直前になって、当時の主将 ( 三年生 ) が持病の腰痛を理由に合宿参加を取りやめたため、 ティのメンバー構成が、三年生二名と一年生一名という結果になったのだった。 こうした事態は、あってはならないことだった。 東洋大学山岳部の理念にあって、山行の最高責任者たる主将が合宿に参加しない事態など、 絶対に許されないことだった。代々の主将は常々、山岳部主将の責任と重さをから、「山に あっては、お前 ( チーフリーダー ) が最終決断を下すんだ。お前の判断に、下級生の命がかか っているんだ。自分自身やリ 1 ダーが死ぬことはあっても、主将の判断ミスで、下級生を死な すようなことは絶対にあってはならない」と言われ続けていた。 それほど主将の責任は重く、したがって主将が合宿に参加しないなど、言語道断な話であっ 観念論にすぎないといわれればそれまでだが、山の経験年数が限られる学生にあって、未熟 な経験を承知で山に挑む以上、心構えにおいて、そうした厳しさを植えつけておくことは不可 欠だった。結果論にせよ、そうした理念が受け継がれたからこそ東洋大学山岳部は、この事故 にいたるまで、創部以来三十年、海外遠征で二名を失うことはあっても、こと現役の国内 合宿では、ただ一人の犠牲者も出していないのだった。 この理念にのっとれば、主将が合宿に参加しないこと自体、冬山に対する考え方の甘さを示
監督 白馬岳・突坂尾根の遭難。第 1 次捜索活動時 ( 1989 年 1 月 ) の現場 付近。右手斜面の奥に 2 名の遺体が埋まっていた。東洋大学体育会 山岳部「 1988 年度冬山合宿遭難事故報告書』より。 147
督 監 ではなかったか。すなわちこの冬山合宿は、中止されるかもしくは、三名態勢でも実効のある 「別ルート」に変更されるのが順当ではなかったか。「山はもっと自由に登るべきだ」と言われ れば確かにそれまでだが、冬山に向かう真剣さにおいて、こうした緻密な姿勢がなかったこと が、結果的に悲劇を招いた。 当時の監督・コーチ会は、コーチの一人によれば「たとえ主将がいなくても、彼らだけでも 十分登れるだろうと判断して」合宿を許可した。 そして結果的に、三名の若者を山で死なせた。 確かに事故そのものは、誰もが予想し得なかった吹き溜まりの雪質を見抜けなかった現役の 判断ミスだったにしても、出発以前の段階で、これだけの不備が指摘できるのなら、合宿は事 前に却下するべきではなかったか。したがって、その育成システムの是非はどうであれ、東洋 大学山岳部自らが、合宿の許認可権を監督・コ 1 チ会に委ねていた以上、事故の結果責任は、 監督・コーチ会にあったと言わざるを得ない。直接的には、技術面の指導を担当していたヘッ ドコーチおよびコーチの責任であり、最終的には、たとえ内部的には名誉職であったにせよ、 東洋大学山岳部監督・米山英三の責任であった。 「主将が参加しないと言ったとき、本当は『危ない』と思ったんだ。でも副将のが、あまり に熱心なんで、彼の熱意に負けたんだ。あれが、最大のミスだった」 161
督 監 長き一週間 最終下山日の一月六日を過ぎても、ついに現役からの連絡はなかった。 こうして、関係者にとっては身を切られるような捜索活動が、始まった。 一九八九年一月、冬山合宿で北アルプス白馬岳方面に入山していた東洋大学山岳部三名パ ティ ( 三年生二名、一年生一名 ) は、最終下山日の一月六日を過ぎても下山せず、消息不明の とっさか まま遭難したと見なされた。計画では、黒部川から長大な距離を後立山連峰に突き上げる突坂 尾根をへて白馬岳に登り、その後、杓子尾根を下降して長野県側に下山する予定であった。遭 難したと判断された段階で、彼らの入山以降の行動を知る無線連絡などは残っておらず、彼ら 監督 143
「宿にしていたホテルから、黒部警察署まで毎日通うんだ。毎日、空がどんより曇っていてな 警察署に行ったって、やることがないんだ。話すことが何もないんだ。それでも朝から晩まで、 家族といっしよなんだ。無駄話はできないし、何を言っても慰めにもならないし、さしさわり のない話しかできないんだ。長いんだ。時間が経つのが長いんだ。あの一週間、とにかく長か った」 このときの、写真に写された自分の顔をあとで見てみると、驚くほど「憔悴し切っていた」 AJ し、つ 残る二名の捜索は、長期戦になることが確定した。 わが子 米山英三が山岳部監督に就任したのは、事故から四年前の一九八四年、四十四歳の時だった。 そろそろ社会的地位も安定し、精神的にも肉体的にも余裕があり、「クラプへの恩返し」と「会 社以外の人生を見つける意味」から、喜んで監督要請を引き受けた。ただひとつ、米山が世間 一般の同世代と違うのは、米山夫婦には子供がいないことだった。 米山が監督を引き受けたとき、東洋大学は三年後に創立百周年を控えており、その一環とし る。 150
く著者略歴〉 丸山直樹 ( まるやま・なおき ) 1958 年 ( 昭和 33 年 ) 新潟県生れ。東洋大学 文学部国文学科卒。同大学山岳部で山登りに 没頭する。 20 代後半よりフリーランス記者と なり、朝日新聞社、平凡社、東洋経済新報社 などの週刊誌、月刊誌で仕事をする。編書に 「山岳警備隊出動せよ」 ( 東京新聞出版局 ) が ある。 死者は還らず山岳遭難の現実 発行日・ーー、一九九八年三月十五日初版第一刷 著者ーー丸山直樹 発行者ーー川崎告光 発行所ーー、株式会社山と溪谷社 ・三三〒一〇五・八五〇三 東京都港区芝大門一 電話〇三 , 三四三六・四〇二六 ( 山岳図書編集部 ) 〇三・三四三六・四〇五五 ( 営業部 ) 振替〇〇一八〇・六 , 六〇二四九 ーーー株式会社千秋社 印刷所ーー大日本印刷株式会社 製本所・ーー株式会社明光社 ◎ 1998. Naoki MARUYAMA. Printed in Japan. lSBN4-635-17114 ・ 0 * 落丁本・乱丁本はおとりかえいたします。 * 定価はカバ 1 に表示してあります。 / ャ。タコ
督 監 て山岳部でも、遠征が計画されていた。だから米山は「が終わるまで」をひとつの区 切りに、監督を引き受けた。 一方、米山に監督就任を要請した会側は、米山を「名誉職的監督」として位置づけてい た。米山の現役時代、山岳部はまだ創成期であり、米山自身の登山経験は「南までは行けても、 冬の北アルプスまでは登れなかった」という程度のものだった。したがって、立場上は最高責 任者であっても、米山に、山の助言は期待していなかった。 東洋大学山岳部では、毎合宿ごとに監督・コーチ会が開かれ、そこで計画が承認されないか ぎり、現役は山に行けなかった。したがって米山が、そういう性格の監督である以上、計画に 対するチェックやアドバイスは、ヘッドコーチ以下の若手 O に委ねられた。 そうしたことをすべて承知で引き受けた監督職であったが、米山にとっての監督就任は、得 がたい人生の転機でもあった。 米山自身の回顧によれば、監督就任から遠征にいたる三年間は「自分もクラブも、高揚 していた時期だった」という。自身の側から言えば、それまで仕事一筋に生きてきた人生が、 監督就任によって「仕事以外の目標ができた人生に変わった」。四十代半ばの、しがらみにがん じがらめにされた人生と比べれば、それは「同僚にもうらやましがられた」変化だった。 米山はこのころ、はたから見ても生き生きとしていた。 151
督 監 も、そもそもリ 1 ダ 1 自らが、自問自答して考えることではなかろ、つか この意味でリーダーのを見てみると、あくまで結果から判断することだが、はパーティ が清水平に達したとき、まだ十分に行動時間がありなから、安全な幕営態勢を確保しようとせ 1 ティの二名が死んだあと、たっ ず、半端な半雪洞を掘っている。しかも雪洞が崩れ落ち、 た一晩のビバークにも耐えられずに、自らも命を落としている。この二点の事実からだけでも、 おそらくは、事の次第に気が動転してしまい、初めて経験するような吹雪と、二人を死なせ てしまったことへの自責の念から、ある意味で、自ら死を選択するような形でカ尽きていった のではないかと推測できる。の行動の痕跡には「なにがなんでも生還してやる」という強い 意志はうかかえない つまりには、あくまで結果論に過ぎないが、悪天候に対する対処能力 も、生死の極限を生き残る力も、なかったということだ。 ここで一一一口う。私は東洋大学山岳部のである。冒頭に記述した「バカタレどもが」とロ走 った本人である。私はとは、彼が二年生のときに、一週間の山行をともにした。私から見た は、一言でいえば稀に見るいいやつだった。感受性豊かで、すれたところの一つもない、ク ソまじめすぎるほどの、驚くほど気のやさしい好青年だった。間違いなく好きになれるやつだ った。だがそんなの、男としてはやさしすぎる性格が、私には少なからす気がかりだった。 いざ生死の局面に立たされたとき、しぶとく生き抜く力がはたしてこの男にあるのだろうか 163
督 監 していた。 こうした基本的姿勢ばかりでなく、計画の立案そのものや、計画遂行能力にも大きな疑問符 かついた 山岳部では通常、リー ダーを引き継いだ春の段階で積雪期の年度目標を決めており、その目 標とするル 1 トを分析したうえで、無雪期に行う訓練合宿を組み立てていた。つまり、目標が 未知のルートであれば残雪期に事前にトレースし、登攀性の高いルートであれば岩を登り込み、 体力勝負のルートであれば徹底的に体を鍛えて臨むのが、東洋大学山岳部がとってきた山の方 法論だった。だがこの代の三年生に、そうした明確な年度目標はなく、冬山合宿も、十月にな ってやっとルートが決まるという状態で、準備不足は、火を見るより明らかだった。 一方で計画遂行能力を見てみると、主将がいるといないとでは、パ ーティの実力が大幅にレ ベルダウンした。 この代の三年生三名を見てみると、山の力量では主将がひとりす抜けていて、あとの二名と は明らかに力量の差があった。しかも主将を含めて、彼らは初めて冬山でリーダーを務める三 からさわ 年生であり、過去の積雪期において、涸沢岳西尾根、槍ガ岳東鎌尾根、剱岳早月尾根、同源治 郎尾根のトレース経験はあったものの、 ーダーとして本当の判断力が試される「荒れた冬山 の経験」は、ないに等しかった。 はやっき 159
またクラブの側を見てみると、東洋大学山岳部は八〇年以降、メルー ( 八〇年 ) 、ユクシン・ ガルダン・サール ( 八四年 ) 、ヌン ( 八六年 ) 、 ( 八七年 ) と、着実に海外遠征を重ねてい た。ましてや遠征は、アルピニズムを標榜する部として、創部三十周年目にして「いよい よ八〇〇〇メ 1 トル峰へ」という機運が盛り上がっている時期だった。 なかでも米山が、監督に就任したことで得た最大の収穫は、ヌン遠征に参加できたことだっ た。大学卒業後、仕事一筋に生きてきた米山にとって、ヌン峰遠征は「もうあきらめていた」 ヒマラヤの夢を実現させてくれた。このとき米山がどれほど高揚していたかは、ほば二カ月の 休暇を取得するために、甘んじて会社から受けた叱責に見て取れる 「 ( 中間管理職でありながら ) 職場放棄だとか、人間のクズだとまで言われたんだ」 それでも米山は、再び目覚めた山を選んだ。 こうした密な現役との接触のなかで、米山には通常の監督にはない感情が育っていった。そ れは、二十歳前後の現役学生に対する、疑似的な父親の感情だった。 「 ( 監督就任は ) 言ってみれば突然、自分に子供ができたような感じだった。監督といったって、 俺は山の助言はできないのに、それでも現役がしよっちゅう、ささいなことでも電話をよこす んだ。こんな俺でも、なにくれとなく頼ってくれるあいつらを見ていると、かわいいんだな 自分に子供がいなくて、それでわが子ほども年の違う連中と付き合っていると、あいつらが、 152