これまで、「相馬藩の年貢収納量の変遷」という一つの資料を小出しにしてきて、これで三回目に なる。こうして一つの資料をケチケチと分断して載せてきたのは、なにも「紙面が小さすぎて載せき れない」という事情によるのではない。途中までのデータを元にして、読者の方々にも、その後のこ とを予想して欲しかったのである。 はじめから全体のグラフを示してしまうと、どうしてもグラフの読みが浅くなってしまう。与えら れたグラフを解釈するだけだと、「どうとも言える」、あるいは「何とも言えない」ということになっ てしまって、面白くないと思うからだ。 じつは、こういうグラフというものは、自分で描くのが一番いいのである。はじめて自分で描くと きは、グラフの全体がどうなるか分かっていない。グラフを描くのには時間もかかる。そこで、グラ フを描きながら、ひとりでに予想を立てながら描くことになる。はじめ上昇していたカープが下降に 転ずると、「一体どこまで落ちるのか」と心配になる。そして、グラフの変動をどきどきはらはらし 第話相馬藩の再建 ーー一一宮尊徳の出番ーーー 204
数量的に調べることは困難なことが予想された。ところが、少し調べてみたら結構いろんなことが分 かってきて、面白くなってきた。最近は、日本でも「英国の庶民生活史の本」などもいろいろ出版さ れるようになって、昔の車や乗り物の歴史についてもかなりの情報が得られるようになってきたから でもある。 中でも、まず私を驚かせ喜ばせてくれたのは、ロンドンやパリにも〈駕籠〉があったことが明確に なってきたことだった。日本人はとかく「駕籠は日本特有のもの」と思いがちである。江戸時代の日 本にきた外国人も駕籠を日本特有のものと考えて珍しがったこともあるから、「駕籠は日本特有のも の」と考えたのは日本人だけの誤りとも言えない。しかし、その駕籠がヨーロッパにあったとすれば、 駕籠とヨ 1 ロッパに対する見方の変化を呼び起こさないわけにはいかないだろう。そこで今回は、最 近私が調べて知った英国中心の車と乗り物の歴史を見て、同じ時代の日本の事情と対比させていただ くことにする。こういう「比較」という観点も、文系の歴史にはあまり見られない「理系の目」の特 長ともいえるだろう。 ロンドンにあった椅子かご もっとも、「ヨ 1 ロッパにも〈駕籠〉のようなものがあった」ということだけなら、私も以前から話 知っていた。しかし私は、「〈椅子駕籠〉と呼ばれるその駕籠は、ごく一時期にごく限られた場所だ けにあったのではないか」と思っていた。「探せば西洋人だって〈駕籠〉のようなものを使っていた 9 ことがある」という話で終わるのだと思っていた。じっさい、日本人の書いた乗り物の歴史の本には、
加茂儀一の地勢、気候などなど説 この問題の解決は容易なことではない。そのことは加茂さん自身がよく知っていたことであった。 そこで、加茂さんはさらにいう。 「しかも日本では馬の利用が明白になっている歴史時代のはじめころに、すでに馬は乗用とし て使われている。しかもその利用は日本において独自に発達したものではなく、大陸からの影 響によることは確かである。そして当時の大陸諸国においては馬は乗用と輓用と二つの点で利 用されていた。すなわち日本人はその当初において馬を輓用にすることを知らなかったのでは ない。少なくともそれを聞知していたのである。それにもかかわらず日本では乗用としての馬 の利用だけを取り入れたのである。しかもそれだけではなく、その後明治時代の初期までその 乗用の伝統を固守しつづけて来たのである。その原因は何にあったか」 と言うのである。 この原因について加茂さんは、さきに引用した序文のすぐあと、 「日本の地勢、気候、本来の騎乗をはじめて伝えたと思われる人種、日本人が使ってきた馬の 種類、日本人の性格などがその要因として考えられるが、 と書いている。しかし、それ以上に明快な説明を与えてはいない。加茂さんは、その解明をすること なく、亡くなったのである。 136
稲をこくに〈こき箸〉というものを用う。是は昔の習わしにて、いまはみな〈いなこき〉と しゅう し力に」と問 , つに、「われ 言える具をもて便利に従うに、このおのこ〔男〕衆に異なれば、「 ) ゝ 〈いなこき〉なし。人の物を借りてつかえば、損じてあしし」と答う。 という話が出てくるのである。これを見ると、この本が出たころには、農家はみな〈こき箸〉をやめ て〈稲こき〉を使うのが全く当たり則になっていたことが分かる。 ところが伴蒿蹊は、その話の部分に注を加えて、 ちな 因みにいう。昔はみな〈こきばし〉を用い、所作なき老寡婦など、是を〈こく〉に雇われて 口を糊せしに、〈いなこき〉と言えるもの出きて便利につけば、かく悲しき〈やもめのうれい〉 しようけい となりぬるゆえ、〈いなこき〉をあだ名して〈ごけだおし〉とも言えるとぞ。世のこと捷径に よれば、皆ついえあることかくのごとし。 と書いている。 〈後家倒し〉という言葉は、西鶴の『日本永代蔵』にも『和漢三才図会』にも出てきた。しかし、 そのときの〈後家倒し〉という言葉の使われ方をみると、それがその発明考案に対する批判的な意味 むしろ、その発明考案の素晴らしさを褒めたたえるのに、冗談めかし を込めていたとは思いにくい。 きじん てそう呼んだと見るのが自然だろう。ところが、この『近世畸人伝』の「世のこと捷径〔速く、便話 利〕になれば、皆ついえあることかくのごとし」という表現の中には、明らかに発明考案一般に対す る否定的な考えが出ている。それは、この本が吉宗の「新規製造物禁止令」以後の一七九〇年に出版〃 されたことと無縁ではないだろう。
れを分かりやすく示してくれるからである。 不思議な「進歩」の歴史 しかし、である。 「牛車↓乗馬↓駕籠↓人力車↓自動車」 という変遷を、「日本の代表的な乗り物の進歩の過程」と見てみると、すごく不自然なところがある のが気にならないだろうか。 「牛車から乗馬へ」というのは進歩なのだろうか。 「乗馬から駕籠へ」というのも進歩と言えるだろうか。 「駕籠から人力車へ」というのは、確かに進歩とも言える。しかし、日本の古代にすでに「牛車Ⅱ動 物の引く車」があったことを思いおこすと、「いまさら人間の引く車なんて、何という後戻りか」と 思わざるをえないことだろう。 こんなことを言うと、歴史を弁護する人もあるだろう。「牛車が古代の代表的な乗り物だったなど といっても、そんなものに乗れたのはごく一部の貴族だけで、一般の人は乗れなかった。だからそん なものを比較するのはおかしい」というのである。 たしかにそういう面もありうる。しかし、ここでは、大昔の権力者ー大金持ちの乗り物と、後の 時代の貧乏人の乗り物とを比較しているのではない。それぞれの時代の権力者たちの乗り物を比較し ていることを忘れては困る。
それにしても、「中国のものなら何でも取り入れた」とも思えるような古代日本の政府が、こと馬 車に関しては、まったく摂取しなかったということは注目すべきこととは言えないだろうか。 141 第 11 話
て「下級武士たちの起こした革命」というほかない。そういうと、「それでは市民革命とは言えない ではないか」という声がかかってきそうである。ふつうの歴史家たちは、「その革命が市民革命かど うかは、革命の主体Ⅱ担い手、革命のスローガンを見て決めるのが本当だ」と考えているからである。 たしかに、フランス大革命などをみると、「自由・平等・博愛」というそのスロ 1 ガンは恰好いし し、実際に中産階級が中心になって革命を推進したらしい。しかし、フランス革命を始めとする欧米 の市民革命のように、「その革命の担い手が中産階級であったり、そのスローガンが中産階級特有の ものであったりしなければ、その革命は市民革命とは言えない」などと、かたくなに考える必要がど こにあ - ろ一つ。 科学でも革命でも、動機より結果が大切 私は学生のころから、「〈自由・平等・博愛〉をスロ 1 ガンとして戦われたはずのフランス大革命が、 その後のナポレオン時代を経て、再び王制になったとき、そのスローガンはどうなったのか」といぶ かしく思ってきた。私には、「革命にとって大事なのは、スローガンではなくて、その結果だ」と思 えてならないのに、歴史の本にはその結果については何も書いてないように思えてならなかったから である。 しかし、明治維新の結果は私たちにも分かる。その結果、まがりなりにも、四民平等が実現し、職 業と移住の自由が完全に実現した。そういう結果からすると、「明治維新は市民革命と呼んでもいし 5 のではないか」と私は考えるのである。今日の日本までの間には、敗戦後の民主化の時代があるが、
とは言えなかった。と言って、無くて済む存在でもなかった。武士も百姓も、金がなくて困るように なれば、そういう町人に金を借りるよりほかなかったからである。金がなくてにつちもさっちもいか ないときは、 ) しくら高利貸しでも仏のような存在に思える。しかし、その借金の返済を責められる番 になると、借金取りほど憎らしい存在はないように思えるのは、いまも昔も変わらない だから、江戸時代の改革を望んだ人々にはほとんど誰一人として、「資本を回転させる町人たちの としあき 時代の到来」を待ち望む人はいなかったと言っていいだろう。その例外中の例外は本多利明と二宮尊 徳の二人だけと言っていいだろう。 本多利明 ( 一七四三 5 一八二〇 ) という人は、二宮尊徳よりも四四年も前の生まれだが、先見の明 のある人だった。江戸時代には、武士が町人のような仕事をすることの重要性を指摘した人は彼以外 には一人もいなかったと言っていいだろう。江戸時代は〈武士の時代〉とは言え、その経済的な実権 は完全に町人たちの手に握られていたのである。そこで、政治的な実権を握っていた侍たちは、政治 がうまくいかないと、それを町人たちのせいにするだけで、〈武士の時代〉の次に〈町人たちの時代〉 がくるなどとはまったく考えてもみなかったのである。 二宮尊徳は、そういう時代にあって、百姓の側から、町人的な〈資本の論理〉の重要性に気付いた 人だった。しかし彼は、「金貸しというのは、ゝ しつの時代だって好かれる存在ではない」ということ話 も知っていた。そこで彼は、〈資本の論理〉と〈封建道徳の論理〉をうまく調和させる方法を考えだ したのである。 たとえばいま、誰かに一〇両の金を貸すとする。その場合、返済能力がない人にまで貸すと、借金
大名や武士の石高Ⅱ収入も先祖の功労によって決まっていたのだ。そういう社会では、その発展期に 功績のあった大八車は抑圧するわけにはいかず、容認するほかないとも言えるし、江戸時代後期に現 れたべ力車は規制の対象になってもおかしくないことになるであろう。 江戸時代とはそういう時代だったのだ。この問題は、次に京都の車事情を取り上げて以後、改めて 問題にすることにしょ , つ。 55 第 4 話
たとえば、一六九五 ( 元禄八 ) 年十一月には、「大八車にあまり大量の荷物を積んで、荷崩れを起 こして人に怪我をさせないようにせよ」という禁令が出ている。これは、当時の〈生類憐みの令〉に も関係してとくに問題になったとも思われるのだが、大岡越前守忠相が一七一七 ( 享保一 l) 年一月に 江戸町奉行になる前の年の四月には、町奉行所は、殺人の意図のない交通事故による過失事故に対し ても罪を問う方針を明示している。 「車を引き馬を追い、重き物を持ち候者ども、馬・車を引っ 掛けて持ち物を取り落とし、または船に人を乗せて船がひっくりかえって人を殺したというようなこ あやま とは、過ちより生じたことで故意の殺人とは違う。だから、これまでは罪に問われなかったが、近ご ろこれらの事件がたびたび起きている。これは、下賤の者どもがその慎みがないためだと見える。そ るざい こで、〈罪がない〉とも言えない。 これからは、たとえ過って人を殺したときでも流罪にしたり、そ れ以上の罪に問うことにする」というのである。 じっさい、一七二八年には、大八車によるそのような事件が起きて、十五歳の男の子をひき殺した 車力の一人が殺人罪に問われて死罪、もう一人は流罪になった。大八車の車力の中にはわざと危険な ことをして、その技量を競いあうこともあったという。これもそれも、江戸の大八車が基本的に幕府 から抑圧されなかったためと見ていいであろう。 それにしても、江戸の大八車は大坂のべ力車のように厳しく規制されることがなかったのは何故だ ろうか。同じ幕府の政策なのに、どうしてそう違ったのだろうか。 しかしじつは「幕府の方針は江戸と大坂とで一貫していなかった」とも言えないのである。一言で いうと、江戸時代というのは極端に既得権益を尊重することによって成り立っていた社会であった。 つつし