真の国旗は「錦の御旗」 こうして明治期の「日の丸」は正式に日章旗と呼ばれるようになるが、いつの間にか 帝国陸軍の軍旗のような使われ方をするようになる。そしてこれが、「日の丸」を日本 の国旗であると印象付ける原因にもなっていく。陸軍の「日の丸」に対し、今度は帝国 海軍に日章旗に倣った「旭日旗」という旗が誕生した。戦前の海軍も現在の海上自衛隊 も、掲げているのは「日の丸」ではなく「旭日旗」である。ただ、この「旭日旗」は、 形状が中央に日章、そこから十六条の光線放射という図案からもわかるように、帝国陸 軍の「日の丸」のバリエ 1 ションみたいなものだから、誕生以後も日本国内では「日の 丸」の一枚格下の旗と認識されていて、昭和六 ( 一九三一 ) 年の大日本帝国国旗法案 ( 廃案 ) の時にも「日の丸」のみが候補として提出され、「旭日旗」の方は国旗の図案 候補にはならなかった。 海軍の軍艦に掲げられるのは旭日旗、陸軍の歩兵や戦車は日章旗である。ただし、航 空隊では、日章旗も旭日旗も使われた。だからといって、飛行機乗りが好きな方の旗を 選べたわけではない。ただ単に、日本に空軍がなかったからである。航空隊は陸軍か海
相変わらず、本屋にいくと、「日の丸の歴史」といった類いの出版物がたくさん並ん でいる。だが、きちんと「日の丸」の出自や性格を理解した上で書いてある本はほとん どなし ゝ。「日の丸」や「君が代」に反対する人たちにしても、何が問題なのかをわかっ ていないのではないかと思うことが多い。大東亜戦争のとき、「日の丸」のもとでたく さんの人が死んでいったと言うが、日本国民が尊い命を捧げたのは真の国旗の「錦の御 旗」に対してであり、英霊の方々は「日の丸」や「旭日旗」に包まれ、この国へ帰って きたのである。 卒業式や入学式で、「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌うことに反対する人たちが 「日の丸・君が代」の誕生から今日に至るまでの正しい経緯をわかっているなら何の問 題もない。確かに、「日の丸・君が代」が悪しき戦前の象徴というのには一理あるのだ うわっら から。ただ、上っ面の感情論だけで賛成したり反対したりするから混乱が生じるのだ。
軍のどちらかに分かれていた。例えば「零戦」は海軍機、「隼」なら陸軍機である。属 する方の旗下にいただけだ。 余談だが、朝日新聞社の社旗も旭日である。表向きには社名からのデザインというが、 できた当初、一般の読者はみな海軍の御用新聞のように感じたそうだ。きっと朝日新聞 のトップに軍部あるいは帝国海軍におもねろうとする意識があったのだろう。でなけれ ば、「旭日旗」の弟分にしか見えない図案を社旗として採用するわけがない。 説さて、それでは明治期から戦前における正統な日本国旗は何かということになるが、 つまり、日本に 旧帝国憲法にも戦後の新憲法にも、国旗に関する規定はどこにもない。 の かいびやく 引は天地開闢以来、一九九九年までずーっと国旗はなく、何となく無くてもすむような 懈気分のまま、時代時代の権力者達は歴史を通過してしまったのだ。 ただ、日本国旗がなかったのかというと、当時の最高権力者や高級軍人、そして一般 用 誤 庶民に至るまで、日本人の頭の中に、憲法や法律で制定されていなくとも、国旗と認識 章 すべき旗はあった。天皇家の「錦の御旗」である。「錦の御旗」とは菊の紋章と、赤い 第 錦の布の上部に金銀糸で日月が刺繍されたもので、鎌倉時代頃から朝敵討伐の際に朝廷
の官軍が標章として用いていた。この「錦の御旗」がなぜ象徴的国旗と認識されていた かといえば、それは、大日本帝国憲法第一条と第十一条に由来する。 〈大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉 〈天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス〉 つまり、陸軍と海軍の統帥権は、大元帥、天皇陛下が所有していた。当然、陸軍旗と もいうべき日章旗と海軍旗というべき旭日旗、この二つの軍旗は天皇旗である「錦の御 旗」によって統帥されている。いうまでもなく国旗とはその国の最上位に位置する旗だ から、憲法や法律に制定されていなくとも、日本国民にとっての国旗は暗黙の了解の中 で「錦の御旗」であったのだ。 あらひとがみ 。冫。し力なかっ しかし、現人神天皇の旗である「錦の御旗」を戦場に持っていくわナこよ ) ゝ た。それはそうである。天皇旗は日本の国体と同義なのだ。つまり、天皇旗をたった一 つでも失うことは国体を失うことに等しいから、敵に取られたり燃えてしまったり、海 に沈んでしまうなど許されるわけがない。天皇旗の「錦の御旗」は一般の日本国民が持 っことすら不敬とされたほどである。だからこそ、陸軍は独自に「日の丸」を掲げ、海 2
日本国は大東亜戦争に負けていない ? 戦前の大日本帝国が軍隊の国であったことは、ミズーリ号の艦上で調印された降伏文 書でも明らかだ。降伏文書には、 〈一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の聯合国に対する無条件降伏を 布告す〉 つまり、大東亜戦争というのは「日 とあり、どこにも「日本国政府」の文言はない。 説章旗」と「君が代」、「旭日旗」と「軍艦マ 1 チ」が降伏したのであって、この日本国 のが敗れたのではない。事実、昭和天皇は戦争犯罪を問われることもなく、無事に国体は 引護持された。 懈大東亜戦争に敗れると、連合国により「日の丸」掲揚は禁止されるが、やがて、昭和 二十四 ( 一九四九 ) 年に規制は解け、再び慣習的な使われ方のまま、歪んだ歴史を持っ 用 誤「日の丸」と「君が代」は国旗、国歌として擬似的に定着してしまう。その後も、依然 1 として法律上には規定されずにいたが、一九九九年の国旗・国歌法でついに確かなもの 第 として制定された。
表当時から諸外国の評価も非常に高く、世界軍楽史上においても最高傑作の一つと言わ れた名曲である。ただ、 敗戦後は在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人の経営するパチ ンコ屋やキャパレーで意図的に大々的に流され、その品格を著しく失い、今日でも厳粛 な式典でこの曲が演奏されると何となく笑いが漏れ聞こえてきてしまう。 いずれにしても、本来国歌とは、アメリカやイギリスにみるまでもなく、静止静聴し、 国家を仰ぎ歌うものだ。一方、「君が代」は帝国陸軍の行進曲にもアレンジされている。 それがどうして国歌として制定されてしまったのか ? 「日の丸」は帝国陸軍のいわば 軍旗である。それがどうして国旗として制定されてしまったのか ? 不思議としかいい ようがないが、当時の時代状況を考えると何となく答えが視えてくる。大東亜戦争敗戦 までの大日本帝国は、まさに「帝国陸軍の国」であった。国の最高権力者も一般国民も、 押しなべて帝国陸軍の統制下にあったといっても過言ではない。従って、官庁や学校、 そして庶民の家々もいつのまにか「日の丸」を国旗と錯覚して掲揚したのである。
軍は「日の丸」もどきの「旭日旗」を掲げたのだ。 次に「国旗及び国歌に関する法律」の第二条に書かれる「君が代」だが、これも元は 「天皇を讃える儀礼の曲」である。歌詞は「古今和歌集」巻七賀歌、詠み人知らずの古 おくよしいさ 歌から採取された。旋律は宮内省雅楽課に所属していた楽師、奥好義が曲をつけ、伶人 長の林広守がアレンジし、明治十三 ( 一八八〇 ) 年、宮中の天長節を祝う宴で初演され た。現在では何とも重々しい厳かな雰囲気 : : : 、というか、暗い、悲しい感じの湧く 説「君が代」だから、このテンボとメロディーではお世辞にも、大日本帝国下の国民を鼓 舞する歌には聞こえない。ただ、明治期から昭和初期にかけての「君が代」は、帝国陸 引軍の「日の丸」とセット物だったから、もっとテンポが早く勇ましい行進曲にもアレン 懈ジされていた。戦後は軍事色を払拭するためにわざとゆっくり演奏し、厳かな調子で聴 とかせているが、帝国陸軍の兵隊は満洲、中国、あるいはシンガポール、ビルマ、マレー などに進軍する際、大日本帝国の国威高揚のため、「日の丸」を担ぎ「君が代」のメロ 1 ディ 1 で勇ましく行進していたのである。 一方、海軍には世界的にも有名な「軍艦マーチ」があった。この「軍艦マーチ」は発
元々、性的な意味合いを持っていたのに今日では他の意味で使われている言葉といえ ば、代表的なのが「たわけ」である。いつだったか、プロ野球の星野仙一さんが中日の 監督時代に「何を言われてもかまわないが、たわけと言われるのだけは勘弁できない」 と、かんかんに怒ったというのが新聞記事に載っていた。怒りの理由は、「たわけ」が 名古屋地方では馬鹿にする意味の侮蔑用語だからと言うのだが、実はこの「たわけ」は なじ 単に馬鹿にするどころではなく、元々は近親相姦者を詰る言葉である。 粋 戦国時代の古くから使われる名古屋地方の侮蔑用語に「うつけ」と「たわけ」という のがあることは事実だ。この二つの侮蔑用語を現代では同じような言葉に捉えがちだが、 「本来は全く意味の異なる言葉である。の大河ドラマなどでも、信長が前田利家に ら 知「この、たわけが : ・ : 」などと平気で使っているが、当時、「たわけ」などと面と向か でって言われれば、たとえ信長が主君といえども利家は黙っていなかっただろう。 現「うつけ」とは単純に、どうしようもないの意味である。一方、「たわけ」は、異常な 章 生行為に結びつく言葉であった。「馬たわけ」、「猿たわけ」といえば獣姦のことだし、 9 第 「たわけ」とだけ言われれば、お前は近親相姦者、こう詰られたのと同義なのだ。
徳川幕府以前に存在した、現在の「日の丸」と図案的には同じ「白地に黒丸」や「白 はたさしもの 地に赤丸」の家紋や旗指物のことは、中央の丸が必ずしも太陽を意味せず、従って論外 なので省くが、そもそも「日の丸」が正式に集団を表象する旗として使われたのは、徳 川末期の一八五四年、安政元年が最初である。ペリー来航に驚いた徳川幕府が、薩摩藩 しまづなりあきら 主の島津斉彬の建議「大船の建造許可と日の丸国章の制定」を受け入れて、「異国船に 紛れざるよう日本総船印は白地に日の丸幟」と定めたのだ。こうして徳川幕府は「日の 丸」を対外的に日本船舶の標識として使用し、日米修好通商条約を批准するため、一八 六〇年、初めて太平洋を航海してアメリカに渡った幕府船咸臨丸も「日の丸」を掲げた。 つまり、最初の「日の丸」は、朝廷から征夷大将軍に補任された徳川将軍家による幕府 が諸外国に日本国船舶章として示した図案であって、今日でいうところの国旗の概念か らは外れた旗である。 程なくして大政奉還、王政復古の明治維新となり、徳川幕府の日本国船舶章「日の 丸」は賊軍のシンポル旗となってしまう。当然、明治天皇を頂点に戴く明治新政府は対 外国用の日本国船舶章 ( 諸外国にとっての日本国旗 ) を新しく制定すべきであったが、 いただ
では何故、オムスビを神奈備の山形というピラミッドそっくりの形にしたかというと、 古代出雲人は神奈備の山には神産巣日神が降臨すると信じていて、この神奈備の形に特 別の神秘を感じていたからだ。オムスビを食すれば神産巣日神の霊力が体内に宿る、こ う思っていたのである。今日、世界各国でピラミッドの形をした立体には不思議なパワ ーがあるとされ、プームのようなことになっているが、世界最古のピラミッドパワーは 神奈備の形を神秘とする日本にこそあり、それが神奈備型オムスビを食することなのだ。 ノ 60