軍のどちらかに分かれていた。例えば「零戦」は海軍機、「隼」なら陸軍機である。属 する方の旗下にいただけだ。 余談だが、朝日新聞社の社旗も旭日である。表向きには社名からのデザインというが、 できた当初、一般の読者はみな海軍の御用新聞のように感じたそうだ。きっと朝日新聞 のトップに軍部あるいは帝国海軍におもねろうとする意識があったのだろう。でなけれ ば、「旭日旗」の弟分にしか見えない図案を社旗として採用するわけがない。 説さて、それでは明治期から戦前における正統な日本国旗は何かということになるが、 つまり、日本に 旧帝国憲法にも戦後の新憲法にも、国旗に関する規定はどこにもない。 の かいびやく 引は天地開闢以来、一九九九年までずーっと国旗はなく、何となく無くてもすむような 懈気分のまま、時代時代の権力者達は歴史を通過してしまったのだ。 ただ、日本国旗がなかったのかというと、当時の最高権力者や高級軍人、そして一般 用 誤 庶民に至るまで、日本人の頭の中に、憲法や法律で制定されていなくとも、国旗と認識 章 すべき旗はあった。天皇家の「錦の御旗」である。「錦の御旗」とは菊の紋章と、赤い 第 錦の布の上部に金銀糸で日月が刺繍されたもので、鎌倉時代頃から朝敵討伐の際に朝廷
め」なんてこともあった。よく歴史学者が、「街道筋の大きな川へ橋をかけなかったの は、敵に攻められないように川を堀代わりにしていたから」などといっているが、そう ではない。人足が肩車して渡れるぐらい浅い月が、どうして堀の代わりになるというの れんだい か。ちょっとした雨でも当時の河川はすぐに増水し、人足の肩車や輦台では渡れなくな ってしまう。立派な橋がなければ大名行列や旅人は川留めによって先に進めないから、 大量の客が宿場に留まり、結果としてその宿場は潤うことになる。徳川幕府が各街道の 恵川へ橋をかけさせなかったのは、なるべく沢山のお金を旅人に使わせるためなのだ。っ まり、橋をかけるという公共工事によって、一時的にお金が落ちるよりも、そこに川渡 の 本しという単純労働を残し、この単純労働を核に更に多くの単純労働を生み出させ、その 日 地域全体の生産性を継続させる方が内需拡大につながると考えたのである。 驚 て江戸期の流通機構をよく観察するとわかるが、一つの商品が市場に出回るまでには、 改 生産地、荷受問屋、中卸、小売と、流通機構がそれはきっちり決められていた。今流行 きのくにや 3 りの産地直送なんてありえないことである。時おり、みかんで有名な紀伊国屋文左衛門 のように産地直送を行う者がいたか、がっちり固まった流通機構に結局潰されてしまう。
、漱石が描きたかったのは、無知で田舎者の日本人を笑う風刺なのだ。 中でも出鱈目ぶりの圧巻は、このターナーとイタリアルネッサンス期のラファェロを 敢えて組み合わせた場面である。作中の登場人物「マドンナ」、彼女はラファェロの有 名な「マドンナ」がモデルなのだ。 〈あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと 野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑 い方をした〉 昭和中期頃まで若くて美しい女性をマドンナと呼ぶことが流行したが、当時の日本は、 ほとん まだそんな一言葉が流布することもなく、そもそも殆どの日本人がマドンナとラファェロ ) 0 ) ヾ しすれにしても、二十世紀以後、タ 1 を結びつけるような知識を持ち合わせていなし ナ 1 の風景にラファェロのマドンナ像を潜り込ませた作家は世界中でも漱石くらいだろ う。白樺派が出てくるまで、当時の日本人は、ゴッホ、セザンヌなどの印象派さえ知ら なかった。ましてやターナーやラファェロの絵を知っている者などごく少数に限られて
表当時から諸外国の評価も非常に高く、世界軍楽史上においても最高傑作の一つと言わ れた名曲である。ただ、 敗戦後は在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人の経営するパチ ンコ屋やキャパレーで意図的に大々的に流され、その品格を著しく失い、今日でも厳粛 な式典でこの曲が演奏されると何となく笑いが漏れ聞こえてきてしまう。 いずれにしても、本来国歌とは、アメリカやイギリスにみるまでもなく、静止静聴し、 国家を仰ぎ歌うものだ。一方、「君が代」は帝国陸軍の行進曲にもアレンジされている。 それがどうして国歌として制定されてしまったのか ? 「日の丸」は帝国陸軍のいわば 軍旗である。それがどうして国旗として制定されてしまったのか ? 不思議としかいい ようがないが、当時の時代状況を考えると何となく答えが視えてくる。大東亜戦争敗戦 までの大日本帝国は、まさに「帝国陸軍の国」であった。国の最高権力者も一般国民も、 押しなべて帝国陸軍の統制下にあったといっても過言ではない。従って、官庁や学校、 そして庶民の家々もいつのまにか「日の丸」を国旗と錯覚して掲揚したのである。
早期自閉症の子供たち イディオ・サバンとは、早期幼児自閉症の子供たちの内、例えば、非常に難解な祈 文を記憶したり、素数だけを延々と言い続けられたり、一度聞いたメロディーを正確に ピアノで再現するといった、特異な能力を持っ子のことをいう。「レインマン」という れ映画のモデルにもなったから、昨今では天才を語るとき何かと話題に上ることも多い 隠記憶には、大きく分けて二つの種類がある。種を保存し継続させるためにに刻 2 まれた記意。もう一つは、五官に蓄積された経験による記億。前者は無意識の記億、後 者は脳が介在する意識した記憶。人と人以外が決定的に違うのは、人が後者の記憶をも だが、「古事記」の成り立ち、当時の時代背景、稗田阿礼の超人的な記憶力、そして これら この「古事記」を利害関係の異なる当時の権力者達がなぜ受け入れたのか : おぼろ のことを併せ考えると、謎の人、稗田阿礼の正体が朧げながら浮かんでくる。阿礼は早 期幼児自閉症の子供、つまり「イディオ・サバン ( ミぎ t savant) 」であった可能性があ
当時の明治政府はこの問題をあまり重く考えず、幕府船や大名船が掲げていた「日の丸 幟」をそのまま踏襲したのである。ある意味でこの踏襲は、明治新政府に対して徳川幕 府が降順し、傘下に収まったという示威にもなったが、明治政府側には旧幕臣が数多く 要職に就いていたため、なし崩しに徳川幕府の日本国船舶章が継続使用されたというの が本当のところだ。結局「日の丸」は、そのまま明治三 ( 一八七〇 ) 年の太政官布告に よって商船規則に制定されてしまい、同時に、「日の丸」の規格もはっきりと定められ 一説こ 0 定 〈布地は白色の長方形で、縦横の比率は横を一〇〇とすれば縦は七〇。日章は赤で、そ の 引の直径は縦の五分の三。日章の上下のあきを等しくし、日章の中心は旗面の中心より横 の一〇〇分の一だけ旗竿の側に近寄る〉 そして、この条文の「日章」の二文字によって、「日の丸」は「日章旗」とも呼ばれ 用 誤 るようになり、以後、日本船では「日の丸」を対外的に日本を表すシンボルとして使う 章 ようになる。ただ、この当時でも法律上で国旗と制定されたわけではなかった。 第
張すれば、通貨にとって金銀の含有量などさしたる意味はなく、通貨の額面の方が優先 し、一両は一両として必ず通用する」というものである。欧米には「悪貨は良貨を駆逐 する」というグレシャムの法則があるが、こと、江戸の通貨に関しては当てはまらず、 荻原の思惑通り、金銀貨の質のいかんに拘わらず、一両は一両でちゃんと通用した。 彼は十五年余り勘定奉行の地位にあった後、結局失脚するが、この間の幕府は現実に 未曾有の好景気に沸いたのだ。 今日では荻原の政策を非難する学者が多いが、これらの人たちは、当時の江戸経済の 環境と当時の幕府の財務内容を正確に復元せず彼を語っている。荻原が基本的にもって いた考え方は、間違いなく現代の通貨制度と同じ概念枠にあった。現代以前、近代にお ける通貨制度では、通貨は額面と同じ金と交換する義務を負っていた。つまり金本位制 である。しかし、今、我々が使っている通貨に対して、政府は額面の金額と金を交換す る責任を負わない。 これは日本だけではなく、世界の全ての国がそうであり、現代の通 貨は全て不換通貨である。五百円玉はニッケル製だが、この硬貨の原価は十円以下だ。 一万円札などもっと顕著で、せいぜい十五円程度の紙幣に一万円分の金の価値を持たせ
婆娑羅の系譜 粋 鎌倉時代の末期から南北朝の動乱期にかけ、質素を旨としていた武家の中に、度を超 えた華美な衣装で飾り立て、分に過ぎた贅沢の限りを尽くし、勝手気ままに世の中を謳 ばさら 「歌する一群が出現した。これを「婆娑羅」という。婆娑羅とは、もともと「金剛、金剛 ら 知石」の意味であるサンスクリット語、つまりダイヤモンドという意味から来ている一言葉 ーも でである。 ときよりとお 現 婆娑羅の代表的な武家といえば、佐々木導誉、土岐頼遠などだが、彼等は「婆娑羅大 章 名」と呼ばれ、日本中に名を馳せた。当時、天皇家は絶対である。武家は路上で皇族と 第 出会った時など下馬の礼を取るのが慣例であった。しかし、美濃国の守護である土岐頼 こ 3 当世風お姉ちゃんこそ現代の江戸っ子 ささきどうよ
元々、性的な意味合いを持っていたのに今日では他の意味で使われている言葉といえ ば、代表的なのが「たわけ」である。いつだったか、プロ野球の星野仙一さんが中日の 監督時代に「何を言われてもかまわないが、たわけと言われるのだけは勘弁できない」 と、かんかんに怒ったというのが新聞記事に載っていた。怒りの理由は、「たわけ」が 名古屋地方では馬鹿にする意味の侮蔑用語だからと言うのだが、実はこの「たわけ」は なじ 単に馬鹿にするどころではなく、元々は近親相姦者を詰る言葉である。 粋 戦国時代の古くから使われる名古屋地方の侮蔑用語に「うつけ」と「たわけ」という のがあることは事実だ。この二つの侮蔑用語を現代では同じような言葉に捉えがちだが、 「本来は全く意味の異なる言葉である。の大河ドラマなどでも、信長が前田利家に ら 知「この、たわけが : ・ : 」などと平気で使っているが、当時、「たわけ」などと面と向か でって言われれば、たとえ信長が主君といえども利家は黙っていなかっただろう。 現「うつけ」とは単純に、どうしようもないの意味である。一方、「たわけ」は、異常な 章 生行為に結びつく言葉であった。「馬たわけ」、「猿たわけ」といえば獣姦のことだし、 9 第 「たわけ」とだけ言われれば、お前は近親相姦者、こう詰られたのと同義なのだ。
もくろみ ルが日本の定型詩を爆発的に膨張させた。当時の文化人たちの目論見は当たり、あらゆ る階層の人たちの定型詩が溢れ、日本人は歌を詠み交わすことでコミュニケーションを 発生させ、どんどん日本語の語彙を増やしていった。特に、日本定型詩の最上位に位置 付けられた和歌には厳しい規則が課せられ、たとえどんなに優れた歌でも自分自身で創 作した造語、或いは独自の表現方法が盛り込まれていなければ和歌として認めなかった ほどである。平安貴族は日本語の語彙や表現方法を増やし豊かな日本語を作るため、懸 命に和歌を奨励したのだ。 新しい和歌が一つできれば、新しい言葉や新しい表現方法が一つ増えていく。そして、 日本文字は必ずしも臨書するものではなく、自らの内に湧き起こった心情を新しい言葉 に創り上げていくものへと成長した。 既にある文字で空想を膨らますのではなく、逆に空想したものを表現するのが日本文 字である。日本文字の発明があって、日本人の空想はさらに広がっていく。和歌によっ て日本語の語彙は爆発的に膨張したが、それは実にダイナミックな変化でもあった。 ノ 72