野崎村 - みる会図書館


検索対象: 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)
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1. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

元禄九年十月二日ーー〇今日、野崎村へ検見に行くはずのところ、庄屋来りて免を請いし故、 止め。〇長良村の免四ッ八分五厘。〇野崎村の免三ッ九分五厘。共に去年のに一分ずつ上 かる」 とあるだけである。 長良村の場合も同じだったのだろうが、野崎村の場合は検見することなしに庄屋との話し合いだけ で「昨年の一。、 ーセント増し」と決まったのである。検見というのは、侍にとっても百姓にとっても、 いろいろ気が疲れるし、出費もばかにならなかったに違いない。 その後、これらの領地の年貢はどう変化したのだろうか。残念なことに、この翌元禄十 ( 一六九 七 ) 年から宝永二 ( 一七〇五 ) 年までの九年間の日記には、検見や年貢率の事項が見当たらない。そ じようだい の間の元禄十三年の四月九日、この日記の主の朝日重章は、「御城代組」から「御畳奉行」へと出世 やくりよう して、百石の知行地の年貢のほかに「役料」として四十俵を貰うことになったのだが、日記にはその 役料のことのほうが出てくるようになるのである。 長良村・野崎村の定免法の起源 さて、宝永三 ( 一七〇六 ) 年の日記には十年ぶりに年貢のことが出てくるのだが、そこには「定 免」という言葉そのものが出てくる。 〇宝永三年九月二七日ーー廻文あり。長良村四ッ七分五厘、野崎村三ッ八分。来る亥〔一七〇 七年〕まで一一年定免。 252

2. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

この日記は、個人の生活記録というよりも、著者が見聞して興味をもった噂話などをオウムのよう に繰り返して書いてある。そこで、その日記の内容に興味をもつようになってきたのだが、私の今回 の関心はその日記の主の個人生活に密着した事実に関することにある。この日記から年貢に関するこ とを引き出そうというのである。 いざこざも起きた検見 この日記の年貢に関する記事は、元禄六 ( 一六九三 ) 年に、 めん ながら 元禄六年九月一一三日ーー長良村の検見あり。免四つ九分〔年貢率四九パーセント〕 同二四日ーーー余も野崎村へ検見に行く。免四つ〔四〇パーセント〕。 同二五日ーーー余、津島へ参る。それより野崎へ行く。ことのほかくたびれる。 今日の人数、渡辺弾七 : : : 都築助六・親。 と出てくるのが最初である。 朝日家の百石分の領地は、長良村と野崎村に分かれていた。当時まだ十八歳で、結婚したてだった 筆者は、家督相続の準備もあって、野崎村の検見だけに父に連れられて参加したのである。このとき の一行は彼を合わせて十四人である。 この検見の記録は簡単だが、その翌年には彼が父親なしに一家を代表して出かけたためか、日記の 記事はもっと詳しくなっている。 元禄七年九月十日ーー余、日の出過ぎ時分、長良村へ検見に行く。一向寺にて支度す。飯・汁

3. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

ところで、筆者を加えたこのメンバー十一人のうち昨年の野崎村検見のときも同行したのは四人だ けであとは違い、そのほかの四人は今年の長良村の検見にも同行している。これを見ると、その村に 知行地をもっていた家のものがすべて参加するということはなく、その村に知行地を持っていない者 も参加していたようにも思われる。村全体で年貢のパーセントを決めるのだから、すべての領主が参 加する必要はなく、百姓たちに圧力をかけるには人数が多いほうがよかったに違いない。 年貢率を決定するには、さらに百姓たちとの話し合いなどで時間がかかったのだろうか。同じ年の 十一月一日になって、 「〇長良村、免定まる、四ッ五分五厘。〇野崎村、免三ッ六分五厘」 と書かれている。検見に行ってから一月半もあとに決まっているのである。検見というのもずいぶん 大変な作業だったことになる。 話し合いだけでの年貢率決定 この日記の筆者、朝日文左衛門・重章が父から家督を継いだのは元禄七年末、彼が十九歳のときの ことである。その翌元禄八年には、「九月一七日晴。長良村検見あり」とあるだけで、野崎村につ いてはいっ検見に行ったか見当たらない。それで、十月三日の日記に、 「〇長良村、免四ッ七分五厘。〇野崎村、免三ッ八分五厘」 とある。この年のほうが豊作だったのだろう。 それで、元禄九年については、今度は長良村の検見の記録が見当たらず、十月二日の日記に、 251 第 20 話

4. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

49 49 ・ 5 48 48.5 48.5 50 47.5 45.5 40 40 .5 39.5 5 検 と り や め 47.5 定免 長良村 野崎村 44.5 ・ 一定免 0 検見なし 下免 ( 0 年貢率 0 2 正徳四年九月一一一日ーー長良村、免四分引き下 げ、四ッ四分二厘と云う廻文あり。 5 ( 1720 ) 9 4 同年九月一一五日ーー野崎村、免五分五厘下 2 がり、三ッ三分五厘。 高、り 享保元 が年よ 5 ( 1715 ) 享保一一 ( 一七一七 ) 年六月一四日ーー・免番衆よ 4 ほ ~ 記 り廻文。「折々願いに付き、長良村四ッ六 の中 , 率籠 分五厘、野崎村三ッ七分に申し付ける」と 年貢、鵡 正徳元 7 67 お ) 四年め鸚 のや「 云々。今年より亥〔一七一九年〕まで三年 ~ 村り章 5 良取重 の内と云々。去年の免に同じ。 4 長を日 っ 0 ( も見朝これを見ると、定免の期間がはじめ二年だったのが、 2 ( 一 705 ) 遷っ検 ( 宝永元 変いはる三年にのびている。恐らくこうしてほとんど無期限の の、年い 率がて定免法に発展していったに違いない ( 図 1 参照 ) 。 -4- 貢るっ 678 ) 年あ、な の、も、かに 村年法定免法への変化の意義 、しは検見法と定免法のどちらがすぐれていると言えるだ話 8 ( 一 695 ) 村がを年 良年見四ろうか。「それは立場によって違う」とも言えそうだ第 元禄 6 0000 ) 長何 ~ 年が、この二つの村の場合、領主側と百姓側の両方の利 1 中毎 図途は葺害が一致して、スムーズに、だが用心深く、検見法か

5. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

力いいから実施されるようになった」ということは明らかだ。しかもこの二つの村の場合、それは遅 くとも宝永三 ( 一七〇六 ) 年、つまり将軍吉宗が将軍職についた享保元 ( 一七一六 ) 年よりも十年も 前から行われていたのである。 つまり最初に指摘したように、「享保の改革の一施策として定免法が実施され」たというのも、「領 主財政の安定と貢租の増徴が目的であった」というのも正しくないことになる。これは、「歴史とい うものはいつも支配者の利害だけに基づいて展開されるものだ」という常識に支配された偏見にすぎ ないのではないか。歴史というものは、両者の利害が一致して展開することもあるわけである。 定免法が定着しはじめる それでは、この二つの村々の年貢徴収法はその後どのような変遷を見せただろうか。もう少し追っ てみよう。 宝永七年九月一四日ーー両村の免、去年に五厘ずつ上がる。長良村、四ッ九分五厘、野崎村四 正徳元 ( 一七一一 ) 年六月一二日ーー免番より廻状。 ・ : 両村ともに去年の免に一分五厘引 き、当年より来年まで定免願う故申し付くると云々。 正徳三年九月五日ーー朝飯後、段之右衛門と三郎左衛門〔のところ〕へ行く。義兵衛も来る。 長良村庄屋ども「検見なしに去年の免に五厘上がりに願う」故に、この事を廻文す。野崎 村も同じ。

6. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

つまり、みんなでサンプルにする田に行って、長さ一間Ⅱ一・八メートルの物差しで一間四方一坪 分の稲株を刈り取ったら五四株あったというわけである。ところが食後、百姓の誰かが「その物差し は長すぎるのではないか」と言いだした。そこで、侍たちはその物差しを百姓たちに渡して改めさせ たら、不正はなかった。そこで今度は、侍たちのほうがさんざ怒って、百姓たちが謝ったので、団長 格の渡辺弾七が百姓を許して一件落着したというわけである。 恐らく、当時の検見というのは、いつもそんな事件が起きるというわけではなくとも、そういう緊 張の中で行われたに違 ) よ し力い。だから、いくら刀をもった侍でも、自分の領地へ一人で出かけて検見 をしたら、回りを百姓たちに囲まれて恐ろしかったに違いない。そこで、侍たちは集団をなして検見 に出掛けたというわけであろう。 次は野崎村の検見である。 元禄七年九月一六日ーー予、昨夜丑〔夜中三時ころ〕の半刻より渡辺源右衛門のところへ行き 食をたべる。寅の刻〔朝方四時ころ〕野崎へ検見に行く。源右衛門〔など十人〕面々の百 姓の所にて支度す。予は、源右衛門・弾七とともに、庄屋の彦兵衛の所にて支度す。初め に雑煮餅。夕飯は汁 ( すばしり、ねぶか、ごばう ) ・なます ( ふな、焼き頭 ) ・おおふな 田、上・中・下にて坪を刈り、戌〔午後八時ころ〕一点帰宅す。 今度も食事のことが大きく出ている。「田、上・中・下にて坪を刈り」というのは、田の善し悪しに よって上田・中田・下田に分けたそれぞれの田について一坪分の稲を刈った、というわけである。 ( 焼き浸し ) 。 250

7. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

〇宝永五年九月六阜ーー巳〔午前十時ころ〕半より、段之右衛門と三郎左衛門〔のところ〕へ 行く。長良村庄屋両人きたり、惣百姓〔百姓みんな〕も「検見なしに仰せ付け下され候 かしこ え」と願う故、去々年の免の通り、四ッ七分五厘に申し付くなり。「畏まって奉る」と請 け合い、 吸い物、酒など給し、未〔午後二時ごろ〕過ぎ帰る。 〇同年九月十日ーーー・巳〔午前十時ころ〕より、段之右衛門・三郎左衛門きたる ( 義兵衛は、理 右衛門が昨日〔江戸へ〕発足につき来たらず ) 。伝兵衛・平右衛門のほか惣百姓、証拠のた めに勘右衛門〔の知行地〕の百姓孫左衛門、次郎兵衛〔の知行地〕の百姓伝左衛門 ( この くみがしら 両人、当時の組頭ゆえ来る ) を呼び申し渡し、庄屋両人に受け状に判いたさせるなり。吸 い物・こわめし・酒を出す。 〇同年九月一五日ーーー巳過ぎより弾之右衛門へ行き、義兵衛・三郎左衛門あり。野崎村の願い により免を申しつく。三ッ八厘 ( 去年と同じ ) 。十右衛門・清八、免状〔年貢状〕に判〔を 押〕す。吸い物・酒など給す。未前帰る。 〇宝永六年九月一一七日ーー野崎村、免三ッ九分五厘に申しつけそうろう廻文あり。 宝永五 ( 一七〇八 ) 年になって急に、年貢のことが日記にこれだけ詳しく書かれるようになったの はどうしてだろうか。おそらくそれは、この年あたりからこの日記の主が同じ村に知行地をもっ侍た話 第 ちの代表Ⅱ免番衆の一人として百姓たちとの折衝に当たることになっていたからであろう。 ところで、これらの日記の記事を見ると、少なくともこれらの村々では、「定免法は領主たちにと 3 って都合がよかったから実施されるようになった」というばかりでなく、「百姓たちにとっても都合 ひつじ

8. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

うなぎ ( 菜 ) ・なます ( すばしり・大根 ) ・煮物 ( 豆腐、いも ) ・鰻 ( こくしよう ) 。免番衆四 さかな 人、酒ならびに肴一種ずつ持参。坂井十左衛門 ( 小鳥焼きて ) 、山崎甚右衛門 ( かまば こ ) 、田嶋儀兵衛 ( 酢だこ ) 、松井勘右衛門 ( ばら小串 ) 。ほかにまた、酢だこ、エビなど 持参するあり。総人数、渡辺弾七・ : これではまるで、遠足に出かけるような食料の準備である。朝日重章という人は食べ物に関心が深 くて、いつも食べ物の名をずらりと書きこんでいるので、その当時の雰囲気がよく伝わってくるよう だ。「免番衆」の〈免〉は年貢のことだから、「年貢当番」ということであろう。その人たちが手分け してみんなの食事を準備することになっていたのである。今回は筆者と「免番衆四人」を入れて十六 人で、そのうち八人は前年に野崎村に行った人と重複している。 加賀樹芝朗氏によると、長良村というのは現在の名古屋市中川区長良本町〔名古屋駅の南側〕にあ り、寛文年間 ( 一六六一 5 七一一 l) の調査では七五町八反、文化・文政時 ( 一八〇四 5 三〇 ) の調べでは 高一三二七石のうち藩士への給知高は一二五七石で、三二人の藩士が八三石から五石までを知行地と して預かっていたという。そこで、その村に知行地をもっ侍たちが一緒になって検見しに出かけたと いうわけである。 話 さて、この日は検見の本番で、事件が起きた。 「坪は晩田にて一坪刈り。稲株五四。食後、百姓の中から誰云うともなく「竿長し」という者 あり。これによって、尺を出して取らしむ。一厘も違わず。みんなは大いに激怒し、百姓を叱 9 わびごと ること甚だし。弾七、侘言にて、ついにゆるす。今日終日、大酒酔いの者多し」 さお めんばんしゅう

9. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

9 万人 8 , 9505 人 ①総人口 ・・ 217 十 61 村 8 181 十 32 村 7 幕府届け出人口 . △ 152 十 14 村 151 十 3 村 △・ 6 5 , 7733 人 ①総人口 △は村数による推定 在郷 人口 幕府届け 出人口③ 5 2 ③ ① 4 ② 3 図 1 相馬藩の人口の変化 総人口 ( ① ) と在郷人口 ( ② ) は 信用できるが、幕府への届け出人 ロ ( ③ ) は全く信用できない。本 来は① > ② > ③のはずなのに、長 年③ > ① > ②となっている。失政 による人口の減少を覆い隠すため , 相馬藩が人口を水増しして届け出 たからだ 2 1 ( 0

10. 日本史再発見―理系の視点から (朝日選書)

「何ごとによらず、新規の儀」を禁止した吉宗の政策との関係 私が第話で紹介した吉宗の「新規製造物禁止令」が出たのは一七二〇年で、西鶴の『日本永代 蔵』よりも三十二年後のことであるが、少なくとも一七二〇年以前には農機具の発明も活発だったの である。吉宗は、「いま世上に売り買うよろずの品物は何一つ備わらぬこともないのに、なお多く造 り出せば、人びと身のほどを超えて買い求めるようになり、おのずから家資窮乏し、ついには国の衰 えとなるから米穀・薬物のほかは衣服・調度のたぐい、こと新しく製造し出すは言うまでもなく、た とい有り来るものも物数を増益することのないようにすべし」と命令したのだが、農機具の類は、例 外とされた「米穀・薬物」関連事項としてその新規考案も認められていたのだろうか。それとも、農 機具も「米穀・薬物のほかの」「調度のたぐい」として、新しく製造し出すのを禁じられたのだろう か。それははっきりしない。しかし、「新規製造物禁止令」の思想は、そういうものの発明考案をも 抑える効果をもったことは間違いないだろう。 ばんこうけい じつは、そのことを伺い知るのに参考になる一つの資料がある。国学者の伴蒿蹊 ( 一七三三 5 一八 きじんでん 〇六 ) の『近世畸人伝』 ( 一七九〇年刊、岩波文庫や平凡社の東洋文庫に収録されている ) に出てくる話で いんで ある。近江の国の位田村で日雇いと乞食でその日暮らしをしていた「儀兵衛」という男の話を取り上 げた中で、〈こき箸〉と〈稲こきⅡ後家倒し〉の話が出てくるのである。 この儀兵衛は、自分の村で仕事のないときは他の村々に出掛けていって乞食をするほどの人だった が、〈所有欲のないまったくの正直者だ〉というので、村人たちから愛されていた。そこで、ついに は一反の田を与えられて耕作することになるのだが、儀兵衛は、 276