「薩長をやつつけるのだ」 赤羽幸記がいうと、期せずして鬨の声が上がっ 自らの国を守り、母を守り、愛する弟妹を守る 男の決意である。 「オオー」 〈やるぞ / 〉 少年たちは、肩を組んだ。 安達藤三郎は、篠田の肩に手をかけながら心に 少年たちの眼に涙が浮かび、頬を伝って流れて誓った。 さかもとおお 戊辰戦争の勝負を決める 、仙台藩は参媒坂本大炊ら多数の犠性者をだし、 白河城跡 重大な戦闘が行なわれた。戊辰戦争敗北の遠因となった。 わず 同盟軍は、白河の戦いを重要視し、仙 現在、公園となり、僅かに城壁が残っている。こ・ ほうふつ 台、会津の連合軍でここを死守しよう こを散策すると、当時の戦いが髪髴と浮かんでくる。・ とした。 白河市内が一望に見渡せ、前方に立砂山、神山、 ~ せいしどう ・白河は、もともと奥羽の関門であり、西は勢至堂荷山など戦闘のあ「た小高い山々が広が「ている。 ~ ・峠を経て会津若松に通じ、東は棚倉から浜通りの平、戊辰戦争後、薩長藩閥政府は、「白河以北一山百文、 ~ すかがわこおりやま ・北は須賀川、郡山、二本松、福島を経て仙台、米沢と奥羽に対して冷たい態度を取った。この言葉は、・ に至る軍事上の拠点である。 奥羽人の心に怨念として残り、現代にも尾を引いて・ 白河の戦いは、戊辰戦争の白眉ともいうべき大激 ・戦で、慶応四年四月二十五日の第一回会戦では地の なお白河市が白河城の再建を検討している。 ・利を得て西軍を退けたが、五月になって西軍は攻勢 道しるべ 』マ白河市郭内地内マ—æ東北新幹 ( かたもり に転じ会津藩は、容保側近の一人、横山主税を失な線新白河駅から棚倉行きバス在来線の白河駅前下車。 探訪 ほお とき よこやまちから 100
つわもの えカわじろう きむらじろう この日の午後から陸続として戦死者の遺体の一田勇太郎、木村次郎、江川次郎の強者がいる。 腰に小刀を帯び、 部、遺品、蚤我人が運ばれてきた。 なにせ会津藩だけで四百名を超す戦死者である。「我らは、白河に出撃を願いでるのだ」 こ、つ力し しようぜん 白虎隊の隊員たちも悄然として、この光景に見と、悲賁慷慨している。 「よし、我々も出陣の準備だ / ・」 入った。 安達藤三郎が、叫んだ。 父や兄がこのなかにいる。 いぬまさだきち そこへ飯沼貞吉が駆けつけて来た。 城下のあちこちで、すすり泣きの声が聞こえた。 おえっ 飯沼貞吉は、白河口軍事総督西郷頼母の甥であ 遺体を囲んで、嗚咽の輪が広がる。 妻や子が髪を振り乱して泣いた。 飯沼に白い眼が集中した。 「ひどい」 「飯沼、お前の叔父上は、何たる様だ。恥を知れ / 」 「薩長奴」 ばせい かたき 罵声が飛んだ。 「仇を討ってやる」 あだちとうざ一ふろうしのだぎさろう 飯沼は、下を向いたまま泣いている。 安達藤三郎と篠田儀三郎も眼を真っ赤にして、 「飯沼には関係ない。責めるのは止めろ / 」 無残な敗北の姿に声をつまらせた。 安達がいった。 「仲間を集めるのだ / ・」 しかし、隊員たちは、あまりの敗戦に気も狂わ 安達が叫び、二人は、隊員たちの家を回った。 んばかりに顔を引きつらせている。 士中も寄合も足軽もない おれおやじ につしんかん 「鹿野郎 / 俺の親父は死んだのだ」 日新館に続々、隊員たちが集まった。 寄合隊の赤羽幸記もいた。赤羽の周りには、池隊員の一人は、わめきながら、壁を蹴りあげた。 だゅ、ったろ、つ る 0 ざま
き三 き、首席家老梶原平馬は、天守閣に上がって、白 一河の方角をんだ。 たきざわ 数頭の軍馬が、滝沢峠を駆け降りてくる。 〈勝利か、敗北か〉 梶原平馬は、思わず眼を閉じた。 馬は土煙をあげて城内に駆け込み、傷ついた伝 令が、落馬した。 梶原の胸が騒いだ。 梶原は、夢中で天守閣を駆け降りた。 不吉な予感は当たった。 〈頼母奴、油断したな / ・〉 梶原の体を激しい怒りが貫いた。 かぎ 同盟軍の勝利の鍵は、白河なのだ。 おうしゅう 奥州の関門、白河を守ることによって、奥羽は 一つの王国を堅持し、薩長の西軍と対等の形で対 ~ に一一 " 。峙できるのだ。 白河の敗北は、誕生したばかりの奥羽列藩同盟 に水を差す重大問題なのだ。 かたもり そ、つはく 主君容保も顔面蒼白、声もない。 白河城跡 こら
原早太使用の刀剣 原は、破顔一笑した。 「返事をせい /. 」 安達は、寄合隊をうらやましく思った。 だれ 安達らは、一斉寄合隊は、続々指導者が強化され、誰の目にも こに卩 出兵近しを思わせた。 一。 ~ 〈 ( ~ ~ 豪傑で知られる「赤羽、寄合隊は〔ずれ越後」出兵する。越後は はらはやた 広いぞ。そこで思い切り暴れるのだ。明日から猛 原早太がいた 「諸君、今度、寄訓練だ / ・」 原は、そういうと、足音を立てて姿を消した。 7 ~ 合一番隊頭に命ぜ 安達は、話に聞く越後を連想した。 られた」 原はそういって、 信濃川、阿賀野川の二つの大河が広大な越後平 少年たちを見渡し野を流れ、青々と繁る水田があった。 海には蒸気船が浮かび、小銃、弾薬を下ろして 剣道が滅法強い。 日新館の道場で少海からは、果てしなく世界が広がっている。 年たちは、朝から〈越後に行きたい〉 晩までしごかれた。 安達は、ばんやりと思った。 しし , カ この頃の会津には、夢があった。 「赤羽、 白河の戦いは、厳しいが、いっか薩長を破ると 薩長をやつつける いう自負心があった。 ぶを肥 ころ
☆松平家御廟 ☆七ケ宿街道間 ☆御薬園新 ☆孝明天皇のご宸翰新 世良誅殺 : ☆奥羽越列藩同盟 無残白河城 : ☆白河城跡燗 長岡立っ ☆慈眼寺 巨大な大砲 : ☆会津の街道Ⅲ ☆鴉組Ⅲ 輪王寺宮・ 七ケ宿 : 白石会談 : 109 101
わかどしより かのまた せのうえしゅぜんものう 仙台藩参謀坂本大炊は、仙台藩若年寄で実戦を 大隊長瀬上主膳 ( 桃生郡鹿又領主 ) 指揮する瀬上主膳、佐藤宮内は、ともに仙台藩切 歩兵五小隊砲兵一小隊 さとうくない っての武闘派であり、えりすぐった精鋭を配下に 大隊長佐藤宮内 ( 伊具郡小斎領主 ) 白河に乗り込んだ。 歩兵三小隊砲兵一小隊 おううえっ 兵員は士官、兵卒約六百名、その他農兵、人夫会津軍総督西郷頼母は、今回、奥羽越の命運を決 める戦いにあえて起用され、白河に来たのである。 を入れ約千名である。 とくカわ 副総督横山主税は、まだ二十代の青年で、徳川 会津藩 さいごうたのも 上下 総督西郷頼母 上下 よこやまちから 副総督横山主税 砲兵隊一隊約百二十名 コココっ すざく 朱雀隊四隊約四百名 砲兵隊 せいりゅう 軍車伝習隊 内藤家 青龍隊四隊約四百名 東西会津兵 げんむ ニ本松兵 玄武隊一隊約百名 仙台兵い鶸猪苗代湖一 遊撃隊一隊 代門 会義隊一隊 苗 純義隊一隊 集義隊一隊 計千数百名である。 両軍合わせると、二千数百名の大部隊である。 こさい 白河口防備図 H 橋川 上下 方峠 -- 諏森一 大峠勢至堂峠 白河 - 山王峠
戊辰戦争は、我が国初の総力戦だっ・ 会津の交通は、会津城下 会津の街道 を起点として、白河街道、 二本松街道、米沢街道、越後街道、沼武士だけでは、戦いに必要な兵員を確保できない。・ 田街道、日光街道などが四方に走って西軍も同盟軍も農民、漁民、あらゆる人々を兵士と・ . したいずれも険しい山々を縫うようにして走り、 して採用した。明治の徴兵制度のはしりである。 ほそやじゅうだゅうからすぐみ 国境には峠があって敵の侵入を防いでいた。 細谷十太夫の鴉組もその一つで、第一線では武士 ( ・それぞれ重要な用途があり、白河街道は、勢至堂よりも強かった。徳川三百年の太平に直れた武士は、・ ・峠を越え、白河で奥州街道と合流し、江戸と結ぶ街戦うことを忘れており、 一般民衆の方が、強い場合 ( もあった。 ・道としてにぎわいを見せていた。 会津藩でも農兵を積極的に取り入れた。勇名をは・ 二本松街道は楊枝峠を越え、奥州街道に合流した。 ・越後街道は別名津川街道、新発田街道ともいわれせたのは、田島の農兵隊で、数百人くらいの農兵が、・ 阿賀野川水運と合わせ、大いに利用された。越後街西軍と対戦した。道を誘導すると見せかけて、山道・ に誘い込み、取り囲んで撲殺した。 ・道は海に通じる唯一の街道でもあった。 ・日光街道は、会津街道とも呼ばれ会津若松から大また日光ロでは、会津軍の猟師隊が活躍した。 す しカり このあたりには、熊、猪、狐など多くの獣が棲ん・ ・内宿、田島を経て山王峠を越えて五十里にでる。こ やまかわおおくら の街道は参勤交代の道としても利用され、また江戸でおり、猟師が多い。会津藩の山川大蔵が山岳戦に 猟師隊を活用し、西軍の侵入を防いだ。 . への廻米もここから運ばれた。 会津への道は、現在もほば同じで、二本松街道、 ただ、会津藩にとって借しまれるのは、白河口、 . 越後街道は国道四号線、日光街道は、国道川号線と猪苗代ロで、農兵の組織が見られなかったことであ して、会津経済の重要ルートになっている。 スポット 鴉組
ないとうすけえもん 首席家老梶原平馬の兄、内藤介右衛門が、指揮 を執り、自らも出陣するのだ。 三の丸に士中一、二番隊八十名が整列した。主 君容保が、中央の壇に立った。 ラッパが鳴って、少年たちは、一斉に容保に敬 礼した。 かたわ 容保の傍らに、白馬にまたがった喜徳がいる 肩に肩章、胸に金モール、金筋入りの赤ズボン という西洋軍服である。 七月十日ー びやっこ いまや 「諸君たちは、立派な会津の兵士である。 「白虎隊出陣 / 」 会津は、諸君たちの双肩にかかっている」 の触れが、城下に回った。 内藤介右衛門が演説した。 白虎士中一、二番隊に、ついに出動の命令が出 あだちとうざぶろう 安達藤三郎がいる。 たのだ。 しのだぎさろう 篠田儀三郎がいる。 少年たちは、狂喜した。 ながおかせいじ よしのり かたもり しらかわ 永岡清治がいる。 白河の戦いを督励する容保の養子、喜徳を護衛、 いぬまさだきち ふくら いなわしろ 飯沼貞吉がいる。 猪苗代湖の南岸、福良に向かうのだ。 あいづ 少年たちは、上は詰襟の洋服、またはマンテル、 白河の敵を駆逐しなければ、いっかは会津国境 よしつねばかまきやはん が破られる。何としても、白河城を奪い返さなけ下は黒ズボンか、義経袴に脚絆を付けた、わらじ ばきの姿である。 ればならない 福良の恋 0 かじわらへいま 0
恐れていた陸前浜街道が、戦場となったのだ。席家老の梶平馬も急ぎ帰国した。 輪王寺宮が、出立しようとした日、会津鶴ケ城「殿、もとより死を決した我らです。何を恐れる に、救援を求める早馬が着いた。 ことかあ一りましょ一つ」 「平が危ない / 」 「判っている」 松平容保は、棒立ちとなった。 「あとは会津武士の意地を、天下に示すだけです。 平が落ちれば、西軍の一部は一気に相馬、仙台天は必ず我らに味方します たなぐら 攻撃に向かい イの部隊は棚倉から白河に向かう 「うむ だろう。 容保は、じっと梶原を見つめた。 そうなれば、白河の仙台兵は、一層浮き足立ち、梶原平馬には、最後のよりどころがあった。 大混乱になるだろう。その結果、白河の回復は不 江戸湾にいる榎本武揚の艦隊である。 可能になる。 仙台、米沢とともに榎本に再三使者を派遣、艦 会津藩重臣たちの顔から、血の気が失せた。 隊の出動を要請していた。 輪王寺宮は、同盟軍の危機を知らない。 榎本の艦隊が出動すれば、西軍は補給が困難と 再び盛大な見送りを受け、会津から米沢に向か なり、逆に同盟軍は、自由に新潟、仙台の港を使 えるのだ。 鶴ケ城に一人残された会津藩主松平容保は、悄「榎本よ立て / 」 ぜん 然と泣いた 梶原は、斤っこ。 新潟に出張し、ヘンリー・シュネル、弟のエド 梶原は、久し振りに三の丸に足を運んだ。 ワード・シュネルと越後の防衛策を練っていた首「あいつらは、何をしているのか しよ、つ
「薩長も奇兵隊は、ならず者の集団だ。武士が名 川崎は、日新館の一角に設けられた弾薬製造所 乗って斬り合う時代ではない」 で、大砲、小銃弾の製造を手伝っていたが、少年 会津藩首席家老梶原平馬は、うなった。 たちを集めては、壮大な夢を語った。 会津でも博徒の部隊が編成されたが、活躍した「いいか。白河の敵をやつつけるには、大砲だ。 という記録はない。 巨大な大砲だ」 白虎隊の少年たちも寄るとさわると、 いかに勝 川崎の構想は、会津鶴ケ城の前方にそびえる背 あぶりやま つかの議論に夢中だった。 炙山に巨大な砲台を築き、そこから白河を攻撃す 河井継之助のガトリング砲に驚きを覚え、細谷るというものである。 十太夫の鴉組に胸をときめかせた。 背灸山と白河の距離は、十数里 ( 五十数キロ ) も ある。 「ここにいると気がいらいらする」 「早く戦場にでたい 誰も信じ難い表情で川崎を見つめた。 「敵をやつつけるぞ / 」 大人たちは、一笑に付し、 「薩長の馬鹿野郎 / 」 「そんな馬鹿な」 少年たちは、お互いに怒鳴り合った。 と、信じようとしない。 につしんかん かわさきしようのすけ こうしたなかで、日新館洋学教授、川崎尚之助しかし、少年にとって、川崎の話は、夢そのも のであった。 の大砲論が、少年の好奇心をくすぐった。 いつも熱心に川崎に質問したのは、士中一番隊 川崎尚之助は、京都時代に会津藩に抱えられた やえこ やまもとかくま 洋学者で、砲術師範山本覚馬の妹、八重子と結婚の永岡清治である。 し、会津に来ていた。 「先生、どんな大砲ですか」 だれ 116