蘭学の刺激によるか〈農具改良の思想〉の復活 もっとも、江戸時代後半にも〈便利なものの考案普及をよしとする思想〉がなかったわけではない。囲 じつは、一八一一一一 ( 文政五 ) 年には大蔵永常の『農具便利論』 ( 恒和出版の「江戸科学古典叢書④」に復 刻されているほか、農文協の「日本農書全集⑩」にも収録されている ) が出版された。便利な農具の使用 を説いた日本最初の専門書が刊行されたのである。これは「新規製造物禁止令」の枠を超えたものと いうことができるだろう。 その「総論」は、『百姓伝記』の農具論をそのまま引き写したような工夫の勧めから始まっている。 そして、新しい農具はあまり取り上げられていなくて、すでに長く普及していた稲扱などを詳しく扱 っているが、詳細な図解 ( 図 4 ) を付してとても分かりやすくなっている。 ところが、発明考案という面からすると、この本の巻下に「農具にはあらざれども」と断った上で、 くらく 工楽松右衛門 ( 一七四三 5 一八一 (l) の発明考案した〈石釣り船〉などさまざまな船の話が載せてあ り、その発明物語まで紹介してあるのは注目するに値する。しかし、この本のポンプの話のところに 「もとオランダ製に倣うものなれば」とあるように、この本はすでに発展した蘭学の影響下に書かれ たものであった。江戸時代後半にも、蘭学の発展とともに、新しい便利なものへの関心が高まってき て、新しい時代が開けてくるのである。
第二部数字で見る江戸時代 第話江戸時代を数量的に見るーーー江戸時代前半の相馬藩 0 第巧話将軍吉宗の〈新規製造物禁止令〉 9 ・ 第話人口が減ると年貢収納量も減る 第リ話相馬藩の再建ーー一一宮尊徳の出番 第話二宮尊徳と明治維新 第話「人口の増減を決定する年貢ライン」の発見 4 第囲話毛見法から定免法へ つみ 第話円周率の変化に見る日本の数学Ⅱ和算の発展 0 ・ 第話江戸時代の工夫・発明の話 つみ 第四話幕末における東と西 つみ 第話不思議な革命Ⅱ明治維新ーー明治維新は市民革命か否か あ一とかき 204 231 258 166 図版ヨシザワスタジオ
そして吉宗は、それとともに新田開発を奨励したのである。前回見た農業関係の土木工事の件数を 見ても分かるように、新田開発工事は一七一〇年ころから急激に落ち込んでいた。そこで、吉宗は新 田開発に期待をかけたのである。しかし、そのグラフを見ても、全国の土木工事の件数は一七二〇年 以後増大に転じてはいない。吉宗の新田開発政策は、ロでいうほど成功はしなかったのである。それ は、一七一〇年ころから落ち込んだ土木工事の件数を維持しただけであった。これはどういうことで あろうか じつは吉宗の時代には、当時の技術で新田開発のできる土地はほとんど開発され尽くしていたと言 っていいのである。そのことは、明治維新以後になっても「日本の農地面積はほとんど増えていな い」ということを見ても明らかである。それでも当時、「新田を開発したい」と申請する町人などが あった。しかし、多くの場合、既存の田畑に引いていた用水を新田に引き込んで、それで「新田を開 発した」と称し、新田への年貢の免除を申し出るものが少なくなかったという。そういう場合は、新 田の代わりに、既存の田畑が荒廃することになり、幕府の年貢収入はかえって減少することになった。 だから、吉宗は一七二〇 ( 享保五 ) 年五月一二日の指示でも、 でんぽ まぐさ 「新田開発するもよきことなれども、古き田畝〔田畑〕または秣の妨げとなる開墾なすべから と指示することを忘れなかった。 そして吉宗は、一方で〈弊害のない新田開発〉を奨励するとともに、抜本的な解決法として、これ まで通りの経済成長を維持・発展させることは無理と見て、「何とか現状維持をはかろう」と懸命にな 192
ることは出来ないわけである。 そうぼうきげん 井筒屋が「べ力車の独占製造権」の申請をしたのは一七八六年で、中井竹山が『草茅危言』 ( 一七 八九年稿 ) を書く三年前である。そして『草茅危言』が書かれた二年後の一八九一年に、町奉行は 「馬方・船方の仕事を減らさないようにしないと、べ力車の使用を禁止することもありうる」と脅した のである。こんな有り様では、「街道に人を乗せて運ぶ車を走らせて便利にしよう」などという中井 竹山の発想はまったく問題にされつこないではないか。 一六七八台に制限された大坂のべ力車 それでは、その後の大坂ではべ力車の使用問題はどのように発展したのだろうか。 もちろん、大坂の町奉行所はその後もなんだかんだと言って、べ力車の使用を制限する通達を出し た。たとえば、一八〇四 ( 文化元 ) 年十月十四日の触れでは、「べ力車の大小を問わず、一輛の積み 荷を、竹・木・瓦のほかは三〇貫目に制限する」とした上、「通行人に衝突負傷事故のないように」と いう理由を付して、「車が小さくとも一人でひいてはならない。必ず二人でひくこと」と定めた。ま た、「馬付けの荷物を車で運送してはならない」と通達し、「車には必ず持ち主の住所氏名を記入すべ ごう し」と決めた。そして、「今回大坂三郷のべ力車の台数調査をしたところ、その総計は一六七八輛で、 これを見ると、べ力車がなければ運送に 六二〇町のうち二〇〇町余は全くべ力車を所有していない。 差し支えるとは言い難い。今後少しずつ車の数を減らすべし」と指示している。 そして、一八二四 ( 文政七 ) 年十一月には、ついにべ力車の数を一八〇七年調査の一六七八台に制 りよう おど
江戸時代最大の科学的業績Ⅱ和算はいっ発展したか ? それでは、日本でそのような数学が急速に発達したのはいつごろのことだったのだろうか。私の江 戸時代二分法を元にすると、それは江戸時代前半つまり一七二〇年以前だったのだろうか。それとも 江戸時代後半だろうか。 日本ではじめて数学書が刊行されるようになったのは、江戸時代になってからのことである。刊行 しげよし わりざん 年のはっきりしている現存の数学書というと、元和八 ( 一六二一 l) 年に刊行された毛利重能の「割算 この本は書 書』ということになる。もっとも、「割算書』というのはこの本の正式な書名ではない。 名を欠いているのだが、後世の人びとがその内容からして『割算書』と呼びならわすようになっただ けのことである。 「『割算書』と呼ぶのにふさわしい数学書」といったら、その内容にあまり高度のものを期待するの は困難だが、これが当時の最高水準の数学書だった。そのことはその本の巻末に「割算の天下一と号 する者なり」とあるのでも察することができる。それに、その後の日本の和算家たちの多くは、この 本の著者毛利重能の門弟から出ているのである。つまり和算は、一六一三年に「割算の天下一と号す る者なり」と宣言した毛利重能の段階から、その後急速に発展してきたのである。 それなら、江戸時代の数学Ⅱ和算の発展のテンポを見るには、何に目をつけたらいいだろうか。こ話 れにはいろいろの指標がありうるだろうが、私は「円周率の値の改善を見るのが一番いい」と思う。 円周率という数字は、割り算のように日常的に切実な数学とは言えない。しかし、円の面積を計算す るときにも出てくるから、どうでもいい数というわナこまゝゝ 。。冫し力ない。円の面積を計算するときに、円 しょ
これまでの話は、結局のところ、「江戸時代といっても前半と後半とではまったく違っていて、前 半は人口も生産力も急速に発展したが、後半は人口も生産力も停滞していた」ということだった。江 戸時代というのは、「徳川氏の支配した江戸幕府の時代」という意味で名付けられたものだが、「支配 者が同じなら、その時代が発展的な社会だったか停滞的な社会だったか」という特徴も一つに決まっ てよさそうにも思えるが、そうではなかったのである。江戸時代という時代は、それを一つの時代と 括るには少し長すぎて、前半と後半とではまったく違う側面があることを見逃してはいけなかったの である。 しかし、その一方で私の示した資料をみても、相馬藩の人口は江戸時代後半に停滞どころか、大き話 く落ち込んでいた。他の東北諸藩や北関東の諸藩でもそうだった ( 第話の図 4 ) 。 とい一つことは、 裏を返せば「東北や北関東以外では、江戸時代後半にも人口の増大していた地域があった」というこ とにならないか。 第四話幕末における東と西
が〈江戸時代後半に人口が減少した関東・東北勢〉を圧倒して起こした革命」と見ることもできるこ とになる。「西南諸藩は長崎に近くて海外の情報を得るのに有利だったから、いち早く優勢な軍事力 を確保したために勝っことが出来たのだ」というだけのことではないのである。 江戸時代のように、主な産業が農業である場合、人口が増えるということは農業生産、つまり生産 が伸びていたということになる。それまでバランスのとれていた社会のうち、一方の地方の生産が伸 びて他の地方の生産が衰退したら、何かのきっかけが元になってその二つの地方のバランスが崩れて 当然である。その二つの地方が戦争すれば、生産力が発展したほうが勝利するのが当たり前というも のである。 江戸時代の藩はどこもみな財政困難だったと言われる。しかし、財政困難と言っても程度の問題が ある。生産力が発展して人口が増えている藩のほうが、新しい時代に応ずるだけの力があって、それ だけ新軍備を備えることができたであろう。明治維新の西南諸藩と佐幕勢力との戦いは、このように 見ることもできるのである。 歴史を数量的に見ていくと、こんなことまで浮かび上がってくるのは驚くべきことと言っていいだ ろう。 虚偽の人口届けの影響 ところで、これまでの議論は、江戸時代に各藩が六年ごとに幕府に届け出た人口数がそれなりに正 しいものであることを前提にしている。しかし、その前提は必ずしも正しいとは言い難い。たとえば 290
江戸時代後半の地域別人口の変化の予想 結果をお知らせする前に、読者の皆さんに、予想を立てていただくことにしよう。 西南諸藩の代表、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩の人口は、 ア、みな一割以上増えている。 イ、むしろ減っている。 ウ、藩によってさまざま。 のどれが正しいことになるだろうか。 私がこんな問題を出したところ友人の一人はこう言った。 「明治維新をリードした薩長土肥の 諸藩の所在地、鹿児島・山口・高知・佐賀の諸県を見ると、明治維新後その経済・文化が特別発展し たようには思えない。むしろ、他の府県よりも遅れているように見える。そのことからみると、それ らの諸国では江戸時代後半にも経済が発展しなかったのではないか」と言うのである。もっともな考 え方である。もしそのような考えが正しいとすると、東北・関東の人口の減少をカバーしたのは、近 畿や中部地方ということになるのだろうか。 東西の違いは明らか さて、図 1 の⑧を見てほしい。このグラフは、前述の『近世日本の人口構造』によって、江戸時代 の後半一七二一年とくらべて一八四六年の人口が増えた国を図示したものである。一見して、日本の 西のほうで人口が増加していることが明らかである。中部地方も少し人口が増大しているが、とくに 284
てんまちょう 伝馬町に大八車に極印をおさせてその手数料を取らせたときのデータがある。また、明治以後はすべ ての車に課税されたから、車の統計が残っている。問題になるのは江戸時代後半の大八車の数である。 まず、江戸時代の江戸の大八車の数は一七〇一年に伝馬町で極印課税した台数が一三三九台であっ た。その台数の中には、武家のものは入っていないから、江戸には当時およそ三千台あったと考えて よかろ , つ。 ところで、これまでの江戸時代史の本にははっきりと書かれていないが、江戸時代というのは、一 七二〇年ごろを境として前半と後半とではまるで違う。前半期には、産業・経済が発展して人口も増 大を続けた。ところが、後半期にはいると、経済の発展がとまり人口も横這いになって、活気がなく なった。停滞の時代に入ったのである。本書でも、第二部でそのことを詳しく検討することになるが、 いまは私のその結論だけを一つの仮説として受け取っておいてほしい。その仮説によると、大八車が 江戸に出現した一六五七年は経済成長期だったわけで、一七〇一年に二千台あまりだった大八車の数 も、一七二〇年ころまでは増大を続けても不思議ではない。 江戸時代後半の大八車数の推定 じっさい、伝馬町が一七二七年に幕府に「馬方が難儀するから、大八車の数を千輛に制限してほし い」と訴えたとき、 はいかい 「ただいま徘徊つかまつり候大八車およそ三、四千輛ほどもご座あるべきように存じ奉り候」 と見積もっていた。じつは、伝馬町ではそれまで、 ごくいん 106
江戸時代後半が停滞社会であったことは、「日本全国の人口が江戸時代後半に停滞していた」とい う事実によってもっとも有力に裏付けられる。だから、「全国の人口が停滞していて、東北・北関東の 人口が減っている」ということになれば、他の地域の人口は江戸時代後半にも増大していたことにな るからである。 その「他の地域」というのが日本の西南部だったとしたらどうだろう。これは、幕末の日本史を見 る上で重要な意味をもっことになってくる。もしも、「全体的に見れば停滞社会ともいえる江戸時代 後半にも、西南諸藩だけは多少なりとも発展していた」とすれば、「その〈発展していた西南諸藩〉 が〈衰退していた東北関東勢〉を打ち破って新しい時代を切り開いた」ということになる。そうなれ ば、明治維新のとき西南諸藩が勝利したのは偶然ではなかったことになる。本当に、そんなうまい話 があるのだろうか。 そこで、今回は江戸時代後半の東と西の違いに焦点を当てて、数量的にみることにしよう。 幕府の人口調査の研究成果 そこでまず問題になるのは、江戸時代後半に停滞していた人口も、日本を東と西に分けてみたら、 「一方の人口が減少し、他方の人口が増大している」というような事実が発見されるかどうかである。 そこでまず、江戸時代に行われた幕府の全国人口調査のデータを見ることにしよう。 江戸時代の全国人口調査は一七二一 ( 享保六 ) 年に始まり、一七二六年以後は各藩で六年ごとに調 査して幕府に届け出することになっていた。しかし、第凵話にも書いたように、現在そのすべての調 282