十九世紀 - みる会図書館


検索対象: 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか
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1. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

戦いが、次第に英米を意識した太平洋での戦いの方向にべクトルが回転しはじめたという点でも、 ・二六事件のもっモメントは大きかった。この incident そのものは、まさに先に述べた「事 物の近因。と考えることもできる。この二・二六事件の経過の正確な記述は専門の政治史家に委 ねるとして、ここではその遠因とも言うべき、経済政策上の問題と財政のリ 1 ダー的存在であっ た高橋是清の果たした役割について述べてみたい。そのためには、一九三〇年代初頭の世界と日 本の経済が直面していた問題にふれなければならない。 世界経済秩序の動揺 第一次世界大戦によって、ヨーロッパでは十九世紀的な価値規範と政治秩序は崩れ、この世を 統べる最高原理への信頼が失われるような精神風土が生まれた。経済の世界で起こった混乱も同 根であった。それまでは「見えざる手ーの導きによって、経済と社会の調和が保たれると信じら れてきた。アダム・スミスが述べたように一人一人の人間が、自分の利益を考え、正義の法を犯 さずに行動していれば、「見えざる手ーによって、社会全体の利益は増進するという信念が社会 に広く深く浸透していたのである。この自然調和の信仰こそ、十八世紀から十九世紀への汎神論 的な世界観の根本をなす社会思想であった。この自由主義の原理は十九世紀後半には次第に綻び を見せ、「人間が社会を管理する」という考えが強く頭をもたげはじめてはいたものの、それは ほころ

2. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

ーとヨ 1 ロッパの拘束の矛盾を反映し、かつまたヨーロッパ全体を惨禍に巻き込むような軍事機 構のモデルとなった国であった。言い換えれば、ドイツが十九世紀ョ 1 ロッパの成果であった限 りにおいて、この戦争は十九世紀ヨーロッパの破滅であった。 一一十世紀ーー大戦の瓦礫の上に 我々はオ 1 ストリア・ハンガリーの姿に旧体制の衰亡を、ドイツの無謀な政策に十九世紀ヨー ロッパの失敗をみた。それでは我々がみるのは没落と破壊だけであろうか。戦争の本質が暴力と 破壊であるにしても、そこに何らの未来へつながる創造を見出すことはできないのだろうか。 改めてドイツの「世界政策」について考えてみよう。この言葉が、たとえ単にスローガンであ ったにせよ、当時のドイツ人になぜ人気があったのだろうか。そこには、「ヨーロッパを越え た「世界 , があったからである。ビスマルクの時代のドイツ人はヨーロッパの一等国であること で満足していた。かってヨーロッパは世界の中心であり、そこで一等国であることはすなわち世 界の一等国であった。ビスマルクがヨーロッパの地図を示しながら、「私のアフリカの地図はこ こにあるーといったことは、彼の時代の、あるいはもっと一般的な言い方でいえば、ビクトリア 朝的十九世紀の意識をよく示している。しかし時代が下り、いわゆる「世紀末」の時代になると、 「ヨーロッパ」の価値そのものが怪しくなってくる。ヨーロッパ人の心の中に、ヨーロッパ外の 176

3. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

ボードレ 1 ルやマラルメが文学で、ニーチェが哲学でもたらしたセンセーションは、確かに十八 世紀のヨーロッパにも十九世紀のヨーロッパにもないものであった。それは、十九世紀のヨ 1 ロ ッパを否定し相対化した上で、新しいョ 1 ロッパ像を作り出す可能性をもっていた。しかし新し いものへの渇望は、大戦の当初、各国の若者が競って戦場に赴いたような意識を作り出しもした。 この戦争が新たな時代を開くのではないか、という幻想があったのである。 大第一次世界大戦はすぐに膠着状態におちいり、その後二年間は無為な攻撃が繰り返され、人命 世と爆薬が消費されていった。戦争に抱かれていた幻想は幻滅に変わった。戦前にあった新しい創 次 造の試みは、大戦の間に大きくゆがんでしまった。ある部分は消え去ってしまい、別の部分は異 第 常に増幅された。歴史は単純には進行しないのである。 こうした変化の最たるものがロシアでのポルシェビキの革命であったろう。しかしロシアばか 和 講 りではなく、アメリカはウイルソンの大言壮語と共に参戦し、イギリスではロイド・ジョージが、 長 フランスではクレマンソーが、ドイツではヒンデンプルグとル 1 デンドルフが国民の継戦意欲を 界保った。大戦の戦場から遠く離れ、東アジアでの権益拡大にいそしんでいた日本にすら影響は及 んだ。大戦がもたらした世界的経済変動が米騒動をもたらし、原敬の内閣を登場させたのである。 わ 失 したがって、「第一次世界大戦はヨーロッパの戦争として始まり、世界戦争として終焉した」 179

4. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

第一次世界大戦は、オ 1 ストリア・ハンガリ 1 やオスマン・トルコといった旧体制を崩壊させ、 十九世紀ヨーロッパのもっていた尊大な優越感も破壊した。この時に歴史としての二十世紀が始 まったといえるであろう。しかし冷戦も終わり、新しい世紀を迎えた現在から振り返ってみたと つまるところ、この世紀は第一次世 き、二十世紀の記憶にある種のむなしさを感じなくもない。 界大戦の後始末をしてきたのではなかったのか。大戦に疲れ切って一旦は戦争を終えたものの、 その後遺症は長く続いた。まずは国際連盟と社会主義という高邁な理想と虚しい現実。さらに第 二次世界大戦。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約に不満を抱いていたドイツ人の感情を扇動 してナチスが引き起こした戦争。ヨーロッパ情勢に幻惑されて無謀な戦争に突入した日本。そし てドイツと日本が敗北した後、息つく暇もなく始まった米ソの冷戦。こうみてくると、アメリカ という表現はあやまりではない。しかしこの戦争の終わり方も始まり方も同じく奇妙なものであ った。ロシアが革命によって戦線から離脱し、ドイツは一旦勢いを得たかにみえた。しかしドイ ツが無制限潜水艦戦を行って一気に戦争にかたをつけようとしたことで、アメリカのドイツに対 する参戦の意志を固めさせることになった。しかし今度はアメリカが本格的に軍隊をヨーロッパ に送り込んでいる間にドイツで革命が起こり、和を請うた。戦争は終わったが、始めたときには 野球の試合だったのに、サッカーの戦で決着をつけたようなものだった。

5. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

世界が重要ではないのか、という観念が生じてくる。こうしたことは、ドイツが世界のあちこち でどれほど経済的に利益になるか分からないところに植民地を獲得するために熱をあげたことに 典型的に示されているが、イギリスやフランスもドイツを笑えない。アフリカの奥地ファッショ ダという当時のヨ 1 ロッパ人が聞いたこともない土地をめぐって両国の戦争の可能性もささやか れたのである。 実際、ヨーロッパ外の世界は着実に力をつけていた。アメリカの工業生産はすでに、ヨ 1 ロッ パ諸国が束になってようやく釣り合うほど巨大になっていた。日本も既に近代国家の体裁を整え 大つつあった。イギリスがその「光栄ある孤立」を放棄して最初に同盟を結んだ国が日本であり、 世またその国がロシアを破ったことは、ヨーロッパからみてはるか辺境での出来事とはいえ、ヨ 1 次 ロッパ人の世界観を変えていった。音楽の世界に東欧やロシアの民族音楽がもたらした影響や、 第 絵画の世界に日本の浮世絵が与えた印象もこうした時代の風潮と無縁ではないし、宮廷文化であ った十八世紀の中国趣味などとは性格の異なるものであった。 和 講 長 界 しかしこうした状況を「ヨーロッパの衰退。と表現することは正確ではない。なぜなら、ヨー 世 ロッパ外の地域が力をもつようになったのは、十九世紀の間に進んだヨーロッパ化のためであっ 失たからである。つまり世界がヨーロッパの科学、観念、文化、政治制度、軍事技術などを取り入 177

6. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

の主張である。新興国家は自然にできるものではなく、建国の理念あるいはイデオロギーを掲げ て意図的に作られる。改めて言うまでもなく、アメリカの場合は自由と平等と人権という理想こ そがそれである。 新興国は独立を達成するために、国家的指導者のカリスマ的権威を必要とした。建国の父ジョ ージ・ワシントンへの偶像視などはその表れである。このようなアメリカの新興国としての性格 こそが、ヨ 1 ロッパの国から派生しながらも、ヨーロッパと非常に異なる性格をアメリカに与え ることになった。アメリカ大統領のことを考えてみよう。ヨーロッパの国王は期限付きではない、 世襲の「普通の」王様だが、アメリカの大統領は期限付きの、世俗化された一種の「国王ーだと いわれてきた。強い権威の心要性と権威への憧れ、平等という理念などが入り交じって「発明 されたのが、この期限付きの国王という大統領であった。 航 アメリカとは新しい国であろうか。十八世紀の末に作られた国家構造を、その基本構造を変え 来 黒ずに現在もなお維持しているという意味では、アメリカは現代社会の中では最も古い国なのかも しれない。少なくとも十八世紀の啓蒙的理想主義を今もなお維持している国という意味では、ア 国メリカは新しくて古い国なのである。それは、人類の歴史の中に現れた新しい実験であった。 腰 アメリカには普通の国王もいなかったが、貴族もいなかった。社会生活のあらゆる面に自由な 弱 の競争をタテマエの価値とする精神が、行き渡っていた。日本では、士・農・エ・商という身分制 度が社会の骨格をなし、ヨーロッパでも貴族の特権がまだ強く残っている時に、アメリカでは現川

7. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

一九一七年のロシア革命と一九九一年のソ連邦の崩壊ーーこの二つの事件を二十世紀における 最大級の歴史の転換点に数えることに誰しも異存はないだろう。 ロシア革命が世界の人びとにあたえた衝撃の大きさは、まさに「世界を震撼させる」という表 現がふさわしかった。ある者はこれを社会主義の時代の到来として熱狂して迎え、また、ある者 はこれを神を蔑する勢力の台頭と見て、底知れぬ恐怖と敵対心にとらえられた。一九一七年を境 として、世界は、新たにユ 1 ラシア大陸の北辺に出現したポルシエヴィズムの国家を支持する勢 力と、それに敵対する勢力にあざやかに二分された。以後の二十世紀の世界史はこの座標軸をめ 壊 崩 ぐって展開し、冷戦はもちろんのこと、ナチズムの台頭や第二次世界大戦の勃発といった諸事件 連 も、ロシア革命がなければ考えられなかっただろう。 革 ロシア革命がこれほど大きな転換を世界史にもたらしたとすれば、二十世紀末のソ連邦の崩壊 ア シ もまた、同じく世界史的転換を意味する出来事でなければならなかった。冷戦時代の後半にはソ ロ 連邦内部の停滞と疲弊が指摘されるようになっていたが、二十世紀のうちにこの国家が地上から 姿を消すことを予測しえた者は、ほとんど皆無に等しかっただろう。あれほど人びとの間に熱狂 しと恐怖を引き起こした権力の幕切れは、まことに唐突に、まことにあっけなく到来したのである。 悲 のしかし、それとともに世界を政治・経済・思想のあらゆる面にわたって二分してきた稀有な時代 族も終わったのであるから、この事件はやはり世界史のターニング・ポイントであったことに間違 民 ) よゝ 0 ・多一しオし なみ 143

8. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

これらの事件は、ゴルバチョフ体制このかた、しばしば〈イスラ 1 ム原理主義〉や排外的ナシ ョナリズムが扇動したせいとされる。欧米がイスラ 1 ム脅威論を説く限り、イスラーム原理主義 や「攻撃的なナショナリズムーを名目にしたロシアの強権的な民族政策も消えないだろう。ドイ ツのコ 1 ル首相がエリツイン支持を表明するのは、ロシアの統合維持に安全保障上の利益がある からだけではない。両者に共通するのは、〈イスラームの脅威〉を内政外交に徹底的に利用しょ うという狙いである。両国の国内世論は、ムスリム系外国人の不法滞在や就労に敏感であり、そ の一部が起こす麻薬や銃砲による犯罪をさながらチェチェン人やトルコ人全体の責任でもあるか のように考える傾向がある。 こうしてみると、ロシア軍のグロズヌイ侵攻と欧米世論の無関心は、チェチェン人の〈不幸〉 だけでなく、ポスニアと同じく、イスラーム世界のなかでも欧米の経済や金融に無縁なムスリム たちが全体として受ける〈不幸〉も象徴しているようでならない。それは、三つのカフカース戦 争を貫く大きな共通点にほかならない。 それにしても、 いまエリツインに必要なのは、十八世紀英国の政治思想家エドマンド・ の警句をかみしめることではないだろうか。統治に必要な情念の抑制は文明社会から生まれたも のであり、意志と情念の制御こそ権力の任務である、と。 240

9. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

サラエボの暗殺と「旧体制」の没落 一九一四年六月二十八日、サラエボ。この日、このバルカンの小都市で放たれた暗殺の銃弾が 世界の運命を変えることになった。暗殺者は、ポスニアのセルビア人ガプリロ・プリンチプ。凶 弾にたおれたのはオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナンド大公と その妻ゾフィ 1 戦 六月二十八日という日は、暗殺者にとっても暗殺された者にとっても意味のある日であった。 大 世プリンチプは二十歳の誕生日まで一月足らずの青年であり、サラエボを首府とするオーストリ 、一ア・ハンガリー帝国の一州ポスニアのセルビア人貧農の家に生まれた。セルビア人はポスニアに おいて多数を占める南スラブ系の一民族であり、独立王国セルビアにまたがって暮らしていた。 稠かって東ロ 1 マ帝国の支配下で、正教のキリスト教を受け継いだ彼らは、東ローマ帝国が滅び、 講 トルコの支配下にはいってもその民族的伝統を守り通した。中でも六月二十八日は、十四世紀に 長 トルコ軍に英雄的に戦って敗れ、独立を失ったというセルビア人にとっての民族的記念日であっ 界 . 一」 0 オ十九世紀になってドイツ宰相ビスマルクの策略に満ちた外交の中でもその頂点をなした一八 世 七八年のベルリン会議以来、ポスニアとその隣州へルツェゴビナは事実上トルコの統治からオー 失ストリアの統治に移っていたとはいえ、一九〇八年にほとんど何の前触れもなくオーストリアが 161

10. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

れた、ないしはヨーロッパが大真面目で押しつけたことによって、ヨーロッパはヨーロッパ外の 世界に目を開かれると共に、真にヨーロッパ的なものは何かという懐疑にとらわれることになっ たのである。すぐれたヨ 1 ロッパ文明論を書いた吉田健一はこう表現している。 「ヨオロッパは、或は厳密には十九世紀になってからのヨオロッパは民主主義と憲法の普及と宣 伝に力を入れて、それはヨオロッパのみならずョオロッパ以外の世界も益し、この業績はヨオロ ッパの栄光の一部をなすことになったのであっても、その成果が確実なものになればなる程それ を収めたヨオロッパといふものは意味を失ふことになった , ( 『ョオロッパの世紀末』筑摩書房 ) 。 人は意味を見失ったとき、制度や観念や組織に頼ろうとする。第一次世界大戦開戦時のヨーロ ッパ諸国の指導者が一様にひょわに映るのはこうした理由があるのであろう。彼らは危機に臨ん で、軍事組織や勢力均衡といった制度に頼ろうとした。それらは確かにかって機能し、戦争を未 然に防いだり、たとえ起こっても無秩序に至らない範囲に押し止めることに成功してきたからで ある。しかし人間の作り出した制度や組織は、その中にある人間が意識をもち、意味を見出して こそ生きるものである。そうした意識や意味を喪失したとき、人は自らの作り出した制度や組織 に支配され、状況に流される。第一次世界大戦は状況が作り出した戦争という面で、やはり特異 な性格をもっていたというべきであろう。 しかし世界との出会いは、ヨ 1 ロッパの新しい意味の模索に寄与する面ももっていた。特にそ れは文化の面で感じられ始めていた。ストラビンスキーが音楽で、ピカソやプラックが絵画で、 178