て傾斜が落ちた雪面からまず散乱した遺留品が現れ、そこを掘り進むと次に崩壊したテントが 現れ、最終的に、テントそばに横たわる、枕を並べた二名の寝姿が現れた。このとき初めて、 ーティの行動概要を記したの日記も発見され、日記と二名の発見状況から、事故は次のよ うに起きたと推測された。 東洋大学三名パ 1 ティは、八八年十二月三十一日に清水平に達し、吹き溜まりでできた斜面 に半雪洞を掘り、そこにテントを張っていた。しかし夜半になって、なんらかのアクシデント で雪洞の天井が崩れ落ち、三名はテントごと埋められた。このとき、はテントを切り裂いて 脱出し、二名を懸命にテント外に引きすり出したが、二名はすでに絶命。はその後、烈風の ークでカ尽きた、と考えられた。二人の寝姿は、なんらかの人為的措置が講じられたと思 われる形で整然と並べられ、まるで仮眠中に死亡したようだった。 の日記の最後には「夜中 ( いま ) 、外は非常に風が強い , とだけ記されてあった。 事故の直接的原因はともかく、山岳部関係者一同は、同じ稜線上の、わずか数メートルの距 離に二人が眠っていたことに「唖然」とした。一月の捜索時、二人が眠っていた場所は高さ十 数メートルの傾斜のきつい斜面で、そこに二人が埋まっているなど、誰ひとり想像だにしなか った。せめて、遺留品の一部でも斜面に顔を出していたらすぐに発見できたのにと、誰もが歯 ぎしりを咬んだ。発見にいたる半年で、高さ十数メ 1 トルあった小高い丘は、わずか二メート
俺は、悲観的な考え方かほとんどだったが、『やつばりだめだったか』とまず思った。それと同 時に、『これで終わったな』とも思い、ひとつの区切りがついたようにも感じていた。『終わっ たな』『あとの二人も、もうすぐ見つかるだろう』とな」 よ、つ しかし、すぐに発見されていいはずの残る二名は、杳として見つからなかった。 同じころ、遺体発見の報を聞いた在京本部では、ただちに事の次第を三名の家族に連絡。大 学関係者、山岳部が付き添って、三名の家族は列車で黒部警察署に急行した。 家族の黒部駅到着は夕方ごろ。出迎えには米山と一人がおもむいた。 「今にして思えば、あのときがいちばんつらかった。合わせる顔がなくて。言葉がなくて : 今でも思い出すのは、まだ発見されていない君の親父さんが、真っ先に言った一言だ。はっ きりまだ耳にこびりついている。俺の顔を見るなり、すがるような顔つきで、親父さんはこう 言ったんだ。『米山さん、アウトですか ? セーフですか ? 』」 だが米山に、返す言葉はなかった。 一名の遺体は発見されたものの、残る二名の姿はどこにもなかった。その後の捜索で、猫又 山から清水岳まで三名のものと思われるトレースが確認されたことから、東洋大パーティは、 清水岳に達したあと、なんらかのアクシデントに見舞われたと推測された。とくにの遺体発 見状況 ( コンロを胸ポケットに入れていた。まだコンロは熱かったらしくボケットの一部が溶 148
まされ、赤谷山の斜面の登りで早くも猛吹雪につかまり、頂上にたどり着いたときにはすでに 「自分の手の肘から先が」まったく見えないほどに吹雪かれていた。わずか一メートル離れただ けでも二年生を見失うため、お互い腰をつかんで這うようにして進み、結局、目も開けられな い猛吹雪のなか、ピッケルを雪面に差し、辛うじて自分たちのいる場所が平坦地であることを 確かめるのが精一杯で、やっとの思いで二人用アタックテントを張った。同じ時刻、われわれ と同様に後立山連峰・五龍岳で吹雪かれていた東洋大学工ーデルワイス山岳会の三名は、一名 が稜線から滑落、残る二名も五龍山荘に帰れず、それぞれがバラバラになって凍死した。 吹雪があと一日続いていたら、われわれ二人もどうなっていたか分からない 二つ玉低気圧をまともに食らった赤谷山での吹雪もさることながら、わずかの晴れ間をつい ばんばじま てべースキャンプに下山した翌日、剱岳西面の登山基地である馬場島に向けて下山中に味わっ た想像を絶する雪の降り方を、決して忘れることができない。ひとたびザックを置くと、「サー サー」という耳障りな音とともにたちまちザックが埋まり、尾根の両脇のブナクラ谷や仙人谷 からは、ひっきりなしに雪崩が落ちていた。登りでは樹林帯だったはずの所が、下りではナイ ずフェッジになっており、 1 ティの安全を確保するため、フィックス工作に先行させた二名は、 ら 知どっぷり首まで埋まってもがいていた。 剱のドカ雪。地形までも変えてしまう本当のドカ雪を前にして、私は心底から「一人ぐらい
さらに一年生の存在を考えると、主将がメンハーから欠けることは、その安全確保に多大な 不安を残した。東洋大学山岳部では、冬山の一年生はまったくの初心者とみなし、完全に保護 することが鉄則だった。したがって、一年生には必ず上級生がフォローにつき、万が一にも命 を落とすことのないよう配慮するのが原則だった。この意味で、主将が参加して三年生が三名 いれば、主将が列の最後尾につき、その前に一年生を置くことで、一年生の安全は保たれた。 そうしておいて、残る三年生二名に、フルにラッセルなりルート工作を任せることができた。 しかしこれが三年生が二名となると、一年生を見る役の人間がいなくなり、一年生の安全を 確保できなくなるばかりか、もし仮に雪庇踏み抜きなどで三年生のどちらかが落ちたとすれば、 残る一名で、一年生を連れ帰らなければならなくなる事態が想定された。距離が長大で、エス ケープ・ルートもない突坂尾根のルート特性を考えると、主将がいるといないでは、リスクの 大きさが倍ほども違うはずだった。 こんな彼らに、そんな考え方の甘いリーダーに、はたして冬山が託せるのか。ひとたび不測 の事態が起こった場合、適確に対処できる能力がはたしてあるのか 監督以下上層部は、結果的にそれを見抜く力がなかった。 第一に理念を欠き、第二に理念なきままに準備不足で計画を立て、そしてパ 1 ティの力量と ルートを見比べた場合、鉄則であるべき下級生の安全確保に不安が残るのが、この合宿の性格 160
ルたらずの盛り上がりに姿を変えていた あらためて、自然の奥深さを思い知らされた。 二名の遺体が発見されるまでのこの間、山岳部内では遭難対策会議、事故究明委員会などが 二十回以上開かれ、二名の遺体発見後は、両家の葬儀、四十九日、納骨と、遭難発生からほば 十カ月が事後処理に費やされた。またその後も、事故報告書作成、慰霊祭、一周忌、追悼山行 と、プライベートな時間を遭難関係に割く日々が続いた 監督の米山英三は、それら遭難関連行事のうちただ一回、「君の四十九日だけは、精神的に 本当にまいっていたので」欠席したが、すべて欠かさず出席した。米山の当時のスケジュ 1 ル 表を見ると、遭難関連の行事以外にも、生命保険の請求手続、各方面への挨拶回り、連絡のや りとりなどの所用で、ひと月のほば半分以上が、山岳部関係でびっしり埋め尽くされている それからのちも、米山は機会を見ては遺族の郷里をたびたび訪れ、遭難関係の集まりがあれば 出席者を募るために奔走し、追悼山行は、自らが幹事となって、事故後七年間、毎年夏に現在 もなお続けている これが、三名もの犠牲者を出した最高責任者の「身の処し方ーであった。 そんな米山の姿を見て、山岳部関係者は様に、残る二名の発見が、くしくも米山自身によ ってなされたことを、こう回顧する 156
督 監 自分の子供みたいに思えてきたんだ : : : 」 だからこそーーーと当時コ 1 チを務めていた若手は一一一一口う 「米山さんは三人の事故を、自分の子供が逝ってしまったように感じたんじゃないでしようか 監督としての責任もさることながら、父親としての悲しみのほうが大きくて、だからこそ、あ れほど熱心に事後処理に当たったのではないでしようか」 事実、事故後の米山の対応は、とても名誉職とは思えない献身的なものだった。遠征後 にやめるはずだった監督職は、その遠征で次期監督候補だった若手が逝ったため、引 き続き米山に任されていた 残る二名の捜索は三月を待って再開され、清水岳の稜線から柳又谷上流部の捜索を中心に、 全八回にわたって展開された。延べ日数四十日、投入人員延べ七十人。稜線の雪の掘り起こし、 ゾンデ探索、柳又谷の遡行など、山岳部のもてる力のすべてを結集して展開された。そして六 月二十五日、第一次から数えて九回目の捜索で、ようやく二名の遺体が発見された。 この第九次捜索には、くしくも米山自身が出向いていた。 関係者の誰もが予想していた状況をくつがえして、二名の遺体はあろうことか、チーフリー ダー・が横たわっていた場所のすぐそばで発見された。の位置からわずか数メートル横の 緩い斜面に、崩壊したテントとともに横たわっていた。米山らが現場に着くと、雪解けによっ 153
直前になって、当時の主将 ( 三年生 ) が持病の腰痛を理由に合宿参加を取りやめたため、 ティのメンバー構成が、三年生二名と一年生一名という結果になったのだった。 こうした事態は、あってはならないことだった。 東洋大学山岳部の理念にあって、山行の最高責任者たる主将が合宿に参加しない事態など、 絶対に許されないことだった。代々の主将は常々、山岳部主将の責任と重さをから、「山に あっては、お前 ( チーフリーダー ) が最終決断を下すんだ。お前の判断に、下級生の命がかか っているんだ。自分自身やリ 1 ダーが死ぬことはあっても、主将の判断ミスで、下級生を死な すようなことは絶対にあってはならない」と言われ続けていた。 それほど主将の責任は重く、したがって主将が合宿に参加しないなど、言語道断な話であっ 観念論にすぎないといわれればそれまでだが、山の経験年数が限られる学生にあって、未熟 な経験を承知で山に挑む以上、心構えにおいて、そうした厳しさを植えつけておくことは不可 欠だった。結果論にせよ、そうした理念が受け継がれたからこそ東洋大学山岳部は、この事故 にいたるまで、創部以来三十年、海外遠征で二名を失うことはあっても、こと現役の国内 合宿では、ただ一人の犠牲者も出していないのだった。 この理念にのっとれば、主将が合宿に参加しないこと自体、冬山に対する考え方の甘さを示
になっていった。風は一定方向からだけではなく、あらゆる方向から吹きつけた。この間、個 人装備を集めた饗庭のザックが風に流され″命の綱″非常食が失われた。 ークがどんな 極寒の烈風下、しかも三〇〇〇メートルの稜線で、ツェルト一枚で過ごすビバ に苛酷なものなのか。私には苦い経験がある。あれは大学二年の十一月、冬山合宿を直前に控 えた富士山合宿でのことだった。頂上でのビバ ーク訓練中、ツェルトが張り綱ごと吹き飛ばさ れ、拳大の石が飛び交うプリザード ( 地吹雪 ) のなかを、薄っぺらな袋にすぎないシュラフカ ー一枚で翌朝まで耐えていた。その結果、私を含めて三名が重度の凍傷を負い、うち二名が 入院、さらにそのうち一名が、右足指五本をすべて切断するという事態を経験した。 思えばあのとき、ますツェルトの入り口ファスナーが風にちぎられ、押さえても押さえても、 すさまじい烈風がなかに吹き込んだ。吹き込む風雪が容赦なく顔を刺し、入り口を押さえる手 をたちまち凍らせた。そして、入り口を押さえるのに必死になっているうちに、脱いだ登山靴 を含めて所持品の一切が、雪に埋もれた。ヘッドランプを点けてはみても、烈風と粉雪で何も 見えす、濡れた靴下を履き替えようにも、ザックがどこにあるのかさえ分からなかった。 ず烈風にしだかれるツェルトが、こん棒ででもたたかれているようにバタバタうなり続けた。 知烈風そのものよりも、ツェルトのバタつく音が気を動転させた。濡れた足先がズキズキ痛み、 剱 しだいに感覚がなくなり、ついには木片のように硬くなっていった。それでもなお、シュラフ
督 監 長き一週間 最終下山日の一月六日を過ぎても、ついに現役からの連絡はなかった。 こうして、関係者にとっては身を切られるような捜索活動が、始まった。 一九八九年一月、冬山合宿で北アルプス白馬岳方面に入山していた東洋大学山岳部三名パ ティ ( 三年生二名、一年生一名 ) は、最終下山日の一月六日を過ぎても下山せず、消息不明の とっさか まま遭難したと見なされた。計画では、黒部川から長大な距離を後立山連峰に突き上げる突坂 尾根をへて白馬岳に登り、その後、杓子尾根を下降して長野県側に下山する予定であった。遭 難したと判断された段階で、彼らの入山以降の行動を知る無線連絡などは残っておらず、彼ら 監督 143
監督 白馬岳・突坂尾根の遭難。第 1 次捜索活動時 ( 1989 年 1 月 ) の現場 付近。右手斜面の奥に 2 名の遺体が埋まっていた。東洋大学体育会 山岳部「 1988 年度冬山合宿遭難事故報告書』より。 147