あとがき あとがき 私が会津藩に興味を持ったきっかけは、恩師である東北大学の豊田武教授 ( 故人 ) の勧めによ るものだった。豊田先生が、『会津若松史』の監修を引き受けられ、会津若松に来られたとき、 たまたま私は、新聞記者として、会津若松にいたのである。二十数年前のことだった。 「会津戦争をどう描くかは、実に難しい。学者の眼で書くと、必ずしも会津の心情にそぐわない 面もある。君はジャーナリストだから、会津人の心情を汲んだ会津戦争を書けるはずだ」 先生は、そうおっしやって、執筆の機会を与えてくださったのである。そして、当時、東大史 料編纂所におられた歴史家の小西四郎先生に私を紹介してくださり、私は小西先生の指導のもと に文献を読むことから始まった。以来、会津藩に興味と関心を持ち続け、何冊かの本を書いてみ たが、どうしても学会の定説や文献の羅列にこだわりがちで、会津人の心情までは、とても到達 できなかった。 今回、教育書籍編集部の田中博文氏の勧めで、二十年来の夢に挑戦したのだが、梶原平馬、河 井継之助、玉虫左太夫といった傑出した奥羽越の人物にめぐり会い、私の見た戊辰戦争を書くこ とができたのではないか、とおもっている。 数年前に、ライフワーク『会津士魂』に取り組まれている日本ペンクラブ理事、直木賞作家の 255
九条総督は、薩長政府が東北に仕掛けた巧妙な餌だった。仙台は、これを自家薬籠中のものと して、生かし切れず、逆に秋田が食いついて釣り上げられた。 薩長政府は、戦わずして秋田を東北の拠点として抑えた。九条道隆という「玉」を失った同盟 すべての人が願望した「玉」、それは孝 軍は、火急速やかに新しい「玉」を抱かねばならない。 明天皇の弟君 ( 仁孝天皇養子、伏見宮第九皇子 ) 、幼帝の叔父に当る輪王寺宮法現親王である。 これこそ、北部日本政権の帝であり、帝を抱くことによって同盟軍の兵士も官軍となるのだ。奥 羽越の盟主、仙台藩は、九条総督転陣の失策をカバーするため、必死に輪王寺宮の行方を探っ た。その一報は、会津藩からもたらされた。会津には、おびただしい人々が亡命している。薩長 に追われた旧幕府閣僚の板倉勝静、小笠原長行をはじめ、古屋作左衛門、大鳥圭介、土方歳三、 ただくに さらには長岡藩主牧野忠訓も家族を連れて会津若松に逃れていた。 向会津若松こそは、全藩をあげて薩長に立ち向う奥羽の牙城であり、天高くそびえる鶴ケ城は、 宮 い、このみちの いかなる敵をも一歩もよせつけない、巨大な要塞であった。江戸からはるかに遠 寺 けんそ 王くは、亡命者たちを安堵させるにふさわしい、山塊の奥にあり、特に会津若松は、険阻な幾つか ぎかん の峠を越さなければ、領内に入ることはできない。上野寛永寺の傑僧、覚王院義観も彰義隊が敗 みかど えさ 105
輪王寺宮下向 とき、輪王寺宮が会津にいれば、薩長とて、簡単に会津に攻め込むことはできない。全国にいる 旧幕府支援者は、この新しい天地に参集し、会津は文字どおり、東北の江戸となるのだ。 「それは無理だ」 仙台の横田官兵、米沢の片山仁一郎らは反対した。奥羽越列藩同盟の盟主は、仙台である。輪 王寺宮の落ち着く先は、仙台と決った。 六月十八日、輪王寺宮は、会津若松を立ち、米沢を経て、仙台に向った。 「仙台は名実ともに奥羽越の中心になる」 仙台藩首席家老但木土佐は、得意満面であった。 109
よるものだった。ただし、厳密にいえば、梶原平馬がどこでティに巡り会い、いっ正式に再婚し たか、ということは、たしかではない。私は京都で知り合ったのではないかと考え、会津戦争 中、ティは、会津若松にいたことにしたが、この部分は、私の推理である。私があえて、この仮 説を立てたのは、梶原平馬ならば、すべての面で真摯に人生を生きたのではないか、とおもった からである。また、夢敗れ、慟哭するなかで、ティの愛がどれほど梶原を助け、励ましたか、と 考えた方がより自然である、とおもいたかったのである。 明治以降における梶原平馬の生き方については、一人姿を消したという点で、批判的な見方も あるだろうが、私は、決してそうはおもわない。梶原平馬は、すべてのエネルギーをこの戦いに しせいじん 昇華させ、藩主容保の生活を見届けたあと、ティとともに一人の市井人として、残された人生を 歩んだのだとおもう。ある意味で繊細で純粋な男、梶原平馬が最高指導者であったという点でも 会津藩というものが一層魅力を増すのである。私は、いつの機会か、梶原平馬の後半の人生を追 ってみたい衝動にかられる。しかし、その必要はないという気もする。人間は栄誉だけではな 。内面的な充実のなかにこそ幸せがある、とおもうからである。 また、江戸で無念の死を遂げた神保修理の妻、神保雪子が西軍に捕われ、悲惨な死を遂げたこ がとを書いた。これについては異論もあるだろうが、史料的にもこの事実は以前から知られてお り、いわばタブーの一つだった。しかし、戦争はそうした残酷なものである。私はそう考えてこ 7 の事実を直視したのである。
死の海 この日、会津軍の戦死者四百六十余名、藩士家族の殉難した者二百三十余名、一般市民の犠牲 者は、数知れず、数千戸が焼失した。 会津若松は死臭に充ち、みじめな敗北に男たちは号泣した。 会津城下に西軍侵入の知らせは、またたく間に仙台、米沢に伝えられた。しかし、反応は冷た っこ 0 、刀キ / 仙台藩主戦派は、相次ぐ敗北の責任を負ってその職を追われ、恭順派の遠藤文七郎、大条孫三 郎が藩政を握っている。奥羽越列藩同盟の指導者但木土佐、玉虫左太夫は、顔色を失って、知ら せを聞いた。玉虫左太夫は、梶原との男の約東を果せなかった己の無力さに悄然とうなだれた。 この狂気の戦争に駆り立てたのは、薩長の理不尽な欲望であり、会津に対する私怨だったが、奥 羽越あげて決戦に及んだのは仙台藩の決断によるものだった。仙台が世良修蔵を斬り、奥羽越列 藩同盟の盟主の座につかなければ、あるいは、この戦いはなかったかも知れなかった。玉虫の胸 は痛み、すぐにも会津に駆けつけたい衝動にかられた。いま、会津を援護しなければ、仙台藩 きようだ は、永遠に怯儒の烙印を押される。信義なき裏切りの集団となる。玉虫は、胸のなかでむせび泣 おおえだ 223
盟主仙台藩は青葉城に同盟本部を置き、首席家老但木土佐が、兵器、弾薬、糧食、軍資を担 当、福島に軍事局を置き、坂英力が指揮を執った。 なこそ 本格的な戦いは、白河で始まった。白河は勿来の関と並ぶ奥州の二大関門である。西は勢至堂 すかがわ たなくら 峠を経て会津若松に通じ、東は棚倉を経て海岸の平に通じる。北は須賀川、郡山、二本松、福島 を経て仙台、米沢に通じる要衝である。 白河に仙台、会津を主力とする二千五百の同盟軍が集結した。白河城に〈んぽんと仙台、会津 の藩旗が翻った。 ちから たのも 会津軍総督西郷頼母、副総督横山主税、仙台藩参謀坂本大炊、副参謀今村鷲之助、大隊長瀬上 しゅぜん 主膳らが作戦を練った。会津藩主松平容保は西郷頼母に、絶対死守の厳命を下した。梶原平馬も 祈る気持ちで西郷の出陣を見送った。 西郷はごく最近まで恭順論者であった。容保と不仲で事ごとく対立した。今回は会津の浮沈を 荷う大役である。いや、奥羽越の命運を握る責務が課せられている。しかし、梶原は一抹の不安 を抱いていた。 じゅんぎ 西郷には実戦の経験がない。副総督の横山主税もまだ軍将ではない。旧幕府純義隊長小池周 ひゅうが えもん 吾、新選組山口次郎、軍事奉行海老名衛門や隊長の小森一貫斉、鈴木作右衛門、日向茂太郎らに またして、仙台藩と一糸乱れぬ共同作戦ができるのか。 托すしかない。ー 「官兵衛がいれば」 おお せいしどう 0
と、宮の意志を確認し、五月二十六日、「長鯨丸」は羽田沖を出航した。薩長政府首脳は、奥 羽越列藩が輪王寺宮を帝として推戴する動きを知っており、場合によっては殺すことも考えてい 輪王寺宮にとって命を賭けた逃避行なのだ。海は珍らしく順風で、「長鯨丸」はすべるように ひらかた 北上した。五月二十八日昼、船は常陸国多賀郡平潟に着いた。榎本からの連絡で、小笠原長行の 家臣が出迎えた。ここから輪王寺宮を囲む長蛇の列が街道を埋める。 輪王寺宮の奥羽入りは、またたく間に各地に広がり、平に着くと、元老中安藤対馬守が出迎 みはる もとみや え、三春から中通りの本宮に入ると、仙台藩兵一小隊が、護衛についた。本宮から中山峠にさし かかると、旧幕府首席家老板倉勝静、老中小笠原長行をはじめ会津藩兵が出迎え、街道筋の人々 は、奥羽越の新しいシンポルに眼を瞠った。峠を越えると会津である。ここには米沢藩兵が待っ ており、猪苗代に着くころには、一千名を越える大行列となった。 会津若松は、お祭りのような賑やかさである。暗い戦争の影は、どこかに吹き飛んでしまい、 町民も農民も、この華やかな行列に酔いしれた。 会津藩主松平容保は、つきっきりで連夜、歓迎の宴を張った。会津藩首席家老梶原平馬も新潟 から戻って、宮の歓迎に奔走した。仙台から横田官兵、米沢から片山仁一郎、木滑要人らの重臣 が駆けつけ、どの顔も喜びにあふれていた。 梶原は、輪王寺宮を会津に留めたい、と考えた。戦いは、いずれ会津国境に迫ってくる。その 108
早乙女貢氏の知遇を得、何度か御一緒に旅をする機会に恵まれ、歴史と文学について御指導いた だいたことも、私にとっては何物にも代えがたい勉強となった。 私がこの二冊の本 ( 『会津藩燃ゅ』『白虎隊燎原に死す』 ) で、強く焦点を当てたのは、会津藩 首席家老梶原平馬の生き方である。二十代後半という信じがたい若さで、苦難の会津藩をリード し、奥羽越に未来を築こうとした多感な人生に強く共鳴したのである。結果は無惨な敗北に終っ たが、彼の果敢な挑戦こそが、時代を越えて人々の胸を打っ男の美学ではなかろうか。ただ文中 にも触れたように梶原平馬に関する史料は極めて少ない。明治以降、薩長藩閥政治のなかで辛酸 をなめた会津人は、主戦論者梶原平馬の影を絶ち切ることによって、あの戦争を忘れたかったの かもしれない。梶原自身もまた、斎藤斉と名を変え、忽然と姿を消してしまう。何千という藩 士、領民が命を落し、梶原自身も両親と弟を失う悲劇のなかで、生きる情熱を失ったのであろう 私は『会津藩燃ゅ』を書き終えた段階まで、梶原平馬の個人生活については、何も知らずにい た。続編で梶原平馬をどう描くか、思いあぐねていたときに、会津若松市の郷土史家宮崎十三八 氏から「平馬の離婚をご存知ですか」と貴重なお話をいただいた。夫婦の離婚ということ自体、 それほど不思議なことではないのだが、会津戦争の直前に梶原が妻と別れていた、という話に私 は衝撃を覚えた「格式の高い会津藩の中で、首席家老が妻と別れる、ということは、信じ難い出 来事だったからである。その後、ティと再婚し、北海道に渡ったということも宮崎氏の御教示に 256
弟の松平定敬にいった。 「バン、 小銃弾が足元をかすめる。 「殿、城にお戻りを ! 」 佐川官兵衛が絶叫する。容保は数人の藩兵に守られ、城門をくぐった。 城下に火の手が上がった。大砲の轟音が万雷のように響き、焔煙天をおおい、死屍累々、会津 若松は狂乱の町と化した。 208