会津藩校日新館は、五代藩 王城の護衛に当たり、 まつだいらかたのぶ 日新館 京都守護職 主松平容頌が五年の歳月 治安を維持する最高の を費やして完成した。 責任者である。 まつだいらかたもり 日新館の日新とは、「日々に新たな 松平容保は、一千の会津藩兵を率い ・り」に由来したもので、朱子学と神道を基礎に、藩て京都に上り誠心誠意、職務を遂行した。当時、京・ ・士の子弟に文武両道を教えた。 都は、急進的な尊攘派によって動かされ、彼らは天・ ュニークな学科としては、医学寮、蘭学科もあり、誅と称してテロ行為を重ねていた。 一医学寮では、内科、外科、小児科、痘瘡科、本草科容保は毅然たる態度でテロを抑え、明治天皇の父・ ( 薬科 ) があった。 君、孝明天皇の絶大な信頼を得た。 一蘭学科では、オランダ語の原書を使って、医学、 会津肥後さま京都守護職っとめます あんど 軍事、製薬などを学んだ。 内裏繁盛で公卿安堵トコ世の中 一日新館は、戊辰戦争ですべて焼失したが、会津若 ようがんしょ ・松市郊外に復元され、当時の姿をしのぶことができ 京の街でこんな歌が流行した。 中心にある大成殿には、孔子をはじめ、顔子、曽 一時は、薩摩と手を握り、長州の過激派を追放し 子などの大理石像が安置され、春、秋には、孔子祭たが、薩長同盟が結ばれて、幕府・会津対薩長の争 ・りか盛大に行なわれる。また当時、使用した教科書、 いか激化した。 教材なども展示されている。 やがて、薩長が一部の公卿と手を結んでクーデタ ( 一『道しるべ】 会津若松市郊外、河東町高塚山 ーを断行、明治天皇を奪い、幕府・会津に宣戦を布 ( 一会津若松駅より猪苗代行きバス高塚団地入口下車。告、鳥羽・伏見の戦いとなった。 史蹟 探訪 スポット ひご 1 は
復元された藩校日新館大成殿 会津の少年は、、。、 しずれも真面目で誠実で義理堅 いのである。 それは会津藩校日新館の教育によるものだった。 会津藩校日新館は、城下に壮大にそびえていた。 きよ、つわ 約五年の月日を費やして、享和三年 ( 一八〇三 ) に完成した。面積八千坪に及ぶ一大学問の殿堂で ある。 ー会津の発展と領民の幸せには教育の充実しか かたのぶ 十 / 」し ーという五代藩主容頌の決断によって造られ たもので、以来、六十五年間にわたり、会津藩士 の精神がここで錬えられてきた。 そどく 入学年齢は十歳から十二歳で、入学すると素読 しょ こうていちゅう 所に入り、読み書きを習う。併せて、孝弟、忠 しんとくじっ 信、篤実などの武士道教育を受けた。 ー人を愛して我が身を愛さず、あるいは君を諫 め、あるいは国家の大事をはかり、たとえ、そ の事なしおおせがたく、たちまち危険身に迫る とも、死をかえりみず、身を殺して、仁をなさ きた 15
「エイツ 1 」 と、鋭い声が響く。 一日千本は居合抜きをしないと気がすまない、 という激しい気性の持ち主なのだ。 すご 「おい、あの凄い声を聞いたか」 「聞いた。俺はかなわない」 「当たり前だ」 ひそ 安達らは、秘かに噂し合っていた。 「姉の竹子様は、凄いが、妹君は、可愛い」 中野竹子 篠田が、ばつりといったことがあった。 安達も優子を一目見たときから、顔が赤らんだ。 4 そ、つぼう ふつくらした顔、長い髪、じっと見つめる双眸 が、少年たちを息苦しくさせた。 翌日、藩校日新館の大成殿の前に安達と篠田が 期せずして誘いあい、日新館に来たのである。 日新館は壮大である。 東西百二十五間三二五メートル ) 、南北六十四間 ( 一一五メートル ) に及ぶ学問、武道の大殿堂で、 どころこうし まっ その精神のより処が孔子を祀る大成殿である。 大成殿の祭壇には、孔子とその弟子たちの大理 石像があり、安達らは登校すると、まずここで礼 拝し、心を清めた。 「安達、俺は女子に心を奪われたことを反省して 「気にするな、正直にいえば俺もだ。戦争が終わ れば、女子と話すこともできよう。それまでは忘 れるのだ」 たいせいでん
会津藩関係年表 年号西暦 会津藩関係 慶長六 一六〇一蒲生氏、会津の領主となる。 寛永四一六二七加藤氏、会津の領主なる。 二〇一六四三保科正之会津の領主となる。 寛文八一六六八四月一一日ⅱ会津藩、十五箇条の家訓を制定。 元禄九一六九六一二月九日 = 保科正容、将軍より松平姓を与えられる。 寛政一一一七九九会津藩校日新館の建設に着工。会津藩土地分給制を実施する。高田屋嘉兵衛択捉航路を開設。 享和元年一八〇一十月Ⅱ日新館完成。 文化五一八〇八一月Ⅱ幕府より蝦夷地警備を命ぜられる。 七一七一〇二月Ⅱ幕府より相模湾一帯の警備を命ぜられる。 弘化三一八四六尾張徳川家の分家高須藩松平義建の六男容保 ( 一一一歳 ) 、会津 藩八代藩主松平容敬の養子となる。 四一八四七二月一五日Ⅱ幕府より安房、上総の海岸防備を命ぜられる。 参考資料 二月一二日Ⅱ家康征夷大将軍に。 213
て会津に送られてくる。 ざえもん ふるやさく 三月二十二日には古屋佐久左衛門の率いる衝 ひ 鋒隊が入城した。小銃を肩に大砲を曳いた数百名 の洋式部隊である。 きよ、つカく 白虎隊の少年たちは、驚愕してこの部隊に見入 っ , 」 0 「隊長の古屋先生は、偉い方なそうだ」 少年たちは、隊員の宿舎となった藩校日新館を 都見たくばここまでござれ 遠巻きにしてのぞき込んでいる。 あいづ いまに会津が江戸になる 「あっ / 隊長だ」 わかまっ こんな唄が歌われるほど会津若松は異様な賑わ古屋が、日新館の校門にでてきた。 いを見せている。 「おい、生徒たち、学校を占領して悪いな」 会津城下には、援軍の兵が続々つめかけ、市内大声で少年たちに呼びかける。 の寺院は、これらの人々でいつばいである。 「そんなところに立っていないで、もっとこちら つるがじよう 鶴ケ城の倉庫には、大量の米が運び込まれ、新に集まれ / あが 潟からは、干魚や塩漬けが阿賀川を経由してどん 「ハイ / 」 どん運ばれてくる。 少年たちが歓声をあげて古屋を取り巻いた。 さっちょう 関東では旧幕府兵と薩長軍との間で戦闘が始「いいか、会津は必ず勝つ。俺がついている。君 まっており、負傷者が担架に乗せられて陸続としらは大いに勉強して、待っておれ 愕 の 日 々 にぎ びやっこ おれ につしんかん しよ、つ 2
☆は〈史蹟探訪〉を☆は〈スポット〉を示す。 末曾有の危機 : ☆日新館四 ☆京都守護職四 横浜の異人館 : ☆会津藩のヨーロッパ伝習生 驚咢の日々 : ☆衝鋒隊肪 仙台藩出兵 : ☆奥羽鎮撫総督府肥 青春のときめき : ☆会津鶴ケ城 仙台・米沢・会津会談 : ☆会津藩軍事病院 火を噴く土湯峠 : ☆土湯峠矼
「薩長も奇兵隊は、ならず者の集団だ。武士が名 川崎は、日新館の一角に設けられた弾薬製造所 乗って斬り合う時代ではない」 で、大砲、小銃弾の製造を手伝っていたが、少年 会津藩首席家老梶原平馬は、うなった。 たちを集めては、壮大な夢を語った。 会津でも博徒の部隊が編成されたが、活躍した「いいか。白河の敵をやつつけるには、大砲だ。 という記録はない。 巨大な大砲だ」 白虎隊の少年たちも寄るとさわると、 いかに勝 川崎の構想は、会津鶴ケ城の前方にそびえる背 あぶりやま つかの議論に夢中だった。 炙山に巨大な砲台を築き、そこから白河を攻撃す 河井継之助のガトリング砲に驚きを覚え、細谷るというものである。 十太夫の鴉組に胸をときめかせた。 背灸山と白河の距離は、十数里 ( 五十数キロ ) も ある。 「ここにいると気がいらいらする」 「早く戦場にでたい 誰も信じ難い表情で川崎を見つめた。 「敵をやつつけるぞ / 」 大人たちは、一笑に付し、 「薩長の馬鹿野郎 / 」 「そんな馬鹿な」 少年たちは、お互いに怒鳴り合った。 と、信じようとしない。 につしんかん かわさきしようのすけ こうしたなかで、日新館洋学教授、川崎尚之助しかし、少年にとって、川崎の話は、夢そのも のであった。 の大砲論が、少年の好奇心をくすぐった。 いつも熱心に川崎に質問したのは、士中一番隊 川崎尚之助は、京都時代に会津藩に抱えられた やえこ やまもとかくま 洋学者で、砲術師範山本覚馬の妹、八重子と結婚の永岡清治である。 し、会津に来ていた。 「先生、どんな大砲ですか」 だれ 116
ー婦女子の一一一一口、一切聞くまじきことー 江戸、京都から藩邸詰めの妻女が続々会津に帰 おきて おと 会津藩には男女に関する厳しい掟がある。 り、そのなかに、少年たちの胸をときめかせる乙 につしんかん 藩校日新館の生徒の恋愛など許されるはずはな女が数多くいたのである。 言葉には出せないが、少年たちの心の奥深く 生徒たちは、道ばたで女子に会うと、逃げるよ都会育ちの美少女の姿が焼き付いて離れなかった。 かんじようやくなかのへいない なかのたけこ ゅ、つこ うに早足になる。 勘定役中野平内の娘、中野竹子、優子の姉妹が、 だが、内心は違っていたのだ。 会津に戻ったとき、藩校日新館の生徒たちは、そ 十七歳の上級生になれば、それぞれの胸に女子の美貌に驚きの声をあげた。 に対するほのかな思いがあったのだ。 竹子は、道ですれ違っただけで全身に稲妻のよ 安達も篠田も、無言のままだった。 うな衝撃が走った。 この夜、二人は、同じように妄想にさいなまれ 目が大きく、その笑顔は、こばれるような華や かさがあり、腰のあたりの色香は、大人たちの目 追い払っても追い払っても、脳裏に女体が現わをも奪った。 としま ほほえ れ、につこり微笑むと、くるりと後ろを向いて逃二十二歳、当時としては年増に入るが、全身に げ去るのだ。 あふれるばかりの大人の魅力があった。 かわい その可愛らしい胸のふくらみが、網膜に焼き付 竹子に対する驚きは、美貌だけではない。 き、二人は、何度も寝返りを打ってうなされた。 男をしのぐ武術の達人という点でも、少年たち この頃、白虎隊の少年たちが婦女子に関心を抱の度肝を抜いた。 いたのには、一つの理由があった。 竹子の家の前を通ると、 ゝ 0 ころ
も、容赦なく銃弾が飛んだ。 い浮かべた。 「ああ 1 」 秋月は数ある教授の中でも、最もこわい先生で あびきようかん ある。 阿鼻叫喚が、中ノ作港を包んだ。 こうようにん 眼をおおう残酷な光景だった。 京都で公用人として活躍し、会津に戻って少し 七月十三日、孤立した平城に、西軍が攻め寄せた。の間、漢学を教えた。 こ、つさかすけだゅ、つ 平藩城代家老上坂助太夫は、三百名の藩兵を率秋月は、幼少より学問を好み、日新館の秀才の 城を守った。 一人だった。 一時は、激しく砲撃を加え、敵をひるませたが、十八歳のとき、江戸に上り、漢学を修め、二十 しょ , っへいこ、つ 千五百を超える優勢な西軍の前に、死傷者が相次二歳で幕府昌平黌に入った。 しノ 足掛け十一年、ここで学んだ秋月は、二人の友 弾薬も切れた。 人を得た。 はらいちのしんさつま しげのやすつぐ 「もはやこれまで」 水戸藩士原市之進、薩摩藩士重野安繹である。 こうど、つかん 上坂助太夫は、城に火を放って逃れた。 原は、帰国後、水戸藩校弘道館教授を勤め、そ の後、京都に出て、徳川慶喜の刀として活躍した。 けいお , っ 「一体、会津はどうなるのだ」 慶応三年 ( 一八六七 ) 八月、不幸にも幕臣に襲わ 「負け戦ばかりではないのか」 れて命を落としたが、天下にその名が響いた俊英 とうぎぶろう 福良から戻った安達藤三郎らは、事態が一段とである。 緊張の度を深めていることを、肌で感じた。 秋月が京都で大活躍ができたのも、原の友情に あきづきていじろう 安達は、日新館漢学教授秋月悌次郎の顔を、思負うところが大きかった。 につしんかん 140
2 日新館素読所 世の中に神がいるとすれば、宮こそが神ではな いのか、安達は、そう思った。 さっちょう 刻々と薩長が会津国境に迫り、日々、多くの犠 牲者を出し、心に不安と動揺の隠せない会津の 人々にとって、輪王寺宮は、まさに守護神そのも のだった。 宮は、再び駕籠の人となった。 宮の駕籠が城内に入ると、城下の人々は、夜遅 くまで町角にたたずみ、その余韻に酔い知れた。 安達の家に集まった少年たちは、日中の興奮を 語り合った。 「これで我らも官軍だ」 野村が胸を張った。 「宮様はずうっと会津にいるのだろうか」 もちろん 「勿論だ」 「そうだろうか ? 「俺はいると思う」 誰しもが、宮の会津滞在を望んだ。 一番それを望んだのは、主君松平容保であった。 だれ 122