米沢藩 - みる会図書館


検索対象: 星 会津白虎隊
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1. 星 会津白虎隊

梶原は、京都時代、後半から公用方の責任者ので深くつきあってきた。 ちざかたろうざえもんあまかすつぐしげ くもいたつお 地位にあり、その経験から、できれば外交力によ 米沢には千坂太郎左衛門や甘糟継成、雲井龍雄 って、戦いを延ばし、その間に軍備を整えるとい という俊英がいて、京都で梶原や手代木、小野と う戦略である。 よく酒を飲んだ。 三日目の夜、梶原は、若生文十郎と横田官平、 日頃、京都弁に苦しめられている会津の武士た 片山仁一郎、木滑要人を招いて会食した。 ちは、米沢の人々と飲むとき、方言のコンプレッ 「我が藩は勇ましいのが多くて頭も硬い。せつかクスから解放された。 くのご提案も議論百出、まとまらない お互いに郷里の漬け物を持ちより、 あやま 「ああーうまいなし 梶原が冒頭に謝った。 「無理もあるまい。しかし、このままでいくと仙 と、会津弁を使って、胸襟を開いた。 まつだいら 台藩と会津藩は戦うことになる。そうなれば薩長 だから、江戸から会津に戻った松平容保は、い の思うツボだ」 の一番に米沢に使いをだし、救援を依頼している。 米沢の木滑は憂えた。 梶原平馬も新潟から戻ると米沢に行き、米沢藩 うえすぎなりのりあいさっ 木滑と片山がここにいるのは、ゝ しくつかの理由主上杉斉憲に挨拶した。 があった。 そのとき、木滑にも会っている。 会津と米沢は、桧原峠を隔てて隣接している。 「私は、仙台の提案を呑むつもりでいる。その理 けんそ と、んかい 冬は、人を通さぬ険阻な山塊にはばまれるが、春由は、仙台と手を握り、同盟を結ぶことにある が来ると、お互いに交流が始まる。 梶原はそういって、笑みをもらした。 江戸で、京都で、会津と米沢は、同郷のよしみ 仙台、米沢、会津の三者会談は、いつも殺気立 ひばら ひごろ

2. 星 会津白虎隊

会津城下に一瞬の平和が戻った。 保全を代償に、秘かに西軍に通じ、和平交渉を始 〈おかしい〉 めていた。 と、西軍が気付いた時、山川の兵は城に近づい 会津藩首脳は、まだこのことを知らない。 そうま ていた。 仙台藩は、相馬ロの戦いが激化し、会津救援ど 「走れ / 」 ころではなかった。西軍は、仙台藩の会津救援を 山川が鋭く下知し、一気に城門に駆け込んだ。 阻止するため、八月上旬から相馬に大部隊を送っ ていた。 〈高い城壁、深い濠、この天下の名城があれば、 こまがみねはたまき 冬まで戦いを持ち越してみせる〉 相馬藩が寝返って相馬国境駒ケ嶺と旗巻峠の仙 山川には、自信があった。 台軍は、一方的に押しまくられた。 よねざわ ただきとさ さかえい この間に仙台、米沢など同盟諸藩が応援に来よ 相次ぐ敗戦で首席家老但木土佐、軍事総督坂英 えのもとたけあき えんどうたかのぶ う。榎本武揚の艦隊も仙台に向かっているに違いカらは、辞職し、代わって遠藤允信ら恭順派が台 だてとうごろう ない。そうなれば、戦いは逆転する。 頭、重臣の伊達藤五郎がいち早く降伏を表明する 山川は、そう考えていた。 に及んで、仙台は盟主の座をすべり落ちた。 梶原平馬もその点では同じだった。 会津藩首脳が待ちに待った榎本武揚の艦隊は、 ながおかけいじろうなんまこうき お さいちゅう 仙台、米沢を信じ、永岡敬次郎、南摩綱紀、小 この最中に仙台湾に入港した。 のごんのじようあぺいまさはる 野権之丞、安部井正治ら腹心を仙台、米沢に派遣榎本武揚の判断が遅れ、八月十九日夜半、よう しながわ し、援軍を待っていた。 やく品川沖を出帆した。 しかし、援軍は来なかった。 榎本艦隊は、最初から事故続きだった。 かんりんまる 米沢は、越後の敗戦に衝撃を受け、米沢の領土 二十日早朝、咸臨丸が座礁し、離礁作業に手間 りき ひ 204

3. 星 会津白虎隊

◆◆◆ 蔵屋敷が建ち並ぶ会津の街道 ぶことになっているのだ。 梶原ら会津藩の人々は、七ケ宿街道関宿で待機 した。 〈一日も早く、奥羽諸藩の同志に会いたい〉 やまなみりようせんにら 梶原は、粗末な宿でじっと山脈の稜線を睨ん 奥羽諸藩の会談は、閏四月十一日から始まった。 うえすぎなりのり 米沢藩主上杉斉憲は、兵千五百を率いて、白石 に乗り込んだ。 「奥羽鎮撫使が会津の恭順を拒否したとき、米沢 も正義の戦いに踏み切るのだ」 上杉斉憲の並々ならぬ決意である。 白石には、奥羽諸藩の重臣が続々つめかけた。 各藩の代表者は次のとおりである。 ただきとさ さかえいりきたまむしさだゅうよこ 仙台藩但木土佐、坂英力、玉虫左太夫、横 たかんべい 田官平 ちざかたろうざえもんきなめりかなめたけまたみま 米沢藩千坂太郎左衛門、木滑要人、竹股美 なかさとたんげおおたきしんぞう かたやまじんいち 作、中里丹下、大滝新蔵、片山仁一 さか ろう

4. 星 会津白虎隊

戊辰戦争の全貌がよ 新潟藩を守ってい ( よねざわ 白虎隊記念館 色部長門日記 ・Ⅱ・ 1 0 く半る た米沢藩重臣、色・ べながと 同盟軍、西軍の資料、写真、地図等 部長門は、詳細な日記を残している。 ( が展示され、白虎隊士の手紙、両軍が この日記によると、新潟では、再三・ 使用した大砲、小銃、弾丸など興味ある資料も多い にわたって、会津、米沢、庄内の会議が開かれてい・ 十六橋の戦い、城下の戦いなどもパネルや絵で紹る。 ひじかたとしぞう いたがきたいすけ うえすぎけんしんまっえい ・介され、松平容保と土方歳三の会見図、板垣退助の米沢藩は、かって越後に君臨した上杉謙信の末裔 ( 鶴ケ城望見の図、白虎隊士自刃の図などもよく描かであり、井の中の米沢から広い越後にでたい、 ・れている。 う願望を持っていた。 やまかわおおくら ( 会津藩では、明治以降、、山川大蔵の『京都守護職新潟の会議には、会津藩首席家老梶平馬、会津 ( ひらいしべんぞう やまかわけんじろう ・始末』、平石弁蔵の『会津戊辰戦争』、山川健次郎の藩軍事顧問、ヘンリー・シュネルがいつも出席して・ きたはらまさなが 一『会津戊辰戦史』、北原雅長の『七年史』などを次々おり、会津が中心になって、新潟対策に当たってい一 一に発表、会津藩の心情を訴えた。国定教科書に賊軍たことが判る。 一として扱われた時代である。 色部長門は、実直で信望のある人物で、米沢藩で一 ここの記念館は、いわば視覚を通して会津の正義の評価は高い。 ( を訴えており、民間の立場で、会津史の研究や観光海は世界に通じる玄関であり、同盟軍の指導者た ( ( に寄与している。 ちは、新潟の海を見ながら、同盟国家の形成を夢見 ( た。日記には、新潟や庄内の商人も数多く登場。商 一『道しるべ』会津若松市飯盛山マ会津若松駅前 ( から市内観光バスで飯盛山下車。 人もこの戦いに賭けたことかうかがえる。もし、同・ 盟軍に軍艦があれば、という思いがする。 史蹟 探訪 スポット

5. 星 会津白虎隊

「雪子 /. 」 安達も篠田も、直立不動で見送った。 娘の名を呼んだ井上は、 仙台との会議に向かったのは、梶原平馬、手代 やり ぎすぐえもん いとうさだゅうかわはらぜんざえもん 「槍を持て /. 」 木直右衛門、伊藤左太夫、河原善左衛門らである。 ひばら と、叫んだ。 一行は、桧原峠を下って米沢に入り、米沢藩主 うえすぎなりのりあいさっ 槍を手にした雪子が姿を見せた。 上杉斉憲に挨拶し、米沢藩首脳と入念な打ち合わ 安達と篠田は、無言のまま雪子を見た。 せをした後、仙台国境に通じる七ケ宿街道を上っ 色の白い深みのある情感、大人の女が持っ美した。 の さに息を呑んだ。 「山田、なかなか険しい峠だ 「エイツ」 梶原平馬は、何度も駕籠を休ませては、書記の やまだていすけ 井上が鋭く槍を衝いた。 山田貞助に声をかけた。 「わしもご奉公するぞ。安達、篠田、頼むぞ / 「山田、会津の武士は、死ぬ覚悟でいる。わしも 井上は笑みをもらした。 無論そうだ。だが、死なせたくはないのだ」 つるがじよう やまなみ 井上の屋敷をでた二人は、鶴ケ城の城門まで来梶原は、そういって米沢の山脈を見渡した。 たとき、仙台の会議に出席する、首席家老梶原平あの連山のはるか彼方に会津がある。 馬らの一行に出会った。 〈会津を何としても救いたい〉 かご 数丁の駕籠が続き、屈強な兵士たちが周囲を固 梶原は、唇を噛みしめて眼を閉じた。 めている。 強い風が吹いた。 力し 「会」の旗指物がへんばんと翻っている。 風が頬をかすめ、樹木が揺れた。 〈会津の運命がこれで決まるのだ〉 天気はしだいにくずれ、いまにも雨が降りそう っ てしろ

6. 星 会津白虎隊

若生文十郎がいった。 「やむを得ずとは合点がいかない」 手代木がじろりと若生を見た。 手代木は、京都時代、会津に手代木あり、とし て知られた人物である。 さかもとりよ、つま きようとみまわりぐみがしらささきたださぶろう 坂本龍馬を斬った京都見廻組頭、佐々木只三郎 す′」 の実兄で、目に凄みがある。 仙台の正使、若生文十郎は、仙台藩首席家老、 こうよ、つカた ただきとさ 会津藩には、公用方の重臣が数多くいた 但木土佐の腹心で、仙台では会津寄りの人物、で 公用方というのは、他藩との政治折衝に当たる きれば会津を助け、薩長と一戦を交える気持ちで 外交官である。 仙台藩から使節を迎えた会津藩は、公用方の手「正直のところ仙台は、一枚岩ではない。会津を しろぎすぐえもんおのごんのじよう 代木直右衛門、小 野権之丞の二人に折衝させた。 討って官軍になるんだ、と騒いでいる重臣もいる」 よねざわ かたやまじんいちろうきなめりかなめ 米沢藩から片山仁一郎、木滑要人も来ている。 若生がいうと、手代木が声を荒だてた。 わこうぶんじゅうろうよこたかん 城下の一室で仙台藩使節、若生文十郎、横田官「会津を討って官軍とは片腹痛い。仙台は薩長の 平、米沢藩使節片山、木滑の四人と手代木、小野何たるかを知らなすぎる」 か向かい合った。 若生は表盾を硬くした。 「手代木殿、仙台藩の出兵は、我らの本意ではな 「お言葉ながら、会津攻撃の命令は、朝廷より出 おううちんし 。奥羽鎮撫使に責められてやむを得ず出兵した」ている」 仙台・米沢・会津会談 さっちょう

7. 星 会津白虎隊

だが、平和裏に物事を解決するには、その背景が、城を明け渡し、丸腰になって謝罪をしなけれ に武力が必要だった。 ば、奴らは一歩も引かないでしよう」 よしのぶ 武力の裏付けがあって、初めて和平交渉が成り 「予は慶喜公をうらめしく思う」 立つのだ。 「御意、我が会津を見捨て、おのれだけはぬくぬ 城内では、首席家老梶原平馬が、主君松平容保くと生きている。許せんと思う。しかし、殿、こ わか に今後の戦略を述べていた。 れからどう世の中が変わるか判りません」 「殿、近日中に米沢、仙台に参り、恭順の意を表「頼むぞ / 」 したいと思います。ただし、外交はカです。力が 容保は、そういうと奥の間に姿を消した。 なければ、誰も相手にしません。その意味で旧幕梶原平馬は、じっと容保の後ろ姿を見た。 府陸軍の決起は、何物にも換え難いカですー 会津藩主松平容保ー てんぼう 「予もそう思う」 天保六年 ( 一八三五 ) の生まれなので、三十四歳 になる。 「問題はこれからです。我々の見るところ薩長は みののくにたかす 会津の恭順を認めないでしよう」 会津松平家の養子で、実家は美濃国高須藩三万 「うむ」 石である。 おわりとくがわ 「仙台、米沢も薩長から一蹴されることになる。 美濃高須家は、尾張徳川家の支藩で、本家に後 となれば、武士の意地、仙台、米沢も会津ととも継者がいないときは、高須家から養子が入るなど、 に立ち上がる」 小藩ながら名家であった。 みと 「そうなればよいが」 しかも水戸徳川家とも深いつながりがあり、容 よしなり 「なります。最後は ~ しすれにせよ戦いです。我々保の祖父義和は、水戸家からの養子である。 いっしゅう

8. 星 会津白虎隊

るに至る」 容保はいった。 やまかわけんじろうへんさん ぼしん かやのごんべえ 山川健次郎が編纂した『会津戊辰戦史』はこの 同じころ城外で戦う萱野権兵衛の本営に米沢の ように伝えている。 使者が訪れた。 以来三日間、一日に二千五百発もの砲弾が撃ち 米沢藩が降伏の仲介を取る、というのである。 込まれた。 会津藩重臣たちは、米沢を通じて降伏すること じくじ に内む丑尼たるものがあった。 病舎は悲惨だった。逃げることができないのだ。 おおくら 山川大蔵の妻とせ子も病舎で看護中、砲弾が破しかし、ほかに道はない。 てしろぎすぐえもん あきづきていじろう 裂し、脇腹から血を噴きだして絶命した。 秋月悌次郎、手代木直右衛門が土佐藩陣営に出 ぎよくさい いまや会津軍に残された道は、玉砕しかない。 頭し、会津藩は降伏した。 きたおって 〈これでいいのだろうか〉 九月二十二日巳の刻 ( 午前九時 ) 鶴ケ城北追手門 梶原は苦悩した。 に白旗が上がった。 しようすい 「殿、子供や婦女子をこれ以上、殺すことはでき 悴し切った主君容保の眼に涙があふれ、せき おえっ ません」 を切ったように城内に嗚咽が広がった。 梶原の進言に、容保は押し黙った。 永岡清治、赤羽幸記、斎藤豊吉ら白虎隊の少年 すでに梶原は、軍事総督の山川大蔵と兄の内藤たちも肩を寄せ合って泣いた。 介右衛門に降伏を諮っていた。 季節は初冬になっていた。 〈腹を切り、おのれも責任を取る〉 冷たい風が鶴ケ城を吹き抜けた。 みよ、つこくじ 梶原は決意した。 主君容保は妙国寺に謹慎し、会津藩士三千余人 いなわしろ 「そちにまかせる は、猪苗代に護送された。 み 210

9. 星 会津白虎隊

れが会津武士の真髄だ。いま、そのときだ。 戊辰戦争の政治斤衝・ 七ケ宿街道 梶原は、決断した。 の場となった七ケ宿・ 「真田殿、まことに貴殿のいわれるとおりである。・ 街道は、古くから出羽と陸奥を結ぶ・ 交通の要衝である。 首謀者の首級を出すことにしよう」 ここは、仙台・米沢の国境でもあり、仙台藩はゞ 満座にどよめきが起こった。 米沢の木滑要人や片山仁一郎も安堵の胸をなで . 千名の兵を派遣して、防備を固めた。奥羽越列藩一 同盟の結成の場所となった仙台領白石に近く、こ・ 下ろしている。 ( こで、再三、会津藩との会談が行なわれた。 ゅのはらなめつ このあと梶原が一一一 = ロ、念を押した。 湯原、滑津、関に検断や本陣があった。 「奥羽鎮撫使の参謀は、薩長によって占められて 一街道には七つの宿場があり、旅人は、この峠を一 いる。首謀者の首級を出したところで、ひたすら ( . , 何日も泊まりながら歩一いた。 しえん 私怨を晴らそうとする彼らは、さらに難題を吹き 一街道は、当時の面影を色濃く残しており、滑津 ( かけてくるであろう。そのときは、どうなさる」 ・の本陣、安藤家は、そのままの姿で現在まで残っ ている。 「心配ご無用。一切は、仙台に任せてほしい」 じゅく ・会津藩は、米沢に抜け、二井宿峠を上って七ケ・ 但木は、そういって、 ・宿街道に入った。梶原平馬は、山野を眺めながら、 ( これでよい」 「これでよい ここで何日か過。こしている。 と、うなすいた 道しるべ】東北本線白石駅からバスに乗る。・ 「それでは、会津に戻り、主君容保に報告する」 。東北自動車道 ( ・街道全体を見るには車かいし 梶原平馬は、一礼して立ち上がり、帰国の途に ( ・インターでおり、国道一一三号に向かう。 ついた。 探史 訪蹟 せき

10. 星 会津白虎隊

「式 : 、ご 1 ; .1 鞦 鶴ケ城・茶壺櫓 梶原平馬は、この二、三日、暗い表情でうずく まっていた。 平馬にとって、最大の衝撃は、米沢藩の寝返り だった。白石の会合で何度も顔を合わせ、会津に きなめりかなめ もたびたび足を運んだ米沢藩重臣木滑要人が、越 後ロに向かい、越後ロ総督府に謝罪降伏嘆願書を 手渡した、という情報を得たからである。 この驚くべき知らせは、仙台にいる永岡敬次郎 から会津に送られてきた。 だま しかも、「会津に欺され候」とすべての罪を会津 にかぶせている、というのだ。 みにく 〈醜い〉 つうこく 梶原平馬は、痛哭した。 もはや勝っことは、不可能になった。 九月十四日から西軍は、総攻撃をかけてきた。 そくしゃ 「この日、西軍数万孤城を包囲し、一斉に速射し せきりゅうだん ろうろでんかく ごうぜん た。石榴弾は、楼櫓殿閣に当たって破裂し、轟然 しんどう 天地を震動し、殆んど人語を弁ぜず。死傷算なく しばしばおこ あた 城中火屡々起り、天守閣破壊して登ること能わざ 209