いずれ会津は戦場になるだろう。たとえどのよ老梶原平馬が、会津に戻った。 はこだて うな状況になろうとも、この少年たちを戦場に狩横浜から箱館、新潟への長い航海を無事終え、 りだすのはしのびない。俺たちの手で敵を撃退し大量の小銃、大砲を会津城下に運び込んだのであ なければー 古屋は、思った。 「ご家老の梶原様が戻られたぞ / 」 まもなく古屋の衝鋒隊に越後出動の命令が下る。 「異人も一緒だ / 」 古屋は、楽隊を先頭に城下を行進し、越後に向 少年たちは、城下を触れ回った。 かった。越後には会津藩の領地がある。 梶原平馬の屋敷は、藩校日新館の隣である。 「古屋先生 / 少年たちは、会津藩の若い指導者たちに限りな ど、つけい 少年たちは、古屋の姿を追いかけた。 い憧憬を抱いている。 ながおか 古屋は、越後で戦い、長岡城が落ちると、再び なかでも梶原平馬に対する " あこがれ。は、最 会津に戻り、同じ幕臣の大鳥圭介とともに会津をも強か「た。会津藩ナンバー 2 という実力者に対 助けようと苦闘する。回復が困難と知るや、仙台する畏敬の念でもある。 たけあき えぞち に向かい、榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地に上陸、 少年は、誰しもが脳裏に夢を描く。 」りよ、つかく 五稜郭の戦いで、敵弾を受けて壮絶な戦死を遂げ その夢は、新式の大砲であり、西欧の文物であ る。 り、あこがれの人物に会うことだった。少年たち 古屋にとって、白虎隊との出会いは、忘れていたの多くは、梶原平馬に初めて会うのだ。 少年時代を思いださせるすがすがしい日々だった。 若くして江戸に上り、京都で過ごした梶原平馬 古屋の衝鋒隊が越後に去って間もなく、首席家は、十年以上も会津若松を離れている。
・著者紹介 星亮ー ( ほしりよういち ) 1935 年、仙台市生まれ。東北大学文学 部国史学科卒業。東北史学会会員。 くおもな著書〉「会津藩燃ゆ』「臼 虎隊とい名の青春」「仙台藩帰らざ る戦士た』「斗南に生きた会津藩の 人々』『松平容保とその時代』など、 現住所福島県郡山市田村町桜ヶ丘 2 ー 259 。
ち、いつはてるとも知れなかったが、梶原が姿を 顔を真っ赤にして、同じ東北人の手で東北を討 見せると、不思議に会談の場が明るくなった。 たせようとする、薩長の理不尽な要求に怒った。 持って生まれた梶原の器量である。 「梶原殿、私は、幕府の再興でなく、奥羽人の手 小さなことにはこだわらない、大人の風格があによる国家を作りたい」 たし力し 「うむ。米沢も広い大海にでたい」 ひざ 酒も強かった。 木滑も膝を乗りだして、杯を重ねた。 いくら飲んでも乱れることもないし、饒舌にな 五人は、脳裏に一つの夢を描いた。 しらかわ ることもない 奥羽の関門、白河をびたりと閉ざし、薩長兵を 若生文十郎も、梶原に会えば会うほど引きずり白河の関から駆逐し、ここに独自の国家を作るこ とである。 込まれるような魅力を感じた。 まさむね 「梶原殿、正直にいえば、我が仙台藩は、ずるい 若生文十郎は、藩祖政宗が成しえなかった天下 うえすぎけんしん といえる。薩長にこびへつらい、会津国境に兵を取りの夢を見、木滑要人は、上杉謙信の故郷、越 だし、一方では、貴藩に恭順を迫るという虫のよ後の大海にでることを夢見た。 さがある。しかし、私の本心は、敵は会津ではな 〈仙台、米沢、会津が手を握れば、流れは変わる〉 薩長だということです」 梶原は、前途に光明を見出し、 「判っている」 「今宵は飲むぞ / 」 たた 梶原はうなずいた。 と、手を叩いた。 この夜、五人は、したたか飲んだ。 翌日は、春の陽光が会津盆地に注ぎ、梶原は眼 くら 仙台の横田官平もなかなかの理論家である。 が眩んだ。 っ一」 0 じようぜっ ご こよい えち
梶原は、京都時代、後半から公用方の責任者ので深くつきあってきた。 ちざかたろうざえもんあまかすつぐしげ くもいたつお 地位にあり、その経験から、できれば外交力によ 米沢には千坂太郎左衛門や甘糟継成、雲井龍雄 って、戦いを延ばし、その間に軍備を整えるとい という俊英がいて、京都で梶原や手代木、小野と う戦略である。 よく酒を飲んだ。 三日目の夜、梶原は、若生文十郎と横田官平、 日頃、京都弁に苦しめられている会津の武士た 片山仁一郎、木滑要人を招いて会食した。 ちは、米沢の人々と飲むとき、方言のコンプレッ 「我が藩は勇ましいのが多くて頭も硬い。せつかクスから解放された。 くのご提案も議論百出、まとまらない お互いに郷里の漬け物を持ちより、 あやま 「ああーうまいなし 梶原が冒頭に謝った。 「無理もあるまい。しかし、このままでいくと仙 と、会津弁を使って、胸襟を開いた。 まつだいら 台藩と会津藩は戦うことになる。そうなれば薩長 だから、江戸から会津に戻った松平容保は、い の思うツボだ」 の一番に米沢に使いをだし、救援を依頼している。 米沢の木滑は憂えた。 梶原平馬も新潟から戻ると米沢に行き、米沢藩 うえすぎなりのりあいさっ 木滑と片山がここにいるのは、ゝ しくつかの理由主上杉斉憲に挨拶した。 があった。 そのとき、木滑にも会っている。 会津と米沢は、桧原峠を隔てて隣接している。 「私は、仙台の提案を呑むつもりでいる。その理 けんそ と、んかい 冬は、人を通さぬ険阻な山塊にはばまれるが、春由は、仙台と手を握り、同盟を結ぶことにある が来ると、お互いに交流が始まる。 梶原はそういって、笑みをもらした。 江戸で、京都で、会津と米沢は、同郷のよしみ 仙台、米沢、会津の三者会談は、いつも殺気立 ひばら ひごろ
「おい、篠田、何かが起こったらしい。城内の様 子が変だ」 「たしかにおかしい。重役たちがこもりつきりだ」 あだちとうざぶろう ぎさぶろう 安達藤三郎と篠田儀三郎は、心配そうな表情で 鶴ケ城の天守閣をあおぐ。 かたもり 城内では、藩主容保を中心に重臣たちの鳩首会 談が続いている。 せんだい 「殿、仙台が会津国境へ出兵を決めた由にござ じゅかい あいづ 春の会津は、鬱蒼とした樹海の中にあった。 います」 「なんと / ・」 会津の気象は裏日本型である。 長い冬が過ぎると、一気に春がやってくる。 容保の目は、うろたえている。 かじわら 「梶原、そちは、仙台藩の出兵をどう考えるか」 周囲の山々の雪が解け、樹林の緑が芽をふくと、 つるがじよう 鶴ケ城の桜は、たちまち満開となり、時おり、初「仙台藩は、藩内に二つの意見がございます。一 ただきとさ 夏のような暑さが会津盆地を襲う。 つは、会津に極めて同情的な首席家老の但木土佐、 たまむしさだゅう 参謀の玉虫左太夫らの救会派、もう一つは若年寄 春は、人々の動きを活発にした。 みよしけんもっ さっちょう 狭い城下町は、人の波であふれ、各地からひっ 三好監物らの薩長派です。三好らは、会津を討っ きりなしに早馬が鶴ケ城に駆け込む。 て官軍になるんだ、と但木らをつき上げておりま びやっこ 白虎隊の少年たちは、その都度、聞き耳をたてす」 て、城の様子をうかがうのだった。 「うむ。まさか本気で戦う気ではあるまい」 仙台藩出兵 , つっそう しのだ きゅうしゅ
◆◆◆ 蔵屋敷が建ち並ぶ会津の街道 ぶことになっているのだ。 梶原ら会津藩の人々は、七ケ宿街道関宿で待機 した。 〈一日も早く、奥羽諸藩の同志に会いたい〉 やまなみりようせんにら 梶原は、粗末な宿でじっと山脈の稜線を睨ん 奥羽諸藩の会談は、閏四月十一日から始まった。 うえすぎなりのり 米沢藩主上杉斉憲は、兵千五百を率いて、白石 に乗り込んだ。 「奥羽鎮撫使が会津の恭順を拒否したとき、米沢 も正義の戦いに踏み切るのだ」 上杉斉憲の並々ならぬ決意である。 白石には、奥羽諸藩の重臣が続々つめかけた。 各藩の代表者は次のとおりである。 ただきとさ さかえいりきたまむしさだゅうよこ 仙台藩但木土佐、坂英力、玉虫左太夫、横 たかんべい 田官平 ちざかたろうざえもんきなめりかなめたけまたみま 米沢藩千坂太郎左衛門、木滑要人、竹股美 なかさとたんげおおたきしんぞう かたやまじんいち 作、中里丹下、大滝新蔵、片山仁一 さか ろう
土湯峠からの眺望 この言葉に、一柳は、感泣した。 「かたじけない。酒を持て、酒を /. 」 ひやざけ 一柳は、姉歯と冷酒を酌み交わしながら、涙を 流した。 仙台藩兵の大半は、瀬上主膳のように会津との 戦いを疑問視した。 「戦いに名分がない。なぜ出兵するのか まんえん えんせん 兵士たちの間に、厭戦気分が蔓延している。 瀬上は、そのあたりの空気を察知して、会津陣 地へ姉歯をやったのである。 ちょ、つしゅ、つ おううちんぶ ところが、奥羽鎮撫下参謀、長州藩士世良修蔵 ちくぜん 配下の筑前一小隊が土湯峠に着陣して、仙台藩陣 地の様子はガラリと変わった。悪いことに、仙台藩 わかどしよりさなだきへいた 討会派の筆頭、若年寄の真田喜平太が一緒である。 「瀬上殿、何をしているのだ。我々は朝廷の命に より会津を攻撃するのだ。即刻、攻撃を始めろ / 」 と、激しく責め立て、筑前兵がやおら小銃を発 射したのだ。 瀬上は、姉歯に眼くばせをして、空砲を撃たせ せらしゅうぞう
「式 : 、ご 1 ; .1 鞦 鶴ケ城・茶壺櫓 梶原平馬は、この二、三日、暗い表情でうずく まっていた。 平馬にとって、最大の衝撃は、米沢藩の寝返り だった。白石の会合で何度も顔を合わせ、会津に きなめりかなめ もたびたび足を運んだ米沢藩重臣木滑要人が、越 後ロに向かい、越後ロ総督府に謝罪降伏嘆願書を 手渡した、という情報を得たからである。 この驚くべき知らせは、仙台にいる永岡敬次郎 から会津に送られてきた。 だま しかも、「会津に欺され候」とすべての罪を会津 にかぶせている、というのだ。 みにく 〈醜い〉 つうこく 梶原平馬は、痛哭した。 もはや勝っことは、不可能になった。 九月十四日から西軍は、総攻撃をかけてきた。 そくしゃ 「この日、西軍数万孤城を包囲し、一斉に速射し せきりゅうだん ろうろでんかく ごうぜん た。石榴弾は、楼櫓殿閣に当たって破裂し、轟然 しんどう 天地を震動し、殆んど人語を弁ぜず。死傷算なく しばしばおこ あた 城中火屡々起り、天守閣破壊して登ること能わざ 209
= = ロしたこと、もない の強さを知らなすぎる」 それに比べ、近隣諸藩には、長い交流の歴史が真田は、平気で但木らを批判してきた。 ある。 梶原は、仙台に送り込んだ密偵から真田の情報 理屈抜きの温かさがある。 を得ていた。 会談は、ただちに始められた。 〈いっか真田を味方にして見せる〉 せいかん 梶原は、仙台藩の情報を握っている。 梶原は、真田の精悍な顔をさりげなく見た。 ろうかし 但木は、老獪な政治家で、藩主慶邦の信任が厚「さて、梶原殿、会津藩が恭順とあれば、会津若 まっ く、仙台藩救会派の筆頭でもある。 松城の開城、藩主容保公の城外ご謹慎、謀主の首 たまむしさだゅう ぶんじゅうろう 配下には玉虫左太夫、若生文十郎、横田官平ら級の差し出し、の三つはお覚悟願、 カくへいたい がおり、仙台藩唯一の洋式部隊、額兵隊も但木の 但木がロ火を切った。 自がかかっている。 梶原の白い顔が紅潮した。 これに対して、真田喜平太は、反但木派の一人 唇を噛み、手を握りしめている。 である。当初から会津攻撃を主張していた。 「但木殿、開城、謹廩は覚吾の上だが、謀主の首 その理由は、会津と手を組んで薩長と戦っても級を出すことはできぬ」 勝てない、 という砲術家としての読みである。 梶原の低い声が、部屋いつばいに響いた しろいし かたくらこじゅうろう 真田は、白石城主片倉小十郎の家臣で、若くし「梶原殿、それでは困る。謀主の首級を出さねば、 お、フうちんし て江戸に出て西洋流砲術を学び、仙台藩西洋流砲奥羽鎮撫使は、会津の恭順を認めはすまい。その 術指南役の地位にあった。 ことはよくご存知であろう」 「仙台の軍備は遅れすぎている。但木殿は薩長兵 . 旧一・木・かしに よしくに かんべい
古屋は、必死に戦い、一時は、薩長兵を追いっしてほしい めたが、梁田宿のいたるところに火災が発生、収容保の温かい言葉に古屋は感泣する。 「会津のため、旧幕府の名誉のために存分の働き 拾がっかない。 新式大砲を持つ一千名の大軍が、僅か二百名足を御覧にいれます」 じゅうりん 古屋は決意を述べた。 らずの敵兵に蹂躙されてしまったのだ。 古屋も今井信郎も会津の激しい闘志に意を強く 古屋隊は初戦で無残にも敗れ、戦死六十数名、 かじわらへいま 負傷二十五名をだし、バラバラになって後方に逃した。首席家老梶原平馬の留守をあずかるのは、 ないとうすけえもん 梶原の実兄、内藤介右衛門である。 れた。 かやのごんべえ たなかとさ じんぼくらのすけ すずき この混乱のさなかに会計係の鈴木某が、馬に積ほかに田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛らの んだ軍用金八百両を持ち逃げする、という不祥事重臣がいる。 はたけやまご 古屋は久しぶりにかっての同僚である畠山五 も起きた。 ろうしちろう ふせしちろううめづきんや わきざし 郎七郎、布施七郎、梅津金弥らに会い、酒を酌み 古屋は、脇差を抜いて首を突こうとした。 今井信郎らが必死に止め、生き残った隊員たち交わした。 おおとりけいすけ は、古屋に雪辱を誓い、日光ロの五十里から会津「大鳥圭介殿もいずれ立つ。奥羽越諸藩も会津救 済に立ち上がっている。薩長は痛い目にあうぞ にたどり着いたのである。 えのもと まつだいらかたもり 会津藩主松平容保に拝謁した古屋は、梁田の敗「榎本殿の海軍もいずれは仙台に向かうと聞いて わ いる。おめおめと奴らの軍門に降ってたまるもの 戦を詫びた。 とばふしみ カ 「当藩も鳥羽・伏見で敗れた。貴君の無念の気持 わか 畠山と梅津は、杯を重ね、古屋も痛飲する。 ちはよく判る。城下で十分に休養し、屈辱を晴ら につ - 」、つ わず やっ おううえっ