母成峠 - みる会図書館


検索対象: 星 会津白虎隊
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1. 星 会津白虎隊

あだたらやますその 安達太良山の裾野に広がる高地の一つで、この源之進の持ち場だった。 きゅうきょ 地の猟師を道案内に、進撃してきた。 田中隊には、ロクな小銃もなく、急遽、大鳥圭 大鳥軍は、母成峠の前方に前線基地を置き、警 介が守備に就いたのである。 戒に当たっていた。 七月初め、ここを四千余の仙台兵が、米沢に向 気付いたときには、包囲されていた。 かって退却していった。 大鳥軍は、抜刀して立ち向かい、活路を開いて 仙台兵がここに留まっていれば、敵の進攻など 母成峠の陣地に駆け戻った。 わけなく撃退できたに違いない。 猪苗代での作戦会議を終え、母成峠に戻った大〈いまさらいっても始まらん〉 きたはらはんすけ はら 鳥圭介は、 会津軍参謀の北原半助は、肚を固めた。 「ついに来たか / 夜に入ると、遠くに炎が見えた。 と、吐き捨てるようにいっこ。 敵の本営だろう。 大鳥の伝習歩兵は、日光の戦いで兵器、弾薬を 会津軍の手薄な防備を、あざ笑うかのように、 消耗し、かっての伝習歩兵ではない。 何か所にも火の手が上がっている。 江戸から大量の補給を受けている西軍に、はた「敵は明朝攻めてくる / 」 して何日耐えられるか、大鳥は危嶼していた。 八百名の大鳥、会津、二本松の連合軍は、母成 ばんだいあたみ 母成峠は、郡山市の磐梯熱海温泉から猪苗代に峠の山頂に散開した。 ドガーン 通じる母成グリーンラインの頂上にある。そして、 いま見晴らしのいい高台に、記念碑が建っている。霧のなかから、砲声が響いた。 ごうぜん ここの守備は、元来、猪苗代ロ守備隊長の田中 伊地知正治は、母成峠の下に大砲を運び、轟然 こおりやま よねざわ 156

2. 星 会津白虎隊

☆榎本艦隊 福良の恋・ ☆城下町・会津のたたずまい炻 新潟奪われる : ☆白虎隊記念館 ☆色部長門日記 津川に敗走 : 痛恨母成峠 : ☆母成峠 ☆亀ケ城跡 士中二番隊出陣 : ☆会津武家屋敷 ☆白虎隊自刃者 戸ノロ原 : ☆滝沢本陣・横山家 171 171 172 146 136

3. 星 会津白虎隊

会津藩にとっては痛恨の峠 猪苗代町の中心部にある。 母成峠 亀ケ城跡 である。 会津若松の鶴ケ城に対し、猪苗代には 西軍の会津攻撃は、枝葉を刈って根亀ケ城を配し、敵の侵入に対処した。 ほしなまさゆき ょにつ 本を枯らす、という戦略で、白河を奪城の近くには会津藩祖保科正之を祀る土津神社が ( ~ い、越後を攻め、じわじわと会津国境に迫った。 あり、猪苗代は、会津の聖地でもあった。 いたカきたいすけ たかはしごんだゅう 西軍参謀板垣退助は、郡山から入る楊枝峠を攻め戊辰戦争時の猪苗代城代は、高橋権太夫で、母成 ( ・る、といいふらし、手薄な母成峠を攻撃し、一気に峠破れる、の知らせを受けるや、城に火を放って会 ~ ・会津城下に突撃した。 津若松に逃れた。 ~ 母成峠は、険しい山あいの峠で、会津軍は、大砲母成峠を下ると、猪苗代の盆地が一気に開けてく・ ・を並べて防備していたが、二千を超える大軍の前に る。西軍は何の抵抗もなく、猪苗代を通過し、十六 橋を攻めることになる。 ~ 敗れた。 ・仙台藩がすでに白河を去り、三春藩が西軍に寝返 猪苗代には、我が国第三位の広さを誇る猪苗代湖・ ~ り、西軍の先導として会津攻撃に加わる始末で、痛がある。西軍は、舟を調達して、湖を渡り、対岸か・ ~ 恨の敗戦を喫した。 ら会津に攻め入った、という説もあるが、定かでは・ オし ・現在、母成峠には、戦死者の供養碑が建っており、 ・頂上からは、はるかに会津盆地が見渡せる。ここを いま、猪苗代に立って、当時の状況を考えると、・ . 突破した西軍は、破竹の勢いで、猪苗代から十六橋せつかく出城があるのに、何らなすところなく会津 . ・に・回か一つことになる。 に逃れた猪苗代兵の不甲斐なさが気になる。 . 『道しるべ』マ郡山市の磐梯熱海温泉から猪苗代『道しるべ』マ福島県耶麻郡猪苗代町古城跡 ・ヘ通じる母成グリーンラインの頂上 磐越西線猪苗代駅からバス亀ケ城跡入口下車 ~ 探史 訪蹟 みはる 162

4. 星 会津白虎隊

と撃ちだした。 と、あらん限りの声で叫び、ばったりと倒れた。 さくれつ 砲弾が炸烈し、雷鳴のように山々を震動させた。「まさか卩」 はずか きよ、つカく 「幕府伝習歩兵の名を辱しめるな」 主君容保は、驚愕した。 わず 大鳥圭介も、銃を取って撃った。 城には、僅かの兵しか残っていない。 霧のなかから、軍服姿の西軍兵士が見えてくる。「直ちに重臣、将校を集めろ / 」 たが 伝習歩兵は、ネライ違わず撃ち殺した。会津軍梶原平馬が、下知した。 も五門の大砲を間断なく発射し、敵兵を吹き飛ば それにしても情報が遅い。 した。 敵は、二十日に石筵口に攻め入り、二十一日早 しかし、敵の狙撃兵が、山頂に迫ってきた。 朝、母成峠に攻め込んでいる。 「ああー」 母成峠と会津若松の距離は、十五里 ( 六十キロ ) 伝習歩兵が一人、また一人、敵の銃弾に当たっ に過ぎない たお て斃れていく。 早馬を飛ばせば、二十一日の午後に、第一報が わず 頂上の胸壁に残るのは、ごく僅かの兵だけにな入るはずである。 った。大鳥、会津連合軍は、バラバラに退却を余〈なんたることだ〉 うろた 儀なくされた。 梶原平馬は、狼狽えた。 八月二十二日の早朝、土煙をあげて一頭の馬が、幕府歩兵奉行まで勤めた大鳥圭介ほどの人物が、 鶴ケ城に駆け込んだ。 なぜ知らせてくれなかったのだろうか。容保も、 ながおかごんのすけ ぼうぜん 馬上の永岡権之助は、怒気満面、馬を下りるや、呆然とした。 「母成峠が敗れた / 」 攻め寄せる西軍には、破竹の勢いがある。 158

5. 星 会津白虎隊

至米沢 ・若松城下への道 土湯峠 喜多方 当津月に 母成峠 ) ( 至 壺石筵 、下楊枝峠 浜海 御霊櫃峠牟 十勢至堂峠川 長沼郡 、白河 廴鳥井峠 塩川十猪苗代 野沢 坂下滝沢峠橋 若松。赤猪苗 若松城井 - 代湖 舟津 福良 只見 只見川 六十里越 田島 至日光

6. 星 会津白虎隊

順しかござりませぬ」 容保の前後を、白虎士中一番隊の少年たちが、 固めている。 と、説いた 容保の心も揺れた。 〈この子らのためにも、予は、会津武士の誇りを、 しくさ 当時、戦などしたくはない、 という気持ちが強世に示さねばならぬ〉 っ一」 0 カ / 容保は、気をとり直して、鶴ケ城へ急いだ。 いえない しかし、 家臣たちを、大坂に置いてきたことが、容保を 八月二十日、 ためらわせた。 会津国境の山々は、紅葉し、朝夕、冷気が山脈 とど あのとき、家臣と一緒に大坂に留まっていれば、を包んだ。 西軍の会津進攻は、時間の問題となっていた。 容保は、違った決断を下せたかも知れなかった。 じちまさはる いたカきたいすけ だが、家臣を捨てたことで、会津藩兵の憤激は伊地知正治、板垣退助を参謀とする二千五百の ぼなり いしむしろ 西軍は、石筵の関門、母成峠に攻め込んだ。 強まり、抗戦の道をつつ走らざるを得なかった。 ようじ ごれいびつ っちゅ せいしどう 会津軍は、勢至堂峠、楊枝峠、御霊櫃峠、土湯 容保は、そのレールに乗って、ここまで来た。 かじわらへいま おううえっ 首席家老の梶原平馬が、奥羽越を駆け回り、 峠に兵力を分散しており、母成峠は、日光口から でんしゅう おおとりけいすけ 転進した大鳥圭介の旧幕府伝習歩兵四百を主力 〈あるいは勝てるかも知れぬ〉 たなかげんのしん と、いう夢を抱かせてくれた。 に、田中源之進隊、二本松藩兵約八百で守ってい 〈梶原、苦労をかけた〉 いなわしろ 容保は、馬にゆられながら、遠くの山塊を見つ峠は、二本松の西約十七キロ、猪苗代の東十一一新 キロにあった。 めた。 びやっこ につこ、つ やまなみ

7. 星 会津白虎隊

ぼなり 飯盛山に至る道 十六橋は、母成峠に次ぐ会津の防衛線だ ( 2 滝沢本陣・横山家 十六橋 は白河街道へつ った。十六橋は、猪苗代湖の水が注ぐ急 ながる会津街道であった。寛文年間に流に架けられた石橋で、この橋を落とすと、西軍は ( この街道の滝沢口に本陣が設けられ、 ここで足止めを食ってしまう。 一江戸へ参勤交代で上る際、歴代藩主はここで旅装を板垣退助は、スパイを放って、このことを調べて一 かわむらよじゅうろう ・ととのえた。また領内巡視の際は休憩所として用い おり、薩摩の河村与十郎が先陣を切って、たどり着 ~ ( た。飯盛山の入り口にあり、戊戦戦争のとき、藩主松 さがわかんべえ 一平容保は前戦指導のため、白虎隊を伴ってここに入 会津軍の指揮官は、歴戦の士、佐川官兵衛である。・ 一つた。白虎士中二番隊四十名はここから戸ノロ原に当然のことながら、橋桁の破壊を命じたが、その作・ 一出陣。翌日二十名を戦場で見失った隊士たちは、戸ノ業に手間どっている間に、西軍の先鋒が来てしまっ・ ・ロ堰の洞門を抜けて飯盛山に退き、炎上する鶴ケ城 た。会津軍はなぜか、母成峠から十六橋の戦いに後・ ( の黒煙を見て落城と思い、隊士そろって自刃。一人手をとっている。 一飯沼貞吉が鮮生して、その様子が後世に伝わった。 明らかに籠城戦の戦略に欠けていたためで、首席一 一本陣は国の重要文化財として保存され、歴代藩主家老梶原馬ら会津藩首脳の失敗といえた。 一が使用した身の回り品、古文書類が残され、一般に 歴史に仮定はないが、ゲリラ戦を得意とする日光一 ( 公開されている。 ロの山川大蔵が会津若松にいれば、もっと違った戦一 また、柱や壁などに弾こんが生々しく残り戊辰戦略を立てたのではないだろうか。 争の凄まじさを今にとどめている。 『道しるべマ国道四十九号線、日橋川近く マ 『道しる 0 マ 会津若松市一箕町滝沢一一三。 会津若松駅前から盤梯高原行きバスで銀橋下車。 ( 一会津若松駅前から金掘行きバス、滝沢下車。 史蹟 探訪

8. 星 会津白虎隊

びやっこよりあい 井上は、白虎寄合の一番隊長に任命されたが、 老齢のためまもなくこのポストを降り、幼少組頭 になっていた。 「会津武士の誇りを、天下に示すのじゃ / 」 井上は、キリリと鉢巻を締め、真っ白い足表を 履いている。 〈死ぬ覚悟だ〉 安達は、井上を凝視した。 「ついに来たか」 井上の両眼から一滴、二滴、糸を引くように涙 あだちとうざぶろう かく宀い 安達藤三郎は、家を飛び出し、夢中で郭内二之が流れている。 しのだぎさろう 丁の篠田儀三郎の家に走った。 「先生、敵を倒して見せます」 ぼなり 「篠田、母成峠が破られた」 篠田が叫んだ。 め 「聞いた。畜生奴 「うむ」 二人は、連れだって三の丸に向かった。 井上は、大きくうなずき、目頭を押さえた。 三の丸に行くと、殺気立った空気がビリビリと 二の丸をのぞくと、兵士たちが、狂人のように 伝わった。 走り回っている。にわかづくりの守備隊を編成し ているのだ。 「おい、安達、出陣じゃ /. 」 いのうえおかずみ 槍を持った井上丘隅が、仁王のように立ってい 「安達、命を賭ける日が来た」 きっさき 篠田は、愛刀を抜いて、切先を見た。 士中二番隊出陣 やり たび 163

9. 星 会津白虎隊

あいづ 二本松を攻め落とした、西軍の大部隊は、会津 国境に兵を集結した。 「なんと卩」 容保は、眼を閉じた。 えちご つがわ 越後路は、津川で防ぐことができる。 あがの 阿賀野川は、 月帳かあり、水も深い。簡単に渡 河することはできない。 おうしゅうじ 奥州路は、会津に入る道が数本もある。ここを 戦況は確実に悪化した。 守るには、兵力を分散するしかない。 かたもり つるがじよう 野沢にいる主君容保のもとに、鶴ケ城から伝令 もし、西軍が一つの道から、一気に侵入すれば、 か届い 防ぎ切ることは難しい おうしゅう わかまっ 奥州街道の同盟軍は、容保が野沢に出立した 容保は、会津若松に戻る道中、複雑な思いにか 日、優勢な西軍に襲われた。 られた。 三春藩が突然、西軍に寝返り、三春藩兵を先導大坂から江戸に引き返したとき、国もとから家 にほんまっ さい」うたのも こくさんぎようかわはらぜんざえもん とする西軍兵が二本松に、総攻撃をかけた。 老の西郷頼母と国産奉行の河原善左衛門が駆けっ 「二本松武士の意地を見せるのだ」 けて来た。 にわいちカく 城代家老丹羽一学は、全藩あげて迎え討った。 そのときの光景である。 少年隊も壮絶な戦死を遂げ、丹羽一学は、城に 二人は、 火を放って割腹した。 「もはや会津は敗れたも同然。会津を救う道は共 痛恨母成峠 のざわ みはる め 154

10. 星 会津白虎隊

こんどういさみ 近藤勇 城下町・会津のたたずまい 土方歳三 おきたそうじ 沖田総司 会津若松の城下町は織田信長の家臣、 ~ 力もううじさと それはヒーローであった。 蒲生氏郷によって構築された。 安達も篠田も、食い入るように土方を見詰めた。 ~ 氏郷は酒、漆器といった産業を興し、市を開設 ~ ・して町を造った。戦国時代の古い町だけに、城下 またたく間に一週間は過ぎた。 ・には様々の史跡がある。 会津城下に帰る日、キヌの姿は見えなかった。 あか 鶴ケ城、白虎隊士が眠る飯盛山、御薬園、滝沢・ 安達が、ほろ苦い悲しみを噛みしめながら、赤 ~ くろもり ふもと ・本陣、会津武家屋敷、会津藩校日新館、会津村な ~ 津を経て、黒森峠に差しかかったとき、麓の茶屋 ~ どのほかに町のいたるところに昔ながらの食べ物、 ~ にキヌ力いた ・懐しいお菓子、竹細工の店などが点在し、城下町 ~ 「安達 / 」 ~ の魅力の一つになっている。蔵造りの店も多い・ 篠田がいった。 ・会津の宿はなんといっても温泉である。新選組・ キヌは、じっとここで待っていたに違いなかっ ~ の土方歳三が足の傷を治した東山温泉、日光街道 ~ ゆかみ あしのまき ・ぞいには芦ノ牧温泉、湯の上温泉がある。 しらぶたかゆ 米沢街道には白布高湯温泉、旧日光街道、郡山・ キメは、かすかに笑みを浮かべると、あの時と . から会津に入る国道的号線中山峠の入り口には磐 ( 同じように走り去った。 なかのざわ だいあたみ ~ 梯熱海温泉、母成峠には中ノ沢温泉がある。 安達の束の間の青春、だった。 野天風呂も各所にあり、旅の疲れをいやしてく・ 遠くで砲声がした。 れる。 会津国境に刻一刻と敵兵が迫っていた。 っ