年二月、十二人のメンバーで独自に「新潟稜友会」を結成した。新潟山岳会規約の関係で、精 鋭たちのなかにはしばらくの間、新潟山岳会の会員として籍をおいていた者も何人かいたが、 結局は新潟稜友会に収斂した。 だがただひとり、精鋭たちと行動をともにすると見られていた岩本雅英は、新潟山岳会にと どまった。稜友会に移った橋本寅信 ( 四しが「ひざづめ談判で ( 退会を ) 説得したが」、岩本の 残留の意思は変わらなかった。 その理由を精鋭たちは「岩本は結局、べーシン ( 阿部信一 ) が好きだったんだ」と一一一口う。「 ( 分 裂しても ) いっかはまたいっしょになって、もとの鞘におさまるのを信じていたんだ」という 「その仲立ちを、自分がやろうとしたんだ」という それほど岩本は、新潟山岳会を愛していた。 愛着 九四年の定例総会直後、岩本は新潟山岳会の月報『山模様』に、「雨降って地固めよう」とい う長文の提言を書いた。そこには、岩本の熱い思いが語られている。 「のつけから結論を一言うと、今回のいさかいで会を割るようなことがあってはならないという ことです。一人として ( 会を ) 出て行かないこと。また追い出さないこと。そのために異議を 128
なぜ、オッルミズへ 一人、阿部信一もオッルミズを登ったのは数年前で、オッルミズに向かう前、岩本が自宅を訪 れた際には、「彼の実力なら、何の不安も感じなかったので」なんらアドバイスはしなかった。 精鋭たちがいたときでさえ、若手会員に対してまっとうな登山観を植えつけられなかった新潟 山岳会に、精鋭たちが抜けたあと、若手会員を正しく導く力量があったかどうかは、きわめて 疑問だ。会長である阿部信一自らが、岩本バーティのオッルミズ山行を「何の不安も感じなか った」と判断することからして、その力量の質が分かるというものだ。 だから私は、そんな新潟山岳会の力量を見抜けず、しかし愛し、自らの意思でとどまったこ とが、岩本の「不幸」ではなかったかと思う。 山そのものよりも、「組織」を愛した不幸ではなかったかと それだけに、組織の分裂をなんとか回避しようとして孤軍奮闘し、しかし果たせず、それで もなお、腑抜けになった組織を立て直そうと努力した人物の死が、あまりに悲しく痛ましい なぜ、こともあろうに岩本雅英が、死ななければならなかったのかと この意味で、組織の罪は重い。 言うまでもなく、個人が一人でできることなどたかが知れている。だからこそ人は、組織の 門をたたくのではなかろうか。そして、門をたたいた個人の不足を補うのが、数多くの人間が 歳月をへて育てあげてきた「組織」ではなかろうか組織には、個人レベルではおのずと限界 141
ードな山行はできなくなるから、最後の記念登山だ る人物は、「結婚して、もう以前のようなハ ったのではないか」とその動機を見る。 いすれも一理はあるかもしれないが、結局は推測でしかない。 オッルミズ山行は、年来の目標ではあった。同行した成田護が言うように、オッルミズ沢は 二人にとって二年越しの憧れだった。だが私には、「疲れていた」と語った妻の言葉が、オッル ミズに向かった動機を示すのではないかと思えた。「疲れていた」から、何もかも忘れたいと思 、疲れた心を癒しにいったのではなかったかと。ふと山を思ったとき、疲れた心を癒してく れる最適の場所として浮かんだのが、憧れのオッルミズではなかったかと。岩本は、オッルミ ズを是が非でも登りたかったのではなく、むしろ「山に浸りたかった」のではなかったか。だ からこそ、準備の安易さを忘れてしまったのではないかと こも分からない。ただ岩本の死の、直接 動機は分からない。本人が何も残していない以上誰 ( 原因ともいえる事前準備の安易さには、単に個人の技量不足だったでは片づけられない、事実 へ ズ としての背景があったと私は考える ワ尸冖」押 カ冒頭の「ある神風登山 : : : 」の指摘にあるように、分裂後の新潟山岳会ではナンバ オ し上げられたとはいえ、岩本にはまだ、本当の意味でのトップリーダーとしての経験は少なか った。しかも岩本が在籍した四年間は、「あれほどの多数の人間が、多数の山行を重ねたにもか 135
で必要もないことで悩んでいるかと言えば、分裂するとしたら、出て行く方も残された方も、 どっちの将来も見えてしまう。結果が分かっているから。それと、自分のフィールドは自分で いつまでたっても与えられた所物のうえにしか自分を置けない人間になっ 足固めしなけりや、 てしまうのがイヤだからだ。とにかく、展望はないけど、やれるとこまでやってみたいと思う」 岩本は、会が決定的に分裂したのちもなお、仲間の行く末を真剣に案じていた。 その後岩本の心境が、どう変化したかは分からない。ただ妻は「疲れていた」と振り返る 会分裂後の四月、岩本は晴れて結婚。しかし、本来なら楽しさの絶頂であるべき新婚生活でさ え「仕事に、組合活動に、山岳会の人間関係に、疲れていた」と妻は一一一一口う。 その心労が、何によるものだったかは分からない。ただ山岳会活動に限ってしまえば、たか だか入会四年目に過ぎない自分がトップリ 1 ダ 1 に押し上げられた立場に、要因の一つがあっ へ ズ たのかもしれない。先の日記の末尾にあるように、分裂した会の立て直しのために「自分のフ 刀イ 1 ルドは、自分で足固めしなけりや」と思い、「展望はないけど、やれるとこまでやってみた オ い」と考える実直な人間性が、心労を深めていったのかもしれない 。。 ( し力学はいとし、つ、あ玉り・に組織田 5 い 自分の宝である山岳会を、このまま放っておくわナこよ、、 131
があるはすの、技術と知識と経験の蓄積があるはずである。しかしその蓄積が、正しく個人に 、いかに会員数を誇ろうと 伝わらなければ、組織は有名無実である。いかに伝統があろうとも も、「実 . のない組織など、ただの烏合の衆に過ぎない 新潟山岳会をいちはやく退会し、のちに新潟稜友会会長となった精鋭たちの中心人物、金子 直夫は、自戒を込めて、その月報『稜友』に次のように書く。私はこの一言が、残された者へ の教訓として、重い意味をもっと考える 「俺は、あなた ( 岩本 ) に対して、精一杯のことをしてきたんだろうか : : : 」 この遭難は″岩本の個人的ミス″で片づけられていい問題なのだろうか 142
実力者である。五十嵐ほどの実力者にして、こうまで慎重な姿勢で向かうのが、命の危険がか かるル 1 トに向かう際の方法論のはずである。 組織論論議が中心だった当時の会内部の状況は、岩本が新潟山岳会月報『山模様』九五年六 月号に書いた一文と、五十嵐宏之が、独自の事故分析として書いた文章から類推できる。 岩本は「これらの経過の中で、うちの会をよく知る非会員のある先輩から次のような事を言 われたのを思い出します。『おめっち、それ ( 会のゴタゴタ ) を肴にして飲んでんじゃねえか 昔なんか自分らのやりたい事ばっかの話で、方針がどうのなんてヒマはなかった。山岳会と言 ったって、それだけ皆な登らなくなったってことだな』」と書いている。 また五十嵐は「昨年まで何度も役員会で話し合われていた″つまらない論議〃から解放され ました。 ( 中略 ) 今ではこんな論議は必要なく、山の世界に没頭できます」と書く。 つまり、当時の新潟山岳会の内部では、山登りの本質からすれば本末転倒な「不毛な論議」 が、延々と戦わされていたということだ。したがって、実践の場でも山の本当の怖さを体験し へ ズ ておらず、周囲にそれを諭す環境もなかった岩本にとって、常に最悪の事態を想定し、それを カ克服するためには何をしなければならないかの「方法論」は、実感として身についていなかっ オ たと思われる。組織を思う真摯な気持ちと、「どうすれば死なずに帰ってこれるか」は、きわめ て冷静に区別して考えなければならないことである。確固たる方法論のないままに、実力以上 137
する岩本の、真摯な思いがひしひしと伝わってくる。 だが、岩本の奮闘も空しく、新潟山岳会は分裂した。 会分裂後の九五年三月、岩本は日記にこう書いている 「相変わらす山岳会の人間模様は荒れていて、精神的エネルギ 1 の半分はそこにも 0 て行かれ ているのが今の俺です。 ( 新潟山岳会には ) 『割れるなら、割れてしまえホトトギス』では絶対 に済まされない、俺の宝がある。その修復は容易でない。仕事で飛ばされてきて、いろんなく やしい思いも経てきて、組合もガンガンやってきて、でもやつばりその人間関係だけにあきた らずに、山岳会の門をたたいた。厳しい山行ほど、仲間は強固なつながりで今日まで四年間や ってきた。毎年、年間山行二〇回以上なんて自分とは思えないほど力を尽くしてきたと思う でも登る苦しさは、まったく苦のうちにならないものだったと今は思う。もつれた人間関係を、 どうほぐしていくのか。中間派の前衛としての立場が今、本当にキツィ 山は頭で登るもんじゃない。時々パッ 1 と青空になると、むしように山が恋しくなる。汗を しつばいかいて、仲間と一緒にラッセルしたい。山スキーで、冬山しか入れないエリアに身を おきたいなど強く思う。でも今はいけないのだ。例会後の懇親会も、最近はさつばりつまらな 、酒になってしまっている ュ 1 ミンの歌じゃないけど、あの日に帰りたい。キツィけど、当面の当てもないけど、なん 130
なぜ、オッルミズへ オープンな会風を慕って毎年十人前後の新人が門をたたき、しかも辞めないため、会員数がふ くれあがり、その人的エネルギーによって山行内容も充実し、関係者の一人が「あれほど多数 の人間が、多数の山行を重ねたにもかかわらす、目立った負傷事故すらなかった」と書くほど の賑わいを見せていた。 だがその一方で、会運営の中枢組織である役員会では、世代交代が叫ばれ始めた。山から遠 ざかったと現役を明確化し、より近代的な組織へ、より高度な山行ができる組織へと、脱 皮をめざしたのである。具体的には、山岳保険に加入するかしないかで現役とを区別化し、 の権限に制約を設け、会を新たに、現役主体の山岳会に衣替えしていこうというのがその 意図だった。 こうした世代交代論を唱える役員会のメンバーは、全会員のなかでも「精鋭たち」と呼ばれ る実力中堅会員たちだった。精鋭たちは、山行にあってはトップリーダーを務め、また会運営 にあたっては、副会長、事務局、企画、装備、渉外、編集など、ほとんどの要職を占めていた。 岩本雅英もそのひとりだったが、岩本の個人的区分けによれば、これら役員会の精鋭たちは 「現役中心主義派」であった。 この現役中心主義派に対し、役員会主流派の考え方に同調しないメンバーや、山から遠ざか きづな った古手会員を、岩本は「家族的絆があくまでべ 1 ス派」と呼んでいた。ある若手会員によれ 125
努力していた。 ( 中略 ) 『このような事故があっては困りますから、絶対ないように』と、一番 そのことを念じていた」 ( 『山模様』九五年十月号 ) にもかかわらず、岩本はオッルミズに行った。実践の空白がありながら、いきなり実力以上 の五級ルートに向かい、しかも、ザックの重さが十八キロにもなるというとても軽量化したと は思えない重装備で、登攀性の高い「落ちれば死ぬ , ルートで、ザイルなしで悪い草付きに取 り付いた。 曲がりなりにもトップリーダーを任される力量をもち、会の行く末を真剣に案じる見識をも ちながら、なぜこのような愚行を重ねてしまったのか その「なぜ」が、どうしても私には分からなかった。 矢りたいと思った。 分からないだけに、日 なぜ、オッルミズに向かい、なぜ、命を落としたのかを 欠落 だ 12 として ) 若手リーダーに対抗意識があっ 稜友会に移ったある人物は、「岩本は、 ( ナン、、 たのではないか」と言う。またある人物は、「自分たち ( 精鋭たち ) が抜けた新潟山岳会でも、 これだけの山行ができるんだというところを見せたかったのではないか」とも語る。さらにあ
オッルミズ沢は、沢登りグレード五級にランクされ、取り付き直後にカグラ滝、さらに上流 にサナギ滝と大滝を持つ、新潟県内でも屈指の困難な沢である。アプローチはたやすいものの、 取り付きから最上部まで標高差千メートル近くを一気に突き上げるため、ここを完登するには、 遡行技術よりもむしろ、高い登攀能力が要求されるといわれる 岩本雅英と成田護 ( 二四 ) の新潟山岳会二人パ 1 ティは、成田によれば「二年前に読んだわらじ の仲間の記録に触発されて」かねてからオッルミズへの挑戦を考えていた。しかしその後、な かなか実行のチャンスに恵まれす、九五年九月、たまたま二人の休日が合ったため、沢の途中 での一ビバ ークを含む一泊二日の計画で完登をめざした。 林道取り付きからわすか三十分ほどで、落差八十メ 1 トルあまりのカグラ滝に出会う。正規 ル 1 トは通常、水流の右壁を直上するものである。経験者によれば、ザイルを出すとすれば傾 斜の強い上部一ピッチで、しかも傾斜のわりにはホ 1 ルド、スタンスともしつかりあり、「オッ ルミズでは初歩中の初歩。実力のある人ならザイルなしでも行けるし、強いていえば、三級プ ラス程度のピッチではないか」という。 しかし岩本バ 1 ティは、正規ル 1 トを見誤り、上部一ピッチは、正規ルートよりさらに右沿 いの「悪い草付きーを直上した。ます岩本が先行し、「悪いーと言っていったん下降。次に、 ブッシュにザックをデポしたあと、ザイルを首に巻き、空身で草付きに取り付いた。 120