話を再び相馬藩に戻そう。そして、前回取り上げた相馬藩の年貢収納量が一七一五年以後、急速に 減少した理由を考察しておくことにする。 実は、吉宗が将軍の座についたころ、日本全国に散らばる天領Ⅱ幕府の直轄地からの年貢収納量は 停滞していたが、関東・東北の天領では、年貢収納量が年々減少しているところがあった。相馬藩の 場合もその一例だったのである。そこで、相馬藩の事例を調べておけば、幕府の政策のありかたも見 当っくと思うからである。 前回に示した相馬藩の年貢収納量の資料を見ると、この相馬藩の年貢収納量は、記録の残っている 一六五六年以後増えたり減ったりを繰り返しながらも、一七一五年までは着実に増大していた。その 間、たとえば一六六〇年、一六七四年、一六八〇 5 一年などには、年貢収納量がその前後の年よりも 二五パ 1 セント方減少している。これは、その年には天候不順だったためであろう。しかし、それ以 後一七一五年までは、二五パーセントも落ち込んでいる年はない。それなのに、相馬藩の年貢収納量 第炻話人口が減ると年貢収納量も減る
難にした」と見たほうがいいのではあるまいか。 しかし、相馬藩の人口のこの十五年の減少はまだいいほうであった。その後この藩の人口は、一七 五〇年に六万九三六〇人、一七六六年には五万八三〇〇人、一七八三年には五万三二七六人と急激に 減少した。一七〇二年から一七八三年までの八十一年間に三万六一三九人、割合にして四〇パーセン トも減少したのである。人口がほば半減してしまったのである。これではまるで、今日の過疎の村の ようなものである。どうして、そんなにまで人口が減ったのか。それは、何回かの飢饉のせいもある だろう。しかし、それよりも、藩の領民たちの生活がすでにぎりぎりの生活状態にあったことが大き いのではなかろうか それなら、百姓の数が減ったらどうなるか。一人当たりの農地が増えることになって、生き残った 百姓の生活はかえって楽になることになっただろうか。 そんなことはありはしない。貧乏症な人はとかく「百姓がいても耕す土地がない」ということばか りを気にしがちだが、現代の〈人不足〉を経験している人たちは、「いくら土地があっても、その土 地に応ずるだけの百姓がいなければ、その土地を耕すことは出来なくなる」ことに気付くだろう。じ つは相馬藩の場合も、荒廃田が増えて、それが年貢収納量の減少となって現れることになったのであ る。前回にも見たように、一七一五年に一七・六万俵を記録したこの藩の年貢収納量は、一七八二年話 第 には九・七万俵にまで落ち込んだのである。 この藩の石高は、一六九八年の検地で一三万五九五四石となっていて、その後新しく検地しなおし てはいない。だから、この藩の年貢計算の基礎は、その後もずっとその一三・六万石を基準としてい
題があるのかもしれない。人口統計の残っている時期についてみると、この時期の年貢は多くとも 一・七俵線ぐらいだったことが分かる。 ところが、一七〇三年に年貢が一・八俵の死活線を越えたとたんに人口が減り始める。多少は偶然 的な要素も効いているのだろうが、これは見事である。たしかに、「年貢が死活線を越えたから人口 が減り始めた」のである。その後、年貢が一・九俵線はおろか二俵線までも越えるようになると、人 ロの減少速度は一段と速くなる。この間、相馬藩では、百姓を殺してまで絞りとってきたのである。 考えてみれば「生かさぬように殺さぬように」という有名な言葉には、「殺さぬように」とも言われ ていたのに、それもしなかったのである。 そして天明の大飢饉を迎えて、人口が激減した。その人口は飢饉後ほんの少し回復しただけで、四 万人のラインで止まってしまうのである。相馬藩の武士たちは、百姓を絞り取ることも出来なくなる と、脅しもし頼みもしたことだろう。そしていろんな政策も試みた。しかし、それらの政策は実を結 ばなかった。しかし、一八二〇年ごろから事態が変化してきた。待望の人口が増えてきたのである。 どうして、このときから人口が増えはじめたのか。それまでの人口政策が実を結んだのか。そうで はあるまい このころはじめて、今村鉄三郎などの提言もあって、相馬藩は「人口を増やすには人口 に対する年貢の割合を減らすよりほかない」と認めるようになって、年貢を減らしたことだけが効い話 第 たのである。二つのグラフを対照すると、そういう結論になってくるではないか。 そして、今度は天保の大飢饉の年を迎える。前と同じような大飢饉だったのに、今度の飢饉では相 馬藩は餓死者を一人も出さなかったという。それでも人口がかなり減っているのは、飢饉のときには
全国の人口比 民 田開発 一年貢米—>l«—金納分 農民の食料 食料生産 以外の労働 農民分 年貢分 いも 麦 米 その他 にて照 まず人口が減った 主し参 領納を このような仮説が正しいとすると、 て代 , 特別な飢饉がなくとも、それまで新 貢金四 田開発に多くの金品を投じてきた藩 年た 得社ほど、その新田開発事業の縮小とと 4 ど仮 もに、人口が減少するようになって ばな ( ほ働 の労方も不思議でないことになる。 物のえ 比産外考 そこで、相馬藩の場合を見てみる 産生以方 生糧産見と、一七〇二年に八万九五〇五人だ 料食生の 食は糧史った人口 ( 武士を含む ) は一七一七 の姓食礰 年にはもう八万六五〇二人に減少し 著 全 乢ど倉ている。わずか十五年の間に三〇〇 流ほ板 環分は 三人、割合にして三・四パーセント の半く ほども減少しているのである。この 銭う詳 金の 十五年の間には年貢収納量が極端に とそた 料が保減少した年がないから、飢饉による 食た確い れをた減少は考えにくい。それよりも「新 1 ら糧れ 図取食さ田開発事業の縮小が百姓の生活を困 198
によるのであろう。じつは、一七二〇年以前には、日本の人口も増大し続けていたのに、それが停滞 ないし、減少しはじめたのである。もっとも、「人口が増えようが減ろうが、幕府の権力には関係な い」と思えば、幕府はそんな人口調査など始めなかったことだろう。しかし、吉宗政権の首脳陣は、 「人口が減れば年貢収納量が減る」ということに気付かざるを得なくなっていたに違いないのである。 じつは「一七二〇年ころ日本全国の人口が横這いになった」というのは、全国の平均について言え ることで、「ある地域ではまだ人口が増え続けていたのに、ある地域では人口が減りはじめていた」 と言ったほうが当たっているであろう。その〈人口が減った地域では、年貢収納量が減少している〉 ということが知られるようになったのではないだろうか。だから、年貢をとる立場に立つものにとっ ても、人口の増減は重大な問題にならざるをえなかったに違いないのである。 実際、吉宗政権の首脳陣は、人口の増減に切実な関心をもっていた。そこで幕府は一七三四年には さらに、〈過去八〇年間に所領の変化しなかった一〇万石以上の一〇藩〉に対して、「過去の人口調査 おばま / 浜藩だけは「過去の人口 の結果があれば、その結果を報告するように」と求めている。その結果、、 調査資料はない」と返答したが、その他の九藩はそれぞれ過去の人口調査の結果を報告した。そこで 我々は一七二〇年以前の人口の変動についても知ることができるのだが、その結果をグラフに描くと 図 2 となる。 話 このグラフによると、二本松藩で一七〇二年から三二年までの間に人口が減っているほかは、どの 藩とも人口が増えている。とくに徳島、鹿児島、岡山、盛岡 ( 一七〇三年まで ) 、津 ( 一六九〇年まで ) の五藩の人口増大率は、年率〇・四パーセントを超えている。これを見ても、「一七二〇年以前には人
口が増えていたのに、その後横這い状態になった」ということができるのである。 「人口の増大する社会」と「減少する社会」とでは著しく違うところがある。現代の日本は、まだ人 口が少しずつ増えてはいるが、町村によっては人口が減少しているところがある。そういう町村では なんとか人口の減少を抑えようとやっきになっている。人口が減りはじめると、これまでの社会活動 も維持できなくなるので、多くの人々がすぐに気付かざるを得ないのである。 じつは、江戸時代も一七二〇年ころまでの日本は、人口の急成長期であった。ところがその後、人 口が停滞するようになり、地域によっては依然として人口が増え続けたところがある半面、人口が減 る地域が出てきた。そこで、江戸時代も前半と後半とでは、同じ江戸時代とは言いながら、社会の様 子が大きく違うようになってきた。ところが、多くの人々は、江戸時代の前期も後期もごちゃまぜに して、「江戸時代とはこんな時代だった」などと論じたりしている。 そこで、「江戸時代の前期と後期とではなぜどのように違うのか」ということを、数量的に示して みよ , つ。 相馬藩の年貢収納量の変遷資料 とは言っても、江戸時代も前期になると、全国の人口統計もないし、その他の社会統計資料もとて も少なくなる。そこで「一七二〇年ごろまでの日本は急成長期だった」などといっても、なかなか納 得できない 。ところが私は、二宮尊徳に関する資料を調べていて、得難い統計資料を見つけることが できた。相馬藩の資料である。
すおう 中国・四国・九州地方の人口増加が著しい。その中でも、とくに長州藩のある周防、それに薩摩、土 ひぜん 佐の人口増大率は大きく、佐賀藩の肥前の人口の増大率も一割を超えている。 そこで、今度は同じ時期に人口の減った国を地図に描くと図 1 の⑤のようになる。これによると、 東北・関東地方と近畿地方では、江戸時代後半に人口がかなり減少していたことが確認できる。 しかし、歴史の二つの時点での人口の増減だけを見て物を言うのは危険なこともある。たとえば、 その二つの時点が、たまたま一方の地域に飢饉があった年だったりすると、偶然的な要素が大きく作 用して、とんでもない思い違いを犯す心配がある。そのような間違いを避けるためには、歴史の二点 間での人口の増減を見るだけでなく、江戸時代後半全体を通じての人口の変化をみることが大切であ る。そう考えて描いたのが、図 2 である。 このグラフは国別でなく地方別にしてあるが、四国・中国・九州・中部の地方では、江戸時代後半 にもほば順調に人口が増えていることが分かる。その半面、関東・東北地方と近畿地方では、人口の 低落傾向がはっきりしている。一七二一年と一八四六年が特別な年とは言えないのである。大まかに 言って、「日本の西における人口の増大と東における人口の減少傾向は一時的な現象ではない」と見 ていいのである。 江戸時代後半の薩摩藩と長州藩の人口の増大 それなら、江戸時代後半の人口の増大率と減少率がとくに著しい国は、どこの国だったのだろうか。 しもつけのくに まず減少率がもっとも高いのは、下野国 ( いまの栃木県 ) の三二パーセント減であった。二宮尊徳が さつま 286
みると、一七一五年までは毎年平均して九七〇俵ほどずつ ( 複利計算では、年率〇・六七パーセント ) 増 大していた。ところが、一七一五年以降は毎年平均一一八〇俵ほどずつ ( 年率〇・八九パーセント ) 減 少しているのである。つまり、一七 = 五年より前の年貢収納量の増大のテンポよりも、それ以後の減 少のテンボのほうが激しいのである。ふつう、増大期と減少期の間には停滞期といったものが見られ るものだが、相馬藩の年貢収納量の場合、停滞期らしいものも認め難い。強いて言えば、一七〇三年 から一七二九年ころが停滞期とも見ることが出来るだけである。 収入が減少を続ける社会というもの 「年貢収入が増減する」ということは、大名の収入、ひいてはその家臣たちの収入が増減するという ことである。相馬藩の場合、一七二〇年ころまでは藩の収入が増えて、侍たちの生活は豊かになった のであろう。しかし「一七二〇年ころ以後はじり貧で、その生活は厳しくなる一方だった」というこ とになる。藩の収入が半分近くに減ってしまったら、その家臣Ⅱ武士たちの生活はどうなるだろうか。 一度考えてみるといし 現代日本の私たちには、そんな状況を想像するのは困難である。定年にでもなれば収入が激減する ことは分かっているが、毎年毎年六〇年以上にわたって収入が減っていく生活が想像できるだろうか。 もっとも、これが相馬藩だけの特殊な事情だったとすると、そんな問題に深入りするまでもないだろ う。しかし、「江戸時代前半の高度成長と後半以後の衰退ないし停滞」という事情は何も相馬藩の特 殊事情とは言えないのである。そのことは、数量的な提示こそないが、多くの歴史教科書にも書かれ 182
このとき、相馬藩では飢饉前の一七八三年に五・三万人余だった人口が飢饉後の一七八六年には 三・六万人弱となり、人口が一気に一万七五〇〇人も減った。それならその後、相馬藩の年貢収納量 や人口はどのように推移することになったのだろうか。これにこりて、藩の再建計画が軌道にのって、 年貢収入や人口が回復することになったのだろうか。それとも、年貢収入は大飢饉以前の水準からさ らに減少することになったのだろうか。それとも、藩の再建は実現しなくとも、大飢饉直前の状態に まで復帰することは出来たのだろうか。 203 第 16 話
最初に農村再建を依頼された「桜町領」はこの下野国のなかにある。 一方、人口の増大率が六〇パーセントを超えているところが二つあるが、それは、周防 ( いまの山 さつま 口県の東部 ) の六六。 ーセント増、と薩摩 ( いまの鹿児島県の西部 ) の六二パーセント増である。なん と、明治維新のときに倒幕運動の中心になった長州藩と薩摩藩のあった国が、人口の増大率最大を示 しているのである。これは偶然のこととは考えられない。 そこで今度は、 おおすみ ①薩摩藩の支配した薩摩 + 大隅 ( いまの鹿児島県 ) ながと ②長川藩の支配した長門 + 周防 ( いまの山口県 ) いわしろ ③陸奥国 ( 明治一兀年、・岩代・陸前・陸中・陸奥に分割。福島・宮城・岩手・青森県 ) ④下野国 ( 栃木県 ) の四つの国だけをとって、江戸時代後半における人口の変化を描いてみたのが図 3 である。 陸奥国の人口は、一七八六年に最低になったあと少し回復しているが、一八四六年にはまた減って、 最初の年と比べると一八パーセント減となっている。下野国の場合は、一七五〇年以後の減少が激し くて、一八三四年に一時急激に減少したあと少し回復しているが、三二パーセントの減少である。こ れに対して薩摩藩の場合には、あとになると人口が停滞しているが、初期の増大が大きかったために 増大率は三〇パーセントに達している。長州藩の場合はほば一様に人口が増えて、なんと四七パ 1 セ ントも増大している。道理で、長州藩は幕末に幕府と互角の戦争も出来たわけである。 これを見ると、「明治維新というのは、〈江戸時代後半にも少しは経済成長を続けていた西南諸藩〉 288