そう思うと、初めて心の底から「信じられないほどの悲しさ」が襲ってきた。 夫をネパールのトレッキングで亡くした加藤智恵子 ( 六一 ) とは、ホテルの喫茶室で会った。取 材の直前に、妻は一周忌をかねて夫の知人たちとエベレスト街道を訪れており、夫が亡くなっ た場所の風景を眺めていた。それである程度、ヒマラヤがどんなところか自分の目で見ること ができ、「少しだけ気が安らいでいる」と静かに言った。 それでも妻は「すべてを知りたい。真実を逐一知りたい。主人がどんな経緯で亡くなったの か。最後の様子はどうだったのか」を、「ぜひ知りたいーと私に言った。直接の関係者でもない この私に、重ねてそう尋ねた。 私はそのとき、真実といえるほどの材料は持ち合わせていなかったが、それでも妻の「どん なことでも、 しいから知らせてほしいという切なる思いに押されて、一枚のコピーを手渡した。 そのコピ 1 には、夫が亡くなった前後の経緯が記されており、記録の一行に「 ( 遺体は ) シュラ フに入って地べたに寝せられている状態なので : : : 」という記述が含まれていた。日本の風習 からいって、遺族の心情を思うとき、見せるべきかどうかを、最後まで迷った資料だった。 それを受け取った妻は、表面上は冷静さを装いながらも、あらためて夫の死の悲しみを思い 起こしているようだった。コピーのせいばかりではなかったろうが、その後何度か、会話の途
督 監 「二人にしてみれば、最も熱心だった人間に見つけてもらって、おそらく本望だったのではな いか監督にしても、自分の手で見つけることができたのが、せめてもの救いではなかった か」 そして米山の態度には「頭が下がる」と 監督としての責任ばかりでなく、学生をわが子のように思っていた父親の悲しみと執念が、 息子たちをついに捜しだし、その後の事後処理においても奔走させた。米山は精一杯、三名の 犠牲者とその遺族に報いた、という声が大勢だった。 美談である。追悼集にはもってこいのシナリオである だか、事実はもうひとつの側面をもっていた。 「この七年間、誰にも話したことはなかったが、あの判断が最大のミスだった」 苦汁に満ちた表情で、米山はそう話した。 あの判断とは、合宿計画を認めるかどうかを決定する監督・コーチ会の段階で、最大行事の 冬山合宿に、主将が参加しないにもかかわらす、計画を許可してしまったことだった。 八八年度の冬山合宿は、当初の計画では、四名の部員で遂行するはずだった。ところが合宿 157
「自分たちは遊びに来ているのだから、現地の人に迷惑はかけられないと思いました。ロッジ 側にしたって、遺体をなかに置く義務はありません。でもロッジの人も、食事や飲み物を運ん でくれるなど、やさしくしてくれました。何より嬉しかったのは、安い金で雇ったポータ 1 た ちが、嫌な顔ひとっせずに付き合ってくれたことです。寒いなか、一晩中彼らは、私と加藤さ んに付き合ってくれました」 加島には、せめてもの手向けという思いがあった。もし最初にプンキの宿で会ったとき、無 理にでも加藤を下に降ろしていれば、こんなことにはならなかったという悔恨があった。自分 に罪はないとはいえ、同胞の日本人を、みすみす死なせてしまった結果に対する責任感があっ 加・島は一言、つ。 「ヘリが飛び去ったあと、加藤さんの遺体がどう処理されたのか、ずっと気がかりでした。 ( こ の取材を受けるまで ) その後の経過を知りませんでした」 死にゆく者を前にして、何もできなかった無力感。死してなお、地べたに寝かされる異国の かかわった人の死を、最後まで見届けることができなかっ 地で迎える死の寂寥感。さらには、 た欠落感 : ・ それらの思いが、二十三歳の青年の心に、ある種の啓示を与えたのかもしれない
その三週間後、弟は岩場で墜死した。 実家で見た「寂しそうな姿」が、弟を見た最後だった。 弟が亡くなったあと、姉は何度か夢を見た。その夢のなかで弟は「生きていた」。夢のなかの 弟は、友人数人と自分とで河原の土手を歩いていたり、家のなかで掃除機をかけながら話をし たりしていた。そんな夢のせいではなかったが、「弟にまた会えるかもしれない」と姉は思、 恐山のイタコのもとを訪れたりもした。しかし反面、「会いたいけど、実際に現れたら、怖い」 とも思った。弟の死が、頭では理解できても、それでも心では「探せば、どこかで会えるので はないか」と思い続けた。 弟の一周忌の明け方、初めて色のついた夢を見た。弟は夢のなかで、最初自分と話をしてい て、いつのまにか姿を消した。周囲には親戚がいて、目の前には河原が広がっていて、皆で河 原を渡ろうとすると、河原には何の支障もないのに、自分にはどうしても渡れなかった。 姿を消した弟は、灰色の目をしていて、その目の色は、死んだおじいさんと同じだった。 この夜を境に、ばったり弟の夢は見なくなった。 姉は言った。 「『山の仲間の死をむだにしないで』とか、『好きな山で死ねて良かったではないか』とか、そ 192
になっちゃうよ」と言ったが、 O は結局、出発しなかった。 最後に「私も行き着けるかどうかわからないけど : : : 」と言って、 o と別れた。 その後と Z は、白浜の尾根から滑川温泉へ下る途中の沢で一晩ビバ 1 クしたあと、全身に 凍傷を負ったものの、自力で滑川温泉に下山した。二人の通報を受けて自衛隊のヘリコプター が現地に飛び、二月十五日、五人の遺体が収容された。生還した二人は、現地の警察署に詰め ていた関係者が「助かるならあの二人だろうと思った」という、七人のなかでは比較的体力が あるメンバーで、とくに女性は、二月十二日の最初のビバーク時から常に食べ物を口にしてい て、持てる装備をフル活用して保温に努めていた。 いざ生死の危機にさらされたとき、第一に保温に努め、とにかく食料を腹におさめることが 生還につながることを、この経緯は教えてくれている 劇 悲 それにしても、二人を見送ったあとの O の心境を想うとき、あるいは、死の間際になっても の 排泄行為への恥じらいを口にした O の女性らしさを想うとき、限りなく、胸が痛む 生前の坂根と親交があり、遭難者のそれぞれとも知り合いだった「ダルマ山の会」代表の鈴 す木孝昇 ( 四三 ) は、坂根ツアーを評して、こう言った。 楽 「坂根ツア 1 は、楽しすぎた」
このころの坂根をよく知る人物によれば、「紛争から逃れるための狂言だったとは思うので すが、夜中に布団の上で四つん這いになって『ウォー』と吠えてみたり、あるいは、毎日毎日、 知り合いの事務所で絵を描いてばかりいるなど、確かに奇行はありました」という。それほど 坂根は、中間管理職として社内紛争の矢面に立たされ、苦悩し、夢破れていた。 坂根は若いころから絵をよくしたが、このころに描かれた彼の絵を見ると、一瞥して暗く、 描かれた人物の表情はさながら幽鬼のようであり、私には、ムンクの代表作「叫び」にも似た 絶望感が読み取れる。通常の精神ではます描けない、病的な絵が多く見られる もちろん短絡的な推測は慎しまなければならないが、坂根正一は四十七歳という人生が最も 安定してしかるべき時期に、社内紛争という舞台で、人間の業の深さを目の当たりにした、い わば人生最大の挫折を味わったのかもしれない この時期に前後して、坂根は山スキ 1 を始めていた。なかでもこの事件の二年前、新聞社の 劇 れんげ 後輩たちと出かけた長野県栂池高原から新潟県の蓮華温泉に抜けるスキーツアーが、その後の え 人生を大きく変えた。 ゅ 樺太 ( 現サハリン ) に生まれ育ち、旧制中学ではラグビーのフォワードをやっていた坂根は、 すどちらかといえば猪突猛進を好む性格であったようである。彼自身、「フォワ 1 ドで、雪を蹴散 楽 らして突っ込むのがたまらなかったね」と生前語っており、実際、その後回を重ねることにな からふと つがいけ いちべっ
道迷い ん荒れたな、くらいにしか考えていなかった」 完全な錯覚である。鏡映しにしたような地形のいたずらである。しかも悪いことには、それ を一点の疑いもなく信じ込んでいた。 このときは結局、ズタズタに切れた雪渓のクレバスでビバークし、翌日、小黒部谷に無事下 山したのだったが、それでも小黒部谷の出合に降り立ち、たまたま通りかかった土木作業員に 向かってべテラン登山家は、真顔でこう聞いている。「ここはいったい、。 錯覚は、最後の最後まで続いていた。 滝を高巻く技術もあり、ビバーク経験も豊富にあったので事故にはいたらなかったとはいえ、 この大べテランにして「パ これが初心者だけだったら結果はどうなっていたか分からない ティ全滅の危険を感じた」というほどの、かなり危険な下降であった。 では、初心者だけの場合はどうなるか : 「雪渓の底から、人間が叫んでくるんだ」 「女の声はハッキリと、男の声はガャガヤと聞こえた」 「女の声は、ケラケラあざけり笑っていた」 「耳元で、あるいは背中で、ひっきりなしに誰かがしゃべってきた」 とこだ ? 」と
冨田大にとって学生生活最後になる、主将とすれば四年間の集大成とも言うべき利尻岳での 冬山合宿は、当時の明治大学山岳部の二年越しの目標であり、その二年間に四回の偵察山行を へて決定された、当時の現役部員の夢だった。冬の利尻は、一カ月に晴天が一日あれば良いと いわれるほどの、国内第一級のバリエ 1 ションである。私自身、大学二年の冬に、利尻をめぐ せんほうし る稜のなかでも最も困難と言われる仙法志稜登攀をめざしたことがあるだけに、彼らの意気込 みが、どれほどのものであったかは容易に想像がつく。登攀対象として、これほど岳人の心を 引きつける山もない しかし冨田たちは、出発前に思わぬ事態に見舞われていた。冨田たちは当初、計画ルートと して、利尻岳をめぐる稜のうちきわめて厳しい南稜および西壁登攀をめざしていたのだが、厳 しいルートに挑む思いのあまり、無雪期の訓練合宿を厳しくやりすぎて、いざ本番にこぎつけ ダークラスの思い入れが強すぎて、 たときには、二年生以下の部員をほとんど失っていた。リー それに反発する下級生が退部するという不幸な事態は、私自身にも経験がある。それほど冨田 たちの、冬の利尻に対する思いは熱かった。 ヾ 1 は三、四年生だけの四名となっていた。 したがって利尻岳に向かったとき、合宿参加メンノ しかし反面、部内のゴタゴタが続いていたぶん四人の結束は固く、ルートは東稜にレベルダウ ンしたものの、全員がリーダ 1 クラスの力量であることから、「絶対に登ってやる」とパ 1 ティ
おえっ 中で鳴咽した。鳴咽して、席を外すこともあった。 妻の話のなかで、強く印象に残ったのは次の言葉であった。 みと 「夫の死には、最期を看取る過程がないんです。時間が突然、断ち切られているんです。わた しの友人にも、ご主人を病気で亡くされている人がいますが、たとえば病死なら、看病を通じ て死への過程を看取ることで、夫の死を現実として認められると思うんです。でもわたしには、 夫の死を看取った過程がないんです。わたしにとっては、ザックを背負い、『大丈夫』『元気で 行ってくる』と言って別れた夫の姿が、最後なんです。生前の最後の姿でしか、夫の死を受け 止められないんです。だから今でも、帰ってくるような気がしてならないんです」 だから妻は、ーーと私は思った。自分が知り得ない、だからこそ夫の死を現実として受け止め られない三週間の空白を「すべて知りたい」と願うのかもしれないと。 山での突然の死とは、埋めようのない空白を、遺族に残すのかもしれないと ち 「娘がいるといっても、わたしは孫のお守りでしかありません。何かいっしょにするとすれば、 者 わたしには主人しかいませんでした」 残ひとり娘は結婚し、晴れて定年退職を迎えた夫と二人、これから夫婦だけの人生が始まろう としていた矢先に、妻は夫に先立たれた。 族 189
知りたい」と。その思いは、遺体を直接見た場合でもそうでない場合でも、生前の最後の姿を 見てから死を告げられるまでの時間の隔たりが大きくても小さくても、同じであった。 山での死には、生から死への過程が、ほっかり抜け落ちていた。 これが病死や交通事故死なら、故人の死の経緯に関与することで、多少なりとも実感として 受け止めることができる。たとえば病死なら、看病や見舞うことで死への過程を見届けること が可能だし、交通事故死なら、日ごろからその実態やニュ 1 スを見聞きしており、また自らハ ンドルを握ることで、スピードの恐ろしさを体感している。だから死が、寿命やあり得ること だったとして、少しは実感できるのではなかろうか だが山での死は、とりわけ山を知らない遺族にとっては、死を実感できる過程や予備知識が ない。過程がないままに、ある日突然最悪の結果を突きつけられるという事態は、たとえるな らば、それまで信じ切っていた人物に、ある日突然裏切られるようなショックではなかろうか 何の疑いももたない日常に、突然突きつけられる最後通牒。どうあがいても取り返しのつかな 理由なき宣告。山での死とは、そういうものではなかろうか頭から冷や水をぶつかけら れたような、血の気がすうつ 5 と引いていく、「まさかッとしか言いようのない心境ではなか ろ、つ , か それでも山をーー山に吹く風の冷たさや、むせかえる草いきれ、残雪の匂いや、岩壁の高度