モースも驚いた堂島「罫線表」 けいせん 現在の株式相場でも使われている「罫線表 ( ロウソク足 ) 」、これは元々、江戸期に 大坂堂島で米相場を対象に発案されたものである。現在の罫線表は、過去の相場、株価 の動きをグラフ化し、先の株価を擬似的に予想する資料として使われているが、江戸期 の米の相場師は、この罫線表を睨みながら米の先物取引を行った。 明治時代、お雇い外国人として来日したアメリカ人は、堂島の米相場で仲買人達が罫 線表を駆使して相場を張っているのを見て驚愕したという。堂島米相場の罫線表はシカ ゴやポストンの穀物取引所で使われているものと全く同じ仕組みであり、この罫線表を 穀物相場における新ソフトと自負していたアメリカ人には大変なショックだったのだ。 世界最先端、江戸期の通貨政策
は米を供給する大名に対して圧倒的に勝利できるようになり、江戸中期以降の大名の疲 弊に大きく関わることになる。罫線表は米の先物相場の予想以外に、大量に商いをする 仲買人が相場をコントロールできるという利点があり、これによって大名側は常に仲買 人に有利な形の取引を余儀なくされた。もっとも、罫線表の存在を知らない大名の方は、 なぜ自分達がいつも不利益なのかわかっていなかったのだが。極端ないい方をすれば、 罫線表の発明が大名と商人の経済力を逆転させ、やがて、この力関係が大名の頂点に立 っ徳川幕府の弱体化につながり、明治維新を導いたのだ。 しゅうあし 現代の株用語に「週足」というのがあるが、この「週足」に江戸期の罫線表のなごり がある。現在の罫線表は一週間が一つの単位だ。罫線表の始まりは月曜日の「寄り付 き」の値で表され、また、週足の終わりは金曜日の後場終了時の「終値」である。単純 に考えると誰もが正しい考えのように思うだろう。何しろ、月曜日の「始値」で始まり、 金曜日の「終値」で終わるのだから。 ところが、よく考えてみると妙であることに気がつく。月曜日の罫線表における始ま り、つまり週足相場の最初は月曜日の寄り付きではなく、月曜日の後場終了時の終値で
表すべきだからだ。なぜなら、週足の基本はその日の相場の上がり下がりを表す「日 あし 足」である。この「日足」を週単位でまとめたのが「週足」ということだから、週足最 後の罫線表が最終取引日の金曜日の後場の終値で表示されるなら、当然、「週足」の最 初も月曜日の後場終値で示すべきなのだ。なぜなら、「週足」の最初を月曜日の寄り付 き値にすれば、「週足」の黒罫線 ( 値段が下がること ) が連続していても、実際の取引 値は上昇していくという人為的な相場操作が可能となり、罫線の存在を知らない素人が 恵値段だけを追っていると、あたかも取引値は上がり続けているように錯覚する。つまり、 江戸期の米相場の仲買人たちはこの目くらまし的罫線表を駆使して、米を供給する側の の 本大名をカモったのだ。 日 驚 て 悪貨は良貨を駆逐せず め 改 しかし何といっても、江戸の経済概念で秀逸なのは、近代経済における通貨発行の考 章 え方よりはるかに未来的な「通貨制度」を採用していたことである。但し、なまじ通貨 第 制度が進みすぎていたがゆえに、日本人にとって痛恨ともいうべき損失も被った。この
第 2 章隠された「素顔」 「古事記」の語り部はイディオ・サバン症候群 謎の人物、稗田阿礼 / 早期自閉症の子供たち / 驚くべき古代の記 録システム / 日本武尊は英雄か、極悪人か 2 宮本武蔵は真言密教の行者だった 作り上げられた像 / 一一天一流の意味 / 「蘆雁図」が何よりの証拠 3 夏目漱石『坊っちゃん』とターナー 隠されたコンプレックス / ロンドンで神経衰弱となって見たもの / 壮大なるバロディー / 川端康成『古都』の盆栽 第 3 章改めて驚く日本人の「知恵」 世界最先端、江戸期の通貨政策 モースも驚いた堂島「罫線表」 / 悪貨は良貨を駆逐せす / 中央と
真の国旗は「錦の御旗」 こうして明治期の「日の丸」は正式に日章旗と呼ばれるようになるが、いつの間にか 帝国陸軍の軍旗のような使われ方をするようになる。そしてこれが、「日の丸」を日本 の国旗であると印象付ける原因にもなっていく。陸軍の「日の丸」に対し、今度は帝国 海軍に日章旗に倣った「旭日旗」という旗が誕生した。戦前の海軍も現在の海上自衛隊 も、掲げているのは「日の丸」ではなく「旭日旗」である。ただ、この「旭日旗」は、 形状が中央に日章、そこから十六条の光線放射という図案からもわかるように、帝国陸 軍の「日の丸」のバリエ 1 ションみたいなものだから、誕生以後も日本国内では「日の 丸」の一枚格下の旗と認識されていて、昭和六 ( 一九三一 ) 年の大日本帝国国旗法案 ( 廃案 ) の時にも「日の丸」のみが候補として提出され、「旭日旗」の方は国旗の図案 候補にはならなかった。 海軍の軍艦に掲げられるのは旭日旗、陸軍の歩兵や戦車は日章旗である。ただし、航 空隊では、日章旗も旭日旗も使われた。だからといって、飛行機乗りが好きな方の旗を 選べたわけではない。ただ単に、日本に空軍がなかったからである。航空隊は陸軍か海
510 円 530 円 510 円 530 円 510 円 520 円 480 円 510 円 線 表 が 生 み ー出 さ れ 発 明 に よ 彼 等 第 3 章改めて驚く日本人の「知恵」 の穀大大 っ達 を物 堂貝 が表 の引島塚 、ア た坂 れ見 そ等 堂末 で米 、同 、名 の線 米な の成先表 目相本物 を場 驚ー て島 、わ っ法確米 て記 に相 囃録 ら儲場仲 罫人 基本型 高値 終値 始値 安値 始値よりも終値が高い 場合は白く、安い場合 は黒く塗りつぶす 具体例 1 日目 1 日目 2 日目 3 日目 4 日目 2 日目 始値 500 円 510 円 530 520 510 500 490 480 3 日目 4 日目 高値安値終値 530 円 490 円 520 円 530 円 490 円 490 円 現在でも使われる「ロウソク足」 る 法 を 考 え 兀 さ た 方 か 罫 扱 て い 、彼最 は 物 れノし用 買 で 実 か 許 の た界米真越 で市相 場 と し て 知 ら れ た 星 で は 買 が 世 初 に 罫 を しゝ の を い っ の が で あ る 線 表 卓 し ソ フ ト に 付 け ば く つ た と の の人線 大 島 の 米 使 れ て い た た 罫 は 幕 期 に を で訪引 れ た ア メ リ カ い る 実 は メ リ カ の 日穀非 取 戸万 で 持 さ れ 。目ま取 当 た り に し に い た と し て と と ん じ シ ス ァ ム で 取 引 を 行 う 坂 を ほ訪発 た ど際有 本目 場 師 達 が ア メ リ カ の 本木 の で 、工 ド ワ ド モ ス も
らなる反発となり、最後は血迷って二条院の陵の塔を勝手に荒らし、自刃するまでに至 る。利休というと今では、したたかそうな人物像に描かれるが、何から何まで秀吉の手 のひらで踊らされたむしろ小さな人間なのだ。 ただ、秀吉の幽玄茶は残らなかった。武蔵や空海と同じく「一流」で、他が追従する ことができなかったからだ。それに対して利休の茶には多くの門下生がっき、「表・ 裏・武者小路」など流派が分かれ、三百年、五百年と続いていく。侘び茶は時間の経過 おりべ 説だから、伝世の美を求め続け、結果として枯れることがない。利休の後を継ぐ古田織部、 こぼりえんしゅう 小堀遠州の茶になると、侘びの伝世に、さらに「経過の終焉」が意識されるようになる。 引「時間のゆらぎ」までを閉じ込めようとしたのだ。こうしたことは茶碗など見ていると 懈よくわかる。本来の効用を考えれば、茶碗は曲がっていてはいけないもの、浅く開いた てんもく 擂鉢状なだけの器、「天目」で美は完成されたはずである。ところが織部の使った碗は、 用 誤 わざと曲がりくねりひび割れている。完成された質素の美を超え、朽ちていくものを表 章 現しようとしたのだ。侘びが寂びに崩れていく、そこには目に見えない時間のゆらぎが 第 あった。つまり、経過の果ての結果の境地を空想したのである。図らずも秀吉、利休、 ; すりばち
) こ。「いろは」は四十七文字、無論、四十七士を表して いに五十音よりいろは歌を用しオ いて、武士の手本という意味であった。「忠臣蔵」の「蔵」も表には出せない大石内蔵 助を暗示している。題名の『仮名手本忠臣蔵』を読み解くと「武士の手本である、忠臣 の大石内蔵助の話」となるわけだ。 さらにはもっと深いメッセージも込められていたのである。「いろは歌」といえば、 慣用的に七文字で区切って並べられる。 恵 いろはにほへと 知 ちりぬるをわか の 本よたれそっねな 日 らむうゐのおく てやまけふこえて 改 あさきゅめみし 章 ゑひもせす 第 この各行の最後の文字だけを取り出して読むと「とかなくてしす」、つまり、「罪が ノ 25
表当時から諸外国の評価も非常に高く、世界軍楽史上においても最高傑作の一つと言わ れた名曲である。ただ、 敗戦後は在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人の経営するパチ ンコ屋やキャパレーで意図的に大々的に流され、その品格を著しく失い、今日でも厳粛 な式典でこの曲が演奏されると何となく笑いが漏れ聞こえてきてしまう。 いずれにしても、本来国歌とは、アメリカやイギリスにみるまでもなく、静止静聴し、 国家を仰ぎ歌うものだ。一方、「君が代」は帝国陸軍の行進曲にもアレンジされている。 それがどうして国歌として制定されてしまったのか ? 「日の丸」は帝国陸軍のいわば 軍旗である。それがどうして国旗として制定されてしまったのか ? 不思議としかいい ようがないが、当時の時代状況を考えると何となく答えが視えてくる。大東亜戦争敗戦 までの大日本帝国は、まさに「帝国陸軍の国」であった。国の最高権力者も一般国民も、 押しなべて帝国陸軍の統制下にあったといっても過言ではない。従って、官庁や学校、 そして庶民の家々もいつのまにか「日の丸」を国旗と錯覚して掲揚したのである。
芭蕉が、門人である曾良を伴い江戸を発ったのは、「弥生も末の七日」、元禄二年 みちのく しもつけ ( 一六八九年 ) 三月。下野国 ( 現在の栃木県 ) から白河の関を越えて陸奥に入ったのが 初夏の頃。そして奥羽山脈を横断して出羽国に抜け越後路を下り、出雲崎に行き着き先 の句を詠んだのは、季節はもう秋、旧暦七月六日、七夕の前夜であった。 荒れる日本海に臨み、その向こうにあるはずの見えない佐渡を思う。芭蕉はそこで、 見えない佐渡に対して、「天の川」という見えない橋をかけた。現実の橋ではなく、宇 粋 宙の橋をかけたのだ。見えない佐渡を、悠久のかなたにあるという形で、その遠さを表 付現したのだ。芭蕉の想像力の凄さに、ただただ感服するばかりである。 ず ら 知「天の浮橋」ってどんな橋 ? で悠久のかなたに架かる「橋」といえば、「日本書紀」に書かれる、日本国土創生の神、 ざなぎ ざなみ 現 この「天 伊邪那岐と伊邪那美が天上界と地上界を行き来したという「天の浮橋」・ 章 の浮橋」とは、一体どんな橋だったのか。 第 「天の浮橋」はずっと古代史の謎とされてきた。舟との説もあるし、虹のことだという そら 755