あとがき もの自分と何かが違っていないかーー山に向かうにおいては、こうした姿勢が何より大事だと 私は信じる。抽象的と言われようが、観念論に過ぎないと言われようが、山で命を落とさない ための第一だと考える。あまりに言葉足らすだが、分かる人には分かってもらえると信じる。 分かる人とは、自分で考える頭をもった人たちのこと。つまりは、ほとんどの人たちだ。 だからこそ、本書もまた、自分の頭で考えてもらいたいのである。 ポナッティは登山行為をして「人間形成の最高の場」と自著のなかで語っている。私もまた そう信じて疑わない。不便を当たり前とし、雨や風や雪にしだかれ、寒さと空腹にさいなまれ、 それでも目的遂行に向かって努力するなかから、強い精神力をもった人間が形作られていくの だと思う。いわば登山は、自分の理性や知性、あるいは精神力が試される「鏡」である。だか らこそ、登山は崇高な行為だと私は考える。したがって山は、敬い、畏怖し、謙虚に立ち向か うべき対象ではなかろうか。間違っても、レジャーや気晴らしや観光旅行の対象ではない。 私は山が好きである。山登りが好きである。山を好きな人が好きである。山をとことん愛す。 とくに可能性の塊である、 それだけに、山をめざす人たちには、真剣に山を登ってもらいたい。 若い人たちにこそ。自己を鍛える場として、人間形成のフィ 1 ルドとして、これほどうってつ けの場所はない。大自然の息吹きを、山の鼓動を、確たる自分の成長を楽しんでもらいたい。 219
であ 0 たように、加藤の人生は、仕事と会社に費やされた。ただそんななかでも、山好きの性 格だけは変わることかなかった。 妻の智恵子には、忘れられない思い出がある。娘が一歳半のとき、若い夫婦は乳飲み子を連 れて、十月の奥穂高岳に登山した。涸沢の山小屋で「こんなち 0 ちゃな子が来たのは初めてだ」 と驚かれ、奥穂に登 0 たその日は、くしくも十月十日、東京オリンピックが開幕した日であ 0 全山が真っ赤に染まった涸沢に、初雪が降っていた。 仕事は確かに忙しか 0 たが、加藤は自分なりに山を続けていた。結婚以来、腕立て伏せと腹 筋をほとんど毎晩欠かさず続け、ビールは好きだ 0 たが、中年を過ぎても体型が崩れることは なか 0 た。また暇を見つけては、会社の同僚と山スキーなどに出かけ、五十歳を過ぎてからは、 母校の恒例とな 0 ている五月の白馬山行にも毎年のように顔を出した。 妻の智恵子によれば「俺は登るしか能がない。歩くしか能がないとよく口にしていたとい う。それでも山に行くとなると「体全体が嬉しそうだ 0 た」。日ごろから山の本をよく読み、テ レビの登山関連番組は欠かさず見て、「山に行 0 てきたときや、山の友人と話してきたときは、 目の輝きが違 0 ていた」。山をこよなく愛し、しかし日常生活では「疲れたとか、しんどいとか、 ひと 絶対に言わない忍耐強い夫。だ 0 た。「どんなにひどい風邪をひいても、『大丈夫』の一言です 172
知りたい」と。その思いは、遺体を直接見た場合でもそうでない場合でも、生前の最後の姿を 見てから死を告げられるまでの時間の隔たりが大きくても小さくても、同じであった。 山での死には、生から死への過程が、ほっかり抜け落ちていた。 これが病死や交通事故死なら、故人の死の経緯に関与することで、多少なりとも実感として 受け止めることができる。たとえば病死なら、看病や見舞うことで死への過程を見届けること が可能だし、交通事故死なら、日ごろからその実態やニュ 1 スを見聞きしており、また自らハ ンドルを握ることで、スピードの恐ろしさを体感している。だから死が、寿命やあり得ること だったとして、少しは実感できるのではなかろうか だが山での死は、とりわけ山を知らない遺族にとっては、死を実感できる過程や予備知識が ない。過程がないままに、ある日突然最悪の結果を突きつけられるという事態は、たとえるな らば、それまで信じ切っていた人物に、ある日突然裏切られるようなショックではなかろうか 何の疑いももたない日常に、突然突きつけられる最後通牒。どうあがいても取り返しのつかな 理由なき宣告。山での死とは、そういうものではなかろうか頭から冷や水をぶつかけら れたような、血の気がすうつ 5 と引いていく、「まさかッとしか言いようのない心境ではなか ろ、つ , か それでも山をーー山に吹く風の冷たさや、むせかえる草いきれ、残雪の匂いや、岩壁の高度
「楽しすぎたから、危険を忘れた」と。 参加者の女性のなかには、明らかに体調不良のメンバ 1 がいた。そんな体調を押してまで参 加するほど、坂根ツア 1 には魅力があった。だがしかし、ツアーのフィールドが、ひとたび荒 れれば人間の命など簡単に奪ってしまう厳冬期の冬山であることを、楽しすぎたがゆえに、彼 らは忘れた。 時として山は、ましてそれが冬山であってみれば、決して楽しいだけで登れるものではない ことを、われわれに人の命を呑み込むことで諭す。山に求めるものが何であれ、楽しさの質が どうであれ、登山には、常に生死の危険がっきまとうことを、決して忘れてはなるまい その警鐘を鳴らすために、山が犠牲として選んだのが、この愛すべき坂根グループであった。 山の恐ろしさとは、坂根グループのような善なるものをも容赦なく呑み込んでしまう、その ″非情〃さにあるのかもしれない
山の非情 アルピニズムを至上主義とする、より困難をめざす登山の本質からすれば邪道なのかもしれ ないが、坂根グループの山スキ 1 には、参加者だけが味わえる幸福感が満ちていた。強いてい えば、山そのものを楽しむことよりも、山での宴会や、誰がどんなものをも 0 てくるかという 楽しみや、下山後に通好みの温泉を借り切りにして騒げる愉快さが、坂根ツア 1 の特色だ 0 た。 実際、事故のあ 0 た吾妻連峰山スキーでも、家形山避難小屋での一泊目、メインテーマのひと なめかわ ーティであり、二泊目の滑川温泉は、 つは小屋に備えつけのスコップを使ったバ 1 ベキュ 1 この時期 ( 冬季 ) には一般には閉鎖されており、なじみの自分たちだけに特別に貸し切りを許 された宿だった。 こんな愉快な山行に、心おきなく自分を解放できる坂根や仲間がいてみれば、それは参加者 にと 0 て、このうえなく楽しいひとときだ 0 たに違いない。そんな坂根ツア 1 を、私は否定す る気になれない。むしろ、冬の岩壁やヒマラヤを攀じる快感と、彼らが味わった「楽しさ、と の間に、はたして優劣がつけられるだろうかとさえ思えてくる。坂根ツアーのような、楽しさ 第一の山登りにも「詩と真実」があったのではないかと 少なくとも、体力的にも社会的にも弱い立場にある人々に、坂根ツアーは確かな「感動、を
と、その笑顔の奥に懸念した。 はからずも、私の懸念はこの事故で現実化した。それも最悪と言うしかない結末で : 山で必要なのは、ひとの良さではなく、生き抜く力である。敏感に危険を感じ、迅速に困難 に対処し、どんな状況に追い込まれても、自分を見失わない強い精神力である。いざ生死の局 面に立たされたとき、人間性や性格の良さは何の役にも立たない。 しかしには、生き抜く力がなかった。残念ながら、の人に倍するひとの良さは、山では 弱点だった。 こうしたの資質を、それまでの山行歴から十分に判断できる危機対処能力を、なぜ指導層 は見抜けなかったのか。山の厳しさとの力量を、なぜ冷静に見比べられなかったのか。に 対して、なぜ冷酷なまでに「お前のカでは無理だ」と断言しなかったのか。憎まれようがそむ かれようが「お前にチーフリーダーを務める力はない , とはっきり通告してやれなかったのか なぜ、何も分からない一年生を、巻き添えにしなければならなかったのか。 厳しさも、愛ではないのか。 愛すべき後輩が、雪崩や暴風雪といった人知を超えた不可抗力ではなく、たった一晩の吹雪 ごときで、三人も若い命を山で落とした。万全の力を尽くしてなお、カ及ばず倒れたのではな く、じつに下らない初歩的ミスで、何の抵抗も示さず命を閉じた。
ならない。部員減少を背景に、事故を想定するあまり合宿をレベルダウンせざるを得ず、その ため野生味を失い、計画に縛られる登山を続けた結果の彼らの脆弱さが、哀れでならない なぜ前途ある若者が、なんら命の抵抗を示さないまま山で逝かなければならなかったのか 考えるべき問題は深いと田 5 う。 早稲田大学山岳部は、毎年秋に開催される日本山岳会学生部主催の皇居マラソン大会で、事 故の前年も、十年連続して団体戦の優勝を飾っていた。この大会は、各大学山岳部の体力レベ ルを如実に示す。彼らは、大学山岳部でもトップレベルの体力をもっていた。また合宿の計画 も、実働九日に対して予備日が十三日と、冬の剱を登るに不足はなかった。だが三人は、山に 呑まれた。 私は思う。彼らは決して山を甘くみていたのではない。ただ惜しむらくは、山がひとたび牙 をむいたときの、そして冬の剱の、本当の恐ろしさを知らなかっただけなのだと さらには、自分の脆弱さをも。 ず別れ際に、藤井陽太郎はこう言った。 、ら 知「自分が唸っていたとき、四年生がずっと自分の体を抱いていてくれた。あれが、命の最後の よりどころだった。あの温もりを、自分は一生涯、忘れることができない」
渦 ザイル一本分、すなわ四十 5 五十メートルの距離を泳ぐ以上の時間を水につかるとき、人間 の体がどう変化するのか、私は寡聞にして知らないまた渦の恐怖を、身をもって体験したこ ともない。だいいち私は、体が濡れる沢登りをあまり好まない。だがそうとはいえ、沢のもっ 懐の深さは愛するひとりである 日本の登山スタイルはそもそも、沢を登路にして頂上をめざす方法が始まりであった。した がって往年の登山者は、沢の息吹きを身をもって味わっていた。おそらくそうした人々のなか には、滝音の反響具合ひとっから、水量の増減や天候の変化まで予測できた人物さえいたかも しれない だが現代、便利すぎる生活に慣れ切ってしまった人間には、整備された登山道は歩けても、 改良が進んだ装備に身を包んでバリエーション・ルートに足を踏み入れることはできても、は たしてどれほどの人が、山の鼓動を聞き取れるのだろうかその意味からすれば、沢は依然と して太古の自然を残したフィールドのひとつであり、山ヤに往々にしてありがちな「沢は岩よ りは簡単だ」という考え方はできないはすである 私は滝の瀑音を、時に山の咆哮として耳に聞く。泡立っ水流を、山の胎動だと見る。トレー スされ尽くした感のある丹沢や秩父の沢はまだしも、その懐に巨瀑を抱く深山の沢を訪れるよ うなときには、誰しもが、あの雪渓が流す雪解け水の冷たさを、自らの慢心に一滴垂らしてみ 117
いずれも一理ある。結果論からすればこれらの指摘は的を射ている。だが私には、これらの 指摘が、ヒマラヤさえも観光気分で出かけるトレッカ 1 には警鐘として意味があるとしても、 加藤のような、ヒマラヤに特別な思いを抱き、「ネパールに永住したい , とまで願う人物に対し ては、せんなき忠告のように思える。日本社会はしばしば、トレッキングを一般の観光旅行や レジャ 1 と同一視して、ひとたび事故が起きると、その原因や責任を受け入れ態勢に求めがち だが、トレッキングとはいえ、あくまで対象は山である。山は本来、他人の力など当てにしな いで登るものである。そして結果的に、不幸にも命を落とすことがあったとしても、それは登 山者自らが受け入れるべきものである、と私は考える 確かに加藤は「高山病」に対しては危機認識がなさすぎたのかもしれない。が、若かりしこ ろ、ヒマラヤを夢見て身につけた山登りの鉄則だけは、最期まで貫いたと私は思う。人生最期 の地となったプンキまで、命を削って自力で下山し、また救助ヘリも、自らの判断で呼んでい る。さらに、自分の命を気遣う加島らに対して、「自分のことは心配しないでくれ。ほっといて くれ、と強く語っている。これらの行動が、高山病が原因による思考能力の低下のせいであれ、 また妻の智恵子が言うように「他人に迷惑をかけたくないという本人の性格の表れ , であれ、 残された事実は、ひとつの真実を語っている すなわち加藤悦宏は、最後の最後まで「自分のことは、自分で始末をつける」本当の山ヤで 182
る蓮華温泉ツアーでも、かなりの吹雪のなかを平然と突っ込み、辛くも目的地にたどりついた ということが、一再ならずあった。 しかし反面、挫折に打ちひしがれた身には、その血が熱くなる経験が、ある種の示唆を与え たようでもある 坂根は生前、こんなことを語っている 「試練に耐えるとか、苦しいことを突破したあとの爽快感てあるよね。そういうのを、山スキ 1 で味わったよな」 「自分にいつも、厳しいものを与えていないと、だめになっちゃうんじゃないかというのが基 本にあるんだ」 また一方で、こうも言っている 「それに山では、人間性というか、 ( 人間の ) 基本的なものが出てくるよね」 「山小屋へ行くでしよ。誰もいなくて、真 0 暗ななかでロウソクを点けて、五人だけで肩寄せ あって話してたんだよね。歌うしかないんだけど、歌いだすとみんな泣きだすんだよね」 「街だったら、みんなミエはったり、つくろったりして、泣くなんてことはバカもの扱いされ るけど、山行くと、みんなやさしくなるんだな。そういうのにも巡り会いたいと思ったね 猪突猛進型の、涙もろい人情家。これらの言葉からは、そんな坂根の一面が読み取れる。だ