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検索対象: 死者は還らず : 山岳遭難の現実
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1. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

不思議なことに、落下していく状態の記憶はかなりゆったりしていて、「何だこれは . 「何で落 ちたんだ」と心のなかで叫びつつ、一方で「あいつなら止めてくれるかもしれない」と期待し ていた。だがついに意識は薄れ、記億も絶えた。 結果的に冨田は、稜線から一三〇〇メートルの距離を流され、標高差にして八百メートルも の高度を滑り落ちた。これで助かったのは、まさに奇跡としか言いようかない 午前十一時。「ピピッ」と腕時計のアラ 1 ムが鳴った。その音で冨田は意識を回復し、自分の 体がうつ伏せの状態で雪に埋まってはいるものの、左足がかすかに動き、顔の回りに空間があ り、視線の左手下に、、つつすらと明かりが見えるのを確認した。 「これは何だ ? 」しかし生きているのは確実で、力を振り絞って、雪のなかから這い出した。 口から吐血し、鼻血を出し、体全体に猛烈な虚脱感を覚えたが、幸いにも、骨折などの致命的 な損傷は受けていなかった。 しばらくすると、「ここはどこだ ? ー「何だこの景色は ? 。と思い始め、しだいに絶えていた 記憶が戻ってきた。沢のなかはガスが深く、そしてひどく寒かった。 自分が落ちたことはすぐに分かったが、冨田は当初、「なぜ自分が落ちたのかー「落ちたこの 場所がどこなのかーが、まったく分からなかった。冨田の意識のなかでは、転落前も転落後も、 三角岩峰基部は「雪庇などあるはすのない所」であり、したがって落ちたのは、自分のなんら

2. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

渦 者でも、細心の注意をはらって越えているのである。 高桑によれば、瀞の泳ぎにしろ釜の泳ぎにしろ、トップに泳ぎのエキスパートを配し、セカ ンド以下は、ザイルで体を確保したうえで、ザックをしつかり身につけてさえいれば、それほ ど渦は布くないという 「完全に防水パックしてあれば、ザックの浮力は相当なものだから、ザックを背負うことで負 荷がかかりすぎる急流は別として、ザックを背負い、さらにザックの腰ベルトを固定すれば ( 渦 に巻かれても ) まず安心だ」 確かに、先の二つの事故例を見てみると、日高山脈の場合は当事者がザックを手放しており、 北又谷での遭難者は、ザックにつかまって泳いでいるともに体には直接確保ザイルをつけて おらず、いざというときの浮力も身につけていない。反面、渦に巻き込まれながらも助かった 横山隊員は、ライフジャケットと確保ザイルを身につけていた。 沢登り専門に二十年、「どんな沢にも必ず弱点はある」と言い切る高桑にしてもなお、流れを 読み切ったうえで、ザイルで安全を確保し、かっ浮力を必す確保している点に、私は目を止め る。結局、いかなる場合も命の手抜きはしていないのだ。 この高桑が、このときの北又谷の遡行で、低体温症にきわめて近い経験をしている。「どう考 えても適切な言葉が浮かばず、具体的な表現ができないのだが」と言いつつも、その感覚は「冬 113

3. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

道迷い ん荒れたな、くらいにしか考えていなかった」 完全な錯覚である。鏡映しにしたような地形のいたずらである。しかも悪いことには、それ を一点の疑いもなく信じ込んでいた。 このときは結局、ズタズタに切れた雪渓のクレバスでビバークし、翌日、小黒部谷に無事下 山したのだったが、それでも小黒部谷の出合に降り立ち、たまたま通りかかった土木作業員に 向かってべテラン登山家は、真顔でこう聞いている。「ここはいったい、。 錯覚は、最後の最後まで続いていた。 滝を高巻く技術もあり、ビバーク経験も豊富にあったので事故にはいたらなかったとはいえ、 この大べテランにして「パ これが初心者だけだったら結果はどうなっていたか分からない ティ全滅の危険を感じた」というほどの、かなり危険な下降であった。 では、初心者だけの場合はどうなるか : 「雪渓の底から、人間が叫んでくるんだ」 「女の声はハッキリと、男の声はガャガヤと聞こえた」 「女の声は、ケラケラあざけり笑っていた」 「耳元で、あるいは背中で、ひっきりなしに誰かがしゃべってきた」 とこだ ? 」と

4. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

り・のメンハ ー二人の足取りさえっかめなかった。夫婦は、日に日に追いつめられていったが、 それでも、息子の生存を信じて日を待った。 「遺体が発見されない以上、五 % でも一 % でも可能性がある。生きていてほしい」 「なんとしても、遺体ではなく、生きて救い出してほしい」 「最悪の場合、手足、片足なくてもいいから、命だけは助かってほしい」 「もし代われるものなら、自分の命に代えても : : : 」 何の成果もなく宿に引き揚げるたび、「いよいよ明日だね。明日はきっと見つかるね」と夫婦 は言い合った。お互い間違っても「死」はロにできなかった。 捜索が打ち切られるまでの一週間、夫婦は、さまざまな思いにとらわれた。 母親は「自分はもう、息子の人生を生きてしまった」と思った。「なんでわたしは、こんな に長生きしたんだろう」と悔いた。「母親として、息子を成人させられなかった」と自分を責 ち ためた。 父親は「家族に何かあったら、自分がすべて処理しなければならないと思っていたのに、 れ さ 残 ( 山に関してはまったく素人なので ) 何もできない。何も分からない。かえって迷惑をかける だけだ。父親として、子供に対して何もしてやれないことが、無念でしかたがない」と思って 族 いた。だから父親は「せめて親として何かしたい」と考えて、あれほど好きだった酒をきつば 199

5. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

「雪庇などあるはずのない所」から落ち、しかも最後の記憶では三年生はまだ岩峰基部に立っ ていて、もし二人とも巻き込まれたとしたら、当然つながっているはずのザイルが跡形もなく 消えていることから、冨田はいっしか「もしかしたら、自分だけが落ちたのではないか ? ーと 考えるようになった。そしてその考えは、時間が経つにつれ、「これだけ探して三年生の姿はど こにもなく、まして、ほどけるはずのザイルが見当たらないのだから、やはり自分だけが落ち たのではないか」という確信に近い思いに変わっていった。 「三年生は、あのまま稜線に取り残されたのではないのか」と。 八カ月後、三年生の遺体は冨田の停止地点より六百メートルも上流で発見され、同じく赤い ザイルも、複数の関係者によって掘り出された。 末端の結び目は、きれいにほどけていた。 事故直後の放心状態から立ち直り、その後二時間ほど周囲を捜索するうちに、冨田は身にし みて怖さを覚えてきた。「もっと探さなくていいのだろうか」「もし生きていれば助けられるの は自分しかいないのに」とは思ったが、ただただ寒く、ガスはいよいよ深く、何より自分がど 日こにいるのかさえ分からない不安から、「とにかく助かりたい」という思いにとらわれた。だか のら冨田は、何度も何度も振り返り、「これでいいのか」「本当にこれでいいのか」と自問しなが 空 ら、沢をノロノロ下っていった。

6. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

十六時ごろ、ヤムナイ沢を下り切って豊仙橋に到着。たまたま通りかかった車に乗せてもら 、石崎集落の小沼キヌ宅に投宿した。小沼のオバアチャンは、入山したとき以来の知り合い で、計画書では、現地連絡所は別にあったのだが、冨田は小沼宅以外に立ち寄ることを考えな かった。 「無性に寂しかった」と冨田は言う。そして冨田は「オバアチャン子」だった。 全身の痛みと疲労で、この日はすぐに床についている 翌二十九日。外は猛吹雪。「朝一番で出ようと思った、が、とても動ける天候ではなかった。 赤々と燃えるストープの前で、冨田は一日、こんなことを考えていた。 「なぜ落ちたのかが、どうしても自分には分からない。第一に、ザイルが外れていた。という ことは、落ちたのはやはり自分のミスが原因で、おそらく自分人が落ちたのだろう。三年生 しや、生きていると思いたい。だとすれば、事故が起きた時間 は ? 生きているに違いない。、 はまだ午前九時過ぎだったから、三年生は再び東稜を下って、のメンバーと合流している 可能性が高いということは、三年生の安否を確かめるためにも、 0—と連絡をつけるのが先 決だ。とにかく、上に行かなければ。 しかしこの天気では、 O—のメンバ 1 も動けないだろうし、よしんば下山してきても、電話 以外に連絡手段がないこの離島では、 ( 電話連絡するとすれば ) 林道の最初の民家であるこの家

7. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

にとってはできなくなっているのである。当事者の話を聞いていて、間違いなくそうした精神 状態に陥るのだと私は感じた。強いてたとえるならば、自分の想像を超えた自然の猛威にさら されたとき、人間は、恐怖のあまり頭も体もすくんでしまい、手つ取り早い対処方法しか思い 浮かばないのではないかたとえば早稲田パーティの場合の「ただ固まって吹雪に耐えるしか なかった」というあまりに無策な状況がそれであり、吾妻連峰の事故の場合の「烈風を避けら れる場所がすぐそばにあったのに、吹雪のまっただなかで雪洞を掘り続けていた」常識では考 えられない状態かそれである。そうした光景はまさに、恐怖におびえた小動物が、首をすくめ てうずくまる姿にきわめて似ている。人間は追いつめられたとき、自分がふだん考えているほ どには命の抵抗を示せない存在である 遭難の現実とは、おそらくこうした精神状態に尽きるのではないかと私は思う。 「自分の判断の許容量を超える事態に遭遇し、完全にパニックに陥り、何もできなくなる」こ とが、遭難そのものではないかと考える こうしたことが分かっていれば、おのずと予防策や対処法も見えてくる。もちろんそれは、 装備や知識や技術に頼るものではない。「天候判断を誤るな」とか「地理概念をしつかり把握し ておけ」とか「装備はこれこれが必要だ」とかいう、教科書的一般論では断じてない。 あ すなわちそれは「常に自分を注意深く観察し」、どんな状況に陥っても「自分を見失うな」と 217

8. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

の士気は高かった。とりわけ冨田は、最高責任者であるだけに、「なにがなんでも合宿を成功さ せてやる」と思い決めていた。 この意気込みが、結果的に災いを招く遠因になってしまったのだが : 冨田と三年生が三角岩峰にたどり着いたとき、冨田は耐えがたい便意を覚えていた。そのた め冨田は、フィックス工作に取りかかる前に用をたそうとして、それまで三年生とつないでい たザイルを外そうとした。沢側に大きく張り出した台地の端で、ます肩に巻いていたザイルの 余分を外し、続いて、腰部分のザイル末端の結び目をゆるめにかかった。ハ ーネス ( 登攀ベル ト ) はしておらず、ザイルは単に腰に巻きつけた状態で、ザックは二人とも、ピッケルで足元 に固定していた。 「あっ」と三年生が声をあげたとき、冨田は三年生に背を向けていた。その声に振り向いて、 右下から左上に顔を上げるとそこには「自分に何かを伝えたがっているような」三年生の目が あった。しかし表情までは分からす、声を返す間もなくその直後、冨田は空間に投げ出された。 崩れ落ちた雪庇とともに、頭からのめる格好で、冨田は落ちた。 冨田の最後の記憶では、三年生はまだ、岩峰基部に立っていた。 のその後冨田は、崩壊した雪庇が誘発した雪崩に巻き込まれ、「体全体を襲うすごい圧迫感」 空 と、「一言いようのない息苦しさ」のなか、頭を必死に押さえて、ヤムナイ沢を落下していった。

9. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

合わせた瞬間、白い空間に落ちていった。 巨大な雪庇崩壊。その後の大規模な雪崩誘発。四年生の主将は、間もなく気を失 0 た。 一一時間後。奇跡的に助か 0 た主将は、雪のなかから這い出した。周囲は深いガスが立ち込め、 自分がどこにいるのかさえま 0 たく分からず、一一時間ほどあたりを探してみたが、三年生の姿 はどこにもなか 0 た。やがて主将は「もしや、自分だけが落ちたのでは ? 」と考えるようにな り、助かりたい一心から、全身打撲の体を引きす 0 て、沢をフラフラと下 0 てい 0 た。 夕刻間近。主将は島を一周する国道にたどり着き、偶然通りかか 0 た車に乗せてもらい、か ねてより知り合いの民家に投宿した。東稜の登り口にあるその民家は、八十歳近いおばあさん が一人で住む、電話のある家だった。 翌二十九日。利尻島はその冬一番の吹雪に見舞われた。傷を負 0 た主将は、一歩も外に出な か 0 た。というよりも、出ることが不可能な天候だ 0 た。この日一日、さまざまな思いが頭を よぎ 0 たが、主将はついぞ、電話には手を伸ばさず、結果的に、何もしないで過ごしたこの一 日が、のちに取り返しのつかない事態を招いた。 雪庇が崩れ落ちたとき、「あ 0 , と声をあげた三年生は、その後八カ月間雪のなかに埋まり続 け、事故発生から一三八日後の九二年八月十一日、変わり果てた姿で発見された。ちょうどそ のとき、遺体発見現場には、事故の一方の当事者である主将と、亡くな 0 た三年生の父親がい

10. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

て、かなり危険だと承知していた。だから、はっきりと記憶のある大木が見つかったとき、も う安心だと胸をなでおろした。したがって、深く考えもせすに、大木の根元から続いている尾 根上のトレールらしき雪のくばみに、勇んで足を踏み入れた。 その雪のくばみは、大木の枝から落ちた雪のかたまりが、斜面を転がった跡だった。 道をたがえたことは、下りだして三十分ほどで気がついた。周囲は深いガスで、現在地を判 断する材料は何もなかったが、尾根が細く、異様に急傾斜すぎるので、「これは早月尾根ではな い」という確信はすぐにもてた。だが肝心の「ではいったいここはどこなんだ」が、かいもく 分からなかった。分からないことが、しだいに気を焦らせた。 すぐに引ぎ返せば傷口を広げなかったものの、後から考えれば三十分程度でしかなかった誤 って下った距離が、そのときの私には、途方もない距離に思われた。下った尾根はかなりの急 傾斜であり、また迷ったと思ったとたんに疲労感が倍加して、とても登り返す気になれなかっ た。それより何より、迷ったと感じた時点から、急速に時間が早回りし始めた。一分が一時間 に、五分が二時間にも感じられ、そのたかだか三十分の距離が、一日をかけてもたどり着けな いほどの隔たりに田 5 われた。 ルーズな癖で、時計はもっていなかった。 頭に血が上っていることは、自分でも分かった。だが気ばかりが焦り、急速に早回りしだし