遺族 - みる会図書館


検索対象: 死者は還らず : 山岳遭難の現実
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1. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

まま、故人の死を悔やみ続けることとは、その空しさにおいて明らかに違うはすである。悔や み続けることは、なお生き続けなければならない人間にとって、あまりに不幸なことではなか ろ、つ、か せめて、死の経過だけは、包み隠さす伝えるべきではなかろうか : 組織が遺族に対して、事実経過をありのままに伝えなかったがために軋轢を招いた明治大学 山岳部。この遺族は、私の取材申し込みに対して「あなたに話すことは何もない」と語気を荒 げて電話を切った。 剱岳別山尾根で、三名の現役学生を死なせた早稲田大学山岳部は、「家族への取材は、一切や めてもらいたいーと私に告げた。 書けなかった遺族は、ほかにもいる べっさん 0 あつれき 0

2. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

ひとつの遭難の陰には、いったいいくつの悲しみがあるのだろうか。肉親の突然の死を告げ られたとき、家族はどのようにその死を受け入れるのだろうか最愛の人間を山で失う事態と は、はたしてどういうことなのか残された者の心情にもまた、遭難の一面の真実があるので はなかろ、つか : そんな思いにとらわれて、これまでに取材した遭難者の遺族を、あらためて訪ね歩いた。 夫を亡くした妻 夫がネパールに旅立ったとき、妻は坂道の上から夫を見送った。家から駅の方向まで、道は ゆるい下り坂になっていて、夫はその坂道を、旅支度をつめたザックを背負い、「大丈夫」「元 気に行ってくる」と言い残して下っていった。 遺族ー残された者たちの思い

3. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

感、あるいは吹雪が顔を刺す痛みやホワイトアウトの恐ろしさをーーー少しでも知っている人な らば、死は認められないながらも、「肉親がどういう場所で死んだのか」は、多少なりともイメ ージできる。だが山を知らない遺族にとっては、その実感さえもない。実感としての「なぜ死 んだのか」も、「どういう場所で死んだのか」も分からないまま、死の現実だけを突きつけられ る。 「分からない死」ほど、人間を苦しめるものはないのではなかろうか 深い悲しみとは別に、埋めようのない空白感を残すのではなかろうか : だからこそ遺族は、「経過のすべてを知りたい」と思うのかもしれない 一方で、故人の関係者である山仲間は、自らが山の経験者であるだけに、故人の死を、実感 としても現実としても「いたしかたなかった」と受け止めることができる。しかし反面、だか らこそ遺族の心情を、見落としている場合が少なくない自分たちが受け入れる仲間の死と、 ち 遺族が受け取る肉親の死との間にギャップがあることを、気づいていない場合が往々にしてあ 者 る。弔うより先に、遺族の空白感を埋める努力をすることが、山を知らない遺族に対する、第 さ 残一の死の儀式ではなかろうか 人の死は、一一一一口うまでもなく残された側の問題である。死者はもどらす、深い悲しみは変わら 族 ないにしても、残された者が、死を受け入れて故人の思い出に浸ることと、死を認識できない 205

4. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

もちろんその楽しさの背景に、常に生死の危険がっきまとう絶対矛盾があることを肝に銘じて 遭難の雑誌連載を通じて「遺族の心情を考えろ」というお叱りをたびたびいただいた。「遺族 の心情を考えて、批判的な記事は書くな」と。だが私は言いたい。「誰が遺族にしたのだ」と 「遺族を作ったのは何なのだ」と。「遺族にした責任は、誰が取るのだ」と。 私が思うに、遭難をタブー視する最大の要因は、この責任逃れの態度にあると考える。「遺族 の心情」を金科玉条に、自己防衛しか考えない人間の″あさましさ〃にあると考える。遭難と は、人が死ぬのである。人の死は、限りなく重い事実である。その事実から目を背けて、責任 者の結果責任も当事者の自己責任も問わないようでよ、、 ( しつまで経っても遭難につきまとう陰 湿さはなくならないと考える この意味から、遭難の当事者は実名で書くことを原則とした。どうしても関係者の承諾を得 られない場合のみ、イニシャルを用いた。原因が何であれ、遭難者自身にも自己責任はあると 考えたからである。また同じ意味で、敬称も省いた。私から見て、年上の方でも年下の方でも 同じあっかいにした。記事に統一性をもたせる意味で、関係者のあっかいも同様にした。取材 の段階で、これらの次第は関係者に了解を得て進めたつもりだが、私の真意がどこまでご理解 いただけたかは分からない。非礼のほどは、平にご容赦いただきたいと言うほかはない。 220

5. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

ルたらずの盛り上がりに姿を変えていた あらためて、自然の奥深さを思い知らされた。 二名の遺体が発見されるまでのこの間、山岳部内では遭難対策会議、事故究明委員会などが 二十回以上開かれ、二名の遺体発見後は、両家の葬儀、四十九日、納骨と、遭難発生からほば 十カ月が事後処理に費やされた。またその後も、事故報告書作成、慰霊祭、一周忌、追悼山行 と、プライベートな時間を遭難関係に割く日々が続いた 監督の米山英三は、それら遭難関連行事のうちただ一回、「君の四十九日だけは、精神的に 本当にまいっていたので」欠席したが、すべて欠かさず出席した。米山の当時のスケジュ 1 ル 表を見ると、遭難関連の行事以外にも、生命保険の請求手続、各方面への挨拶回り、連絡のや りとりなどの所用で、ひと月のほば半分以上が、山岳部関係でびっしり埋め尽くされている それからのちも、米山は機会を見ては遺族の郷里をたびたび訪れ、遭難関係の集まりがあれば 出席者を募るために奔走し、追悼山行は、自らが幹事となって、事故後七年間、毎年夏に現在 もなお続けている これが、三名もの犠牲者を出した最高責任者の「身の処し方ーであった。 そんな米山の姿を見て、山岳部関係者は様に、残る二名の発見が、くしくも米山自身によ ってなされたことを、こう回顧する 156

6. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

知りたい」と。その思いは、遺体を直接見た場合でもそうでない場合でも、生前の最後の姿を 見てから死を告げられるまでの時間の隔たりが大きくても小さくても、同じであった。 山での死には、生から死への過程が、ほっかり抜け落ちていた。 これが病死や交通事故死なら、故人の死の経緯に関与することで、多少なりとも実感として 受け止めることができる。たとえば病死なら、看病や見舞うことで死への過程を見届けること が可能だし、交通事故死なら、日ごろからその実態やニュ 1 スを見聞きしており、また自らハ ンドルを握ることで、スピードの恐ろしさを体感している。だから死が、寿命やあり得ること だったとして、少しは実感できるのではなかろうか だが山での死は、とりわけ山を知らない遺族にとっては、死を実感できる過程や予備知識が ない。過程がないままに、ある日突然最悪の結果を突きつけられるという事態は、たとえるな らば、それまで信じ切っていた人物に、ある日突然裏切られるようなショックではなかろうか 何の疑いももたない日常に、突然突きつけられる最後通牒。どうあがいても取り返しのつかな 理由なき宣告。山での死とは、そういうものではなかろうか頭から冷や水をぶつかけら れたような、血の気がすうつ 5 と引いていく、「まさかッとしか言いようのない心境ではなか ろ、つ , か それでも山をーー山に吹く風の冷たさや、むせかえる草いきれ、残雪の匂いや、岩壁の高度

7. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

そう思うと、初めて心の底から「信じられないほどの悲しさ」が襲ってきた。 夫をネパールのトレッキングで亡くした加藤智恵子 ( 六一 ) とは、ホテルの喫茶室で会った。取 材の直前に、妻は一周忌をかねて夫の知人たちとエベレスト街道を訪れており、夫が亡くなっ た場所の風景を眺めていた。それである程度、ヒマラヤがどんなところか自分の目で見ること ができ、「少しだけ気が安らいでいる」と静かに言った。 それでも妻は「すべてを知りたい。真実を逐一知りたい。主人がどんな経緯で亡くなったの か。最後の様子はどうだったのか」を、「ぜひ知りたいーと私に言った。直接の関係者でもない この私に、重ねてそう尋ねた。 私はそのとき、真実といえるほどの材料は持ち合わせていなかったが、それでも妻の「どん なことでも、 しいから知らせてほしいという切なる思いに押されて、一枚のコピーを手渡した。 そのコピ 1 には、夫が亡くなった前後の経緯が記されており、記録の一行に「 ( 遺体は ) シュラ フに入って地べたに寝せられている状態なので : : : 」という記述が含まれていた。日本の風習 からいって、遺族の心情を思うとき、見せるべきかどうかを、最後まで迷った資料だった。 それを受け取った妻は、表面上は冷静さを装いながらも、あらためて夫の死の悲しみを思い 起こしているようだった。コピーのせいばかりではなかったろうが、その後何度か、会話の途

8. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

督 監 けていた。自分のものではないピッケルを手にしていた。登山靴は履いていたが、スパッツ、 アイゼンは着けていなかった ) などから判断すると、三名は清水平に達したあと、年末・年始 に吹き荒れた強風にテントごと飛ばされ、おそらく柳又谷に落ちたと思われた。しかしその後、 奇跡的にだけが脱出し、救助を求めて稜線に這い上がったが、そこでカ尽きたと。遺体の状 況は、突発的なアクシデントに見舞われ、かなり慌てていたことを示していた。しかも、ひ とりの遺体を残して一切の遺留品が稜線上に見つからないことから、この分析は「ほば結論だ ろう」と関係者一同に受け止められた。 それでも捜索は一月十六日まで続けられた。この間、の遺体は郷里の北海道に移送され、 十三日に通夜、十四日に告別式が行われた。米山は立場上、残る二家族とともに、十六日まで 現地黒部にとどまった。 の遺体搬送に関して、米山には痛恨の思い出がある 君の遺体を霊柩車で運ぶのに、費用を全額こちらで出せなかったん 「情けない話なんだが、 手持ちの金が二百万ぐらいしかなくて、この先 だ。確か五十万ぐらいかかったと思うんだが、 いくらかかるか不安だったので、君の親父さんに『山岳部で半分もちますから』と言ったん だ。遺体に泣きすがるご家族に、金の話を持ち出したんだ。あんな場で、金の話をな : さらに米山は、現地に詰めていた一月九日から十六日までの一週間の心境を、こう覚えてい 149

9. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

俺は、悲観的な考え方かほとんどだったが、『やつばりだめだったか』とまず思った。それと同 時に、『これで終わったな』とも思い、ひとつの区切りがついたようにも感じていた。『終わっ たな』『あとの二人も、もうすぐ見つかるだろう』とな」 よ、つ しかし、すぐに発見されていいはずの残る二名は、杳として見つからなかった。 同じころ、遺体発見の報を聞いた在京本部では、ただちに事の次第を三名の家族に連絡。大 学関係者、山岳部が付き添って、三名の家族は列車で黒部警察署に急行した。 家族の黒部駅到着は夕方ごろ。出迎えには米山と一人がおもむいた。 「今にして思えば、あのときがいちばんつらかった。合わせる顔がなくて。言葉がなくて : 今でも思い出すのは、まだ発見されていない君の親父さんが、真っ先に言った一言だ。はっ きりまだ耳にこびりついている。俺の顔を見るなり、すがるような顔つきで、親父さんはこう 言ったんだ。『米山さん、アウトですか ? セーフですか ? 』」 だが米山に、返す言葉はなかった。 一名の遺体は発見されたものの、残る二名の姿はどこにもなかった。その後の捜索で、猫又 山から清水岳まで三名のものと思われるトレースが確認されたことから、東洋大パーティは、 清水岳に達したあと、なんらかのアクシデントに見舞われたと推測された。とくにの遺体発 見状況 ( コンロを胸ポケットに入れていた。まだコンロは熱かったらしくボケットの一部が溶 148

10. 死者は還らず : 山岳遭難の現実

なぜ、オッルミズへ 監督 ある単独トレッカーの死 遺族ーーー残された者たちの思い あとがき 208 119 166 186