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検索対象: 死者は還らず : 山岳遭難の現実
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1. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

督 監 も、そもそもリ 1 ダ 1 自らが、自問自答して考えることではなかろ、つか この意味でリーダーのを見てみると、あくまで結果から判断することだが、はパーティ が清水平に達したとき、まだ十分に行動時間がありなから、安全な幕営態勢を確保しようとせ 1 ティの二名が死んだあと、たっ ず、半端な半雪洞を掘っている。しかも雪洞が崩れ落ち、 た一晩のビバークにも耐えられずに、自らも命を落としている。この二点の事実からだけでも、 おそらくは、事の次第に気が動転してしまい、初めて経験するような吹雪と、二人を死なせ てしまったことへの自責の念から、ある意味で、自ら死を選択するような形でカ尽きていった のではないかと推測できる。の行動の痕跡には「なにがなんでも生還してやる」という強い 意志はうかかえない つまりには、あくまで結果論に過ぎないが、悪天候に対する対処能力 も、生死の極限を生き残る力も、なかったということだ。 ここで一一一口う。私は東洋大学山岳部のである。冒頭に記述した「バカタレどもが」とロ走 った本人である。私はとは、彼が二年生のときに、一週間の山行をともにした。私から見た は、一言でいえば稀に見るいいやつだった。感受性豊かで、すれたところの一つもない、ク ソまじめすぎるほどの、驚くほど気のやさしい好青年だった。間違いなく好きになれるやつだ った。だがそんなの、男としてはやさしすぎる性格が、私には少なからす気がかりだった。 いざ生死の局面に立たされたとき、しぶとく生き抜く力がはたしてこの男にあるのだろうか 163

2. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

まだ二十七歳に過ぎない青年の、読売新聞記者というエリートの男の奥底に、癒しがたい挫 折感があることを、私はかいま見る思いがした。 そんな冨田を、誰が責められようか 根室を発つ日。空は一片の雲もなく晴れ上がり、雪景色はどこまでも凍てていた。空港に向 かうバスのなかで、車窓に映る道東の冬を眺めながら、私はひとり考えていた。 おそらく彼は、今後ともひとりで悶々と悩み続け、遺族に対しても、なんら行動は起こさな いだろう。事態は何も変わらす、ただ時だけが過ぎていき、軋轢は軋轢のまま残っていくこと だろう。だがそれはそれで、しかたがないのではないのかと それが現実であり、ありのままの人間の姿であってみれば :

3. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

「いまさら蒸し返したところで : : : いったい何になる」 おそらくこの思いは、電話の向こうの相手も同じだったに違いない 一九九一年十二月二十八日、厳寒の北海道利尻岳。その事故は、頂上から東に派生する東稜 上一五一〇メ 1 トル地点の三角岩峰基部で、突然起きた。東稜は、頂上に向かって一四六〇メ ートルの鬼脇山を過ぎたあと、両側がスッパリ切れ落ちたナイフェッジになっており、三角岩 峰にたどり着いて初めて、ゆっくり休めるスペースがあった。この日午前九時過ぎ、六畳ほど の安定した雪の台地に、二人の明治大学山岳部員が立っていた。 二人が三角岩峰にたどり着いたころ、周囲は早朝の好天とうってかわって、深いガスに包ま れ始めていた。天候の悪化を知った二人は、三角岩峰に一ピッチフィックス工作をしたのち、 早めに一一〇〇メートル地点においた第一キャンプ (0—) に帰幕しようと準備に取りかかっ その直後、まったく予想もしていなかった事故が発生した。 二人が乗っていた雪の台地が、突然崩れ落ちた。そこは誰もが予想し得なかった、巨大な雪 庇であった。崩壊のせつな、岩峰基部に立っていた三年生が「あ尸と一瞬驚きの声をあげ、 その声に振り向いた、雪庇が大きく張り出した沢側に立っていた四年生の主将は、後輩と目を

4. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

督 監 長き一週間 最終下山日の一月六日を過ぎても、ついに現役からの連絡はなかった。 こうして、関係者にとっては身を切られるような捜索活動が、始まった。 一九八九年一月、冬山合宿で北アルプス白馬岳方面に入山していた東洋大学山岳部三名パ ティ ( 三年生二名、一年生一名 ) は、最終下山日の一月六日を過ぎても下山せず、消息不明の とっさか まま遭難したと見なされた。計画では、黒部川から長大な距離を後立山連峰に突き上げる突坂 尾根をへて白馬岳に登り、その後、杓子尾根を下降して長野県側に下山する予定であった。遭 難したと判断された段階で、彼らの入山以降の行動を知る無線連絡などは残っておらず、彼ら 監督 143

5. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

母親は言、つ。 「息子 ( の遺体 ) を見て、自分の目で確認して初めて、その死を認めた。でも納得はできない ( 事故から八年経っても ) いまだに納得できない 息子がいなくなっても、『居たんだ』という事実のほうが重い。普通の人から見たら、息子は もう居ないのだろうが、自分の気持ちのなかでは、今でもずっと居るようだ。 なぜ長生きしてしまったんだろうと思う。この先もう楽しいことは何もないと落ち込んでし まう。わたしがしつかりしていなかったから、こうなったんだ ( 息子が死んでしまったんだ ) 。息子は、まだ子供のまま死んで と思ってしま、つ。息子には、恋人もいなかっただろ、つし : しまった。 まだ小さい子供が、みんなについていっちゃって。自分の力も知らないで : : : 」 父親は田 5 いを吐く 「危険が魅力だという、山登りの本質論は、子供を遭難させ、その苦しみを経験したことのな 。これだけ科学が発達しているのだから、 い人間の考えだ。自力下山など、建前論に過ぎない なぜ山のなかと連絡がとれないのか。下山日が過ぎる前に、なぜ何らかの対処ができないのか 親の立場からすれば、山登りなど人生の一ステップでしかない。それを考えれは、万全の安全 を確保して行くべきではないのか」 202

6. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

三月二日。ディンポチェ。「昨日は昼にビールを飲み、これまでの寝不足を解消した。しかし ディナーで、シェルバとチャン ( 地酒 ) をいい気になって飲み過ぎてしまい、二日酔いで頭が 痛く、足もだるく、これまでの最悪のコンディション」「高度のあるところでは、飲み過ぎは最 悪のケースと納得した」 ビールとチャンが、悪化する体調に火に油を注いだかたちとなった。この日はいったん下山 を開始したが、 あまりの体調の悪さに、宿に引き返した。 三月三日。ディンポチェ停滞。かなり乱れた文字で「今日もせきで寝られす、調子は悪い。 もちろん 勿亠咄、昨日よりいくらかは・長いか : : : 」 三月四日 。パンポチェ。日記は行動時間の記録のみに終始。筆跡はいっそう乱れがひどい 三月五日。プンキ。おそらく行動した時間なのだろうが、まるで二、三歳児が書いたような 乱れた数字を最後に、絶筆。 死 の 日記には「高度の影響」「寝不足」「風邪」といった記述は散見できるが、ついぞ″高山病〃 カ の文字は一言もない レ おそらく加藤は、ゴーキョ谷の往復で風邪と高度障害により体調を崩し、そのままカラ・ 独 単タール行きを強行したため、ついには肺水腫に侵されたようである。そんな状況でありながら、 あ それでもなお「これまでの寝不足を解消した」と書くあたりの体調認識が、今となっては切な 179

7. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

になっていった。風は一定方向からだけではなく、あらゆる方向から吹きつけた。この間、個 人装備を集めた饗庭のザックが風に流され″命の綱″非常食が失われた。 ークがどんな 極寒の烈風下、しかも三〇〇〇メートルの稜線で、ツェルト一枚で過ごすビバ に苛酷なものなのか。私には苦い経験がある。あれは大学二年の十一月、冬山合宿を直前に控 えた富士山合宿でのことだった。頂上でのビバ ーク訓練中、ツェルトが張り綱ごと吹き飛ばさ れ、拳大の石が飛び交うプリザード ( 地吹雪 ) のなかを、薄っぺらな袋にすぎないシュラフカ ー一枚で翌朝まで耐えていた。その結果、私を含めて三名が重度の凍傷を負い、うち二名が 入院、さらにそのうち一名が、右足指五本をすべて切断するという事態を経験した。 思えばあのとき、ますツェルトの入り口ファスナーが風にちぎられ、押さえても押さえても、 すさまじい烈風がなかに吹き込んだ。吹き込む風雪が容赦なく顔を刺し、入り口を押さえる手 をたちまち凍らせた。そして、入り口を押さえるのに必死になっているうちに、脱いだ登山靴 を含めて所持品の一切が、雪に埋もれた。ヘッドランプを点けてはみても、烈風と粉雪で何も 見えす、濡れた靴下を履き替えようにも、ザックがどこにあるのかさえ分からなかった。 ず烈風にしだかれるツェルトが、こん棒ででもたたかれているようにバタバタうなり続けた。 知烈風そのものよりも、ツェルトのバタつく音が気を動転させた。濡れた足先がズキズキ痛み、 剱 しだいに感覚がなくなり、ついには木片のように硬くなっていった。それでもなお、シュラフ

8. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

であ 0 たように、加藤の人生は、仕事と会社に費やされた。ただそんななかでも、山好きの性 格だけは変わることかなかった。 妻の智恵子には、忘れられない思い出がある。娘が一歳半のとき、若い夫婦は乳飲み子を連 れて、十月の奥穂高岳に登山した。涸沢の山小屋で「こんなち 0 ちゃな子が来たのは初めてだ」 と驚かれ、奥穂に登 0 たその日は、くしくも十月十日、東京オリンピックが開幕した日であ 0 全山が真っ赤に染まった涸沢に、初雪が降っていた。 仕事は確かに忙しか 0 たが、加藤は自分なりに山を続けていた。結婚以来、腕立て伏せと腹 筋をほとんど毎晩欠かさず続け、ビールは好きだ 0 たが、中年を過ぎても体型が崩れることは なか 0 た。また暇を見つけては、会社の同僚と山スキーなどに出かけ、五十歳を過ぎてからは、 母校の恒例とな 0 ている五月の白馬山行にも毎年のように顔を出した。 妻の智恵子によれば「俺は登るしか能がない。歩くしか能がないとよく口にしていたとい う。それでも山に行くとなると「体全体が嬉しそうだ 0 た」。日ごろから山の本をよく読み、テ レビの登山関連番組は欠かさず見て、「山に行 0 てきたときや、山の友人と話してきたときは、 目の輝きが違 0 ていた」。山をこよなく愛し、しかし日常生活では「疲れたとか、しんどいとか、 ひと 絶対に言わない忍耐強い夫。だ 0 た。「どんなにひどい風邪をひいても、『大丈夫』の一言です 172

9. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

「死んだ後輩のことは、この五年間、一日たりとも忘れたことがありません」 重い言葉であった。そのうえ思いつめた響きをもっていた。事故から五年が経ち、人々の記 憶の風化とともに相手の心も和らいでいるかと思えたが、それは門外漢である私の、甘い期待 に過ぎなかった。 「やはり電話するべきではなかったか」 日「この遭難は取り上げるべきではなかったか」 の事故の背景に、遺族との癒しがたい軋轢がある特異な事例であるだけに、私はそのとき、最 空 、一 ) 0 っ 0 もつらい立場にあるただ一人の当事者に、取材申し込みの電話を入れたことを、しばし悔しオ 空白の一日 あつれき

10. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

があるはすの、技術と知識と経験の蓄積があるはずである。しかしその蓄積が、正しく個人に 、いかに会員数を誇ろうと 伝わらなければ、組織は有名無実である。いかに伝統があろうとも も、「実 . のない組織など、ただの烏合の衆に過ぎない 新潟山岳会をいちはやく退会し、のちに新潟稜友会会長となった精鋭たちの中心人物、金子 直夫は、自戒を込めて、その月報『稜友』に次のように書く。私はこの一言が、残された者へ の教訓として、重い意味をもっと考える 「俺は、あなた ( 岩本 ) に対して、精一杯のことをしてきたんだろうか : : : 」 この遭難は″岩本の個人的ミス″で片づけられていい問題なのだろうか 142