殺したのと同じことなんだぞ」とも言ったと思う。酷だとは思ったが、遺族が何ひとつ事実を 知らされていないことに対して、また、何もしないでただ悶々としている冨田の生き方に対し て、私は無性に腹立たしさを覚えた。 これに対して冨田は、意外な言葉を漏らした。 「よく世間の人は、独身者や子供のいない夫婦に対して、ごく何気なく『まだお一人ですか ? 』 とか、『お子さんはまだですか ? 』とか言いますよね。でも世の中には、結婚したくてもできな い人や、子供がほしくてもできない夫婦って、現実にいますよね。そうした人たちを取材して みると、世間の人の何気ない一言が、当事者にとっては、ものすごく残酷な一言に聞こえるん ですよ。『まだお一人ですか』とか、『お子さんはまだですか』とか言われると、そうした人た ちは、自分がひどく劣っている人間のように感じるんですよ。ですから私は、ああいう一言葉っ て、たとえ他意はなくても、言うべきじゃないと思います。当事者にとっては、ものすごく傷 つく言葉なんですから」 冨田が、何を意図して言ったのかは分からない。ただ私には、冨田が自分自身を「結婚した 日くてもできない人」や「子供がほしくてもできない夫婦」に、どこかで重ね合わせているよう のに思えた。「どんなに悩んでも、自分ではどうすることもできない問題を抱える」人間の一人と 空 して、彼らに共鳴しているのではないかと思えた。
本書に収めた九編の遭難レポートは、一九九五年後半より取材を始め、ほば一年半後の九七 年二月いつばいまでをかけて書き上げたものである。九編のうち六編は、九六年四月から十月 にかけて『岳人』誌上に連載され、また二編は、九七年二月と四月に『山と溪谷』誌上に掲載 された。残る一編、「なぜ、オッルミズへ , は、本来は『岳人』誌上に掲載する予定であったも のが、編集長の方針で掲載が見送られ、本書に収めるに当たって、書き下ろしというかたちに なったものである 九編のほとんどにわたって、雑誌掲載時より大幅に加筆・訂正してある。雑誌発表後に新た な事実が分かったり、私自身のとらえかたに変化が起きたためである。少しでも真実に近づき、 少しでも説得力ある記事をと思い、手を入れた。 人物名は可能なかぎり実名を原則とし、敬称も省いた。その理由は最後に書く。心苦しい選 思うところあってそう定義した。すべての記事を同一にしたかったが、関係者の 択だったが、 208
と、その笑顔の奥に懸念した。 はからずも、私の懸念はこの事故で現実化した。それも最悪と言うしかない結末で : 山で必要なのは、ひとの良さではなく、生き抜く力である。敏感に危険を感じ、迅速に困難 に対処し、どんな状況に追い込まれても、自分を見失わない強い精神力である。いざ生死の局 面に立たされたとき、人間性や性格の良さは何の役にも立たない。 しかしには、生き抜く力がなかった。残念ながら、の人に倍するひとの良さは、山では 弱点だった。 こうしたの資質を、それまでの山行歴から十分に判断できる危機対処能力を、なぜ指導層 は見抜けなかったのか。山の厳しさとの力量を、なぜ冷静に見比べられなかったのか。に 対して、なぜ冷酷なまでに「お前のカでは無理だ」と断言しなかったのか。憎まれようがそむ かれようが「お前にチーフリーダーを務める力はない , とはっきり通告してやれなかったのか なぜ、何も分からない一年生を、巻き添えにしなければならなかったのか。 厳しさも、愛ではないのか。 愛すべき後輩が、雪崩や暴風雪といった人知を超えた不可抗力ではなく、たった一晩の吹雪 ごときで、三人も若い命を山で落とした。万全の力を尽くしてなお、カ及ばず倒れたのではな く、じつに下らない初歩的ミスで、何の抵抗も示さず命を閉じた。
道迷い 二人の話を聞いているうちに、私は何か恐ろしくなってきた。二人の体験した幻覚や、一歩 間違えば死につながったかもしれない無鉄砲な行動や、二人がビバークで味わったであろう、 寒さや恐怖に対してではない。 一言でいえば、二人の底知れぬ「無知」に対してである。地形を知らず、自分たちが迷った 場所さえ分からず、にもかかわらず、奇跡的に生還できたことを「あれは運やった」と語る「無 知」に対してである。二人には失礼な言い方だが、こんなレベルの登山者が初冬の剱岳に登る こと自体、たとえ道迷いを起こさなくても、自殺行為に等しいのではないかと思えた。 しかもこれが、近年の登山愛好家の主流を占める中高年登山者の実状だとしたら、これほど そら恐ろしいことはない。 「運」がなければ、死んでいたかもしれないのである 季節を問わず標高を問わず、道迷いする危険はどこの山にでもある。そしてその原因のほと んどが、大自然の前には脆弱な存在でしかない人間の側にあると言ってよい。道迷いを起こさ ないために、地図や磁石や高度計を活用すべきだという正論が確かにあるが、山本が一一一口うよう 「ただ一枚の写真にあこがれて」気楽に山をめざす登山者は現実にいる。 動機はどうでもいい。ただ死にたくなければ、道に迷ったときは、即座に迷った地点まで戻 るのが、最善の道だと私は考える。
かのミスが原因だと思えた。またさらに「それほど長く流された意識がなかったので」最初は 稜線まで登り返そうとした。だが手元には、ピッケルも装備が入ったザックもなく、加えて現 在地がどこかも分からない状態で、登り返すのはあまりに無謀に思われた。 「意外に冷静だった」と冨田は言う。だがその冷静さは、突発的な事故に見舞われた場合にし ばしば見られる、極端に田」考視野の狭い、自らの思い込みに陥りやすい意識だったのかもしれ 冨田が落ちたとき、三年生とは間違いなくザイルで結ばれていた。冨田にはもとより、末端 の結び目はゆるめたとはいえ、確実にザイルを外した記憶はなかった。したがって、自分とと もに三年生も落ちたと考えて当然で、冨田はその後二時間ほど、あたりを必死に捜し回 0 た。 だがしかし、肝心のザイルがなかった。三年生と自分を結んでいたはすの、雪のなかでもは つきりと目立つはすである、赤いザイルがどこにもなかった。二人がいっしょに落ちたのなら、 一方の末端が腰に結びついていて、たとえ雪崩でザイルが切断されたとしても、切れたザイル の切れ端が、何メ 1 トルかは腰からぶら下がっていていいはすである。だのに、自分ではほど いた記憶のないザイルが、腰からすつほり消えていた。二人がともに落ち、ザイルだけがまっ たくの偶然で外れたのではないかという推測はこのとき「意外に冷静だった」冨田の意識には 思い浮かばなかった。
なぜ、オッルミズへ 一人、阿部信一もオッルミズを登ったのは数年前で、オッルミズに向かう前、岩本が自宅を訪 れた際には、「彼の実力なら、何の不安も感じなかったので」なんらアドバイスはしなかった。 精鋭たちがいたときでさえ、若手会員に対してまっとうな登山観を植えつけられなかった新潟 山岳会に、精鋭たちが抜けたあと、若手会員を正しく導く力量があったかどうかは、きわめて 疑問だ。会長である阿部信一自らが、岩本バーティのオッルミズ山行を「何の不安も感じなか った」と判断することからして、その力量の質が分かるというものだ。 だから私は、そんな新潟山岳会の力量を見抜けず、しかし愛し、自らの意思でとどまったこ とが、岩本の「不幸」ではなかったかと思う。 山そのものよりも、「組織」を愛した不幸ではなかったかと それだけに、組織の分裂をなんとか回避しようとして孤軍奮闘し、しかし果たせず、それで もなお、腑抜けになった組織を立て直そうと努力した人物の死が、あまりに悲しく痛ましい なぜ、こともあろうに岩本雅英が、死ななければならなかったのかと この意味で、組織の罪は重い。 言うまでもなく、個人が一人でできることなどたかが知れている。だからこそ人は、組織の 門をたたくのではなかろうか。そして、門をたたいた個人の不足を補うのが、数多くの人間が 歳月をへて育てあげてきた「組織」ではなかろうか組織には、個人レベルではおのずと限界 141
ノ 1 にただくるまって、唸りくる地吹雪のなかで寝ているしかなかった。それが唯一の、私 のパーティのリーダ 1 が出した指示だった。 彼らの味わった寒気が、そして恐怖が、私には分かるような気がする 丿ーダ 1 饗庭の無言に見て取れる うろたえ、焦り、絶望していく様子が、 夜半になって、天候はついに暴風雪と化し、頼みのツェルトが破られた。二つ目のツェルト を出したものの、暴風雪のため頭を覆うのが精一杯で、四人とも下半身が烈風にさらされた。 不幸にも河津は、手袋を新しいものに替えようとしたときに、身につけていたものと替えの両 方を風に飛ばされ、右手が素手状態になった。極寒の烈風下、素手に風雪をあびる状態は冷た いというより、おそらく激痛に近かったに違いない。事態は、最悪へ、最悪へと流れていき、 ついには二つ目のツェルトも飛ばされた。 それから朝方までの数時間、体感温度にしてマイナス四五度近くの烈風地獄のなか、四人は なす術なく、地の底から「ゴゥー」と唸りくる暴風雪と、底知れぬ闇の恐怖に、固まって耐え るしかなかった。骨まで染み込む寒気もさることながら、このまま発狂するのではないかとい う言い知れぬ恐怖が、芯から襲ってきたのではなかろうか 「何もできなかった。ただ吹雪に耐えるしかなかった。全員が、生きるか死ぬかの瀬戸際だっ た」と藤井は話す。
だが椎名は、計画遂行を急いだ 椎名の話を聞いていると、私には彼らが、剱岳を登りに行ったのではなく「計画を登りに行 ったのではないか」と思えた。それほど山登りに対する考え方が「硬い、と感じた。と同時に、 そうした硬直した考え方は、「折れたら、もろいはずだ」とも 大学山岳部の実力低下を思うとき、それはバリエーション・ルートに行けなくなった力量不 足にあるのではなく、人知をしのぐ大自然を前にして、臨機応変な考え方や対処能力がなくな っていることではないかと、私は椎名の話を聞いて思った。 見解の違いと言ってしまえばそれまでだが、二つ玉低気圧の恐ろしさを身をもって体験した 私の経験からすると、二つ玉の接近が事前に分かっているのなら行動を起こすなど論外で、即 刻停滞と決め、よしんば朝方晴れたとしても、テントの周囲のプロックを補強するなり、テン トが飛ばされたことを考えて完璧な雪洞を掘るなりして、迫りくる悪天に備えるのが常套では なかったか。しかし彼らは、行動を起こした。そのうえに、椎名は刻々と発達する二つ玉の状 况を知りながら、ルート工作隊に何も伝えす、またルート工作隊も、憑かれたようにフィック ス工作に固執した。彼らの行動を見てみると、私には椎名、饗庭、目片のリーダー層三人に、 二つ玉低気圧に対する正確な認識がなかったとしか思えない 椎名は漏らした。「三つ玉の危険性は ) 知識としてはもっていたが、悪天下での行動の経験
もちろんその楽しさの背景に、常に生死の危険がっきまとう絶対矛盾があることを肝に銘じて 遭難の雑誌連載を通じて「遺族の心情を考えろ」というお叱りをたびたびいただいた。「遺族 の心情を考えて、批判的な記事は書くな」と。だが私は言いたい。「誰が遺族にしたのだ」と 「遺族を作ったのは何なのだ」と。「遺族にした責任は、誰が取るのだ」と。 私が思うに、遭難をタブー視する最大の要因は、この責任逃れの態度にあると考える。「遺族 の心情」を金科玉条に、自己防衛しか考えない人間の″あさましさ〃にあると考える。遭難と は、人が死ぬのである。人の死は、限りなく重い事実である。その事実から目を背けて、責任 者の結果責任も当事者の自己責任も問わないようでよ、、 ( しつまで経っても遭難につきまとう陰 湿さはなくならないと考える この意味から、遭難の当事者は実名で書くことを原則とした。どうしても関係者の承諾を得 られない場合のみ、イニシャルを用いた。原因が何であれ、遭難者自身にも自己責任はあると 考えたからである。また同じ意味で、敬称も省いた。私から見て、年上の方でも年下の方でも 同じあっかいにした。記事に統一性をもたせる意味で、関係者のあっかいも同様にした。取材 の段階で、これらの次第は関係者に了解を得て進めたつもりだが、私の真意がどこまでご理解 いただけたかは分からない。非礼のほどは、平にご容赦いただきたいと言うほかはない。 220
なぜ、オッルミズへ みついわ 九三年八月・三岩岳黒檜沢、同一〇月・未丈ヶ岳滝沢以下、九四年、九五年とも日帰りの沢経 験であった。 言わば岩本君は、飛行経験はあっても実戦経験の足りない見習士官、成田君は、飛行経験も まだ足りない予科訓練生。そしてさらに不利なことに、岩本君は今年四月に結婚したばかりの 新婚さん。当然、結婚前後は忙しいから、十分な山行もできなかった。そして彼自身も「これ ードな山行はできにくいから」と話していた。成田君も、七月下旬から八月いつばい 、か、らはハ 大学の学業の関係で、この間の山行はゼロ この二人の状態のまま、台風で十七日が大雨の翌九月十八日、一流の沢ル 1 トであるオッル ミズ沢へ突っ込んで行ったのだったが、結果は見るも無残であった。まさに終戦末期の、何の 勝算もないまま敵艦隊へ突入して自滅していった、神風特攻隊を思わせる登山であった。彼ら はなぜ、自分たちの実力を正確に自己分析できなかったのだろうか。新潟山岳会幹部はなぜ、 彼らがオッルミズ沢へ行くと分かっていながら、実力不足の二人の登山を容認したのだろう か ? 」 この一文の疑問はそのまま、私の疑問にもなった。実践の空白がありながら、さらに自身に とっては最も高度なルートでありながら、しかも状態の悪さを知りながら、なぜ二人は取り付 いたのかと。聡明で誠実で、誰からも愛された好人物が、なぜ新婚五カ月の妻を残して、山で みじよ、つ 123