旗本奴 - みる会図書館


検索対象: 日本史快刀乱麻
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1. 日本史快刀乱麻

第 4 章現在でも知らずに根付く「粋」 とうけんびたい に人気も高く、権兵衛の額を真似た「唐犬額」が大流行したと伝えられている。この町 奴の勢力が大きくなると、当然その矛先は旗本の男達、旗本奴へ向けられた。つまり、 旗本奴の矛先は幕府と外様大名、町奴の矛先は旗本奴という図式である。 正保、慶安のころになると、男達を巡り、旗本奴と町奴の争いはますますエスカレー トし、ついに全面対決の様相を 物呈した。元々は双方とも強いも 俗のに対する反抗心が売り物だっ 要 / 歴たのだが、いつの間にか武家の 立 個面目と町人の心意気の対決、こ 、、真醺んな図式へと掏り替わってしま ったのだ。 衛この両者の争いを象徴するの 権が、大小神祇組の首領水野十郎 ばんずいいんノ 唐左衛門と、六法組の頭目幡随院 す

2. 日本史快刀乱麻

当然、旗本奴や町奴の極端な表現は凄惨な美しさを持っていた。だからこそ、江戸庶 民は旗本奴と町奴の争いに熱狂したのである。 直参旗本三千石の水野十郎左衛門と、配下五百人を数える幡随院長兵衛の争い、ここ に男達のすべてが集約されている。幡随院と水野の争いの最初は、芝居見物にかこつけ ひいき いさカ ての喧嘩騒動、贔屓の相撲を巡っての諍いなど諸説あるが、どれをとっても大トラブル になるようなことでもなく、むしろ、些細なことをわざわざ意図的に大げさにして騒ぎ を起こしたような節もある。いずれにしても、二人の諍いの原因は、今から見れば取る に足らないことばかりなのだ。 びんご はちすかよししげ 水野十郎左衛門の父成貞は備後福山城主水野勝成の三男、母は阿波藩主蜂須賀至鎮の 女であった。成貞は知行三千石の直参旗本、譜代でも名門中の名門である。十郎左衛門 は、この水野家の嫡統として慶安三 ( 一六五〇 ) 年家を継ぐと、翌年には四代将軍徳川 家綱に拝謁した。彼が引き継いだ三千石は、今日換算で十五億円にも匹敵し、今様に言 えば大変なお坊ちゃんである。 一方の幡随院は、町奴六法組の頭目で、その配下は凡そ五百人、江戸一番の町奴であ むすめ あわ 768

3. 日本史快刀乱麻

ちょうべえ 長兵衛の対決であった。二人の争いは、旗本奴と町奴の男達を代表する人物であったこ とから、紛争終了後も江戸庶民の格好の話題となり、歌舞伎や浄瑠璃などの題材として 大々的に取り上げられている。話の大筋は、町人側が作るためか大方が幡随院を善、水 野を悪と仕立てているが、実際はそれぞれが武家の面目と町人の心意気を極限的に表現 したものであって、単純に勝ち負けや善悪などで片付けられるものではなかった。 男達の美意識はその凄惨な生き様にあり、そしてその生き様の象徴として異様な風体 や極端に過激な行動があった。無論、彼らの美意識の担保は、自らの生命である。 例えば、旗本奴は外様大名に因縁をつけたり、幕府の意向を全く守ろうとしないが、 こうした行為はお家断絶などの自己弁済を超えるリスクを背負った上でのことであり、 このリスクを承知の上で、武勇を尊ばうとせず太平に甘んじる幕府や外様大名に反抗し たのである。武家の本分は言うまでもなく、華美を好まず質実剛健、主家に対する忠誠 は生命を以てこれに尽くす、である。彼等はこれらの全てを否定した。そして、否定す ることによって武家とは何かを幕府に問うたのである。 また、切捨て御免のこの時代、町奴の方も旗本奴との争いはやはり命がけであった。 766

4. 日本史快刀乱麻

墜させたと誹りを受ける。また、棺桶持参というセレモニーっきの幡随院を斬れば、単 なる無礼討ちでは終わらない。旗本奴の反抗を苦々しく思う幕府上層部の格好の餌食と 7 なり、水野自身の処罰は絶対に免れない。水野は旗本奴の面目にかけ、全てを承知の上 で幡随院を斬った。寛文四 ( 一六六四 ) 年三月二十七日、水野は評定の席へ呼ばれるが、 彼は髪を結わず袴も着けず、白装束で評定所の席へ着く。水野のお上を恐れぬ振る舞い に幕府首脳は激怒し、即刻の切腹を命じ、嫡子百助までも死罪となり、お家は断絶とな った。この両者の死にこそ、演劇的要素を多分に踏まえた男達の真髄があることを知っ て欲しい 水野が切腹させられると旗本奴の勢いは急激に衰えるが、町奴の心意気、「自らの命 を惜しまず、強きを挫き弱きを助けるⅡ町奴による極端な町人擁護」は、その後伝説的 に美化され、幕末から明治にかけての陜客、会津小鉄、清水次郎長、大前田英五郎、新 門辰五郎などに大きな影響を与え、むしろこの時期に華を咲かせた。 ガングロが引き継ぐ美学

5. 日本史快刀乱麻

な鳥獣文様陣羽織を愛用し、黄金の茶室まで作ってしまった秀吉、このほか上杉謙信、 武田信玄、伊達政宗にしても、婆娑羅の系譜を引いている。 江戸で流行ったファッション おとこだて また、江戸初期になると、婆娑羅とよく似た「男達」という奇怪なグループが二つ誕 生した。旗本奴と町奴のことである。男達を自称した彼らの、華美というか派手という 粋 か、無茶苦茶とも言える扮装は江戸の町に異様な雰囲気を醸し出したが、男達の真髄は 付その着飾った扮装や珍妙な風体ではなく、彼らのあくまでもストイックな生き様にあっ ずた ら 知どちらかというと文化人的教養に基づく華美を求めた婆娑羅を、上流階級のパ 1 ティ で ー会場へ贅を尽くしたファッションで登場する大金持ちの不良とすれば、旗本奴と町奴 在 現 の男達は、極限を超えた扮装という意味では同じでも、平たく言えば、度肝を抜くよう 4 なやくざファッションと思えばよいだろう。 第 徳川二代将軍秀忠の頃 ( 一六〇五—一六二三 ) までは戦国の余韻を残し、武家に求め ノ 63

6. 日本史快刀乱麻

った。当時の町奴というのはそもそも頭目のことであり、町奴の配下に町奴はいなゝ 例えば、幡随院の弟分に唐犬権兵衛がいるが、これは幡随院の子分ではなく、町奴唐犬 組の頭目なのだ。幡随院はこうした町奴三十数人を束ねていたというから、親分中の親 分というわけである。 明暦三 ( 一六五七 ) 年七月十八日、幡随院は唐犬権兵衛に棺桶を担がせると、一人で 水野の屋敷へ入っていった。やがて幡随院の死骸が運び出されると、唐犬権兵衛は幡随 粋 院を棺桶に入れ、一人で担ぎ帰ったという。幡随院はなぜ斬られると判っていながら出 向いたのか。町奴の心意気に死が伴わなければ、所詮、旗本奴の面目には敵わない。幡 引随院長兵衛には、これが情けなくて悔しくて堪らなかった。つまり、幡随院は町奴の心 知意気を証明するため、敢えて旗本奴の水野十郎左衛門に命を差し出したのである。これ でが町奴の男達なのだ。 現 一方、水野はなぜ幡随院長兵衛を斬ったのか。棺桶持参の幡随院を水野が斬らなけれ 章 これはいったいどうなる ? 幡随院の町奴としての心意気は、棺桶に保険をか 第 なじ けたとその臆病さを詰られ、水野の方は棺桶持参の町奴の潔さに臆し、武家の面目を失

7. 日本史快刀乱麻

ランド品をたくさん持っていても当たり前、そこに人を驚かせるようなエネルギーや感 動は決してない。 しかし、とてもまともな収入があるとは思われない女の子が平気で何十万円もするバ ッグを持ち歩き、高級靴を履いて、高級時計までしている。プランド品を買うためなら 体を売ることだって厭わない。そんな彼女たちの無茶苦茶こそ、本来の日本人の美学な のだ。 身分不相応こそ、飾るということの真髄である。その真髄が江戸期の旗本奴や町奴の 男達であった。男が化粧をして、能衣装のような華美な服に派手な螺鈿の鞘の刀を差す。 或いは、異様な髪形の唐犬額に女郎まがいの派手な着流し、塗り高下駄に大脇差の町奴。 彼等は見物人が出るくらい異様な格好をした。一時流行した高下駄まがいの厚底靴に誰 もが振り返る珍妙なファッションで原宿、六本木を闊歩していた女の子、顔を真っ黒に 日焼けさせて目の周りと唇だけ白く塗るガングロ化粧の女の子。町奴と当世風の女性の 根底に流れる精神主義は、ほとんど同一のものだ。今まさに、「婆娑羅、男達、江戸っ 子」を体現しているのは、こうした女性たちである。 らでんさや

8. 日本史快刀乱麻

一六五一 ) 、 られる忠義とは武勇が最上位であったが、徳川の世も三代家光 ( 一六二三— 四代家綱 ( 一六五一六八〇 ) と時代が経つにつれ、世の中には太平の空気が自然と跖 蔓延していく。しかし、こういった風潮と逆行するように、武家本来の生き方をより過 激に追求する一群が出現した。特に徳川旗本の中には、大名にならずとも東照神君と共 に武勇をもって天下を手中に収めたという自負心があり、武勇の否定は断固認められる ものではなかった。しかし、寛永十二 ( 一六三五 ) 年、武家諸法度が改訂され参勤交代 が確立し、更に四年後鎖国が完全に成立すると、武勇は必ずしも武家を象徴することに はならず、この反動から出現したのが徳川旗本による男達である。彼等は大小神祇組、 吉弥組、金銀入歯組などと名乗り、外様大名へ平気で喧嘩を売り、江戸の町を異様な扮 装で縦横無尽に闊歩した。 やがて、裕福な町民側からもこれに対抗するかのように男達が現れた。これが町奴で さやちりめん ある。町奴は町人には禁止されていた紗綾縮緬やビロ 1 ドを着込み、大脇差に大額、大 とうけんごんべえかみなりいちえもん なでつけ等の異風をし、唐犬権兵衛、雷市右衛門、みかん五郎兵衛、あげあし次郎左衛 門といった醜名を名乗るなど、独特の風俗を持っていた。中でも唐犬権兵衛は江戸市中 しこな