に、前のグラフに重ねてグラフを描いてみたら、一七六一年ころまでは一致するのに、それ以後は大 きく食い違っている。その新しいグラフには、前に気にしていた一八一八年の落ち込みがない。それ に、新しいグラフのほうが、年貢収納量の推移とよくあっていた。そこで、まずそのグラフを訂正す ることにしたのである。 ただ、新しいグラフにも、一つだけ気になることがあった。最後の一八七〇 ( 明治一一 I) 年の人口だ けは、年貢収納量の変化に応じて増大していないことである。ところが、その後『相馬藩政史』を詳 しく調べてみたら、何とその本文の中では、一八七〇年の相馬藩の人口が一・四万人も多くなってい るではないか。私は自分の気になっている問題が解けて嬉しかったが、何回もデータを訂正するのは 気がとがめる。そんなことをしていると、「数ある資料の中から自分の所説に都合のいいデータばか りを探し求めているのではないか」と勘ぐられても仕方がない。そこで私は「この際、相馬藩の人口 資料を徹底的に調べなおしてみよう」と思ったのである。 三種類もあった相馬藩の人口資料 相馬藩の人口を記載してある文献として私が手にしえたのは、上述の二つの資料のほかに、「相馬 おくそうし 藩御経済略記』『奥相志』『相馬市史 1 』がある。『御経済略記』と『奥相志』は幕末から明治初年に話 相馬藩士の手でまとめられたもので、『福島県史 9 』と『相馬市史 4 』に活字になっている。『相馬市 なかむら 史 1 』の巻末年表には、その他『中邑世紀秘説』、只野清稿『相馬史料草稿』にある人口のデータも 3 出典名付きで示してある ( あとで相馬市を訪ねてはじめて知ったことだが、この二つの史料は活字に
しかし、こんなことを言うと、「それは資本主義社会での話だ。そんな常識を江戸時代にまで当て はめるのはおかしい」という人もいるだろう。それはそうだ。ふつう「江戸時代というのは停滞社会 だ」と言われていて、「明治以後とはまったく違う」とも考えられている。「資本主義社会では〈経済 しいかもしれないが、それを江戸時 というものは時とともに大なり小なり発展するもの〉と考えてもゝ 代にも当てはめるのは間違っている」というわけである。 しかし、それなら、一七二〇年までの相馬藩の年貢収入はどうだ。かなりの高成長を続けていたで はないか。その資料を元にする限りでは、「江戸時代は停滞社会」という常識は間違っていることに ならないか。そう考えると、「相馬藩の経済は、その後成長が鈍化したとしても、やはり成長してい ると考えるのが常識的な線ではないか」ということにもなるだろう。いや、「その相馬藩はその後藩 政が行き詰まって、ついには二宮尊徳に助けを求めた」ということから考えてみると、「相馬藩の経 済は、江戸時代前半は別として衰退ないし停滞していたのだろう」という見方もできる。 さて、どうだろうか。ここで一つあなたの予想をまとめておいてから、次回の話に読みすすむよう にしてほしい。 179 第 14 話
史が構築できることになる。 それなら、どんな数量に目をつけるか。「広い地域をおおう長い時代にわたる数量の変化が見られ るものなら、なんでも ) しい」というのが、いまの私の結論である。最初のうち私は、「金山や銅山の 採掘量などは、鉱脈の発見などの偶然的な要因の入る余地が大きすぎる」と考えていた。ところが、 そういう数量でも、長期にわたる統計資料が入手できれば、長期にわたる社会の変化を見るのにとて も役立っことを発見した。あるとき私は、ドイツにおける全大学の学生数の長期統計を手にして、そ の学生数の変動がドイツの歴史の変化をとてもよく反映していることを見て驚いて、そのグラフを発 表したこともある ( 『たのしい授業』一九八九年九月号 ) 。 江戸時代の全国人口統計調査 それなら、日本史の中で、長期にわたる統計資料といったものには、どんな資料があるだろうか。 日本全国の資料となると、私はいまのところ、江戸時代後半以後の人口調査の結果しか知らない。 七二一 ( 享保六 ) 年のこと、八代将軍吉宗は日本全国の人口調査を命じ、一七二〇年を起点として六 年ごとに日本全国の人口調査が行われるようになった。そこで、江戸時代の後半については、日本全 国の人口の増減が分かるのである ( 図 1 ) 。これは貴重な長期統計資料である。私の〈科学の目から 見た日本史再発見〉の研究は、じつはその長期人口統計資料を元にして日本史を概観することから始 まったのであった。 ところで、江戸幕府による日本全国の人口調査資料は当時公開されたものではなかった。そこで、 168
私はこれまで寡聞にして、そ 市の相馬藩の資料をフルに活用し 相た研究をみたことがない。そこ 在で、これからしばらく、相馬藩 の資料を手掛かりに、江戸時代 中の前半と後半の違いに焦点をあ 部てることにする。 相馬藩というのは、いまの福 国島県の東北、海岸沿いの相馬市 藩に城を構えていた藩である ( 図 相 3 ) 。江戸時代の大名の経済力 こくだか を表示するには「石高」という 単位を使うが、相馬藩の石高は 六万石で、中規模の藩といえる。この相馬藩の貴重な経済資料が残されたのは、この藩から農村再建 を依頼された二宮尊徳が、その事業を引き受ける条件として、「過去できるだけ長期にわたる年貢収 納量の変遷を示す資料」の提出を求めたからであった。そのとき相馬藩では、一六五六 ( 明暦一 l) 年 から一八四二 ( 天保一三 ) 年までの年貢収納量の資料をまとめて提出したのである。年貢収納量の資 料と言えば、幕府天領の年貢収納量の変遷を示す資料が知られているが、それとて一七一六 ( 享保 松川浦 鹿島 原町 ( 太田 中村 ( 多郷一牛越 北一中 山上 太平洋 . ノ・窪 大倉 東玉野 八木沢 真野川 草野 太田川 小高岡田 落合 世橋 浪江ゞ 室原葉
に、足掛け四年もの年月を費やしたという。江戸時代には、経済問題を解決するにも、そういう基礎 資料を揃えて考える伝統が出来ていなかったのである。「経済の問題を解決するにはまずそういう統 計資料が欠かせない」ということを知っていたというだけでも、二宮尊徳が時代に傑出した人物だっ たことが分かる。彼はその資料を手にしてはじめて、相馬藩の依頼に応じたのである。 それなら、尊徳はその資料を手にして、どういう指示を与えたか。 , 冫 彼ままず、その数字の羅列をじ っと見つめて、実際には私の描いたようなグラフを頭に描いたに違いない。私は「二宮尊徳という人 は日本ではじめてグラフの重要性を認めて、 いくつかの面白いグラフを描いた人」として注目もして いる ( 『たのしい授業』一九八四年六月号 ) のだが、残念ながら相馬藩の年貢資料をグラフに描いたも のは残っていない。今日のように便利なグラフ用紙のなかった当時、二宮尊徳は数字の羅列を何回も 見つめただけで、その数字の変化をグラフのように頭に描く訓練をしていたのかもしれない。それは ともかく、彼は手にした長期統計資料をもとに、相馬藩の経済は、 一六六五年から最初の六〇年間の発展期、 一七二五年から六〇年間の衰退期、 一七八五年から六〇年間の低水準の安定期 の三つの時期から成り立っている、と読み取った。 六〇年といえば「還暦」の期間である。そこで尊徳はこれを一種の〈天理、自然の法則〉と考えた。 それなら、ムフ後はどうなるか。彼は、 「六〇年間に衰退したものならば、今後六〇年間に一七一五年に記録した最高の年貢収納量に 216
口が増えていたのに、その後横這い状態になった」ということができるのである。 「人口の増大する社会」と「減少する社会」とでは著しく違うところがある。現代の日本は、まだ人 口が少しずつ増えてはいるが、町村によっては人口が減少しているところがある。そういう町村では なんとか人口の減少を抑えようとやっきになっている。人口が減りはじめると、これまでの社会活動 も維持できなくなるので、多くの人々がすぐに気付かざるを得ないのである。 じつは、江戸時代も一七二〇年ころまでの日本は、人口の急成長期であった。ところがその後、人 口が停滞するようになり、地域によっては依然として人口が増え続けたところがある半面、人口が減 る地域が出てきた。そこで、江戸時代も前半と後半とでは、同じ江戸時代とは言いながら、社会の様 子が大きく違うようになってきた。ところが、多くの人々は、江戸時代の前期も後期もごちゃまぜに して、「江戸時代とはこんな時代だった」などと論じたりしている。 そこで、「江戸時代の前期と後期とではなぜどのように違うのか」ということを、数量的に示して みよ , つ。 相馬藩の年貢収納量の変遷資料 とは言っても、江戸時代も前期になると、全国の人口統計もないし、その他の社会統計資料もとて も少なくなる。そこで「一七二〇年ごろまでの日本は急成長期だった」などといっても、なかなか納 得できない 。ところが私は、二宮尊徳に関する資料を調べていて、得難い統計資料を見つけることが できた。相馬藩の資料である。
学史のほかに、経済史を調べ生活史を調べているうちに、集められるだけの長期数量統計をグラフに 描いて見て驚いた。私の手に得たどんな数量データも、江戸時代の前半と後半の違いは歴然としてお り、その転機はいつも一七二〇年前後にあることが確認できたからである。そこで私は、『歴史の見 方考え方』 ( 仮説社、一九八六年 ) という本を著した。ここには、その本から三つだけグラフを転用し ておこう。 図 2 は、佐渡金銀山の産出銀の長期統計資料をグラフにしたものである。私ははじめ、「銀の産出 量など、いい鉱脈が偶然に発見されたり掘り尽くされたりするから、そんなものは社会統計資料とし てはあまり役立ちそうもない」と考えた。しかし、この統計資料は一六一三年から一九四五年まで、 なんと三三二年間にもわたっている。私はこんなに長期にわたる経済統計資料をほかに知らない。そ こで、そのグラフを描いてみたのである。 何年か資料の欠けている年があるが、さすが最初の頃はいゝ し鉱脈があったのであろう。年に六千貫 を超えたこともある。その後、銀の採掘量はだんだんと減ってくるが、一七二〇年ころまでは毎年一 千貫を超えるのが常だった。ところが、一七二一年以後になると、その採掘量はめつきり減って年五 〇〇貫を超えなくなる。これは「その頃いい鉱脈がたまたま無くなったからだ」とも考えられるが、 明治維新以後またまた採掘量が増大しているところを見ると、一七二〇年頃からの採掘量の減少は必 ずしも偶然的とは言えない。採掘の技術や意欲が低下して、採掘量が減ったのである。 そのことは、図 3 に示した別子銅山における銅の採掘量のグラフを見ても分かる。別子銅山は、佐 渡金山よりも遅く一六九一年に採掘を始めたので、統計資料はそれだけ遅れるが、一六九八年に採掘 184
元 ) 年から一八四一 ( 天保一一 l) 年のものしかない。 ところが、相馬藩の年貢収納量の資料はそれよ り六〇年も前からのものが残されたのである。相馬藩の資料はその後一八七一 ( 明治四 ) 年の廃藩置 県のときまでの資料も残されているから、前後二一五年の年貢収納量の変遷資料が残されていること になる。その貴重な資料が三宮尊徳全集』の第三十一巻や『相馬市史』第五巻の中に活字になって いるのである。 そこで、今回はその二一五年間の年貢収納量の変遷のうち、まず一七二〇年までの六四年間のデー タだけをグラフにして紹介することにする。図 4 がそれである。 図 4 のグラフには、一五九〇年以降何回か行われた検地による石高 ( 実高 ) の変遷も加えてあるが、 検地高も年貢の収納量 ( 出来高 ) もほば順調に増大していることが認められる。図 1 で見た江戸時代 後半の全国人口が横這い状態であったのとは違うのである。 検地高は、一五九〇年の四・九万石、一五九三年の六・〇万石から一六九八年の一三・六万石まで 増大している。一五九三年を起点として計算しても、一六九八年までの一〇五年間に二・二五倍に増 大しているわけである ( 年率は、一六三九年までの四六年間が〇・九五パーセント、それ以降の五九 年間が〇・六四パーセントで、全体を平均すると〇・七八パ 1 セント ) 。 年貢収納量は、かなり増えたり減ったりの変動を繰り返しながらも、全体的な傾向としては着実に話 増え続けている。一年ごとの大きな変動は、その年の天候による作柄の変動を反映しているのであろ うが、全体的な傾向としては、年貢収納量は検地高の増大とほば並行して増大していると言っていし 一七二〇年までに関する限り、相馬藩は大変な高成長ぶりを示していたのである。経済の高度成長と
相馬藩の高度成長を支えたもの それなら、このような高成長は何によって可能になったのであろうか。それは恐らく、主として新 田開発によって実現されたものであろう。藩は農閑期に百姓たちを新田開発に動員したのである。新 田開発をするには資本がいる。いくら江戸時代でも、領主が新田開発に百姓を動員するときでも、動 員した百姓たちにある程度の食糧ぐらい支給したようだ。それでも、田畑が増えて石高が増えれば、 それだけ領主Ⅱ藩の収入も増えることになる。そこで、江戸時代の前期には、どの藩でも新田開発に 力を入れて取り組んでいた。そして、その結果として、相馬藩の場合、江戸幕府が開設されたころと 比べると、二倍近くに増えていたに違いない。 新田が増えれば、その田畑を耕す百姓も石高の成長とともにかなり増大したであろう。一人の百姓 の耕作できる田畑には限りがあるからである。しかし、相馬藩の人口の資料は一六八一年以降のもの しかないのが残念である。その人口は一七〇二 ( 元禄一五 ) 年までは増えているものの、それから少 し減っているように見える。これは、その後の成長への危険の兆候とも言えるだろう。吉宗政権はこ のような人口の減少を気にしていたのである。 江戸時代の人口の減少の理由としては、飢饉と過酷な年貢取り立てが考えられるが、相馬藩の年貢 率はどのくらいだったのだろうか。図 4 の縦軸の尺度は、検地高は万石単位、年貢収納量は万俵単位 いう話は、敗戦後よく聞くようになった話だが、江戸時代の前半も、その高度成長の時期だったので ある。 176
そのほか、この本のもとになった研究を進めるに当たっては、ずいぶんたくさんの方々の御世話に なりました。とくに岸本 ( 伊藤 ) 篤子さんと片岡みどりさんとは、国会図書館その他で、この本の元 になった多くの関連資料を捜し出し、私が研究資料を整理するのを手伝って下さいました。また、京 都の車石調査のときには、関西の西川浩司、西村寿雄、浅葉清、秦由子、松尾政一の皆さんが現地調 査に積極的に協力して下さいました。そのほか、重弘忠晴、山口恵子、仁木正、油井澄子、岸勇司、 長岡清、河合昭治のみなさんは、それぞれ貴重な資料を提供して下さいました。それに、第話は井 藤伸比古さんとの共著論文、第幻話は、中村邦光さんとの共著論文を元にしたものです。上記の方々 のほか、「人力車』の著者の斉藤俊彦さんをはじめ、本文中に引用した文献の著者の方々にお礼申し 上げます。 ところで、本書の各回の表題は、『科学朝日』連載当時の表題と大きく変わっています。じつは、 私がはじめにつけた表題はほば本書のようになっていたのですが、『科学朝日』の編集部では、「雑誌 の記事としては、結論に則してアピールしたほうがいい」と考えたようで、雑誌連載中は編集部の意 見に従ったのです。しかし、本書の内容はもともと「予想を立てながら読みすすむ」ようになってい るので、話の結論を表題にするのは避けたいのです。そこで、単行本にするに当たって、大部分の表 題をもともと私がつけた表題に戻すことにしたのです。いま、雑誌連載中の表題を書き並べると、次 のようになります。 ①乗り物の歴史は時代を逆に進んだ。 : 一九九一年一月号 306