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検索対象: 死者は還らず : 山岳遭難の現実
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1. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

母親は言、つ。 「息子 ( の遺体 ) を見て、自分の目で確認して初めて、その死を認めた。でも納得はできない ( 事故から八年経っても ) いまだに納得できない 息子がいなくなっても、『居たんだ』という事実のほうが重い。普通の人から見たら、息子は もう居ないのだろうが、自分の気持ちのなかでは、今でもずっと居るようだ。 なぜ長生きしてしまったんだろうと思う。この先もう楽しいことは何もないと落ち込んでし まう。わたしがしつかりしていなかったから、こうなったんだ ( 息子が死んでしまったんだ ) 。息子は、まだ子供のまま死んで と思ってしま、つ。息子には、恋人もいなかっただろ、つし : しまった。 まだ小さい子供が、みんなについていっちゃって。自分の力も知らないで : : : 」 父親は田 5 いを吐く 「危険が魅力だという、山登りの本質論は、子供を遭難させ、その苦しみを経験したことのな 。これだけ科学が発達しているのだから、 い人間の考えだ。自力下山など、建前論に過ぎない なぜ山のなかと連絡がとれないのか。下山日が過ぎる前に、なぜ何らかの対処ができないのか 親の立場からすれば、山登りなど人生の一ステップでしかない。それを考えれは、万全の安全 を確保して行くべきではないのか」 202

2. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

そう思うと、初めて心の底から「信じられないほどの悲しさ」が襲ってきた。 夫をネパールのトレッキングで亡くした加藤智恵子 ( 六一 ) とは、ホテルの喫茶室で会った。取 材の直前に、妻は一周忌をかねて夫の知人たちとエベレスト街道を訪れており、夫が亡くなっ た場所の風景を眺めていた。それである程度、ヒマラヤがどんなところか自分の目で見ること ができ、「少しだけ気が安らいでいる」と静かに言った。 それでも妻は「すべてを知りたい。真実を逐一知りたい。主人がどんな経緯で亡くなったの か。最後の様子はどうだったのか」を、「ぜひ知りたいーと私に言った。直接の関係者でもない この私に、重ねてそう尋ねた。 私はそのとき、真実といえるほどの材料は持ち合わせていなかったが、それでも妻の「どん なことでも、 しいから知らせてほしいという切なる思いに押されて、一枚のコピーを手渡した。 そのコピ 1 には、夫が亡くなった前後の経緯が記されており、記録の一行に「 ( 遺体は ) シュラ フに入って地べたに寝せられている状態なので : : : 」という記述が含まれていた。日本の風習 からいって、遺族の心情を思うとき、見せるべきかどうかを、最後まで迷った資料だった。 それを受け取った妻は、表面上は冷静さを装いながらも、あらためて夫の死の悲しみを思い 起こしているようだった。コピーのせいばかりではなかったろうが、その後何度か、会話の途

3. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

だら、子供はどうなる : 幼い子供の顔が、私を現実に引き戻した。 道を失った大木の根元から谷底まで、迷った時間そのものはたかだか二時間程度でしかなか ったはすである。引き返すことを決め、胸までのラッセルをして尾根上まで登り返した時間を 含めても、このとき私は、十三時過ぎに馬場島に着いている。だがいまだに、あのとき迷 0 て いた不安な時間は、ゆうに半日近くはあったと私の感覚では記憶されている 吹雪やガスは怖くなかった。尾根の急斜面も恐ろしくはなかった。ただひとっ怖かったのは、 時間の感覚が、急速に早回りしだしたことだった。 私と同じような体験を、昭和山岳会会員の上村博道 ( 一 = 一 ) ももつ。上村はかって、屋久島の山 中で道迷いを経験し、そのときの心境を、こう話した。 「迷ったと思った瞬間から、時間の経過が急に早くなった。わすか五分が、一時間も経ったよ うに感じられた。このままではすぐ暗くなる。今日中に帰らなければ。明日は仕事だ。そんな 考えが焦りを生み、頭のなかのボルテージが完全に振り切れていた。来た道を引き返せば何の ことはないのに、どんどん先を急いだ。頭のなかは『ャパイ。どうしよう』という思いた。だ った。とある雑木林のなかで、それまで明るかった場所が急に暗くなって、初めてわれに返 った」

4. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

れない ? ーと考えた。しかしそうとはいえ、谷あいのプンキにヘリが着陸できる場所はない。 さらに、自分たちのポーターを介して加藤氏のサ 1 ダーに話を聞くと、サーダ 1 は、数日前の 様子から判断して「 ( 加藤氏はもう ) 危ない」という意味の言葉を吐いた。何をするでもなく、 サーダーが告げた「危ない」という言葉の響きは、 ただおろおろしているサーダ 1 だったが、 加島ら二人の危機認識と一致した。すぐにでも下ろさなければ、取り返しのつかないことにな る 加島らはます、ナムチェ・バザール寄りのシャンポチェに病院があることを思いっき、どう にかして加藤氏をそこまで運べないかと考えた。すでに死相が漂っている「同胞の日本人を , ー ( ( し力ないと気を焦らせた。だが加藤氏は「ほっといてくれ」と強 このまま放っておくわナこよ、、 く言うのみで、その口調には「よけいな世話は焼くな、という雰囲気が感じられ」、そればかり か「怒っている感じ」さえした。加島はのちに「ああした不機嫌な態度は、高山病が原因の思 の考能力の低下によるものだったとは思うのですが」と述懐するが、この時点では気後れして、 カ それ以上、加藤氏を説得することができなかった。 レ やつれ果てた加藤氏は、二人に対して「明日、ヘリが来る」と明言した。 単それでも加藤氏の容体を気遣う二人は、結局この日、プンキで同宿した。木製べッドが並ぶ あ 奥の部屋で、加藤氏は街道沿いの入り口側に、二人は壁際の二段べッドで、それぞれ持参した 169

5. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

督 監 「二人にしてみれば、最も熱心だった人間に見つけてもらって、おそらく本望だったのではな いか監督にしても、自分の手で見つけることができたのが、せめてもの救いではなかった か」 そして米山の態度には「頭が下がる」と 監督としての責任ばかりでなく、学生をわが子のように思っていた父親の悲しみと執念が、 息子たちをついに捜しだし、その後の事後処理においても奔走させた。米山は精一杯、三名の 犠牲者とその遺族に報いた、という声が大勢だった。 美談である。追悼集にはもってこいのシナリオである だか、事実はもうひとつの側面をもっていた。 「この七年間、誰にも話したことはなかったが、あの判断が最大のミスだった」 苦汁に満ちた表情で、米山はそう話した。 あの判断とは、合宿計画を認めるかどうかを決定する監督・コーチ会の段階で、最大行事の 冬山合宿に、主将が参加しないにもかかわらす、計画を許可してしまったことだった。 八八年度の冬山合宿は、当初の計画では、四名の部員で遂行するはずだった。ところが合宿 157

6. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

督 監 慚隗に堪えない仕儀である。 米山は知っていた。自ら下した判断ミスが三人を死なせたことをっていた。だから米山は 「自分でできることは、誠心誠意やろう」と思い決めた。誰に理解されなくても、「もうそれく らいでいいんじゃないか」とはたからは言われても、米山はひとり実行した。それが米山の、 しょ′、、い 監督として下した致命的判断ミスに対する、人間としての「贖罪」だった。 だが死者は、どんな償いをしようとも還らない 悔やまれるのは、その美徳ともいえる米山の良心が、合宿を許可する段階で「厳しい愛」の かたちを取らなかったことである。 米山英三。今年で五十七歳。追悼山行は、体の続くかぎり続けようと思い決めている。 ざんき 165

7. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

ず、差しさわりのある部分は逃げるか婉曲な言い回しにして、批判を恐れるあまり、一般論し 、こよ関係者におもねって、死者ばかりか遭難そ か書こうとしない。一般論はまだしも、しまし ( ( のものをも美化してしまう愚を犯しているものもある。そうした姿勢には「責任逃れの自己防 衛」、あるいは「自分かわいさの嫌らしさーしか見て取れない。 だから私は書いた。私の主観を全面的に書いた。自分としては控えめに「私はこう考える」 と書いた。分析でも解説でもなく、ましてや結論などでは決してなく、「私はこう見る」「こ、つ 考える」「真実はこうではなかったか」と書いた。その結果が、たとえ死者に鞭打っことになろ うとも、私はあえて書いた。それが書き手としての責務だと思ったからである。もちろんその 行為の裏には、書き手としての自己顕示欲もある。読み物としての価値を考えたうえでの、イ ンパクトを与えるための計算された作為もある。だが意図の第一は、読者に真剣に考えてもら いたかったのである。一般論ではなく、私の考え方を提供することで、読者に、自分の頭で、 遭難を真摯に考えてもらいたかったのである。 本書のねらいは、登山者に警鐘を鳴らすのではなく、ましてや対処や予防を訴えるのではな 、唯一、「遭難を真剣に考えてもらいたかった」、それのみである。 ではいったい何を、どう考えるのか真剣に考えるとは、どういうことなのかーーそれらを も、私は読者に自分の頭で考えてもらいたいと思った。 214

8. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

実力者である。五十嵐ほどの実力者にして、こうまで慎重な姿勢で向かうのが、命の危険がか かるル 1 トに向かう際の方法論のはずである。 組織論論議が中心だった当時の会内部の状況は、岩本が新潟山岳会月報『山模様』九五年六 月号に書いた一文と、五十嵐宏之が、独自の事故分析として書いた文章から類推できる。 岩本は「これらの経過の中で、うちの会をよく知る非会員のある先輩から次のような事を言 われたのを思い出します。『おめっち、それ ( 会のゴタゴタ ) を肴にして飲んでんじゃねえか 昔なんか自分らのやりたい事ばっかの話で、方針がどうのなんてヒマはなかった。山岳会と言 ったって、それだけ皆な登らなくなったってことだな』」と書いている。 また五十嵐は「昨年まで何度も役員会で話し合われていた″つまらない論議〃から解放され ました。 ( 中略 ) 今ではこんな論議は必要なく、山の世界に没頭できます」と書く。 つまり、当時の新潟山岳会の内部では、山登りの本質からすれば本末転倒な「不毛な論議」 が、延々と戦わされていたということだ。したがって、実践の場でも山の本当の怖さを体験し へ ズ ておらず、周囲にそれを諭す環境もなかった岩本にとって、常に最悪の事態を想定し、それを カ克服するためには何をしなければならないかの「方法論」は、実感として身についていなかっ オ たと思われる。組織を思う真摯な気持ちと、「どうすれば死なずに帰ってこれるか」は、きわめ て冷静に区別して考えなければならないことである。確固たる方法論のないままに、実力以上 137

9. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

する岩本の、真摯な思いがひしひしと伝わってくる。 だが、岩本の奮闘も空しく、新潟山岳会は分裂した。 会分裂後の九五年三月、岩本は日記にこう書いている 「相変わらす山岳会の人間模様は荒れていて、精神的エネルギ 1 の半分はそこにも 0 て行かれ ているのが今の俺です。 ( 新潟山岳会には ) 『割れるなら、割れてしまえホトトギス』では絶対 に済まされない、俺の宝がある。その修復は容易でない。仕事で飛ばされてきて、いろんなく やしい思いも経てきて、組合もガンガンやってきて、でもやつばりその人間関係だけにあきた らずに、山岳会の門をたたいた。厳しい山行ほど、仲間は強固なつながりで今日まで四年間や ってきた。毎年、年間山行二〇回以上なんて自分とは思えないほど力を尽くしてきたと思う でも登る苦しさは、まったく苦のうちにならないものだったと今は思う。もつれた人間関係を、 どうほぐしていくのか。中間派の前衛としての立場が今、本当にキツィ 山は頭で登るもんじゃない。時々パッ 1 と青空になると、むしように山が恋しくなる。汗を しつばいかいて、仲間と一緒にラッセルしたい。山スキーで、冬山しか入れないエリアに身を おきたいなど強く思う。でも今はいけないのだ。例会後の懇親会も、最近はさつばりつまらな 、酒になってしまっている ュ 1 ミンの歌じゃないけど、あの日に帰りたい。キツィけど、当面の当てもないけど、なん 130

10. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

その三週間後、弟は岩場で墜死した。 実家で見た「寂しそうな姿」が、弟を見た最後だった。 弟が亡くなったあと、姉は何度か夢を見た。その夢のなかで弟は「生きていた」。夢のなかの 弟は、友人数人と自分とで河原の土手を歩いていたり、家のなかで掃除機をかけながら話をし たりしていた。そんな夢のせいではなかったが、「弟にまた会えるかもしれない」と姉は思、 恐山のイタコのもとを訪れたりもした。しかし反面、「会いたいけど、実際に現れたら、怖い」 とも思った。弟の死が、頭では理解できても、それでも心では「探せば、どこかで会えるので はないか」と思い続けた。 弟の一周忌の明け方、初めて色のついた夢を見た。弟は夢のなかで、最初自分と話をしてい て、いつのまにか姿を消した。周囲には親戚がいて、目の前には河原が広がっていて、皆で河 原を渡ろうとすると、河原には何の支障もないのに、自分にはどうしても渡れなかった。 姿を消した弟は、灰色の目をしていて、その目の色は、死んだおじいさんと同じだった。 この夜を境に、ばったり弟の夢は見なくなった。 姉は言った。 「『山の仲間の死をむだにしないで』とか、『好きな山で死ねて良かったではないか』とか、そ 192