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検索対象: 星 会津白虎隊
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1. 星 会津白虎隊

なんぶ ののむらますみえばたごろう 南部藩野々村真澄、江幡五郎 にほんまっ にわいちカく しんじゅうろう 二本松藩丹羽一学、丹羽新十郎 もりやま みうらへいはちろうやぎぬましようすけ 守山藩三浦平八郎、柳沼正介 たなぐら ひらただんえもんうめむらかくべえ 棚倉藩平田弾右衛門、梅村角兵衛 そうまゆきえ なかむら さとうかんべえ しがじえ 中村藩相馬靱負、佐藤勘兵衛、志賀治右衛 もん おおうらたてわきおづつみひろと 三春藩大浦帯刀、小堤広人 いけだごんえもんたかはしきちさろう 福島藩池田権右衛門、高橋吉三郎 わたなべごろうざえもんますだぶへえ かみのやま 上ノ山藩渡辺五郎左衛門、増田武兵衛 かめだ おおひらいおりよしだごんぞう 亀田藩大平伊織、吉田権蔵 いちのせき さとうちょうだゅうもりぶんのすけ 一関藩佐藤長太夫、森文之助 くろばね みたやヘい 黒羽藩三田弥平 やじま しいかわかとうた 矢島藩椎川嘉藤太 みずのさぶろうえもんささもととうま 山形藩水野三郎右衛門、笹本藤馬 とむらじゅうだゅう 秋田藩外村十太夫 しんじよ、つ ふなおげんえもん 新庄藩舟生源右衛門 たいら みたはちろう 平藩三田八郎 ほんじよう ろくごうだいがく 本荘藩、六郷大学 いずみ いしいえもん 泉藩石井武右衛門 みはる ゅながや しげはらはじめ 湯長谷藩茂原肇 しもてど おくやまないき 下手渡藩屋山内記 しんでん えぐちしゅんぞう 米沢新田藩江口俊蔵 ひろさき やまなかひょうぶ 弘前藩山中兵部 はちのヘ よしおかさぜん 八戸藩吉岡左膳 いずれも各藩の家老級の重臣たちである。 お家の事情は様々で、すべての藩が会津寄りと はいえないが、仙台、米沢の大藩からの要請であ る。「すわ何事卩と、白石に駆けつけて来たので ある。 奥羽の歴史の中で、初めての連帯である。 てよしくに 仙台藩主伊達慶邦も来ていた。 伊達慶邦と上杉斉憲は、酒を酌み交わし、 「ああ 1 愉快、愉快なり / 」 と、マ用っこ。 ロ子 / 白石の周辺は、仙台、米沢藩兵三千余が警戒に 当たった。 これは、明確に薩長政府に対する一大挑戦であ

2. 星 会津白虎隊

しようない もちろん 薩摩藩邸焼き討ちをした庄内藩攻撃が任務であは勿論、会津寄りである。 る。 問題は仙台藩だった。 たかすぎしんさく 世良は長州の過激派で、高杉晋作の奇兵隊の出奥州王仙台が会津につけば、庄内、長岡、米沢、 えっ 身者。宿敵会津攻撃を目指して乗り込んできた。 仙台という奥羽越の大軍事同盟が結成される。 会津藩の探索方、永岡敬次郎は、必死に彼らの だが、仙台は薩長に与する形で、会津出兵に踏 動向を探り、会津に知らせていた。 み切った、というのだ。 「仙台藩と戦うのは、我らの本意ではない。 仙台 「かくなるうえは、防備を固め、攻められた場合 とて同じであろう」 は、死を決して戦うしかあるまい」 梶原平馬がいうと、 主君容保は、全軍に出動を命じた。 「そのとおりだ、会津と仙台が戦っては薩長の思 〈死を決してか〉 うッポだ。なんとしても避けねばならん 首席家老梶原平馬は、黙って天井を見つめた。 ないとうすけえもん 梶原の実兄である、同じ家老の内藤介右衛門が戦争とはいったい何か。 うなずいた 殺し合い、傷つけ合い、奪い合い、その後に何 「しかし、仙台は、会津国境に兵を向けたのだ。 が残るとい一つのか き 我らは戦うしかない」 京都で日々薩長の浪士と斬り結び、鳥羽・伏見 ・けっ一」、つ 佐川官兵衛は激昻している。 の戦いで多くの犠牲者を出した会津藩は、誰より 会津藩は苦境に立った。 も戦争の悲参さを知っている。 よねざわ 会津藩は庄内藩と軍事同盟を結び、米沢藩も味戦わずして平和裏に事態を収拾できれば、それ かわいつぐのすけ 方の陣営に引き入れている。河井継之助の長岡藩にこしたことはない。しかし、刻々と目の前に敵 ながおか

3. 星 会津白虎隊

◆◆◆ 蔵屋敷が建ち並ぶ会津の街道 ぶことになっているのだ。 梶原ら会津藩の人々は、七ケ宿街道関宿で待機 した。 〈一日も早く、奥羽諸藩の同志に会いたい〉 やまなみりようせんにら 梶原は、粗末な宿でじっと山脈の稜線を睨ん 奥羽諸藩の会談は、閏四月十一日から始まった。 うえすぎなりのり 米沢藩主上杉斉憲は、兵千五百を率いて、白石 に乗り込んだ。 「奥羽鎮撫使が会津の恭順を拒否したとき、米沢 も正義の戦いに踏み切るのだ」 上杉斉憲の並々ならぬ決意である。 白石には、奥羽諸藩の重臣が続々つめかけた。 各藩の代表者は次のとおりである。 ただきとさ さかえいりきたまむしさだゅうよこ 仙台藩但木土佐、坂英力、玉虫左太夫、横 たかんべい 田官平 ちざかたろうざえもんきなめりかなめたけまたみま 米沢藩千坂太郎左衛門、木滑要人、竹股美 なかさとたんげおおたきしんぞう かたやまじんいち 作、中里丹下、大滝新蔵、片山仁一 さか ろう

4. 星 会津白虎隊

念だ、と思う。しかし、戦いをこちらから仕掛け 「うむ しったん共 るのは得策ではない。そのためには、ゝ 今度は、手代木がけわしい顔になる。 順の意を表することだ 若生は、たたみかけるように、 くじよう 「なにせ九条総督が仙台にいて、やいのやいのと、「うむ」 会津攻めを督促している。出兵せざるを得んので手代木は、唸ったままである。 「しからば仙台藩の案を申し上げる」 すー 若生は、三つの条件を出した。 と、釈明した。 かたもり 一つは領土の削減、二つは藩主容保公の謹慎、 手代木は、眼をつむり、しばらくして、かたわ 三つは首謀者の切腹である。この条件を会津が呑 らの小野権之丞に、 めば、仙台藩は責任をもって奥羽鎮撫使に会津藩 「困ったことになった の存続を願い出る、というのである。 と、話しかけた。 会津藩は、三昼夜にわたってこの問題を協議し 「仕方のないことだ。仙台藩の意向をじっくり うけたまわ 「いかがいたされるのか」 承ることにしよう」 手代木は、重臣たちに問うた。 と、手代木をなだめた。 会津藩兵は、薩長に対する雪辱に燃えている。 「どうだろう、手代木殿、ここで妥協案をまとめ さがわかんべえ 猛将、佐川官兵衛がロ火を切った。 ては」 「私は、三条件を呑むことはできない。たしたし 今度は、米沢藩の木滑要人が口を開いた。 とばふしみ わか 「私は、貴殿らの心盾を誰よりも判っている。無鳥羽・伏見の戦いの責任は当藩にはない。したが だれ 4 ノ」い

5. 星 会津白虎隊

若生文十郎がいった。 「やむを得ずとは合点がいかない」 手代木がじろりと若生を見た。 手代木は、京都時代、会津に手代木あり、とし て知られた人物である。 さかもとりよ、つま きようとみまわりぐみがしらささきたださぶろう 坂本龍馬を斬った京都見廻組頭、佐々木只三郎 す′」 の実兄で、目に凄みがある。 仙台の正使、若生文十郎は、仙台藩首席家老、 こうよ、つカた ただきとさ 会津藩には、公用方の重臣が数多くいた 但木土佐の腹心で、仙台では会津寄りの人物、で 公用方というのは、他藩との政治折衝に当たる きれば会津を助け、薩長と一戦を交える気持ちで 外交官である。 仙台藩から使節を迎えた会津藩は、公用方の手「正直のところ仙台は、一枚岩ではない。会津を しろぎすぐえもんおのごんのじよう 代木直右衛門、小 野権之丞の二人に折衝させた。 討って官軍になるんだ、と騒いでいる重臣もいる」 よねざわ かたやまじんいちろうきなめりかなめ 米沢藩から片山仁一郎、木滑要人も来ている。 若生がいうと、手代木が声を荒だてた。 わこうぶんじゅうろうよこたかん 城下の一室で仙台藩使節、若生文十郎、横田官「会津を討って官軍とは片腹痛い。仙台は薩長の 平、米沢藩使節片山、木滑の四人と手代木、小野何たるかを知らなすぎる」 か向かい合った。 若生は表盾を硬くした。 「手代木殿、仙台藩の出兵は、我らの本意ではな 「お言葉ながら、会津攻撃の命令は、朝廷より出 おううちんし 。奥羽鎮撫使に責められてやむを得ず出兵した」ている」 仙台・米沢・会津会談 さっちょう

6. 星 会津白虎隊

あきたけ よしのぶ なのか、という点にあった。この辺が極めてあい 慶喜の弟徳川昭武に随行してパリの万国博覧会に とばふしみ 行き、ヨーロッパで研修中、鳥羽・伏見の戦いのまいで、それぞれの持ち場を死守し、攻撃にでる という漠とした作戦である。 報に接し、急ぎ帰国した。 ただし、坂本、西郷、横山の三人とも近代戦を概して白河城の空気は、楽観論が支配していた。 にほんまったなぐら 指揮した経験はない。その点では、瀬上主膳、佐地の利もある。両藩のほかに二本松、棚倉藩兵の しんせんぐみ 藤宮内も同じであり、実戦経験のある会津藩の隊応援もある。旧幕府兵、新選組兵も来ており、 たたつぶ 「なにが薩長だ。叩き潰してやるわ / ・」 長クラスに負うところが大きかった。 だれ と、腕をさすった。 混成兵団の問題は、両軍の最高指揮官は一体誰 ぜんしよう 二、三回の前哨戦があって、五月一日早朝、薩 会津藩白河口副総督、横山主税 摩、大垣、忍藩兵約七百名が攻撃をかけてきた。 伊地知は、攻撃隊を右翼、中央、左翼に分け、疾 風のように攻め込んだ。 白河城は、中央に稲荷山、右に立石山、左に雷 神山があり、同盟軍は山頂に砲台を築き守備して 会津藩 いる。中央は佐藤宮内の一小隊と砲六門、 ごうぜん 三小隊、棚倉藩兵である。中央稲荷山から轟然と 仙台藩大砲隊の火が噴いた。 「撃て / 撃て /. 仙台の力を思い知らせてや ←新ノ じん

7. 星 会津白虎隊

戦えば、幾多の人命が失われる。あるいは会津河城を離れ、福島に向かっていた。 は滅ぶかも知れない。かといって、戦いの道から 世良は、仙台藩が会津とともに参戦したことは 逃れることはできない . 知らない 梶原の内面は、苦悩している。 〈仙台藩は、何の役にも立たない。会津攻撃は在 「会津は、一人ではないのだ」 京の勇兵、二、三大隊を投入し、会津は我々の手 容保は、自らに言い聞かせるようにつぶやいた。で始末するしかない〉 かなざわや 「出陣だ / 」 ぶつぶつつぶやきながら、福島の定宿「金沢屋」 とど おおやまかく 容保は、城下に留まる兵士たちに、開戦を告げ に入った世良は、庄内に行っている同僚の大山格 のすけ 之助に手紙を書き、福島藩用人に託した。 三百名の精鋭が、白河城を目指して出発して行福島藩では、念のため福島に駐在する仙台藩の せのうえしゅぜん っ・」 0 大隊長瀬上主膳に世良の手紙を見せた。 ちゅうさっ 世良を見つけしだい、誅殺し、奥羽の関門、白「仙台は、嘆願がかなわぬときは、反逆の構えを 河城を抑えるためである。 見せているが、仙台、米沢は、弱国なので取るに 「白河には、江戸から続々薩長の援軍が向かって足らない。ただし、会津が加わると難しくなる。 , も いる。いずれ、白河が決戦の場になる」 仙台、米沢はなるべく穏便に図った方がよい。 梶原平馬は、仙台藩に援軍の要請を出した。 っとも両藩とも賊徒は二、三人くらいで、主人は しゅうぞう 仙台藩も会津の嘆願を世良修蔵が拒否した段好人物のようだ」 階で、会津とともに戦う決断を下した。 と、書いてある。 ころ ちん この頃奥羽鎮撫下参謀、問題の世良修蔵は、白 瀬上主膳は、怒った。

8. 星 会津白虎隊

仙台と会津の戦争は、急転直下、停戦となった。 わこう 「若生殿、当藩は、仙台のご好意に甘えることに した」 よこた かじわらへいま 梶原平馬が、若生と横田に礼をいった。 まつだいらかたもり 松平容保も、 「ご苦労であった。仙台中将慶邦公にくれぐれも よろしく伝えてほしい と、一一一一口葉をかけた。 米沢や、仙台の近隣諸藩に問題解決の下駄を預 けることによって、会津藩重臣たちの心は安らい よねぎわ 七ケ宿 よしくに ただきとさ お、つ、つ 仙台藩首席家老、但木土佐は、直ちに奥羽諸藩 に重臣の派遣を求め、会津問題を協議することに よっ , 」。 しちか 併せて、四月二十八日、米沢と仙台を結ぶ七ケ しゆく 宿街道の関宿で、会津藩の嘆願書を受け取る、と 通告してきた。 会津領内は、この話題で持ち切りである。 びやっこ 白虎隊の少年も大人たちの話に聞き耳をたてた。 あだちとうざぶろうしのだぎさぶろう 安達藤三郎、篠田儀三郎は、白虎隊の世話役の いのうえおかずみ 一人である井上丘隅の家に来ている。 井上丘隅は、会津の上級武士の出だが、一徹な いんきょ 人柄が災いしてか、役職にも就かず、いわば隠居 の身分だった。 ききゅうそんぼう しかし、会津藩危急存亡の時である。 よりあい 白虎寄合一番隊長に任命され、初めて役職に就 よ , っしようぐみがしら いた。後に幼少組頭に転出する。 まじめ 根は真面目なのだが、いったん言い出したら退 かない頑固さがある。 妻のとめ子は、評判の美人だった。 せきじゅく

9. 星 会津白虎隊

会津藩関係年表 年号西暦 会津藩関係 慶長六 一六〇一蒲生氏、会津の領主となる。 寛永四一六二七加藤氏、会津の領主なる。 二〇一六四三保科正之会津の領主となる。 寛文八一六六八四月一一日ⅱ会津藩、十五箇条の家訓を制定。 元禄九一六九六一二月九日 = 保科正容、将軍より松平姓を与えられる。 寛政一一一七九九会津藩校日新館の建設に着工。会津藩土地分給制を実施する。高田屋嘉兵衛択捉航路を開設。 享和元年一八〇一十月Ⅱ日新館完成。 文化五一八〇八一月Ⅱ幕府より蝦夷地警備を命ぜられる。 七一七一〇二月Ⅱ幕府より相模湾一帯の警備を命ぜられる。 弘化三一八四六尾張徳川家の分家高須藩松平義建の六男容保 ( 一一一歳 ) 、会津 藩八代藩主松平容敬の養子となる。 四一八四七二月一五日Ⅱ幕府より安房、上総の海岸防備を命ぜられる。 参考資料 二月一二日Ⅱ家康征夷大将軍に。 213

10. 星 会津白虎隊

戊辰戦争の全貌がよ 新潟藩を守ってい ( よねざわ 白虎隊記念館 色部長門日記 ・Ⅱ・ 1 0 く半る た米沢藩重臣、色・ べながと 同盟軍、西軍の資料、写真、地図等 部長門は、詳細な日記を残している。 ( が展示され、白虎隊士の手紙、両軍が この日記によると、新潟では、再三・ 使用した大砲、小銃、弾丸など興味ある資料も多い にわたって、会津、米沢、庄内の会議が開かれてい・ 十六橋の戦い、城下の戦いなどもパネルや絵で紹る。 ひじかたとしぞう いたがきたいすけ うえすぎけんしんまっえい ・介され、松平容保と土方歳三の会見図、板垣退助の米沢藩は、かって越後に君臨した上杉謙信の末裔 ( 鶴ケ城望見の図、白虎隊士自刃の図などもよく描かであり、井の中の米沢から広い越後にでたい、 ・れている。 う願望を持っていた。 やまかわおおくら ( 会津藩では、明治以降、、山川大蔵の『京都守護職新潟の会議には、会津藩首席家老梶平馬、会津 ( ひらいしべんぞう やまかわけんじろう ・始末』、平石弁蔵の『会津戊辰戦争』、山川健次郎の藩軍事顧問、ヘンリー・シュネルがいつも出席して・ きたはらまさなが 一『会津戊辰戦史』、北原雅長の『七年史』などを次々おり、会津が中心になって、新潟対策に当たってい一 一に発表、会津藩の心情を訴えた。国定教科書に賊軍たことが判る。 一として扱われた時代である。 色部長門は、実直で信望のある人物で、米沢藩で一 ここの記念館は、いわば視覚を通して会津の正義の評価は高い。 ( を訴えており、民間の立場で、会津史の研究や観光海は世界に通じる玄関であり、同盟軍の指導者た ( ( に寄与している。 ちは、新潟の海を見ながら、同盟国家の形成を夢見 ( た。日記には、新潟や庄内の商人も数多く登場。商 一『道しるべ』会津若松市飯盛山マ会津若松駅前 ( から市内観光バスで飯盛山下車。 人もこの戦いに賭けたことかうかがえる。もし、同・ 盟軍に軍艦があれば、という思いがする。 史蹟 探訪 スポット