近代化 - みる会図書館


検索対象: 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか
227件見つかりました。

1. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

新を迎えたときは浪人である。請われて維新政府に仕えた。明治六年に官を辞し、以後死ぬまで % 民間にあって、銀行業、紡績業、鉄道業ほか近代企業の確立につとめた。生涯にかかわった会社 は五百余にのばる。直系会社の第一銀行でも持ち株は三 % に満たない。渋沢は資本家というより も経営者であったというべきである。五代友厚は武士の次男として薩摩に生まれ、引き継ぐ家産 はなく、資本家ではない。維新政府に仕え、明治二 ( 一八六九 ) 年に辞職して、民間にあって商 工業の育成につとめて生涯を全うした経営者である。アメリカにおける日本史研究の大御所・ 0 ・スミスは『日本社会史における伝統と創造』 ( 大島真理夫訳、ミネルヴァ書房 ) で、個人、 権利、自由といった西洋の近代化には不可欠の用語を一切使わずに、日本の近代化過程が、ヨー ロッパの近代化のパターンとは違うことを指摘しているが、特に明治維新は、武士が自らその特 権を放棄したものであり、西洋では考えられないと力説している。なぜ日本でそれができたのか。 土地をもたない貴族は西洋にはいないが、日本の貴族たる武士は兵農分離で土地を奪われていた。 簡単に特権を放棄できたのは、土地財産がなかったからだと論じているのは、本質をついた指摘 である。つまり失うほどのものをもっていなかったのである。では武士は何をもっていたのか。 彼らがもっていたのは渋沢や五代のごとき経営の資質であったというべきであろう。経営資質と は江戸時代における武士の職分である統治に由来するであろう。統治 (government) の能力の 錬磨から経世済民の経営 (management) の資質が培われたとみられる。 日本では、西洋とはまさに反対に、農民 ( 労働者 ) が生産手段をもち、武士 ( 経営者 ) はそれ

2. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

日本の近代化を誤らせたもの 明治六年の政変 都市化こそが近代化と速断した岩倉使節団の西洋理解が西郷を追いつめ、日本に醜い近代化を強いた。 勝一平太 ( 国際日本文化研究センター教授 )

3. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

日本の近代化を誤らせたもの一一一明治六年の政変 は明治六年以前の日本が自覚せざるままもっていたこの国のかたちであり、西洋諸国が近代の理 想としてきたかたちでもある。 9. 9.

4. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

それぞれ必要になるのだが、思索と討論が健全な形で進行するためには「言葉づかいのル 1 ル がなければならない。要するに、歴史の本質は「法のルールと「一一一口葉づかいのルール」にこそ あるということである。 これらのルールはナショナリテイから自由になれない。そのことをアメリカニズムは理解する ことができず、その無理解が普遍性として喧伝されているのである。控え目にいうと、その無知 はアメリカニズムのものであってアメリカ人のものではない。現実のアメリカ人は歴史への強い ヒス、リ・ー 執着のなかで生きているといったほうが適切かもしれない。そして当たり前のことだが、歴史 は、ルールと言葉づかいという観念の構築物をいかなるものとして回顧し展望するかということ スーーリ .1 にかんする、物語なのであり、そうである以上、致命的に大事なのはそれを物語ろうとする意 志の強さである。単なる過去という時間の連綿たるつながりが歴史ではないのだ。敗戦日本が実 演してしまったように、ありあまる過去のなかで歴史を喪失するという事態だって起こりうるの である。 観念としての歴史に最もこだわりつづけてきたのは西ヨーロッパ、 とくにイギリスであると私 モダン は思う。その国は近代の創始者であるがゆえに近代を学ぶべき模型とすることができず、そのお プレモダン かげで、前近代を壊すことにおいて慎重であることができた。また、前近代における想像力あふ ポストモダン れる「物語」を解釈することを通じて、後近代へ飛翔せんとする精神の実験が ( 精神分析から芸 術に至る新運動として ) 行われたのも西欧である。つまりモダニズム、プレモダニズムそしてポ 138

5. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

のなかに囚われたままなのである。 社会主義は近代に特有の実験主義的な思考の一つの極端な応用例として誕生した。ここで実験 主義というのは、歴史の流れを断絶させるほどの ( 正確には、歴史の完全な断絶などありえない 以上、歴史の流れの大いなる屈折もしくは湾曲というべきなのだが ) 規模と速度で社会に変革を 仕掛けることである。そしてそれを革命と名づけるなら、近代における革命の礼賛は、「個人的 自由」を最大限に発揚するときに「技術的合理」が最高度に発揮されるとする思想にもとづいて いる。つまり、個人主義にもとづく理性主義、それが近代思想のエッセンスである。 争 戦 そこで軽んじられたのは、第一に、個人の人格もその自由も、「歴史的秩序ーによって枠づけ 洋 ほうらっ 太されないならば、単なる衝動的欲望の放埒なる発現に終わるという事実である。いや歴史的秩序 というのも歴史とは、単な 亜というよりも端的に「歴史といっておくのがよいのかもしれない。 大る過去の事例の記録なのではなく、まずその記録のなかに ( いかなる欲望をいかに実現すべきか ということにかんする ) 英知が含まれているに違いないと考え、次にその英知が何であるかとい マ ウ うことにかんする解釈を物語ったり書記したりするところに成立するものだからである。いずれ の にせよ、歴史なき個人が無であること、そしてその無は歴史がつねにナショナリティ ( 国籍 ) を 戦 敗持っことについて無知である点に端的に現われること、このことを近代の個人主義は無視し、そ 癒の延長に実験主義という近代人の生の形態が生まれたのであった。 な実験主義が第二に軽んじたのは、合理の前提や枠組が「歴史的良識」によって基礎づけられな とら 129

6. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

でナチス・ドイツと同盟した。当時の日本人はヒトラーのドイツがユダヤ人をみな殺しにするよ うな野蛮な国だとはほとんど誰も信じなかったのである。そんな国と同盟を結んだことが昭和日 本の最大の失策の一つであり、ファシスト・イタリアにとっては命取りとなった。ただし人間も 国際政治も御都合主義なものである。勝っている間は三国同盟でもよかった。だが一旦戦局が不 利になると長い歴史的記憶がよみがえる。イタリアの将軍たちの世代は第一次世界大戦でドイツ 脚を敵として戦ったことを記憶している。ナチス・ドイツの高飛車な態度が彼等の感情を逆撫です のる。ロ 1 マの外務省にも宮中にも平和回復の機会を狙う感覚は生きている。イタリア海軍の中に も親英感情は残っていて、国王やヾ ノドリオ元帥がアンコーナからプリンディシへ脱出するのを手 助けする : 。日本にも似たような歴史的記憶のよみがえりはあった。文明開化の昔以来、英米 ム 者は日本の近代化の模範でもあった。霞が関の外務省にも宮中にも平和回復の機会を狙う感覚は生 独きている。「イタリアのいちばん長い日と「日本のいちばん長い日、とでは細目は違うし、国 民性による色づけもおよそ異なるが、それでも両者はやはり起こるべくして起こった事なのだろ 日 長う ん 「戦争中、この戦争はどういう風に終わると思っておられましたか ち とかって竹山道雄氏にたずねたことがある。 の ア 「宮中を中心に宮廷革命で和平政権を樹立するよりほかに術はあるまいな、と岡義武さんと話し タ イ たことがある」 21 )

7. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

ソフト化から企業の管理機能や金融の東京集中がさらに進み、東京集中がさらにさらに進み、東 京一極集中へとつながった」 報告書はこのように日本の太平洋岸に偏した都市化・工業化を「危機」としてとらえ、現在は この危機を克服する歴史的転換期だというのである。では、どのように国土を転換するのか。新 しい国土構想はこう提言されている 「二十一世紀において、我が国が歴史と風土の特性に根ざした新しい文化と生活様式を創造し、 国土の上に生きる人々 ( 日本人 ) が真に豊かな生活を送ることができてはじめて、国土が美しい ものとなり、『庭園の島 (Garden lslands) 』ともいうべき、世界に誇りうる日本列島が現出し、 地球時代に生きる我が国のアイデンティティを確立することが可能となる」 明治維新以来の日本の国づくりのあり方への全面的反省の上にたって、日本固有の国の美を誇 れる「庭園の島 . として再興しようというのである。 そもそも、このように明治以来の近代化の全面的見直しを必要とされるような日本に、なぜな ったのか。 岩倉使節団が見落としたもの 近代日本の歩みにおいて、最初に直面した曲がり角を、私は明治六 ( 一八七一一 l) 年の政変であ

8. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

では、岩倉使節団は、欧米でいったい何を見聞したのか。いいかえると、大久保・伊藤等は、 どのような社会をモデルとして日本の内治優先論を頑強に唱えたのか。彼らの西洋理解こそが近 代日本建設の青写真、日本百年の大計の基礎になったのであるから、この点は重要である。 『米欧回覧実記』をひもとくと、興味深い事実に気づかされる。当時の随一の覇権国イギリスに、 使節団一行は明治五 ( 一八七一 D 年七月 5 十一月の四カ月間滞在して、精力的に動きまわってい ーミンガム、ロン る。その記述が詳細にわたり精彩を放つのはリバブール、マンチェスター ドン、エディンバラ、グラスゴーなどの大都市の工場、鉄道、鉄鋼所、大造船所などの観察であ る。それと関連して、こういう記述があるーーー「当今ョ 1 ロッパ各国、みな文明を輝かし、富強 を極め、貿易盛に、工芸秀で、人民快美の生理に、その悦楽を極む、その状況を目撃すれば、こ れ欧州商利を重んずるの風俗の、これを漸致せる所にて、原来この州の固有の如くに思はれると も、その実は然らず、欧州今日の富庶をみるは、一千八百年以後のことにて、著しくこの景象を 生ぜしは、僅に四十年にすぎざるなり ここに見られるのは、ヨーロッパ都市工業の発展は近年の成果である、という洞察であり、日 本との時間的距離は「僅か四十年にすぎざる」という表現にある通り、一世代余りで追いつける という確信である。この「追いついてみせるぞーという気概こそ、日本人が近代化に乗り出した ときの背骨になったものであろう。 注目したいのはつぎの二点である。第一点は、一行がイギリス中に張り巡らされた鉄道を使っ

9. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

いならば、理性は単なる技術をしかもたらさず、そして人間の生は技術によって裁断され尽すに はあまりにも複雑な ( 個人的および集団的 ) 感性を伴っているという事実である。その良識を輿 論とよぶならば、輿論は上に述べた歴史的なるものとしての英知を内包しているのであり、それ セロン にくらべ近代人の形成する世論は、歴史から切り離されたものとしての、流行の気分であったり 理屈であったりするのである。 歴史的な「秩序と良識」を欠いたどころか、それを破壊することを旨とする実験主義の極端型 きようどう が ( 社会主義を嚮導したものとしての ) ロシアニズムであった。ロシアニズムは、その極限に おいて逆転現象を起こし、個人的自由の圧殺と技術的合理の破綻を惹き起こした。しかし実験主 義こそがロシアを混迷に導いた元凶であると知ったからには、その種の文明の病原菌ははたして ロシアにおいてのみ観察されるものであるか否かが問われなければならない。 そのように問うてみるとき、冷戦構造なるものが二十世紀に支配的であった文明の精神構造に おける血の通わぬ冷たさにかかわっていたのだ、ということがすぐ了解できる。つまり口シアと 並ぶもう一つの覇権国であったアメリカもまた、深く実験主義に毒されてきたということである。 ロシアが歴史を意図的に破壊したのにたいし、アメリカには歴史がないも同然であった。いや、 アメリカ建国の父祖たちにはヨ 1 ロッパの古典期 ( 古代のギリシャおよびローマ ) の精神に回帰 したいという願望すらあったのだが、結局のところ、「個人的自由と技術的合理ーの実験場にな るのが新大陸の運命であったというべきかもしれない。いずれにせよアメリカにあっては、計画 130

10. 検証歴史を変えた事件 : 悲劇はなぜ起きたのか

それは自然を生活の中で育て、風景を「借景」として庭にとりこむ旧来の生活様式である。報告 書がうたっている「太平洋に浮かぶ『庭園の島』日本、の国土構想は、意識こそされていないが、 我々の深層意識にある原風景であり、それはまた明治六年以前の日本の姿のルネサンスにほかな らない 西洋と日本、それぞれの近代化 西洋諸国へのキャッチアップという見方も、明治六年以来の錯覚である可能性がある。むしろ 近代化の道には、少なくとも西洋と日本の二つあったとみたほうがよい。 西洋の資本主義はいかにして成立したか。マルクス『資本論』に「本源的蓄積 ( 原始的蓄積 ) 」 論という有名な理論がある。そこにはこう書かれているーーー「資本の蓄積は剰余価値を、剰余価 値は資本主義的生産を、これはまた商品生産者の手中における比較的大量の資本と労働力との現 存を、前提とする。したがって、この全運動は一つの悪循環をなして回転するように見え、我々 がこれから逃れ出るためには、資本主義的蓄積に先行する『本源的』蓄積 ( アダム・スミスのい う『先行的蓄積』 ) を、すなわち資本主義的生産様式の結果ではなく、その出発点である蓄積を 想定するほかない」と。それが本源的蓄積である。本源的蓄積とは一言でいえば「生産者と生産 手段との分離ーである。すなわち農民が耕作地を奪われ無産者となる一方、土地を集積する有産