山岳部 - みる会図書館


検索対象: 死者は還らず : 山岳遭難の現実
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1. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

ならない。部員減少を背景に、事故を想定するあまり合宿をレベルダウンせざるを得ず、その ため野生味を失い、計画に縛られる登山を続けた結果の彼らの脆弱さが、哀れでならない なぜ前途ある若者が、なんら命の抵抗を示さないまま山で逝かなければならなかったのか 考えるべき問題は深いと田 5 う。 早稲田大学山岳部は、毎年秋に開催される日本山岳会学生部主催の皇居マラソン大会で、事 故の前年も、十年連続して団体戦の優勝を飾っていた。この大会は、各大学山岳部の体力レベ ルを如実に示す。彼らは、大学山岳部でもトップレベルの体力をもっていた。また合宿の計画 も、実働九日に対して予備日が十三日と、冬の剱を登るに不足はなかった。だが三人は、山に 呑まれた。 私は思う。彼らは決して山を甘くみていたのではない。ただ惜しむらくは、山がひとたび牙 をむいたときの、そして冬の剱の、本当の恐ろしさを知らなかっただけなのだと さらには、自分の脆弱さをも。 ず別れ際に、藤井陽太郎はこう言った。 、ら 知「自分が唸っていたとき、四年生がずっと自分の体を抱いていてくれた。あれが、命の最後の よりどころだった。あの温もりを、自分は一生涯、忘れることができない」

2. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

く著者略歴〉 丸山直樹 ( まるやま・なおき ) 1958 年 ( 昭和 33 年 ) 新潟県生れ。東洋大学 文学部国文学科卒。同大学山岳部で山登りに 没頭する。 20 代後半よりフリーランス記者と なり、朝日新聞社、平凡社、東洋経済新報社 などの週刊誌、月刊誌で仕事をする。編書に 「山岳警備隊出動せよ」 ( 東京新聞出版局 ) が ある。 死者は還らず山岳遭難の現実 発行日・ーー、一九九八年三月十五日初版第一刷 著者ーー丸山直樹 発行者ーー川崎告光 発行所ーー、株式会社山と溪谷社 ・三三〒一〇五・八五〇三 東京都港区芝大門一 電話〇三 , 三四三六・四〇二六 ( 山岳図書編集部 ) 〇三・三四三六・四〇五五 ( 営業部 ) 振替〇〇一八〇・六 , 六〇二四九 ーーー株式会社千秋社 印刷所ーー大日本印刷株式会社 製本所・ーー株式会社明光社 ◎ 1998. Naoki MARUYAMA. Printed in Japan. lSBN4-635-17114 ・ 0 * 落丁本・乱丁本はおとりかえいたします。 * 定価はカバ 1 に表示してあります。 / ャ。タコ

3. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

年二月、十二人のメンバーで独自に「新潟稜友会」を結成した。新潟山岳会規約の関係で、精 鋭たちのなかにはしばらくの間、新潟山岳会の会員として籍をおいていた者も何人かいたが、 結局は新潟稜友会に収斂した。 だがただひとり、精鋭たちと行動をともにすると見られていた岩本雅英は、新潟山岳会にと どまった。稜友会に移った橋本寅信 ( 四しが「ひざづめ談判で ( 退会を ) 説得したが」、岩本の 残留の意思は変わらなかった。 その理由を精鋭たちは「岩本は結局、べーシン ( 阿部信一 ) が好きだったんだ」と一一一口う。「 ( 分 裂しても ) いっかはまたいっしょになって、もとの鞘におさまるのを信じていたんだ」という 「その仲立ちを、自分がやろうとしたんだ」という それほど岩本は、新潟山岳会を愛していた。 愛着 九四年の定例総会直後、岩本は新潟山岳会の月報『山模様』に、「雨降って地固めよう」とい う長文の提言を書いた。そこには、岩本の熱い思いが語られている。 「のつけから結論を一言うと、今回のいさかいで会を割るようなことがあってはならないという ことです。一人として ( 会を ) 出て行かないこと。また追い出さないこと。そのために異議を 128

4. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

渦 命に直結する危険をはらんでいるよ、つに田 5 えてならない 話は十五年前にさかのほる。事例は古いが、往時を語るこの言葉もまた、ひとつの真理をつ いて新鮮に響く 「ダミーのつもりで流した太い丸太が、渦の中心で、大黒柱のように垂直に突っ立ったんだ。 静かな水面からは想像できない、そのすさまじい光景を見て、沢への畏怖をあらためて覚え 今でも無念そうに、そのは話した。 一九八一年八月、北海道日高山脈で夏山合宿を行っていた学習院大学山岳部は、ペテガリ岳 から東に落ち込むキムクシュべッ沢で、当時四年生だった部員・ ( 二一 ) を失った。この言葉は、 事故当時捜索隊の第一陣として現場に駆けつけた、同山岳部の述懐である。は「丸太が 垂直に起立するほどの渦」が水面下にあるのを見抜けなかったために、淵 ( 釜 ) を泳ごうとし て若い命を落とした。 学習院大学山岳部はこの当時、通常一一回に分けて行う夏山合宿の前半を、例年、奥利根源流、 朝日連峰、黒部など全国各地の沢で行っていた。合宿の特徴は、米と味噌しか食料を持参せず、 山菜やイワナを現地調達することを旨とし、ひと気のない山域の沢を攀じることで、プリミテ 101

5. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

逝かなければならなかったのかと 登攀に取り組む姿勢が、本人の置かれた状況や背景に対して、あまりに安易に思われた。 亡くなった岩本雅英は、会員数一一一〇名を越すという、新潟県下で最大規模を誇る山岳会の ーダーだった。だがその地位は、それまでトップリーダーを務めていた実力者たちがごっそ り抜けたことによる「繰り上げられた」地位だった。なぜ繰り上げられたのか ? 事故の約七カ月前、新潟山岳会は分裂していた。 分裂 九四年十二月、新潟山岳会の定例年次総会は、第四代会長選挙をめぐって大荒れに荒れた。 総会に先立っ役員会で、次期会長は当時副会長だった「中村政道への禅譲が決定していた」と 当時事務局長だった金子恒夫 ( 一一しは言う。しかし総会の場で、第二代会長だった阿部信一 ( " し が、役員会の合意を無視して突如立候補。投票の結果、四十二対十八の大差で、阿部が次期会 長に返り咲いた。この総会に限って「ふだんはめったに顔を見せない会員が」 ( 金子 ) 多数出席 していた 金子によれば、新潟山岳会はここ五、六年、かってない、冫、冫 舌兄を呈していたという。町の小さ な山岳会が衰退していくなかで、 ートナーを求めて会員になる人たちの受け皿となり、また

6. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

直前になって、当時の主将 ( 三年生 ) が持病の腰痛を理由に合宿参加を取りやめたため、 ティのメンバー構成が、三年生二名と一年生一名という結果になったのだった。 こうした事態は、あってはならないことだった。 東洋大学山岳部の理念にあって、山行の最高責任者たる主将が合宿に参加しない事態など、 絶対に許されないことだった。代々の主将は常々、山岳部主将の責任と重さをから、「山に あっては、お前 ( チーフリーダー ) が最終決断を下すんだ。お前の判断に、下級生の命がかか っているんだ。自分自身やリ 1 ダーが死ぬことはあっても、主将の判断ミスで、下級生を死な すようなことは絶対にあってはならない」と言われ続けていた。 それほど主将の責任は重く、したがって主将が合宿に参加しないなど、言語道断な話であっ 観念論にすぎないといわれればそれまでだが、山の経験年数が限られる学生にあって、未熟 な経験を承知で山に挑む以上、心構えにおいて、そうした厳しさを植えつけておくことは不可 欠だった。結果論にせよ、そうした理念が受け継がれたからこそ東洋大学山岳部は、この事故 にいたるまで、創部以来三十年、海外遠征で二名を失うことはあっても、こと現役の国内 合宿では、ただ一人の犠牲者も出していないのだった。 この理念にのっとれば、主将が合宿に参加しないこと自体、冬山に対する考え方の甘さを示

7. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

督 監 て山岳部でも、遠征が計画されていた。だから米山は「が終わるまで」をひとつの区 切りに、監督を引き受けた。 一方、米山に監督就任を要請した会側は、米山を「名誉職的監督」として位置づけてい た。米山の現役時代、山岳部はまだ創成期であり、米山自身の登山経験は「南までは行けても、 冬の北アルプスまでは登れなかった」という程度のものだった。したがって、立場上は最高責 任者であっても、米山に、山の助言は期待していなかった。 東洋大学山岳部では、毎合宿ごとに監督・コーチ会が開かれ、そこで計画が承認されないか ぎり、現役は山に行けなかった。したがって米山が、そういう性格の監督である以上、計画に 対するチェックやアドバイスは、ヘッドコーチ以下の若手 O に委ねられた。 そうしたことをすべて承知で引き受けた監督職であったが、米山にとっての監督就任は、得 がたい人生の転機でもあった。 米山自身の回顧によれば、監督就任から遠征にいたる三年間は「自分もクラブも、高揚 していた時期だった」という。自身の側から言えば、それまで仕事一筋に生きてきた人生が、 監督就任によって「仕事以外の目標ができた人生に変わった」。四十代半ばの、しがらみにがん じがらめにされた人生と比べれば、それは「同僚にもうらやましがられた」変化だった。 米山はこのころ、はたから見ても生き生きとしていた。 151

8. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

まま、故人の死を悔やみ続けることとは、その空しさにおいて明らかに違うはすである。悔や み続けることは、なお生き続けなければならない人間にとって、あまりに不幸なことではなか ろ、つ、か せめて、死の経過だけは、包み隠さす伝えるべきではなかろうか : 組織が遺族に対して、事実経過をありのままに伝えなかったがために軋轢を招いた明治大学 山岳部。この遺族は、私の取材申し込みに対して「あなたに話すことは何もない」と語気を荒 げて電話を切った。 剱岳別山尾根で、三名の現役学生を死なせた早稲田大学山岳部は、「家族への取材は、一切や めてもらいたいーと私に告げた。 書けなかった遺族は、ほかにもいる べっさん 0 あつれき 0

9. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

剱を知らず 彼らは雪崩でも滑落でもなく、ビバーク中になす術なく凍死した。その原因を、当事者であ る早稲田大学山岳部、また捜索に当たった富山県警山岳警備隊など関係者は共通して「ル 1 ト ーク態勢の不備」などに 工作出発時の天候判断ミスー「ルート工作引き返し時刻の遅れ」「ビハ 求めている。また、ただひとり藤井が生還できた点については、彼が高校時代、ラグビーの一 流選手であり、抜群の体力の持ち主であったことと、四人のなかで下着、中間着を含めて、最 も厚着をしていた点が大きいとする。この点、せつかく全員が持っていたにもかかわらす、毛 下着が使われなかったことが悔やまれる。だが私には、藤井生還のポイントは納得できるにし ても、三人が死にいたった経緯については、もっと決定的な要因があったように思えてならな 大学山岳部は、四年という限られた期間のなかで、最終的に、下級生の生死を預るリーダー 1 ダーには技術、体力もさることながら、下級生を を育てなければならないしたがって、リ 死なせないための判断力が求められる。山での判断力とは、生死を分ける場面での危険予知能 こまかならないそしてそ 力、危機回避能力、さらには極限状態に陥った場合の″自救能力″し ( れらは、経験によってしか培われないものだと、私は思う。

10. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

取り返しのつかない時間 亡くなった加藤悦宏は、ヒマラヤに特別な思いを抱いている人物だった。妻の智恵子 ( 六一 ) に と生前語っており、永住するための計画が、本人のなかでは 対して「ネパールに永住したい 具体化しているよ、つだった。 千葉大学を昭和三十三年に卒業後、由緒ある研究機関をへて、大手化学メーカ 1 に入社。在 職中は、品質管理の分野では最高の栄誉とされる「デミング賞」を受賞するなどして、技術者 としてサラリ 1 マン人生をまっとうした。プンキで亡くなる前年に、晴れて定年を迎えていた。 学生時代に加藤は、山岳部に籍をおいた。千葉大学山岳部会のなかで「長老」と呼ばれ 常に一貫 派手さはないが、 る鈴木一元 ( 六四 ) によれば、二年後輩の加藤は「まじめ。忍耐強い。 したペースの落ち着いた男」であった。二人は現役時代、多くの山行をともにしたが、昭和三 の十年前後の千葉大学山岳部は「日本の冬山を登るのもやっとの時代」で、「ヒマラヤなど、夢の カ また夢」という遠い存在だった。 レ 東京で家庭をもった加藤だったが、就職した化学メーカーの本社が大阪だったため、のちに 独 単転勤で大阪に居を移し、以降、大阪をついの住みかとした。子供は娘がひとり。 あ とはいっても、高度成長下に働き盛りの年齢を迎え、この時代の一家の大黒柱が誰でもそう 171