慶応四年ー。 みぞう 東北、越後は未曽有の混乱にあった。 徳川幕府があえなく崩壊し、薩長は、怒濤のごとく江戸に進軍した。 「まさか」 東北、越後は、狼狽した。 京都守護職として、薩長と激しい死闘を繰り広げてきた会津藩は、朝敵の烙印を押され、奥羽 城 河越諸藩に会津追討の命令が出された。救会か討会か、奥羽越諸藩は揺れた。 闘孝明天皇の絶大な信を得、京都に君臨した会津兵は、固く城門を閉ざし、会津国境に兵を送 っこ 0 死闘白河城 らくいん
れるや、会津を目指して、潜行し、日光東照宮の僧侶たちも、戦禍を避けて、会津に入ってい た。 「輪王寺宮、海路、奥羽へ向う」 という知らせは、この僧侶たちからもたらされた。 但木は狂喜した。もはや、我々は賊軍ではない。輪王寺宮を推戴する正義の軍隊なのだ。西と 東の二つの国家が厳然として、この日本にある、という玉虫左太夫の理論が現実となるのだ。 但木の奇怪な笑いは、このことにあった。 「玉虫、予はこれで救われた」 但木は、こみ上げてくる笑いを禁じ得なかった。 会津藩主松平容保の喜びも、ひとしおだった。京都時代、あれほど朝廷に忠勤を尽し、孝明天 皇の絶大な信を得た容保は、一転して逆賊の首傀として糾弾されているのだ。 「天は予を見捨てはしない」 容保は、感激に打ち震えた。 京都時代、なぜか女性に恵まれず、単身帰国した容保は、会津に戻って二人の側室を得た。本 来ならば、しかるべき大名の息女が選ばれるべきだったが、戦時のさなかである。藩内から健康 で若い娘が、容保の身の回りを世話することになった。 「早く世継ぎを設けなければ」 106
梶原がいった。山川は黙っている。暫くして、 「殿の命はどうなる」 と、聞いた。 「これから土佐の板垣と交渉する。殿の命を保障するという寛典がなければ降伏はしない」 「拒否された場合は」 「全員。ここで死ぬ ! 」 山川の顔が歪んだ。梶原、山川はともに二十代の青年である。命は惜しくはない。だが無念だ ぎんき った。慙愧の涙があふれた。 この会津から京都にでて、六年、皇室のために死力を尽して奉公した。梶原、山川にとって、 会津こそが尊皇であり、正義であった。 「この期に及んで土佐に頭を下げるのは癪だが、板垣なら、会津藩の気持ちを少しは判ってくれ るだろう。土佐本営に使者をだす」 梶原がいった。 城中の空井戸は、戦死者の遺体であふれ、死臭に満ちている。鴉が孤城を舞っている。 涙 そのとき、秋月悌次郎が城に戻った。京都時代、会津に秋月あり、と知られた有能な外交官で の 愧ある。城外で戦っている萱野権兵衛の本営に米沢藩士松本誠蔵、山田六助が訪れ、土佐が会津藩 降伏のあっせんを申し出た、というのだ。 247
揮する大蔵であり、下の弟は後に東大総長となった健次郎である。末の妹は鹿鳴館の華といわれ すてまっ た捨松 ( 大山巌夫人 ) である。 梶原と二葉子は、家柄といい、頭脳の俊敏さといい、またとない夫婦に見えた。二葉子は、後 に東京女子高等師範学校の舎監となった才色兼備の女性である。しかし、梶原は江戸、京都生活 が長く、お互いに別居していたこともあって、夫婦の愛情という点では、心が通い合える場が少 よ、っこ。 梶原は会津藩の顔であり、花界の女性にも大いにもてた。なにしろ、まだ二十代後半の若さ である。いっしか、梶原の身辺を世話する女性ができたとしても不思議ではない。事実、梶原に は、ティという愛人がいた。 薩長を含めて、当時、各地で活躍した青年たちのラブロマンスは枚挙にいとまがない。明治政 府の高官夫人にも芸者の出身者は数多い。総理大臣の木戸孝夫人まっ、伊藤で夫人梅子らは その代表的なケースである。 ティは色白の美人であった。黒い髪をきれいに東ね、梶原にびったりと寄り添っている。女性 としては長身で、すらりとした姿が人眼を引いた。 「私はどこまでもあなたについて行きます」 命を賭けて梶原を愛した。あの戦乱の京都から江戸へ逃れ、この会津まで梶原を追って来たの 強い女だった。
り、その後、吉川忠行、忠安父子が跡を継ぎ、砲術所を設けて、一大勢力を決集していた。門人 たちはほとんど血気にはやる若者たちで、門閥重視の秋田藩政に不満をつのらせ、新たな改革を 画策していた。天皇の軍、薩長政府は、これら若者たちの心を把えた。仙台藩はここまでの読み 奥羽の大藩仙台藩が命令すれば、秋田はそれに従う外はよ、、 / レという過信があった。 「秋田に九条総督を迎えようとする不穏な空気がある」 という知らせが仙台に入ったのは、六月上旬のことである。沢副総督に続いて九条総督の秋田 入りを認め、庄内と敵対関係にあるというのだ。 会津藩にも庄内藩を通じて秋田離反の情報がもたらされた。秋田藩の軍事力を握る砲術所の浪 士たちが、こぞって薩長に傾むいている、というのだ。九条総督を仙台に留めておけば、こんな ことになるはずはなかったのだ。梶原平馬の怒りも、まさにこの点にあった。 奥羽越列藩同盟は、まだ確固たる意志で、結ばれてはいなかった。最大の問題は、薩長と総督 府は別、と考えていたことにあった。京都で苦闘した会津藩だけは、明確に総督府を薩長の傀儡 と見ていたが、仙台をはじめ東北の諸藩は、その意味が判らない。京都の事情を知っているつも りの但木でさえ、子供のように前山にだまされてしまったのだ。家臣の玉虫から責められ、会 津、米沢、庄内から抗議され、但木は、呻吟していた、 104
梶原の祈りは通じた。 さぶさわ 七月十二日、南部藩家老楢山佐渡が京都から仙台湾寒風沢に入った。京都にいた楢山は、反薩 長の意気に燃えて盛岡に戻る途中、仙台に立ち寄ったのだ。 南部藩の貴公子として育った楢山は、薩長の志士と相容れないものを持っていた。どてら姿の 西郷隆盛は、横柄な態度で、楢山に接し、岩倉具視は、秘かに楢山を招いて、 「薩長の野望はとどまるところを知らない。奥羽諸藩は決集して、薩長に当れ ! 」 と、告げた。岩倉一流の狡猾な耳打ちである。 楢山は仙台で仙台藩首席家老但木土佐と会った。 但木は、 「秋田は許せない。 南部藩の手で討伐してほしい」 と、要請した。 「判った」 楢山は、秋田攻撃を約東した。 ひょりみ どちらかといえば日和見主義の南部藩も秋田のやり方に憤怒した。もともと南部藩にも薩長に 対する怨みがあった。鳥羽、伏見の戦いで幕府、会津が敗れ、戦雲が奥羽越に広がるころ南部藩 首脳は、軍備の近代化を急いでいた。その手はじめに函館の英国商人デュースから三万両で蒸気 船を購入、「飛隼丸」と名づけ、南部産の荒銅や海産物を積み込んで大阪に向った。大阪で売り ならやま 134
会津藩燃ゆ関連年表 会津藩燃ゅ関連年表 事 西暦年号 八六一一文久一一年閏八月、松平容保、京都守護職に任ぜられる。 一八六三文久三年七月、松平容保、藩兵の馬揃えを天覧に供する。 八月、八 ・一八の政変。 一八六四元治元年七月、蛤御門の変。 八六六慶応一一年徳川慶喜、第十五代将軍となる。 一八六七慶応三年十月十三日、大政奉還。 十二月九日、王政復古。松平容保、京都守護職を解任される。 十二月一一十五日、庄内藩兵を先陣とする幕府軍、江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行なう。 一九六六慶応四年一月三日、鳥羽、伏見の戦い。 一月六日、松平容保、徳川慶喜と共に大阪城を脱出、翌七日、幕府軍艦開陽丸で大 阪湾を出港、江戸に向かう。 一月七日、薩長政府、徳川慶喜追討を布告。 一月十日、徳川慶喜及び会津・桑名両藩主以下二十七名の官位を取り上げる。 一月十一一日、徳川慶喜、松平容保ら江戸に上陸。 一月十五日、東北諸藩に対し、徳川慶喜追討令が出される。 一月十七日、仙台藩に会津征討が命ぜられる。 一一月四日、松平容保、退隠、恭順の意を表明。 * 日付はいずれも旧暦 項 259
出 の 命このころ会津藩軍事局は、仙台藩と共同で白河城の奪回作戦を練っていた。白河城の西軍を撃 破しなければ、奥羽越列藩同盟が掲げた江戸進攻はありえない。会津、仙台を主力とする四千の は、測り知れないものがあった。ティは、苦しむ梶原を愛しくおもった。そして、そばにいる ことを幸せだとおもった。 ( 私が梶原をささえている ) という女としての喜びがあった。 「夢か」 梶原は、ティを見た。切れ長の涼しい眼が、潤んでいる。美しく、甘い体臭があった。 梶原は、江戸や京都で何人かの女性に会った。だが、ティに会ったその瞬間にお互いの眼差が 燃えた。運命の出逢いであった。 梶原は、ティを抱き寄せた。 髪をなで、静かに唇を重ねる。 からだ 艶やかな肌、ふくら脛にすんなりと伸びたしなやかな躰。梶原は、ティを可愛いい、とおもっ こ 0 つや いとお まなぎし
人生には、必ず絶頂をきわめる瞬間がある。新潟にいる梶原平馬がそうだった。東北、越後の 指導者たちの注目を集め、この時期、東国を左右するニューリーダーの一人にのし上った。会津 武士という鉄の軍団を率い、シュネル兄弟を同盟軍の顧問に据え、薩長と戦っている梶原は、ま さにヒーローであった。狂暴な薩長に死を賭けて立ち向う、男の雄姿があった。梶原の柔軟な外 交力は、京都時代から頭角を現わしており、奥羽越列藩同盟の結成で、見事に開花したのであ る。会津藩の財政は火の車だが、酒田の本間家をはじめ、東北、越後の商人の間にも会津の梶原 の名前が知られるようになった。会津が勇猛果敢に戦っている限り、北部日本政権をつくろうと いう、東北、越後の獅子たちの夢と希望があった。 すべてが梶原の計算どおりに動いた。シュネル兄弟は、単なる死の商人ではない。東北、越後 北方は仁
、海軍士官として修学するが、オランダの農業や産業の開発を眼のあたりにし、期すところが あった。それだけではない。六年間のオランダ留学中、砲術、船具、運用、化学などを学んだだ けではなく、法律、経済、国際関係にも興味を示し、オランダ語は勿論、英語、ドイツ語も修得 した超一流の国際人であった。しかも激しい情熱家であり、企画立案に秀れたアイデアマンでも ある。 梶原は、榎本が奥羽越に深い同情を示していることを知っていた。半面、榎本ほどの人物が単 純に動くはずがないことも知っていた。しかし、榎本艦隊が品川にいることが奥羽越にとって、 希望の星であることに変わりはない。 梶原は海軍と聞くと、いまさらのように悔むことがあった。主君容保が京都守護職として京に 上る際、軍艦をチャーターして、江戸から大阪に向う案が検討された。梶原もこの案を主張した が、老臣たちに一蹴された。海は危険だ、というのだ。 ( あのとき、軍艦で上洛すれば、会津にも海軍ができていた ) 梶原はいまさらのように臍を噬んだ。 「シュネル殿、新潟を頼む」 梶原は、きっと越後の空を見た。 ほぞか