いる。そこで、それらの文献によってその歴史 ~ ( 第を見ることにしよう。 人力車とは何か ところで、「人力車はいっ誰が発明したか」 ということを問題にするには、その前にまず 「人力車とは何か」をはっきりさせておくことが必要である。「車に他人を乗せて人間が引く」という てぐるま だけのことなら、昔からあった。古代にも「輦車」といって牛車を変形した車があった。図 2 は松平 よしゃ 定信が「輿車図考』のために描かせたものであるが、引き手も位の高い役人であったようだ。また、 江戸時代に中井竹山が発案した「別駕車」もべ力車に人と荷物を乗せて運ぶ車であった。その考案は なかなか実を結ばなかったが、幕末には、そういう車が街道筋を走るようになった。実際、明治維新 の前年の慶応三年に英国人ワーグマンが東海道で六人乗りの車に乗った話は前回に紹介した。漆畑弥 一氏の紹介した信州 ( 長野県 ) の百姓十人の一行の「参宮日記」にも、一八六八 ( 慶応四 ) 年の正月 ちりゅう に、東海道の岡崎↓池鯉鮒、鳴海↓宮、名古屋↓津島で車に乗ったことが出てくる。この人々は東海 道を駕籠や人力の乗り合い車に乗ったりして旅したのである。 こういう車も「人が引く車」という意味で、ときには「人力車」と呼ばれることがある。また、一 八四三年に京都の一一条城で、牛荷車の代わりに使われた荷車は「人力大八車」と呼ばれた。一八六八 ( 明治元 ) 年八月に旧幕府の徳川家が静岡に移ることになったときには、「人力車」で「市在運送の 83 第 7 話
えをを第 図 1 の錦絵は、歌川芳虎の描いた明治三年発 行の「車づくし」だが、この錦絵には、一頭立 、 ) ての異人馬車 / 一一頭立ての日本馬車 / 蒸気自動 車 / 自転車 / 大八車 / 手押し小車のほかに、人 に陣力車が何と一七輛も描かれている。明治三、四 一虎年の人力車はその形も千差万別だったから、絵 芳 にもなりやすかったのである。ここには、船も 描かれているが、中には大砲が出てくるものも 図ある。そういえば、外輪船の輪や大砲の台車も 車に違いない。 こういう絵を見ると、「ああ、 明治初年は〈車の時代〉だったんだなあ。明る い時代だったのだなあ」と思わせられる。 人力車の起源については、野口勝一「人力車 の発明」 ( 『風俗畫報』一八九六年 ) や、前述の 石井研堂の『明治事物起原』や、林若樹「人力 車と牛鍋」 ( 『日本及び日本人』一九一七年 ) に詳 しく、また斉藤俊彦『人力車』 ( 一九七九年 ) と いう専門書も出ていて、かなり詳しく分かって
を物い解 4 す 一を 京市の領域には、一万台近い辻駕籠があったかもし れない。 失業駕籠かきは全員、人力車夫になり得たか 原 吉明治初年、人力車が現れる前の東京の辻駕籠の数 が一万台だったとすると、駕籠かきの数はその二倍 、り の二万人ほどいたことになる。すると、その全部の 駕籠かきを人力車夫とするためには、少なくとも二 東万台の人力車の需要がなければ、人力車は駕籠かき 芳の失業を救えないことになる。それなら、明治期の 国 人力車はどのくらいの期間のうちにそれらの駕籠か 駕きの仕事を生み出すことができるようになったであ のろうか 戸 江じつは、明治初年にもこれと同じ計算をした人が あった。一八七一 ( 明治四 ) 年五月発行というから、 話 図 和泉要吉らが人力車の営業許可を受けてから一年余新 り後に創刊された『新聞雑誌』の第一号である。そ
も関係があったということになる。 明治五年二月の『新聞雑誌』二十九号には、 「当府下人力車の盛んなる、実に街道も塞がるばかりにて、製造方種々これある中、三輪形な る者もっとも流行せり。 ・ : 或人、戯れに一首の狂詩を賦せり。 もち 蒸気を須いず、馬を須いず。人力縦横、客を載せ行く 三輪繁盛、母衣を掛け、四手零落 : : : 」 とある。 初期の人力車は四本柱だったが、その後の人力車の普及とともに、その構造も急速に改善された ( 図 5 ) 。石井研堂は、明治三年の人力車は、 「みな直線式のもののみにて頗る児戯に類すれども、翌四年版の絵を見れば驚くべき進歩にし て、現今の車制の式を備え、四本柱なるはほとんど廃滅に帰したるを知る」 と書いている。 その後すぐ、秋葉大助というすぐれた人力車の製造業者が現れて、人力車にばねを付けたり泥除け を付けたりして改良を重ねた。そして、今でも観光地などに置かれているような形の人力車が完成す ることになったのである。 ふさ いろいろ 93 第 7 話
却って車に乗らざる者は恥ずかしきほどの景況に至れり」 と書いている。 それも東京だけのことではない。人力車は、それが発明されたその年のうちに大阪にも伝わった。 江戸時代には、一六五七年に江戸に出現した大八車が百年以上たっても大坂で利用されるようになら なかったのと比べると大きな違いであった。それで結局、大坂ではべ力車が使われるようになって、 かたき それもおかみの目の敵になったのであった。ところが、人力車の場合、それを大阪に持ち込んだのは そのおかみの大阪府であった。 『明治大正・大阪市史・法制篇』には、明治三 ( 一八七〇 ) 年十二月八日付の、 「近来〈人力車〉と唱え、往来有益の乗車もつばら流行いたし候あいだ、当府下にて開業い たしたき者は、別紙規則の趣あい守り候わば、願い出しだい差し許し遣わすべきものなり」 という文書が載っている。 布達の文章はいかにも江戸時代のものとそっくりだが、はじめてべ力車が問題になった安永三 ( 一 七七四 ) 年の布達が、「〈べか車〉と唱え、材木・石などを載せ運び候車、近年は増長いたし」という 文章で始まったのと比べると、この明治三年の文面の「近来〈人力車〉と唱え、往来有益の乗車もっ ばら流行し」とは、なんと好意的であろうか。 そう言えば、大阪府の翌年十一月十五日の布達には、 きようえき 「当府下は元来路幅狭く、馬車等用いがたき境場に候えども、今日開化進歩の折柄につき、 別紙図面の路程、試験のため馬車差し許し候・ :
0 0 00 & ー 000 よ 900 「気 00 、ヤを 0 を 00 は 0 4 義」を許すとされたが、その人力車というのは「人の引 考 図く荷車」と見たほうがいいだろう。しかし、明治期に大 嶼流行した大八車は、人を乗せる車であり、同じ人を乗せ る車でも、板車に座敷を敷いて乗せるのとは違っていた。 明治初期に出現した「大八車」は、椅子に腰掛けるよ 松 うになっていたのである。それ以前の車では座敷式なの ( 〔脣一 ) あで、少し早く走「たら乗り手がひ「くり返「てしま「た 車ことだろう。しかし、今度の人力車は椅子式なので、か 人なりのスピードが出せた。明治初期に出現した人力車が れ大流行できた理由は、スピードが出せたことに原因があ るが、それは椅子式の構造になったことによるのである。 でそこで、今後は「人力で動かす車のうち椅子式のものだ 噫け」を「人力車」と呼ぶことにしよう。 、つ椅子式の車がなぜ明治初期に出現したか、その理由は 輦かなり明白である。幕末の開港とともに日本に持ち込ま 代 , れた馬車が、明治初期になると、ますます人目につくよ 古ら うになった。そこで、日本でもそれを真似て、馬でなく 2 図 図付人の引く車を作るようになったのであろう。
こうさつば ころに車を置いて宣伝したいのだが」と頼んだ。そして、橋際の高札場下に人力車の乗り場を設けて、 人力車二台を置いて営業を開始した。しかし、新発明というものはどんなに便利なものであっても、 そう簡単に受け入れられるものではない。人力車の場合も例外ではなく、客は全然つかなかったとい う。そこで、親戚や家族の者を客に仕立てて、徳治郎自身が引いて廻ったりして、やっと客もついて ) わといつ。 さいわい、このころ要助と徳次郎とが作った引き札Ⅱ広告ビラが残っている。図 3 がそれで、人力 車の絵が描いてあって、全文総ルビつきのとても調子のいい文章が添えられている。そこで、その全 文をここに書き写しておこう。 御披露 御願済人力車 ばんか よのなか じようげ それくふう 万華開けし聖代に、高下貴賤の差別なく、夫から再へ工風を凝らし、有易を競うその中に あらた おりがら おこころ このたび新規に製造なし、御披露申す人力車は、諸事高価の節柄なれど、至って賃銭御意安く したく いっとき たちまち かっ怱に走りの早きは、即ち車の製作方便、急げば必ず一時五里、風雨を凌ぐ構もあり。そ おこころまか いささくるま ひとりび のうえ一男牽きなる故、聊か人車の震う事なく、ご安座なされて四方の風景、御意任せに見晴 うつき うつわ らせべければ、第一鬱気を散ぜしめ、車器は高きにあらざれば、たとえ老少女子たりとも、怪 あやま ひとたびこれめし 我過ちの憂いなし。必ず諸君試みに、一度人車乗召給わば、なお再々の思召しに、極めて叶い 申すになん。 呉服町樽新道 日本橋出張相模屋徳治良〔出島屋要助〕」 うれ こころ それ うえき 8 / 第 7 話
はしがき歴史と科学と 第一部車と乗り物の歴史 第 1 話乗り物の変遷は時代を逆に進んだ 2 第 2 話江戸時代には、なぜ人を乗せる車がなかったのか 第 3 話大坂のべ力車と幕府の政策 第 4 話大目に見られた江戸の大八車 第 5 話京都の車事情ーー石のレールの上を走った牛車 第 6 話街道に車が走るようになったのはいっからか ? 第 7 話人力車の発明 , ーー新しい時代は車で開けた田 第 8 話江戸の辻駕籠と東京の人力車ーー駕籠かきたちの失業問題 第 9 話車にとって明治維新とは何であったかーー・明治維新と荷車 第話ヨーロッパの車・乗り物事情との比較ーロンドンとパリにもあった〈駕籠〉 第話日本に馬車がなかったのは何故か川 第貶話貴族の乗った華やかな牛車と荷物運送用の車 第話現代の乗り物Ⅱ自動車の場合 142
前回は、日本の古代から現代までの代表的な乗り物の歴史、牛車↓乗馬↓駕籠↓人力車↓自動車を 概観して、その「理に合わない変遷」を考察した。その中でもとくに「遅れた乗り物」として気にな るのが、近世日本Ⅱ江戸時代の駕籠である。 日本にだって、古代から動物に引かせる車、牛車があったというのに、何でまた、江戸時代には、 そんな原始的な「一人の人間を乗せるのに二人以上もの人間が担ぐ」というような非人間的な乗り物 がもっとも代表的な乗り物だったのだろうか。前回は、その謎を一応、「牛車は道がよくないと走れ ないか、駕籠なら人間の歩けるところならどこへでも行ける」ということで解決した形にした。しか し、江戸時代の初めころはともかく、徳川三〇〇年の間には、道を整備して車を走らせることだって 出来てもよいはずではないか。それなのに、どうしてまた、江戸時代の大名たちは全国の道を整備し て、そこに車を走らせようとしなかったのだろうか。日本全国はともかく、江戸や京都や大坂などの 大都会の内部くらいは馬車や牛車、せめては人力車くらい走らせてもよかったはずではないだろうか。 第 2 話江戸時代には、なぜ人を乗せる車がなかったのか ぎっしゃ かっ
②江戸期に人の乗る車は便利すぎてご法度に。 ③幕府の権力維持に必要だったべ力車制限。 ④江戸復興に活躍した大八車は抑圧免れる。 ⑤牛車方の抵抗で幕末まで禁止された京都の荷車。 ⑥史上初の街道荷車は幕末迫る中仙道に登場。 ⑦明治の新時代が人力車を全国に急速に普及させた。 ⑧失業した駕籠かきたちは全員が人力車夫になりえた。・ ⑨日本人の生活も車事情も明治維新が一気に変えた。 ⑩荷車も自由に使えぬ社会で馬車が許されるはずはない。 ⑩華やかな牛車の前から牛の引く荷車はあった。 ⑩自動車工業急成長の軌跡が対数グラフで見えた。 ⑩舗装道路がない時代には、英米にも〈かご〉があった。 ⑩江戸時代前半の相馬藩は高度成長期だった。 ⑩一七二〇年が江戸経済の分水嶺となった。 ⑩年貢減収の原因を新仮説で推理する。 ⑩統計手法の導入で計画的な経済再建に成功。 ⑩人口の増減を決定する年貢ラインが存在。 ⑩二宮尊徳が資本の論理を導入した。 : 一九九一年二月号 : 一九九一年三月号 : 一九九一年四月号 : 一九九一年五月号 : 一九九一年六月号 : 一九九一年七月号 : 一九九一年八月号 : 一九九一年九月号 : 一九九一年十月号 : 一九九一年十一月号 : 一九九一年十二月号 : 一九九二年一月号 : 一九九二年二月号 : 一九九二年三月号 : 一九九二年四月号 : 一九九二年五月号 : 一九九二年六月号 : 一九九二年七月号