新潟 - みる会図書館


検索対象: 星 会津白虎隊
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1. 星 会津白虎隊

あ一とがき 会津白虎隊の悲劇を残して会津藩は滅んだ。 京都守護職として、政治の中心にいた会津藩は、孝明天皇を毒殺するなど謀略 の限りをつくす薩長のやり方を憎んでいた。薩長もまた新選組を配下にして京都 の町を支配した会津藩を憎んだ。 抜きさしならない両者の憎み合いが背景にあったのは事実だが、会津も一度は 恭順の意志を固めた。しかし、薩長政府参謀世良修蔵は、平和的な解決を拒否し、 ついに全面戦争に持ちこんだ。 奥羽越列藩同盟の中心となったのは仙台藩である。 仙台藩の考えは、当初、平和的な解決だった。しかし、戦いで決着を図ろうと する薩長の考え方に激しく反発し、奥羽越を中心とする新たな連合国家の形成を 考えた。 このことの持つ意味は大きい。つまり、奥羽、越後という広大な地域の人々が、 薩長のやり方に抵抗したのである。 しかし、実戦に入ると、同盟軍は敗れた。初めから戦争を頭に描き、軍備の拡 張をしてきた薩長と、にわかに戦いに追い込まれた同盟軍の違いがあった。また、 榎本武揚の旧幕府艦隊の応援が遅れたことも痛かった。この艦隊が新潟港や平潟 港に向かい、海上に防衛線を敷けば、奥羽越同盟軍の勝利もありえた。 東北、越後は、空しく敗れ去ったが、その反骨の気風は、永く東北、越後の風 土に残った。もともと、東北、越後は、雪にとざされた厳しい自然のなかにあり、 223

2. 星 会津白虎隊

新発田城 のだ。 河井継之助は、同じ越後の人間に足をすくわれ 新潟港で武器の陸揚げをしていたエドワード・ シュネルも銃を取って戦った。 「逃げるな。戦え /. 」 米沢藩の新潟港責任者色部長門もピストルを手 に防戦した。 しかし、新発田藩兵を先頭とする、強力な西軍 の前に撃ち殺された。 西軍は新潟の街に火を放ち、新潟港を奪い取っ えのもとたけあきめ 「榎本武揚奴 /. 」 梶原平馬は、男泣きに泣いた。 榎本が艦隊の一部を割いて、越後の海を守って くれれば、むざむざと新潟を奪われることはなか っ , 」 0 「無念だ」 梶原は、唇を噛んだ。 いろべながと 144

3. 星 会津白虎隊

戊辰戦争の全貌がよ 新潟藩を守ってい ( よねざわ 白虎隊記念館 色部長門日記 ・Ⅱ・ 1 0 く半る た米沢藩重臣、色・ べながと 同盟軍、西軍の資料、写真、地図等 部長門は、詳細な日記を残している。 ( が展示され、白虎隊士の手紙、両軍が この日記によると、新潟では、再三・ 使用した大砲、小銃、弾丸など興味ある資料も多い にわたって、会津、米沢、庄内の会議が開かれてい・ 十六橋の戦い、城下の戦いなどもパネルや絵で紹る。 ひじかたとしぞう いたがきたいすけ うえすぎけんしんまっえい ・介され、松平容保と土方歳三の会見図、板垣退助の米沢藩は、かって越後に君臨した上杉謙信の末裔 ( 鶴ケ城望見の図、白虎隊士自刃の図などもよく描かであり、井の中の米沢から広い越後にでたい、 ・れている。 う願望を持っていた。 やまかわおおくら ( 会津藩では、明治以降、、山川大蔵の『京都守護職新潟の会議には、会津藩首席家老梶平馬、会津 ( ひらいしべんぞう やまかわけんじろう ・始末』、平石弁蔵の『会津戊辰戦争』、山川健次郎の藩軍事顧問、ヘンリー・シュネルがいつも出席して・ きたはらまさなが 一『会津戊辰戦史』、北原雅長の『七年史』などを次々おり、会津が中心になって、新潟対策に当たってい一 一に発表、会津藩の心情を訴えた。国定教科書に賊軍たことが判る。 一として扱われた時代である。 色部長門は、実直で信望のある人物で、米沢藩で一 ここの記念館は、いわば視覚を通して会津の正義の評価は高い。 ( を訴えており、民間の立場で、会津史の研究や観光海は世界に通じる玄関であり、同盟軍の指導者た ( ( に寄与している。 ちは、新潟の海を見ながら、同盟国家の形成を夢見 ( た。日記には、新潟や庄内の商人も数多く登場。商 一『道しるべ』会津若松市飯盛山マ会津若松駅前 ( から市内観光バスで飯盛山下車。 人もこの戦いに賭けたことかうかがえる。もし、同・ 盟軍に軍艦があれば、という思いがする。 史蹟 探訪 スポット

4. 星 会津白虎隊

首席家老梶原平馬の顔は蒼白である。 安達は、本音をばつりと漏らした。 だてまさむねまっえい 長岡城奪回は、待ちに待った朗報だが、新潟港 「永岡、仙台は、伊達政宗の末裔ではないのか。 陥落が事実とすれば、同盟軍は、壊滅的な打撃を なぜ弱いのだ」 かわさき 「川崎先生 ( 洋学 ) は、軍備が遅れているといって受けることになる。 ひなわ よろいかぶと 〈小銃が手に入らなくなる〉 いる。火縄が多く、鎧、兜を身に着けて出兵する うめ 梶原平は、申いこ。 兵士もいる、というのだ」 たまむし 「しかし、玉虫先生のような洋行帰りの人もいる」越後の戦いは、紙一重の差で、同盟軍が致命的 カくへいたし 「うん。なんでも額兵隊という洋式部隊があるそな敗北を負ったのだ。 かわいつぐのすけ 河井継之助は、見事な奇襲作戦で、長岡城を奪い うだ」 「早く出てきてほしい」 返し、西軍は大量の武器弾薬を残して、逃げ去った。 ころ そこまでは良かったが、同じ頃、西軍軍艦二隻 二人は、空を見上げながら語り合った。 こっぜん と輸送船四隻が、新潟の海に忽然と姿を現わした。 その後ろには、三十隻近い漁船が、武器、弾薬、 七月二十八日、会津藩軍事局は、朝から動顛し ていた。 食糧を満載して漕いでくる。 たゆうはま ながおか 新発田の太夫浜に上陸が始まった。 「長岡城奪回 / 」 新発田藩は、同盟の一員のはずである。 「新潟港奪わる / 」 しかし、新発田藩兵は、西軍軍艦を沖合に誘導 いう驚くべき知らせが、ほば同時に入った からである。 し、兵器、食糧の荷揚げを手伝いだした。 ひそ おううえっ 西軍に秘かに通じ、奥羽越列藩同盟を裏切った 「なに卩」 ほんね どうてん そうはく 143

5. 星 会津白虎隊

☆榎本艦隊 福良の恋・ ☆城下町・会津のたたずまい炻 新潟奪われる : ☆白虎隊記念館 ☆色部長門日記 津川に敗走 : 痛恨母成峠 : ☆母成峠 ☆亀ケ城跡 士中二番隊出陣 : ☆会津武家屋敷 ☆白虎隊自刃者 戸ノロ原 : ☆滝沢本陣・横山家 171 171 172 146 136

6. 星 会津白虎隊

恐れていた陸前浜街道が、戦場となったのだ。席家老の梶平馬も急ぎ帰国した。 輪王寺宮が、出立しようとした日、会津鶴ケ城「殿、もとより死を決した我らです。何を恐れる に、救援を求める早馬が着いた。 ことかあ一りましょ一つ」 「平が危ない / 」 「判っている」 松平容保は、棒立ちとなった。 「あとは会津武士の意地を、天下に示すだけです。 平が落ちれば、西軍の一部は一気に相馬、仙台天は必ず我らに味方します たなぐら 攻撃に向かい イの部隊は棚倉から白河に向かう 「うむ だろう。 容保は、じっと梶原を見つめた。 そうなれば、白河の仙台兵は、一層浮き足立ち、梶原平馬には、最後のよりどころがあった。 大混乱になるだろう。その結果、白河の回復は不 江戸湾にいる榎本武揚の艦隊である。 可能になる。 仙台、米沢とともに榎本に再三使者を派遣、艦 会津藩重臣たちの顔から、血の気が失せた。 隊の出動を要請していた。 輪王寺宮は、同盟軍の危機を知らない。 榎本の艦隊が出動すれば、西軍は補給が困難と 再び盛大な見送りを受け、会津から米沢に向か なり、逆に同盟軍は、自由に新潟、仙台の港を使 えるのだ。 鶴ケ城に一人残された会津藩主松平容保は、悄「榎本よ立て / 」 ぜん 然と泣いた 梶原は、斤っこ。 新潟に出張し、ヘンリー・シュネル、弟のエド 梶原は、久し振りに三の丸に足を運んだ。 ワード・シュネルと越後の防衛策を練っていた首「あいつらは、何をしているのか しよ、つ

7. 星 会津白虎隊

砦に火を放ったのだ。もはや支えることはでき 1 ー 津川は、かっては会津藩の ~ オし 領地であり、会津と新潟を ~ 白虎隊の少年たちは、泣きながら、津川まで退 ~ 結ぶ水上交通の要衝として栄えた。 あが あがの 却・した。 会津と越後は、阿賀川、阿賀野川 ~ 津川では、阿賀野川を挾んでの銃撃戦となった。 ~ の水運によって結ばれていた。新潟から海産物、 ~ いカた にんじん 会津軍は、川岸にある小舟や筏をことごとく持・塩などが送られ、会津からは、漆器、人参などの ち去ったので、西軍は、阿賀野川を渡ることはで ~ 特産品が運びだされた。 ・山国の会津の人々にとって、雄大な越後への旅 ~ きない ~ は憧れの一つだった。 「馬鹿野郎。泳いで来い ~ 戊辰戦争では、武器、弾薬の補給路として、使 こちらから叫ぶと、対岸から、 ・われ、エドワード・シュネルが陸揚げした武器が ~ 「いまに見てろ。ぶつ殺してやる」 ~ Ⅱを上った。川ぞいには、いたるところに舟溜り ~ こ と、応答があった。 ・があり、川ぞいの人々が人夫として舟を漕いだ。・ しかし、油断は禁物だ。 ~ 津川には、当時の資料が各所に残っており、会・ ふじもりはちたろうたかさき 不用意に川岸に出た白虎隊の藤森八太郎、高崎 ~ 津と越後の交流、戊辰戦争時の武器の運搬を知る ~ 駒之助が、流れ弾に当たって戦死した。 ~ うえで、欠かせない場所である。 白虎隊に続々戦死者が出た。 . 近くには、温泉もあり、歴史の旅にふさわしゝ・ ~ 所である。 〈恐ろしい〉 赤羽幸記は、実戦の凄まじさに息を呑み、夕暮 ( 一道しるべ』¯æ磐越西線津川駅で下車。町を散 ( 3 ぼうぜん 策するとよい。車だと会津若松から一時間 れの川岸に呆然と立ち尽くした。 とりで 探史 訪蹟

8. 星 会津白虎隊

あだち であり、列藩要人がひきもきらず、会津を訪れた。 「安達 / 俺はフランスが好きだ。フランス語を め 外国商人の姿も見え、白虎隊の少年たちは、眼勉強する」 を丸くして城下を飛び歩いた。 「お前は、調子が良すぎる」 まなざし 少年たちがもっとも好奇心を抱いたのは、ヘン 安達は、、。 しつも警戒の目差で、異人や外国の製 リー・シュネルの家に作られた蒸気の釜である。 品を見ていた。 おうしゅう ブオー、ブオー 奥州街道は、白河が西軍に奪われたため、外国 蒸気が吹き出す音に、こわごわと群がった。 製品のすべては、新潟から運ばれた。 「あれは、自分の国に帰りたくて泣いているんだ 越後こそは、同盟軍の玄関である。 「いや、人を騙す悪魔の仕業だ」 少年たちは、皆、未だ見ぬ新潟に産れた。 , つわさ 噂は噂を呼んだ。 さかた ほんま ともさぶろ、つ また、服装もありとあらゆるスタイルが会津に 越後には、酒田の豪商、本間家の本間友三郎が 入り込んだ。 「金に糸目はつけない。、 フランス陸軍の制服、イギリス式の軍服を着た とんどん新式銃を買うの 兵士、上は洋服、下は袴、両刀を差さずに肩から はこだて ピストルをつり、小 友三郎は、蒸気船をチャ 1 ターして、箱館から 銃を手にした兵士、実に様々 の人が、会津に入ってきた。 小銃、弾薬を運んでいた。 ながおかせいじ 相変わらず取材力が旺盛なのが永岡清治である。 河井継之助の戦いぶりもさすがである。 フランスとイギリスの軍服の、細かな違いまで調 河井は、激しい闘志を燃やした。 きへい べあげ、得意げに解説する。 戦いは初戦で、長州の奇兵隊に壊滅的な打撃を びやっこ かま おれ た 110

9. 星 会津白虎隊

新潟を流れる信濃Ⅱ た 「撃て / ・撃つのだ / どうてん 長岡藩兵は気も動顛した。 対岸からは援護の砲弾が、うなりをあげて落下 する。 ひらじろ 長岡城は、平城である。 会津の鶴ケ城と違って、戦争にはまったく向か ゝ 0 オ . し 大砲で攻められたら、ひとたまりもない。 「敵襲だあ / 」 長岡の町は、たちまち狂乱の場と化した。 「畜生奴 /. 」 河井継之助は、ガットリング砲を曳いて迎撃し ダダダダダ : 二門の速射砲が真っ赤な炎をあげて、弾丸を撃 ち出した。 敵兵をバタバタと撃ち殺していく。 だが、戦いの勢いは、西軍にある。 町のいたるところに火を放ち、町民は争って逃 113

10. 星 会津白虎隊

せめく さっちょう 地獄の責苦だった。 〈冬を前に薩長軍が会津に攻めてくる。そのとき れいき 「江戸に帰ったのは、予の誤りであった。今後は こそ、我々は霊鬼となって戦うのだ〉 何事も家臣たちとともに歩む」 容保は、決心していた。 容保は、そういって家臣に詫びた。 容保は会津武士の頭領として、弱すぎる、とい その姿に、会津兵は感極まって泣いた。 う批判かあった。 かぜ せんびようしつ たしかに、体は弱い。腺病質でよく風邪を引「殿が悪いのではない やまい く。京都時代は、半年間も病に臥せっていたこと「殿を無理に連れ去った慶喜公が憎い 「それなのに慶喜公は、会津を見捨てた」 があった。 家臣たちは、主君をいたわった。 精神的にも、育ちの良さからくる、弱さがあった。 よしのぶ 容保と家臣たちは、以前にもまして、鉄の団結 いつも慶喜の言いなりになり、進言する強さを で結ばれた。 持たなかった。 そのことが、鳥羽・伏見の戦いの際に、大きな 新潟を手中に納めた西軍は、一気に新発田から 問題を残す、行動となって現われた。 戦いが敗北と決まるや、家臣を大坂に残したま津川に進攻した。 ま、慶喜とともに軍艦で、江戸に逃げ戻ってしま新発田から津川へは、山越えの会津街道を通ら ねばならない。 ったのだ。 みかわ 現在の県道新発田ー三川線である。 〈家臣を捨てるとは、主君にあるまじき行為〉 あかだに ほば中間に赤谷がある。 藩兵たちは、怒りを爆発させた。 ここは、峠の頂上に当たる。 容保は、そのことを気にし、日夜、悩み続けた。 150