但木 - みる会図書館


検索対象: 白虎隊―続会津藩燃ゆ
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1. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

れるや、会津を目指して、潜行し、日光東照宮の僧侶たちも、戦禍を避けて、会津に入ってい た。 「輪王寺宮、海路、奥羽へ向う」 という知らせは、この僧侶たちからもたらされた。 但木は狂喜した。もはや、我々は賊軍ではない。輪王寺宮を推戴する正義の軍隊なのだ。西と 東の二つの国家が厳然として、この日本にある、という玉虫左太夫の理論が現実となるのだ。 但木の奇怪な笑いは、このことにあった。 「玉虫、予はこれで救われた」 但木は、こみ上げてくる笑いを禁じ得なかった。 会津藩主松平容保の喜びも、ひとしおだった。京都時代、あれほど朝廷に忠勤を尽し、孝明天 皇の絶大な信を得た容保は、一転して逆賊の首傀として糾弾されているのだ。 「天は予を見捨てはしない」 容保は、感激に打ち震えた。 京都時代、なぜか女性に恵まれず、単身帰国した容保は、会津に戻って二人の側室を得た。本 来ならば、しかるべき大名の息女が選ばれるべきだったが、戦時のさなかである。藩内から健康 で若い娘が、容保の身の回りを世話することになった。 「早く世継ぎを設けなければ」 106

2. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

むせかえるような暑さのなかで、仙台藩首席家老但木土佐は、自問自答していた。 「危ないところであった」 と、呟き、顔を歪めたとおもうや、 「それにしても夢のような知らせだ」 と、破顔一笑する。 周りの人々は、但木の奇怪さに顔を見合せた。 「危なかった」というのは、奥羽鎮撫総督九条道隆の転陣を指した。 仙台藩は、いつも海から予想だにしない奇襲を受けた。それは、閏四月二十八日のことだっ た。二隻の汽船がモクモクと煙を上げて、仙台湾に入って来た。 輪王寺宮下向

3. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

に、九条総督を送り込めば、秋田の藩論は一気に薩長政府寄りとなり、庄内を秋田藩兵で攻める ことができる、という大村の読みである。 ーくさ 奥羽越列藩同盟が成ったとき、勝海舟は「仙台の但木と西郷では戦にならん」といった。いっ もながら勝の言葉は、冷ややかな傍観者だが、但木には、百戦錬磨の戦略はない。気がついたら 会津に引きづられて、戦いに入った、という後悔の念に時おり襲われている。 ( 当面の難問を処理すれば、あとはなんとかなる ) と、いう場当りの気持がある。 前山は、 「九条総督は奥羽を巡回して、聖旨をくまなく奥羽に伝える義務がある。我々は秋田に向い、庄 内に転陣している沢副総督と合流して、船で帰京する」 と、たくみに持ち上げ、但木を納得させてしまう。 玉虫は、 「前山の説は詭弁だ。九条総督を掌中に収めておかなければ、仙台藩の大義名分が失なわれる」 と、あくまで反対した。玉虫らは、最悪の場合は、九条総督一行を襲撃し、奪い返すことも考 えた。 ( 残された手はそれしかない ) 玉虫は、悲壮な決意を固めた。これを察知した前山精一郎が逆襲にでた。仙台藩主伊達慶邦に よしくに 102

4. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

させることにつながる」 と、怒りをつのらせて但木につめ寄った。 「判っている。この際、前山とともに総督を江戸に帰してはどうか。そうすれば奥羽の混乱もな くなる」 但木は妙なことをいって、玉虫を唖然とさせた。 「それでは元も子もなくなる。とにかく前山を追い返すことだ。さもなくば、前山らの一隊を攻 撃し、葬り去ることです」 玉虫はなおも食い下った。但木は総督がからむ話になると、不思議に尻ごみした。薩長は敵だ が、朝廷に対しては礼節を尽す、という旧来の観念を捨て切れずにいる。薩長政府に戦いを挑 み、奥羽越あげて新政権を樹立する、と心中深く期するものがあったが、朝廷に刃向うことはで きぬ、という勤皇論である。無理もない。奥羽、越後は、日々、混乱の極にあった。予想もしな い新たな事態が次々に起こる。会津、庄内、長岡は、死を決して戦いに入ったが、仙台、米沢は 絶えずゆれ動く嵐のなかにあった。玉虫左太夫、若生文十郎らが奥羽越列藩同盟を結成し、各地 向に檄を飛ばしたが、鉄のような意志が、全藩を貫いているわけではない。 宮前山は江戸をでるとき、大総督府参謀の大村益次郎から「秋田に九条総督を連れて行け」と、 王命令を受けていた。秋田は、奥羽越列藩同盟に加盟はしたが、庄内に出兵するなど、藩論は二分 している。大村は江戸で秋田藩内の情勢を把み、前山に下知したのである。勤皇論が根強い秋田 IOI

5. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

面会を求め、 「われわれを仙台藩兵が襲えば、朝廷に対する叛逆であり、叛賊になる。他日、仙台藩は朝廷よ り厳しい処分を受けることになろう」 と、制した。天皇という言葉に慶邦は、一言もない。 「予が責任を持つ」 慶邦は、そう答え、但木土佐に叛賊をださぬよう命令してしまう。 五月十八日、仙台藩は千五百の藩兵を護衛につけ、九条総督の一行を一ノ関から南部藩境にう ゃうやしく送った。 前山は南部領に入るや、 ここう 「初めて虎口を脱するおもい」 と、九条総督奪回の成功にほくそ笑んだ。 九条総督は、盛岡を経て、やがて秋田に向うことになる。 但木が九条総督放出の失敗に気づくのは、しばらく後のことである。 ためかず 向九条総督を迎えるまでは秋田も同盟軍の一員だった。ところが奥州鎮撫副総督の沢為量が秋田 宮に入ったときから藩論がぐらっき始める。 らいふ、つ 王秋田には雷風義塾という勤皇派の集団があった。創設者は尊攘運動の志士平田篤胤である。平 田は幕府に忌まれ、江戸から秋田に追放されたが、その思想をしたって二百数十名の門弟が集ま あったね 103

6. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

無防備に等しい 仙台藩首席家老但木土佐、政務参謀の玉虫左太夫も必死だった。輪王寺宮に同行した旧幕府老 かっきょ ながみち 中の板倉勝静、小笠原長行らと協議し、反撃の戦略を練った。 「ストーン・ウォール号を手に入れるのだ」 板倉がいった。 「ストーン・ウォール号 ? 」 但木が尋ねると、板倉は興奮した口調でいった。 「幕府がアメリカに発注した軍艦だ。これは我々の軍艦だ。これが手に入れば、薩長の海軍など ものの数ではない」 甲鉄軍艦ストーン・ウォール号。正式には「ストーン・ウォール・ジャクソン号」という。榎 本艦隊の旗艦「開陽丸」よりは小型だが、鋼鉄製で、木造の開陽よりははるかに戦力に勝る。 ストーン・ウォール・ジャクソン号は、四月に横浜に入港したが、アメリカは局外中立を宣 言、薩長政府、旧幕府のいずれにも引き渡すことを拒否、星条旗をかかげて横浜に繋留されてい よ せるのである。 死これを手に入れれば、たしかに同盟軍に海軍が誕生することになるのだが、軍艦を走らせるに 潟は、高度な技術が必要になる。板倉の構想は、意表をつくものだったが、これを戦力として用い るには榎本武揚の協力がなければ、何の役にも立たないのだ。その榎本は、相変わらず、品 , ー けいりゅう 139

7. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

り、その後、吉川忠行、忠安父子が跡を継ぎ、砲術所を設けて、一大勢力を決集していた。門人 たちはほとんど血気にはやる若者たちで、門閥重視の秋田藩政に不満をつのらせ、新たな改革を 画策していた。天皇の軍、薩長政府は、これら若者たちの心を把えた。仙台藩はここまでの読み 奥羽の大藩仙台藩が命令すれば、秋田はそれに従う外はよ、、 / レという過信があった。 「秋田に九条総督を迎えようとする不穏な空気がある」 という知らせが仙台に入ったのは、六月上旬のことである。沢副総督に続いて九条総督の秋田 入りを認め、庄内と敵対関係にあるというのだ。 会津藩にも庄内藩を通じて秋田離反の情報がもたらされた。秋田藩の軍事力を握る砲術所の浪 士たちが、こぞって薩長に傾むいている、というのだ。九条総督を仙台に留めておけば、こんな ことになるはずはなかったのだ。梶原平馬の怒りも、まさにこの点にあった。 奥羽越列藩同盟は、まだ確固たる意志で、結ばれてはいなかった。最大の問題は、薩長と総督 府は別、と考えていたことにあった。京都で苦闘した会津藩だけは、明確に総督府を薩長の傀儡 と見ていたが、仙台をはじめ東北の諸藩は、その意味が判らない。京都の事情を知っているつも りの但木でさえ、子供のように前山にだまされてしまったのだ。家臣の玉虫から責められ、会 津、米沢、庄内から抗議され、但木は、呻吟していた、 104

8. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

梶原の祈りは通じた。 さぶさわ 七月十二日、南部藩家老楢山佐渡が京都から仙台湾寒風沢に入った。京都にいた楢山は、反薩 長の意気に燃えて盛岡に戻る途中、仙台に立ち寄ったのだ。 南部藩の貴公子として育った楢山は、薩長の志士と相容れないものを持っていた。どてら姿の 西郷隆盛は、横柄な態度で、楢山に接し、岩倉具視は、秘かに楢山を招いて、 「薩長の野望はとどまるところを知らない。奥羽諸藩は決集して、薩長に当れ ! 」 と、告げた。岩倉一流の狡猾な耳打ちである。 楢山は仙台で仙台藩首席家老但木土佐と会った。 但木は、 「秋田は許せない。 南部藩の手で討伐してほしい」 と、要請した。 「判った」 楢山は、秋田攻撃を約東した。 ひょりみ どちらかといえば日和見主義の南部藩も秋田のやり方に憤怒した。もともと南部藩にも薩長に 対する怨みがあった。鳥羽、伏見の戦いで幕府、会津が敗れ、戦雲が奥羽越に広がるころ南部藩 首脳は、軍備の近代化を急いでいた。その手はじめに函館の英国商人デュースから三万両で蒸気 船を購入、「飛隼丸」と名づけ、南部産の荒銅や海産物を積み込んで大阪に向った。大阪で売り ならやま 134

9. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

と、仙台国境へ退陣してしまった。盟主仙台藩の信念の欠如が、戦局に重大な支障を及ぼし始 ひょうじよう よしくに めた。事態を重視した仙台藩主伊達慶邦は、七月一日、青葉城御座の間に将兵を集め、評定し 「わが軍、利あらず。いかがすべきかを問う」 慶邦は、満座を見渡した。誰一人、答える者がいない。首席家老但木土佐、参謀の玉虫左太夫 も顔を見合わせるだけだ。和洋混然たる仙台兵は、洋式部隊の薩長兵に討ち負かされ、完全に自 信を失っている。 そのとき、末座から声が上った。 「わが軍の大将は、その器にあらず。適材適所を選んでその任に当たるべきだ」 大胆な発言に座は一層白けた。 「しからば大将の器は誰か」 慶邦が口を開いた。 さかえいりき 「坂英カ殿でござる」 男は答えた。 一徹な性格が買 坂英カー。首席家老但木土佐の腹心の一人で、三十六歳。中級武士の出だが、 われ、家老に抜擢された。生粋の武人であるのだが、軍略家ではない。藩論に統一を欠き、無気 だじゃく 力で臑弱な藩兵をどうまとめ、負け戦を挽回するのか、坂は迷った。 たまむし 124

10. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

も、領内に敵を引き入れ、決戦に向うべきだ。冬が来れば勝利の道はある」 いしもたたじま 議論は沸騰した。但木土佐は、いまや指導力を失ない、代って中島外記、石母田但馬、遠藤主 かなめ 税、大内筑後、松本要人、片平大丞が家老職に就き、意見は真っ二つに分れた。中島、石母田、 遠藤は非戦を唱え、大内、片平、松本の三人は城を枕にしての焦土作戦を主張した。両派は、互 いに譲らず、抗戦派の松本らは、恭順派の一斉逮捕を計画し、坂英力、星恂太郎、細谷十太夫ら と、二本松奪回、会津救援を練った。 しかし、藩論の分裂は、致命的だった。兵は戦意を喪失し、動こうとしない。仙台瀋は危機的 様相を呈し始めた。それに拍車をかけたのが米沢藩である。米沢藩には土佐藩から秘かに接触が あり、領土保全の寛典と引き換えに、降伏のすすめがあったのだ。越後の戦闘に破れ、すでに領 、こ頁土を守るかにあった。軍事総督 土拡大の夢が消えた米沢藩にとって、最大の関心事ま、 千坂太郎佐衛門、参謀甘糟継成も米沢藩の兵備では西軍に抗し得ないことを知っている。千坂は 恭順を決意し、家老木滑要人に仙台藩の非戦派との接触を命じた。 奥羽越は乱れに乱れた。北部日本政権の樹立という壮大なロマンは、砂上の楼閣となり、秋 田、新発田、三春が裏切り、いままた盟主仙台藩、さらには米沢藩が風前の灯なのだ。仙台にい いちる る南摩綱紀、中沢帯刀、小野権之丞、諏訪常吉ら会津藩の外交方は、焦った。一縷の望みは、近 く仙台湾に入るという榎本武揚の艦隊である。 ( 榎本よ来い。天下無敵の大艦隊こそが、この奥羽越の混乱に確固たる信念を与えるのだ ) たてわき きなめ 178