を待っことは老人の諦観をもってしてはじめて可能であった。凡庸ながら人並みの権力欲をもっ フェルディナンドにとって、自らが皇帝になる日のことを思えば、変革のみが帝国の存続を可能 にすると思われたであろう。 そして改革の方向は、国民の力をより大きく糾合することでしかありえなかった。フェルディ ナンドが特にそのための障害と考えていたのが、ハンガリーの民族政策であった。ハンガリ 1 は 自らの管轄領域においてハンガリー化政策を推進し、クロアチア人などの少数民族が不満を強め つつあり、ハンガリー内での民族対立が帝国全体に累を及ばしかねなかったからである。オース 戦 トリアとハンガリーの「二重帝国」の体制にあくまで忠実であったフランツ・ヨーゼフに対して、 大 世フェルディナンドはハンガリーの権力を制限し、南スラブ人の自治権を拡大することで帝国の安 一定を図ろうと考えていた。それはハプスプルグ家の帝国を少しでも十九世紀型の国民国家にする ための、いささか手遅れの発案であった。 フェルディナンドのポスニア訪問も彼のこうした考えの延長線上にあった。ハプスプルグの皇 和 講 室が南スラブ人に同情をもっている姿勢を示すことで、彼らの歓心を買おうとしたのである。そ 長 のためにフェルディナンドの訪問は予め広く公式に宣伝され、ポスニア民衆による熱烈な歓迎の 界 ホスニアにお イメージを作り出すよう準備がなされた。しかしフェルディナンドと側近たちは、、、 世 いて帝室がもっ積極的シンポルとしての機能を過大評価していた。すでに南スラブ人の間での民 れ 失族意識は高まりつつあり、皇太子の訪問は過激な民族主義者にとっては挑発にしかすぎなくなっ 16 )
ィッシャーたちが主張するように、確かにドイツは「世界強国」たることを望んでいたし、一九 一四年に戦争によって自己の目的を実現する可能性を見出した。その意味ではバルカンで発した 火花に油を注ぎ、大戦を招いたのはドイツであった。しかしそれは、ドイツの指導者たちが自国 の力を信じ、その将来について明るい希望を抱いていたからではない。自分が強いと考えている なら、焦って決断を下さずともよかったはずである。危険な賭けではあるが、「今をのがせばチ ャンスはない」 : : : ヴィルヘルム二世が外交文書に書き込んだこの一言葉は、当時のドイツ指導層 の感覚をはっきりと示している。 フェルディナンドの暗殺から戦争が導かれる経緯は、見方によっては退屈な外交交渉の連続と も、迫真のドラマともいえるのだろうが、ここで詳述する余裕はない。要点だけかいつまんで書 くと、ドイツの支援を確かめようとしたオーストリア・ハンガリーの使者に対し、ドイツ皇帝と 政府は、オーストリアの行動に全面的な支援 ( 後世には「白紙手形」として知られるようにな る ) を与えたばかりか、他の大国が事態をはっきりと認識しない内に、セルビアとの決着をつけ てしまうよう勧告する。しかしオーストリア・ハンガリー内で意見がまとまるのは遅れ、セルビ アに対して最後通牒を出したのは結局七月十三日であった。セルビアはこの最後通牒を、一項目 を除いて承諾するがオーストリア・ハンガリーは受諾を拒否し、七月二十八日にセルビアに対し 174
想して、後見者となっていたドイツがどの程度支援するかが鍵であった。 ロシアもドイツも、それぞれの庇護にある国には手を焼いていた。ロシア政府自身、暗殺に対 するセルビア政府の関与を疑っていたし、前皇帝を暗殺で失ったこの国の政府には、暗殺への同 情はなかった。ドイツも、ポスニア・ヘルツェゴビナ併合以来、オーストリア・ハンガリーのバ ルカン政策を、過度に好戦的でヨーロッパの平和を乱すものと考えていた。しかし両国とも、自 らの庇護国を見捨てることはできなかった。ロシアにとっては、日露戦争での屈辱的な敗北以来、 バルカンでの勢力拡張こそが大国の威信を示すものと考えられていた。国際的に孤立しつつあっ たドイツにとって、オーストリア・ハンガリ 1 は貴重な盟邦であった。しかしこのドイツの肩入 れこそカノノ ゞ、ヾレカンの紛争をヨーロッパ全体、ひいては世界全体を巻き込む大戦争に導いたので ある。 一九六〇年代初頭にドイツの歴史家フリツツ・フィッシャーは、ドイツが第一次世界大戦を積 極的に引き起こしたという説を打ち出し、ドイツの歴史学界を中心に大論争を巻き起こした。そ れまでは、ヨーロッパ諸国のすべてが、秘密外交と同盟にしばられて戦争に引きずり込まれてい という見方が強かったか ったのであり、特定の国が第一次世界大戦の原因を作ったのではない、 らである。今では、フィッシャーの説を全面的に受け入れるかどうかはともかく、ドイツが大戦 170
策」が特定の階級にとってでも長期的視野から組み立てられた合理的な政策であったと見ること は正しくない。世紀の代わり目前後からこの言葉はさかんに使われるが、それが正確に何を目標 とした政策なのか、植民地の獲得なのか既存の植民地の解放なのか、海軍力はどの程度必要なの か、またそれは財政的に可能なのか、といったことについてコンセンサスは全くといってよいほ ど存在しなかった。 むしろ「世界政策 , の背後にあったのは、当時のドイツの指導層がとらわれていた焦燥感であ った。それは国民の統合を喪失したドイツが、ビスマルク時代に築きあげたヨーロッパの一等国 大の地位から世界の二等国に滑り落ちつつあるのではないか、といった感覚である。 世国内では労働者階級が次第に力を増し、福祉需要も軍事費も、もともと弱かったドイツ帝国の 一財政基盤を揺るがし、国内の分裂を招きつつあった。目を外に転じれば、英仏露からなる三国協 一商は次第にその結びつきを強めつつあ「た。ロシアは近代化に成功しつつあり、特に鉄道網の整 稠備によってその巨大な陸軍をより早く移動できるようになることが予測されていた。イギリスに 講 対してドイツがしかけた建艦競争でも、イギリスがドレッドノート級というそれまでの戦艦を無 長 意味にしてしまう戦艦を造り出したことで、ドイツは苦しい立場に追い込まれつつあった。ドイ 界ツにもオーストリア・ハンガリ 1 とイタリアとの間に三国同盟が存在したが、イタリアはあてに ならず、オーストリア・ハンガリーの衰えも隠しようもなかった。 わ 失 一九一四年にドイツの指導層をして戦争の道を進めさせたのは、こうした焦燥感であった。フ 173
人間も事件も国家すらもが歴史の歯車にすぎない。ポスニアの暗殺を世界史的事件にした歯車は ドイツだった。 六月二十八日をもってフェルディナンドもプリンチプも歴史のペ 1 ジから姿を消した。残った のは、国家間の政治闘争であった。ウィーンで善後策が協議されたが、この暗殺にセルビア政府 がどの程度関与しているのかが問題となった。プリンチプたちがセルビアを拠点とする民族主義 集団「黒い手ーと接触していたことは確かであり、この点は当時もすぐ明らかとなった。しかし セルビア政府とこの「黒い手」との関係は友好的ではなかった。結局、セルビア政府がプリンチ 戦 プたちの計画を知っていたかどうかは今もって歴史家の間ですら意見が分かれている。しかしい 大 世ずれにせよ、当時のウィーンの政府にとって、セルビア人の過激な民族主義運動に降伏すること 一はできない相談であった。民族主義運動が勢いを得れば、帝国の解体は目に見えていたからであ る。ウィ 1 ンの要人は、セルビア政府に対して強い姿勢で臨むことにした。ハプスプルグ帝国は 秘威信を守ることにした。守らざるを得なかった。帝国は威信を失えば何も残らない存在だったか 講 らである。 長 しかし事は、オ 1 ストリア・ハンガリー政府とセルビア政府の間の問題にとどまらなかった。 、バルカン半島で勢力拡大を狙っていた 界大国ロシアが南スラブ人の民族運動に同情を示しながら からである。セルビア政府の態度は、万一戦争になった場合、ロシアがどの程度支援してくれる 失かにかかっていた。そしてオーストリア・ハンガリ 1 政府の態度も、ロシアが参戦する場合を予 169
サラエボの暗殺と「旧体制」の没落 一九一四年六月二十八日、サラエボ。この日、このバルカンの小都市で放たれた暗殺の銃弾が 世界の運命を変えることになった。暗殺者は、ポスニアのセルビア人ガプリロ・プリンチプ。凶 弾にたおれたのはオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナンド大公と その妻ゾフィ 1 戦 六月二十八日という日は、暗殺者にとっても暗殺された者にとっても意味のある日であった。 大 世プリンチプは二十歳の誕生日まで一月足らずの青年であり、サラエボを首府とするオーストリ 、一ア・ハンガリー帝国の一州ポスニアのセルビア人貧農の家に生まれた。セルビア人はポスニアに おいて多数を占める南スラブ系の一民族であり、独立王国セルビアにまたがって暮らしていた。 稠かって東ロ 1 マ帝国の支配下で、正教のキリスト教を受け継いだ彼らは、東ローマ帝国が滅び、 講 トルコの支配下にはいってもその民族的伝統を守り通した。中でも六月二十八日は、十四世紀に 長 トルコ軍に英雄的に戦って敗れ、独立を失ったというセルビア人にとっての民族的記念日であっ 界 . 一」 0 オ十九世紀になってドイツ宰相ビスマルクの策略に満ちた外交の中でもその頂点をなした一八 世 七八年のベルリン会議以来、ポスニアとその隣州へルツェゴビナは事実上トルコの統治からオー 失ストリアの統治に移っていたとはいえ、一九〇八年にほとんど何の前触れもなくオーストリアが 161
て宣戦を布告した。 事態が和戦の分かれ目になってくると、当時の中途半端に近代化された軍事力が政治的決定を 左右するようになった。この頃は、鉄道を利用して兵員物資をできるだけ早く大量に前線に輸送 することが戦闘の勝敗を決すると考えられていたので、一旦動員を開始してしまえば、柔軟に計 画を変更することは不可能であった。イギリスの歴史家・・・テイラーがいう「時刻表に よる戦争」である。まずオーストリア・ハンガリ 1 のセルビアに対する宣戦を見たロシアは、セ ルビアを守るためにオーストリア・ハンガリ 1 に対して動員するだけでなく、ドイツに対しても 大動員することにした。これに脅威を感じたドイツはロシアに動員解除を求める最後通牒を出すが、 世ロシアは無視、ドイツはロシアに宣戦布告した。 次 ドイツの長年の悪夢は、ロシアとフランスが手を組んで東西の両国境からドイツに攻撃を仕掛 第 けることであった。ビスマルクはこの事態を避けることにすべての外交努力を注いだといってよ いが、戦争が避けられないとなれば、先手をとってフランスを倒し、反転してロシアと戦うのが 和 講 唯一の戦略と考えられていた。この発想を具体的作戦計画にした参謀長の名をとったシュリ 1 フ 長 エン計画に従って、ドイツは中立国ベルギーに侵入、フランスへの攻撃を開始する。ベルギーの 界中立がおかされたことを理由にイギリスもドイツへの宣戦を布告、ヨ 1 ロッパの諸大国は八月初 めに皆戦争に赴くことになったのである。それは一見すると、ドイツによる破滅への跳躍がヨ 1 失ロッパの他の諸国を道連れにした姿であった。しかしドイツこそ、国民国家の膨張するエネルギ 17 )
きには三十六歳になっていた ) が旧家の因習を拒否したというだけのことではなかった。という のも、ハプスプルグ家の伝統こそが帝国を結びつけるかすがいであったからである。この帝国は ドイツ人やハンガリ 1 人、セルビア人やクロアチア人、チェコ人やスロパキア人など多数の民族 をその内にかかえていた。しかしこの国家は、ハプスプルグ家の征服や婚姻によって作り出され たのであって、民族意識とこの帝国の存立とは相反する存在であった。民族間にはこの国家を支 える共通感情は存在せず、一旦民族感情がめざめれば、民族間の対立がこの帝国を崩壊に導くこ とは必定であった。したがってハプスプルグ家の伝統がかもし出す威光に頼ることのみが、帝国 尢を分解から守る手だてであったのである。一八三〇年生まれの老帝フランツ・ヨ 1 ゼフはこのこ 世とを理解し、保守的な、しかし反動的ではない統治を行うことで、民衆の信望を集めてもいた。 次 し力にも時代遅れであった。そのことは何よりも隣国ドイ しかし家格にしがみついた統治は、ゝゝ 第 ツが証明していた。ビスマルクに率いられたプロイセンは、ドイツ人の民族感情を巧みに操りな 稠がら、プロイセン主導のドイツ帝国を作り出すことに成功し、すでにヨーロッパ最強国の地位を 講 獲得していたのである。十九世紀にヨーロッパは国民国家という強国になるための方程式を作り 長 出していた。この方程式を十九世紀の後半にもっとも適切に実現したのがドイツ帝国であった。 界 これに対してオーストリア・ハンガリ 1 帝国はいまだハプスプルグ家の帝国であり、それはフ 世 ランス革命以前のヨーロッパ、国籍や愛国心がまだ人々の意識の中でわずかな部分しか占めてい れ 失ない時代、宮廷が政治の中心であった時代、モ 1 ツアルトの天国的な音楽の時代にこそふさわし %
フェルディナンドが皇太子の地位についたのもこの矛盾の所産であったかもしれない。そもそ もフランツ・ヨーゼフには息子ルドルフがいた。しかし彼は、帝国の将来を悲観し、自らの命を 絶ったのである。ルドルフの自殺まで皇位を継承する可能性の薄かったフェルディナンドは、む しろ堅実で凡庸な人物になるよう育てられたし、そうした人物となった。彼は化・芸術には興 味が乏しく、ウィーンっ子の人気は低かった。しかし軍事には明るく、また敬虔なカトリックで あり、かっ妻子を愛する男であった。この彼も皇太子になってからは、フランツ・ヨーゼフの保 守的な現状維持政策に不満を抱き始めていた。確かにハプスプルグ帝国にとって、現状維持とは すなわち衰退の道であった。問題は、現状維持以外のいかなる政策をとる力も、すでにこの帝国 には失われていたし、また帝国内の複雑な要素を微妙にバランスさせた上にハプスプルグの支配 は成り立っていたから、ある方向に強く引っ張っていくことは、微妙なバランスの全体を崩しか ねないことであった。こうしたことを老帝は理解し受け入れていたであろう。しかし座して没落 いものであった。いわばオーストリア・ハンガリー帝国は、二十世紀まで生きながらえた旧体制 ( アンシャン・レジーム ) であった。国民国家の時代になってしまっては、時代の流れに乗るこ となしには、その大国としての地位を失うことは明らかであったし、ここにこの帝国の矛盾があ っ ? 」 0
ーとヨ 1 ロッパの拘束の矛盾を反映し、かつまたヨーロッパ全体を惨禍に巻き込むような軍事機 構のモデルとなった国であった。言い換えれば、ドイツが十九世紀ョ 1 ロッパの成果であった限 りにおいて、この戦争は十九世紀ヨーロッパの破滅であった。 一一十世紀ーー大戦の瓦礫の上に 我々はオ 1 ストリア・ハンガリーの姿に旧体制の衰亡を、ドイツの無謀な政策に十九世紀ヨー ロッパの失敗をみた。それでは我々がみるのは没落と破壊だけであろうか。戦争の本質が暴力と 破壊であるにしても、そこに何らの未来へつながる創造を見出すことはできないのだろうか。 改めてドイツの「世界政策」について考えてみよう。この言葉が、たとえ単にスローガンであ ったにせよ、当時のドイツ人になぜ人気があったのだろうか。そこには、「ヨーロッパを越え た「世界 , があったからである。ビスマルクの時代のドイツ人はヨーロッパの一等国であること で満足していた。かってヨーロッパは世界の中心であり、そこで一等国であることはすなわち世 界の一等国であった。ビスマルクがヨーロッパの地図を示しながら、「私のアフリカの地図はこ こにあるーといったことは、彼の時代の、あるいはもっと一般的な言い方でいえば、ビクトリア 朝的十九世紀の意識をよく示している。しかし時代が下り、いわゆる「世紀末」の時代になると、 「ヨーロッパ」の価値そのものが怪しくなってくる。ヨーロッパ人の心の中に、ヨーロッパ外の 176