女性の目もとから、次から次と何かがわき出ていた。まばたきだと思ったのは、腐敗してえ ぐれた眼窩から落ちているウジだった。ウジがポトボト、目の穴から這い出していた。 死後一カ月。年齢三十歳。道迷いの果ての悲しい最期であった。 富山県警の資料によると、富山県下の山岳地帯には、昭和三十年以降だけでも、いまだに発 見されていない行方不明者の遺体が六十体も眠っている。そのうち何体かは、すでに海に流さ れ、あるいは朽ちて土に帰っているのかもしれないが、今なお数十もの遺体が、藪や岩陰のど こかに横たわっているのかと想像すると、ある種の戦を覚えすにはいられない 行方不明者のほとんどが、道迷いによる遭難死だといっても過言ではない。現実に、富山県 警が詳細な記録を取り始めた過去二十年間の統計を見てみても、行方不明事故発生件数一七八 件、遭難者数一一六一一名のうち、道迷いによる遭難者が、二一一人と圧倒的多数を占めている。 さらにこのうち、死者・行方不明者は全体の三〇 % 近くを占める七十六人に上り、すなわち、 道迷いをした登山者の約三人に一人が、そのまま帰らぬ人となっているのである 加えて道迷いほど、遭難場所が特定できないために捜索が困難を極め、大がかりな日数と人 員と費用がかかり、不幸にして生還できなかった場合は、遺体さえも見つからない場合が多い 遭難もない
はなかったか。惜しむらくは、数はきわめて少ないとはいえ、高山病で死亡する中高年トレッ カ 1 が現実にいることを、自分の年齢をかえりみて、身近な危険としてとらえられなかったこ とではなかったか。 無念ではあったろう。だがしかし、異国の地で、苦しみの果てに孤独な死を迎えることもま た″山〃がもっ非情な現実である 加藤の遺体はその後、加島らの手によって、ヘリでの搬出にそなえてテシンガまで運び上げ られた。幸運にもこの日、日本大学工べレスト遠征隊がロッジの前を通りかかり、日大隊の迅 速な連絡によって、関係諸機関への手配は短時間ですまされた。ただし、連絡のため日大隊が 去ったあと、ナムチェ方面からポリスと軍人が事後処理に上がってきたが、加島の記憶によれ ば、ポリスと軍人は「自分たちは遺体搬出はできない」と言って、一切手出しをしなかった。 死 のやむなく加島は、ポーターやサーダーに手伝ってもらい、搬出のための担架を丸太とシュラフ カ カハーで作り、テシンガまで遺体を担ぎ上げた。 レ テシンガでの夜。プンキとは比べものにならないきれいなロッジがあったが、ロッジの責任 独 単者は、遺体をなかに置くことを嫌がった。そのため加島は、遺体を外に置かざるを得ず、たき あ 火を絶やさないようにして、一晩中遺体に付き添った。 183
渦 一息で、遺体が救助隊が待っテラスに届くという距離まで浮かび上がったことがあった。しか し運悪く、その直前に鉤が外れ、遺体は再び流れの中に没した。 と、そのとき、それを見た横山隊員は「今ならっかめる」と、大急ぎでライフジャケットを 身につけて釜に飛び込んだ。 「ジャンプ一番飛び込んで、最初に水中で目を開けたその瞬間、ものの一メ 1 トルほど先に、 遭難者がこちらを向いて浮いていたんです。両手を肩のあたりまで挙げて、髪の毛がユラュラ 逆立っていて、思わず『ドキッ』と心臓が凍りつくかと思うほど、怖い光景でした」 一瞬たじろいだために、横山隊員は遺体をつかみそこねた。すると遺体は、まるで生きてい るかのように、ゆっくりと頭から反転して、渦の流れに沿って、再び元の位置まで吸い込まれ 一定の流れがあることを示していた。 ていった。その様子は、まさにたゆたう水中の空間に、 それでも横山隊員は、意を決して遺体を追いかけて抜き手をかいた。そして、遺体が釜の底 に張りついている真上に来たとき、突然、垂直に引きずり込まれた。 「胴をつかまれて、体ごともって行かれるようなすごい引きなんです。引き込まれる範囲はご く狭いのですが、そこにいったんはまってしまうと『ズボズボッ』と垂直に引き込まれてしま う。先輩隊員から、こういうことはよくあることだと聞かされてはいましたが、いざ実際に体 験してみると、本当に恐ろしい引きでした」 109
督 監 けていた。自分のものではないピッケルを手にしていた。登山靴は履いていたが、スパッツ、 アイゼンは着けていなかった ) などから判断すると、三名は清水平に達したあと、年末・年始 に吹き荒れた強風にテントごと飛ばされ、おそらく柳又谷に落ちたと思われた。しかしその後、 奇跡的にだけが脱出し、救助を求めて稜線に這い上がったが、そこでカ尽きたと。遺体の状 況は、突発的なアクシデントに見舞われ、かなり慌てていたことを示していた。しかも、ひ とりの遺体を残して一切の遺留品が稜線上に見つからないことから、この分析は「ほば結論だ ろう」と関係者一同に受け止められた。 それでも捜索は一月十六日まで続けられた。この間、の遺体は郷里の北海道に移送され、 十三日に通夜、十四日に告別式が行われた。米山は立場上、残る二家族とともに、十六日まで 現地黒部にとどまった。 の遺体搬送に関して、米山には痛恨の思い出がある 君の遺体を霊柩車で運ぶのに、費用を全額こちらで出せなかったん 「情けない話なんだが、 手持ちの金が二百万ぐらいしかなくて、この先 だ。確か五十万ぐらいかかったと思うんだが、 いくらかかるか不安だったので、君の親父さんに『山岳部で半分もちますから』と言ったん だ。遺体に泣きすがるご家族に、金の話を持ち出したんだ。あんな場で、金の話をな : さらに米山は、現地に詰めていた一月九日から十六日までの一週間の心境を、こう覚えてい 149
れなかった。この間の十日には、下山予定ルートである長野県側の杓子尾根にも、山岳部 三名が別働捜索隊として投入された。 じりじりして進行状況を見守る大学側対策本部、そして現地に九日から入った関係者一同と いちる もに、この時点ではまだ「一縷の望み」をつないでいた。 しよ、つす 一月十一日、午前九時過ぎ。突坂尾根上の清水岳 ( 二六〇三メートル ) 付近を捜索していた 県警ヘリが、清水岳頂上から白馬岳方面に続く広大な清水平の東端で、遺体らしき赤い点を発 見した。その報を受けて急遽、突坂尾根上一三〇〇メートル付近を登高していた地上捜索隊員 がピストン輸送で現地に運ばれ、その赤い点が、三名パーティのチーフリーダー・ ( 二一 ) の 遺体であることが確認された。遺体は雪面にうつ伏せになり、あたかもその無念さを示すよう 、合宿の目的地であった白馬岳方向を向いていた。 の遺体はその後、一人がヘリに同乗して昼過ぎに黒部警察署に到着。型どおりの検死 をすませたあと、警察署内の遺体安置所に安置された。残る捜索隊員は、引き続き二名の捜索 に全力をあげるため、清水平にとどまった。 遺体発見の第一報を、監督の米山英三は、黒部警察署内の控室で聞かされた。 「今でもはっきり覚えている。警察側責任者の係長が、ものすごく興奮して控室に飛び込んで きて、『一名、見つかりました』と言ったんだ。係長は、とにかく興奮していた。それを聞いて 146
万か一の期待と、もうだめだろうというあきらめと、でも見たくないという矛盾した思いか、 日々、心のなかで揺れ動いた 息子が発見されたのは、半年後だった。 遺体発見の日、その日は朝から晴れ上がり、「ピカピカしたような天気の」日曜日だった。 夫婦は買い物に出かけ、「今日はすごくいい天気だから、見つかるかもしれないわね」「このま ま現地まで行きたいね」と話し合った。そう話し合ったすぐあとに、はかったように遺体発見 の電話があったので、「それほど驚きはなかった」。だが反面、「ついに来るべきものが来た」と も思い、と同時に「これでもう、 ( 遺体発見に全力を挙げてくれた ) 皆さんに、迷惑をかけずに 終わったな」と夫婦はなぜか「ホッとした」。 自宅そばからは、緑濃い丹沢の山々が見えていた。 遺骨をもち帰った日、自宅に着くと、父親は椅子に座る元気がなく、床にヘタリ込んだ。母 ち 親は、ただただ泣けてきて、何もできなかった。コンビニエンスストアで買ってきておいたオ 者 ニギリを、冷たく食べた さ 残「これで、この家から男の子がいなくなった」と初めて実感した。 悲しみというよりも、それはたとえようのない「虚しさ」だった。 族 201
俺は、悲観的な考え方かほとんどだったが、『やつばりだめだったか』とまず思った。それと同 時に、『これで終わったな』とも思い、ひとつの区切りがついたようにも感じていた。『終わっ たな』『あとの二人も、もうすぐ見つかるだろう』とな」 よ、つ しかし、すぐに発見されていいはずの残る二名は、杳として見つからなかった。 同じころ、遺体発見の報を聞いた在京本部では、ただちに事の次第を三名の家族に連絡。大 学関係者、山岳部が付き添って、三名の家族は列車で黒部警察署に急行した。 家族の黒部駅到着は夕方ごろ。出迎えには米山と一人がおもむいた。 「今にして思えば、あのときがいちばんつらかった。合わせる顔がなくて。言葉がなくて : 今でも思い出すのは、まだ発見されていない君の親父さんが、真っ先に言った一言だ。はっ きりまだ耳にこびりついている。俺の顔を見るなり、すがるような顔つきで、親父さんはこう 言ったんだ。『米山さん、アウトですか ? セーフですか ? 』」 だが米山に、返す言葉はなかった。 一名の遺体は発見されたものの、残る二名の姿はどこにもなかった。その後の捜索で、猫又 山から清水岳まで三名のものと思われるトレースが確認されたことから、東洋大パーティは、 清水岳に達したあと、なんらかのアクシデントに見舞われたと推測された。とくにの遺体発 見状況 ( コンロを胸ポケットに入れていた。まだコンロは熱かったらしくボケットの一部が溶 148
がなかったので、具体的にどうなるのか、実感がなかった」と。 ならばなぜ、もっと用心深くならなかったのかそれ以前に本能が、なぜ危険信号を発しな かったのか。椎名と話していると、彼らの身につけた山登りが、あまりに脆弱に思えた。 <0 の椎名、ルート工作隊の饗庭、目片とも、二つ玉低気圧への正確な認識をもたなかった ークを余儀なくされた。 結果、ルート工作隊は深入りし、引き返し時刻が遅れ、烈風地獄のビバ ークに入ってもなお、工作隊リーダーの饗庭が「この程度のビハ 1 クに非常用セットを使 うまでもない」と言い切った状况認識の甘さが、今となっては切なく悲しい。それにしても、 なぜ饗庭はツェルトではなく、雪洞を掘らなかったのか掘って掘れない場所でなかったこと は、藤井が翌日、三人分の雪洞を掘っていることからも明らかなのに。 藤井によれば「饗庭さんと目片さんは、始めは雪洞を掘ろうとしたのだと思う。でもバケッ を掘っていて、ハイマツが出てきたために、あきらめたのだと思う」という。ビバーク地点が、 すぐハイマツが出る場所だったことは、遺体捜索時、実際に現場を掘ってみた遠藤監督も認め ている。しかし、ビハ ーク決定時点で天候は相当に荒れており、これからより厳しくなる夜を ず迎えることを考えれば、日没は迫っていたにせよ、なにがなんでも雪洞を掘ってしかるべきで 、り 知はなかったか。ツェルト一枚で吹雪に耐える苛酷さと、どんなに外は吹雪いても中は快適な雪 洞の差を認識していれば、たとえ深夜になろうとも、雪洞を選択するのがリ 1 ダーの判断では
まえがき それはある年の、十一月下旬のことだった。二人の女性登山者が、軽装を心配した山小屋の 主人が止めるのを振り切って、うっすらと雪化粧した谷を下って行った。二人が出発したとき、 空はまだ気持ちのよいほどに晴れあがっていて、見はるかす一二〇〇〇メートルの初冬の山々は、 まばゆいばかりに輝いていた だがその後山の天気は急変した。一気に冬になり、吹雪が終日吹き荒れた。それでもなお二 人は、目的地の山小屋をめざしていった。 三日後ーー。予定の下山日を過ぎても二人は山から下りてこなかった。ただちに捜索隊が組 織され、同じく救助ヘリコプターが現地に飛んだ。 とある大きな岩のそばで、一人の遺体はすぐに見つかった。だがもう一人は、そばにいてい いはずの連れの女性の姿が、付近のどこにも見当たらなかった。しばらくして、遺体発見現場 からひと山越えた、斜面が大きく雪崩れた沢のなかほどに、ポツンとその女性登山者はいた。 ま、えがき
り・のメンハ ー二人の足取りさえっかめなかった。夫婦は、日に日に追いつめられていったが、 それでも、息子の生存を信じて日を待った。 「遺体が発見されない以上、五 % でも一 % でも可能性がある。生きていてほしい」 「なんとしても、遺体ではなく、生きて救い出してほしい」 「最悪の場合、手足、片足なくてもいいから、命だけは助かってほしい」 「もし代われるものなら、自分の命に代えても : : : 」 何の成果もなく宿に引き揚げるたび、「いよいよ明日だね。明日はきっと見つかるね」と夫婦 は言い合った。お互い間違っても「死」はロにできなかった。 捜索が打ち切られるまでの一週間、夫婦は、さまざまな思いにとらわれた。 母親は「自分はもう、息子の人生を生きてしまった」と思った。「なんでわたしは、こんな に長生きしたんだろう」と悔いた。「母親として、息子を成人させられなかった」と自分を責 ち ためた。 父親は「家族に何かあったら、自分がすべて処理しなければならないと思っていたのに、 れ さ 残 ( 山に関してはまったく素人なので ) 何もできない。何も分からない。かえって迷惑をかける だけだ。父親として、子供に対して何もしてやれないことが、無念でしかたがない」と思って 族 いた。だから父親は「せめて親として何かしたい」と考えて、あれほど好きだった酒をきつば 199