ増えたことになる。これは年率にして一・四パーセ ント増である。いま標葉郡の人口もこれと同じ割合で増えたとすると、旧相馬藩領の一九一三年現在 の人口は、八万四五二四人から一三万一二六〇人になったことになる。 じつは、明治以後人口が増えたのは、旧相馬藩領だけのことではない。その他の地域でも、日本全 国どこでも、明治維新以後人口が急増するようになったのである。明治維新という革命は、江戸時代 話 のどの藩も成しえなかった人口増大をなし遂げたのである。 どうしてそういうことになったのだろうか。その原因は、江戸時代にいくら侍たちが対策を立てて もなかなか人口が増大せずに減少ないし停滞を続けた原因と対照して考えると明らかであろう。百姓 たちは明治維新を明るい時代と感じたのである。これまでのように子どもを間引かなくて育てても、
前回は、明治三年に発明された人力車が、最初のうち少し抵抗があったとはいうのものの、その後、 あっという間に全国に普及したことを見た。人力車はどうしてそう急速に普及することが出来たのか というと、それは、新政府がそれを助けたからでもあった。しかし、江戸幕府は人力車のようなもの の発明や普及に力を貸さなかった。幕府は、「大八車その他の新しくて便利な運送道具の導入によっ て、馬方や船方、あるいは牛方の仕事が減って、それらの人々が生活難に陥って、幕府がそれらの 人々に期待していた仕事が出来なくなるのを心配していた」のだった。そう考えると、今度は「明治 政府にとってそんな心配すべき問題はなかったのか」ということが気になってくる。 人力車が発明される前、人を乗せて運ぶ仕事は、主として駕籠かきたちの仕事であった。そこでま ず、「人力車が利用されるようになったら、駕籠かきたちの仕事が減って、社会不安が起きないか」 ということが問題になる。駕籠は一人を運ぶのに少なくとも二人の人夫がいる。しかし、人力車なら 一人の車夫で一人ないし二人の客を運ぶことができる。だから、人力車のほうが運賃も安いし、客に 第 8 話江戸の辻駕籠と東京の人力車 駕籠かきたちの失業問題
前回は、「江戸時代には、なぜ人を乗せる車がなかったのか」という問題を取り上げた。じつは江 ちくざん じゅがく 戸時代の半ばにも、大坂の儒学者・中井竹山が人を乗せる車の使用を提案していたが、江戸時代には、 人を乗せる車どころか、荷車だって、その使用が抑圧され続けていたのである。 しかし、「江戸時代には、荷車だって、その使用が抑圧され続けた」などという話は信じ難いこと ではないだろうか。何しろ車は便利だ。そういう便利なものを全く知らない人ならともかく、一度車 の便利さを知った人なら、その使用を制限する政治などというものの存在は信じがたい。じつは、か く言う私も、そんなことを信じられなかった一人だった。 歴史の本には、江戸時代というと、やたら悲惨に書き過ぎるものが少なくない。そこで私は、お涙 頂戴の話には簡単に乗らないことにしてきた。 たとえば「江戸時代の百姓は自ら米を作りながら、自分たちはアワ・ヒ工ばかり食べていて、米は みな年貢に取られてほとんど口にすることが出来なかった」という話がある。この話など、日本人の 第 3 話大坂のべ力車と幕府の政策 31 第 3 話
になる。街道に荷車を通していいのなら、その車に人を乗せてもゝ 人を乗せる荷車ついに街道と江戸に出現 じっさい、街道に車の通行許可が出てすぐに、その車に人を乗せて通行することも始まったようで ある。 原胤昭氏は「人力車のたね」 ( 『明治文化研究』号、一九二八年 ) という文章の中で、一八六五 ( 慶 応元 ) 年八月までに、江戸本郷五丁目良七店の松兵衛という人が、町奉行所に提出した次の文書を紹 介している。すなわち、その松兵衛は、 「近来、御用につき道中筋通行の者多く、宿々の人足引き足り兼ね、雇賃銭格別の値にあいな り、旅人どもの難儀少なからず候につき〈駕籠の代わりに小車をつくり、旅人を乗せ往来致し 候宿々もこれあり〉候間、〈右にならい、御当地にても小車をつくり旅人ならびに荷物をのせ、 べんり 品川・板橋・四谷・千住の四宿の往来、そのほか等にもあい用い候わば弁利〉の儀と存じ奉り つかまっ 候あいだ、小車通行差し免しあいなるよう仕りたく、願い通り仰せつけ候わば、まず車五十輛 しつらえ のぞみ ほど製造いたし、日本橋あたりに置き場を補理、乗る人の望にまかせ市中通行、お差し免しあ いなり候よう仕りたく、右車の儀は、幅三尺長さ九尺余、高さ一尺七、八寸くらい、二人引き あやま にて、人を乗せ候節は三人まで、荷物に候えば百貫目ぐらいを限りにいたし、決して過ちなど みようが 無きよう仕るべく、且っ冥加のため車一輛につき一ヶ年金一両ずつ上納致すべく」 と願い出たという。 ゆる しいことになるからである。 やとい
和算の代表・関孝和はどの時代の人か ところで、江戸時代の数学Ⅱ和算の最高峰と言われるのは、関孝和であるが、その関孝和という人 は江戸時代のいつごろの人だったのだろうか。江戸時代も末のころの人だったのだろうか。それとも 一七二〇年以前の人だったのだろうか。 じつは、先の遺題継承系統図の中にも関孝和の名前が出てくる。だから彼が江戸時代前半の私のい う発展期に活動した人であることが分かるだろう。関孝和の確かな生年は分かっておらず、一六四二 年または一六三七年とされているが、その没年は一七〇八 ( 宝永五 ) 年のことと確定している。その 関孝和が和算を代表する人だということからも、「和算は江戸時代前半に発展し、後半には停滞した」 と = = ロっていいことになろう。 本当にそんなことを言ってしまっていいか。私は「そう言い切っていい」と思っている。それを裏 付ける研究結果が出ているからである。 江戸時代後半の円周率の謎 じつは、私の専門は科学史ではあっても、もともと物理学史が専門で、数学史が専門というわけで はない。しかし、江戸時代には物理学の専門書といったものはほとんどない。江戸時代の後半には蘭話 学Ⅱオランダの科学の摂取が始まるのだが、江戸時代前半期には蘭学の研究もないから、当時の人々 の物理学的な事柄に対する理解の仕方を知るために和算書に興味をもったのである。 私は日大農獣医学部の中村邦光さんと一緒に、はじめ江戸時代の和算書に出てくる物質の密度の表