ーとヨ 1 ロッパの拘束の矛盾を反映し、かつまたヨーロッパ全体を惨禍に巻き込むような軍事機 構のモデルとなった国であった。言い換えれば、ドイツが十九世紀ョ 1 ロッパの成果であった限 りにおいて、この戦争は十九世紀ヨーロッパの破滅であった。 一一十世紀ーー大戦の瓦礫の上に 我々はオ 1 ストリア・ハンガリーの姿に旧体制の衰亡を、ドイツの無謀な政策に十九世紀ヨー ロッパの失敗をみた。それでは我々がみるのは没落と破壊だけであろうか。戦争の本質が暴力と 破壊であるにしても、そこに何らの未来へつながる創造を見出すことはできないのだろうか。 改めてドイツの「世界政策」について考えてみよう。この言葉が、たとえ単にスローガンであ ったにせよ、当時のドイツ人になぜ人気があったのだろうか。そこには、「ヨーロッパを越え た「世界 , があったからである。ビスマルクの時代のドイツ人はヨーロッパの一等国であること で満足していた。かってヨーロッパは世界の中心であり、そこで一等国であることはすなわち世 界の一等国であった。ビスマルクがヨーロッパの地図を示しながら、「私のアフリカの地図はこ こにあるーといったことは、彼の時代の、あるいはもっと一般的な言い方でいえば、ビクトリア 朝的十九世紀の意識をよく示している。しかし時代が下り、いわゆる「世紀末」の時代になると、 「ヨーロッパ」の価値そのものが怪しくなってくる。ヨーロッパ人の心の中に、ヨーロッパ外の 176
からはじまったが、この首都の「血の日曜日」に、より早くよりはげしく反応をしめしたのは、 やはり、ポーラント 、、バルト地方、ウクライナ、カフカスなどの非ロシア人地域だった。 よみがえ こうして一九〇五年の革命は、「民族の牢獄ーといわれたツアー帝国で民族主義運動が蘇りは じめたという意味で、「民族の春、とも形容できる事件だったのである。同時にそれは、一九一 七年革命における民族主義的、分離主義的運動の先駆をなす事件でもあった。注目にあたいする のは、この「民族の春ーにおいて主導権をとったのが、一九八〇年代のペレストロイカ時代とほ ば同じ民族だったことである。そういえば、カフカス地方でアルメニア人とアゼルバイジャン人 壊 崩 との衝突が起こっているところまで、二つの時代は約八十年の隔たりをこえて相互に似通ってい 連 いるのである。 革 ツアー帝国の崩壊をもたらした一九一七年の三月革命は、もつばら首都のベトログラードを舞 ア シ 台に決着をつけられた事件であり、この革命勃発時における非ロシア諸民族の役割は小さかった。 ロ しかし、この革命につづくケレンスキ 1 らの臨時政権の時代には、やはり、民族問題が急速に尖 鋭化していったのである。 し たとえば一七年九月には、ポーランド人とフィンランド人を除くすべての民族グループを代表 悲 のする人びとの会議がキーエフで開かれ、ロシアを連邦制の民族的共和国にすべきことで一致を見 族ている。その背景には、ウクライナ、白ロシア、バルト地方、ルーマニア等々で三月革命に触発 多されて民族主義が高まりをみせていたという事情があった。とりわけウクライナにおける農民な 147
きには三十六歳になっていた ) が旧家の因習を拒否したというだけのことではなかった。という のも、ハプスプルグ家の伝統こそが帝国を結びつけるかすがいであったからである。この帝国は ドイツ人やハンガリ 1 人、セルビア人やクロアチア人、チェコ人やスロパキア人など多数の民族 をその内にかかえていた。しかしこの国家は、ハプスプルグ家の征服や婚姻によって作り出され たのであって、民族意識とこの帝国の存立とは相反する存在であった。民族間にはこの国家を支 える共通感情は存在せず、一旦民族感情がめざめれば、民族間の対立がこの帝国を崩壊に導くこ とは必定であった。したがってハプスプルグ家の伝統がかもし出す威光に頼ることのみが、帝国 尢を分解から守る手だてであったのである。一八三〇年生まれの老帝フランツ・ヨ 1 ゼフはこのこ 世とを理解し、保守的な、しかし反動的ではない統治を行うことで、民衆の信望を集めてもいた。 次 し力にも時代遅れであった。そのことは何よりも隣国ドイ しかし家格にしがみついた統治は、ゝゝ 第 ツが証明していた。ビスマルクに率いられたプロイセンは、ドイツ人の民族感情を巧みに操りな 稠がら、プロイセン主導のドイツ帝国を作り出すことに成功し、すでにヨーロッパ最強国の地位を 講 獲得していたのである。十九世紀にヨーロッパは国民国家という強国になるための方程式を作り 長 出していた。この方程式を十九世紀の後半にもっとも適切に実現したのがドイツ帝国であった。 界 これに対してオーストリア・ハンガリ 1 帝国はいまだハプスプルグ家の帝国であり、それはフ 世 ランス革命以前のヨーロッパ、国籍や愛国心がまだ人々の意識の中でわずかな部分しか占めてい れ 失ない時代、宮廷が政治の中心であった時代、モ 1 ツアルトの天国的な音楽の時代にこそふさわし %
一九一七年のロシア革命と一九九一年のソ連邦の崩壊ーーこの二つの事件を二十世紀における 最大級の歴史の転換点に数えることに誰しも異存はないだろう。 ロシア革命が世界の人びとにあたえた衝撃の大きさは、まさに「世界を震撼させる」という表 現がふさわしかった。ある者はこれを社会主義の時代の到来として熱狂して迎え、また、ある者 はこれを神を蔑する勢力の台頭と見て、底知れぬ恐怖と敵対心にとらえられた。一九一七年を境 として、世界は、新たにユ 1 ラシア大陸の北辺に出現したポルシエヴィズムの国家を支持する勢 力と、それに敵対する勢力にあざやかに二分された。以後の二十世紀の世界史はこの座標軸をめ 壊 崩 ぐって展開し、冷戦はもちろんのこと、ナチズムの台頭や第二次世界大戦の勃発といった諸事件 連 も、ロシア革命がなければ考えられなかっただろう。 革 ロシア革命がこれほど大きな転換を世界史にもたらしたとすれば、二十世紀末のソ連邦の崩壊 ア シ もまた、同じく世界史的転換を意味する出来事でなければならなかった。冷戦時代の後半にはソ ロ 連邦内部の停滞と疲弊が指摘されるようになっていたが、二十世紀のうちにこの国家が地上から 姿を消すことを予測しえた者は、ほとんど皆無に等しかっただろう。あれほど人びとの間に熱狂 しと恐怖を引き起こした権力の幕切れは、まことに唐突に、まことにあっけなく到来したのである。 悲 のしかし、それとともに世界を政治・経済・思想のあらゆる面にわたって二分してきた稀有な時代 族も終わったのであるから、この事件はやはり世界史のターニング・ポイントであったことに間違 民 ) よゝ 0 ・多一しオし なみ 143
新を迎えたときは浪人である。請われて維新政府に仕えた。明治六年に官を辞し、以後死ぬまで % 民間にあって、銀行業、紡績業、鉄道業ほか近代企業の確立につとめた。生涯にかかわった会社 は五百余にのばる。直系会社の第一銀行でも持ち株は三 % に満たない。渋沢は資本家というより も経営者であったというべきである。五代友厚は武士の次男として薩摩に生まれ、引き継ぐ家産 はなく、資本家ではない。維新政府に仕え、明治二 ( 一八六九 ) 年に辞職して、民間にあって商 工業の育成につとめて生涯を全うした経営者である。アメリカにおける日本史研究の大御所・ 0 ・スミスは『日本社会史における伝統と創造』 ( 大島真理夫訳、ミネルヴァ書房 ) で、個人、 権利、自由といった西洋の近代化には不可欠の用語を一切使わずに、日本の近代化過程が、ヨー ロッパの近代化のパターンとは違うことを指摘しているが、特に明治維新は、武士が自らその特 権を放棄したものであり、西洋では考えられないと力説している。なぜ日本でそれができたのか。 土地をもたない貴族は西洋にはいないが、日本の貴族たる武士は兵農分離で土地を奪われていた。 簡単に特権を放棄できたのは、土地財産がなかったからだと論じているのは、本質をついた指摘 である。つまり失うほどのものをもっていなかったのである。では武士は何をもっていたのか。 彼らがもっていたのは渋沢や五代のごとき経営の資質であったというべきであろう。経営資質と は江戸時代における武士の職分である統治に由来するであろう。統治 (government) の能力の 錬磨から経世済民の経営 (management) の資質が培われたとみられる。 日本では、西洋とはまさに反対に、農民 ( 労働者 ) が生産手段をもち、武士 ( 経営者 ) はそれ
フェルディナンドが皇太子の地位についたのもこの矛盾の所産であったかもしれない。そもそ もフランツ・ヨーゼフには息子ルドルフがいた。しかし彼は、帝国の将来を悲観し、自らの命を 絶ったのである。ルドルフの自殺まで皇位を継承する可能性の薄かったフェルディナンドは、む しろ堅実で凡庸な人物になるよう育てられたし、そうした人物となった。彼は化・芸術には興 味が乏しく、ウィーンっ子の人気は低かった。しかし軍事には明るく、また敬虔なカトリックで あり、かっ妻子を愛する男であった。この彼も皇太子になってからは、フランツ・ヨーゼフの保 守的な現状維持政策に不満を抱き始めていた。確かにハプスプルグ帝国にとって、現状維持とは すなわち衰退の道であった。問題は、現状維持以外のいかなる政策をとる力も、すでにこの帝国 には失われていたし、また帝国内の複雑な要素を微妙にバランスさせた上にハプスプルグの支配 は成り立っていたから、ある方向に強く引っ張っていくことは、微妙なバランスの全体を崩しか ねないことであった。こうしたことを老帝は理解し受け入れていたであろう。しかし座して没落 いものであった。いわばオーストリア・ハンガリー帝国は、二十世紀まで生きながらえた旧体制 ( アンシャン・レジーム ) であった。国民国家の時代になってしまっては、時代の流れに乗るこ となしには、その大国としての地位を失うことは明らかであったし、ここにこの帝国の矛盾があ っ ? 」 0
そうした中で、ドイツ統一に代わる国家目標を与えるかに期待されたのが、「世界政策、のス ローガンであった。ヨーロッパにおける状況がすでに固定化してしまっているので、ドイツのよ うに成長しつつある国家はヨーロッパ外に発展の余地を求めねばならないし、そのためには海外 に飛躍できるよう海軍力をもたねばならない、 というものであった。この「世界政策ーを経済的 な動機や、特定の経済的階級と結びつけることは可能である。海外の資源や市場を確保すること は、産業家の利益にかなっているし、海軍建設は重工業を潤すことになった。しかし「世界政 念の上にはじめて可能だったのである。皇帝ヴィルヘルム二世は、その不安定な性格が次第に明 らかになると信望を失い、後世の歴史家の批判の的になるが、彼が一八九〇年にビスマルクを引 退に追いやったときには人々は新たな時代の到来を予感して歓迎の声をあげたのである。 しかしビスマルクが去った後のドイツ政治を待っていたのは新時代ではなく、混迷であった。 ドイツの国家構造にあっては、ビスマルクのような強力な指導者がいなければ、権力の焦点が存 在しなかったからである。ドイツの内政、外交、軍事政策はばらばらになりがちであった。また 帝国議会は形式上は普通選挙で選ばれ、また帝国予算については実質的な発一言権をもっていたが、 新たな政策のイニシアテイプをとる能力はなかった。そして権力の中心にあるべき皇帝自身が凡 庸であったため、ドイツの中枢は麻痺状態に陥ったのである。
ような消費をして暮らしをたて衣食住の形をつくっているかに、つまり生産から生活に目を移す べきだと主張したのである。 実際、日本はもはや臨海工業地帯の建設をもって国づくりをする時代ではなくなっている。す でに製品輸入率が平成元 ( 一九八九 ) 年に五割を突破、平成七 ( 一九九五 ) 年には六割を超えた。 沿海工業を軸とした生産力至上主義は一段落した。一方、 もはや日本は生産一切倒の国ではない。、 平成五 ( 一九九三 ) 年以来、日本人一人当たりの所得は世界一である。暮らしのたて方、生活様 式、消費のスタイルを魅力あるもの、美しいものにすることが課題なのである。これと関連して、 冒頭で紹介した新しい日本のイメ 1 ジとしての「『庭園の島』日本。の国土構想が出てきたので ある。これは夢物語であろうか。 そうではない。かって三全総実施期の大平内閣時代に「田園都市国家構想」が提言された。 「田園都市ーといえば、だれもが百年前の英国人ハワードの『明日の田園都市』を思い浮かべる であろう。原題は GardenCitiesforTomorrow である。それはイギリスではレッチワ 1 スやウ エルウインで実践され、その後の都市づくりに決定的な影響を与えて今日に至っている。イギリ ス以外でも、たとえばシンガポ 1 ルでは、この理念のもとに国づくりがおこなわれた。なぜ日本 では原題のガーデン・シティーを「田園都市」と訳したのか。田園では田舎ではないか。文字通 り訳せば「庭園都市」すなわち緑を庭として育てる都市のことである。世界最初のガーデン・シ ティーは一八六九年にニューヨークのロング・アイランドにつくられた。
( 昭和六 ) 年九月二十二日の閣議に際して、若槻礼次郎首相の発した「すでに出たものは仕方が なきにあらずや」こそ、堤防決壊を招来した運命的な言葉であったといえよう。この言葉が発せ られたあと、「軍部の時代ーが奔流となった。政党政治が軍部支配に屈して、いわゆる「十五年 戦争」の時代を迎えた。それは一九四五 ( 昭和二十 ) 年の日本帝国の滅亡まで止まなかったので ある。 まずは、この言葉が発せられるまでのドラマを振り返らねばならない。 九月十八日夜十時二十分頃、奉天郊外の柳条湖付近で満鉄線が爆破された。その第一報が深夜 一時七分、東京の陸軍中央部に届いた。「 : : : 暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、わが守備隊 を襲い : : : 」と奉天発第二〇五号電は、中国軍が満鉄と関東軍への攻撃を開始したと告げた。で あれば、日本は被害者であり、関東軍は自衛のため正当な行動をとりうることになる。もちろん、 戦後のわれわれはこれが板垣征四郎と石原莞爾を中心とする関東軍参謀らの謀略であったことを 知っている ( 当時より真偽とりまぜた謀略のうわさは少くなかった。しかし根拠ある史実は示さ れなかった。戦後の東京裁判ですら解明しきれなかった。一九六〇年代に資料の発掘が進み、国 際政治学会が『太平洋戦争への道』〈八巻〉を刊行してようやく実相が明らかとなった ) 。 「謀略により機会を作製し、軍部主導となりて国家を強引す」との一文によって満州事変の計画 を石原が明記したのは、四カ月前の一九三一年五月のことであった ( 「満蒙問題私見し。「謀略」 の中身については、もし満鉄線が破壊されれば、関東軍司令部条例第三条により、関東軍が合法
野田宣雄 ( のだ・のぶお ) 南山大学教授 ( ドイツ近・現 代政治史 ) 。 一九三三年滋賀県生まれ。京都大学 文学部卒業。同大学教養部教授、法 学部教授を経て現職。 著書に『教養市民層からナチズム へ』 ( 名古屋大学出版会 ) 、『歴史の 危機』『二十世紀をどう見るか』 ( 文 藝春秋 ) 、『歴史に復讐される世紀 末』『文明衝突時代の政治と宗教』 『二十一世紀をどう生きるか』 研究所 ) 、『よみがえる帝国』 ( ミ ネルヴァ書房 ) など。