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検索対象: 白虎隊―続会津藩燃ゆ
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1. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

兵が側面から攻撃に移った。しかし、西軍は二千余の大軍である。会津、一一本松藩兵は、たちま ち凄まじい銃火を浴び、敗走、正面の伝習兵が気づいたときは、両翼を西軍に包まれ、背後にも 敵兵の姿が見えた。 「しまった ! 」 本多や大川は抜刀して、伝習歩兵を叱咜激励、血路を開いて母成峠にたどりついた。伝習歩兵 は死傷者三十名をだす損害を受けてしまったのだ。 会津軍の精鋭は、越後の津川、日光ロの藤原にいる。佐川官兵衛は、鶴ケ城で策を練ってい る。歴戦の士官がいないのだ。まして大鳥不在の最中に戦いが始まってしまった。この夜、大鳥 らは、手をとり合いながらお互いの無事を喜び、戦死した兵たちに涙した。 大鳥の手記『幕末実戦史』によれば、この夜、伝習歩兵は、会津軍の防衛体制の不備に憤怒 「直ちに引き揚げるべきだ」 と、悲憤慷慨したという。 峠会津藩首席家老梶原平馬の危惧が適中したのだ。本来、会津国境の戦いも仙台、米沢藩兵が支 母援し、同盟軍として布陣すべきはずだった。しかし、仙台の主力部隊は去り、米沢も撤兵した。 恨会津一藩で、西軍の破竹の進撃を阻止することは不可能に近い。士官も兵もないのだ。梶原に は、それが判っていた。 し、 199

2. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

「ダダーン、バリバリ」 大小砲が間断なく白河の山々に響く。この砲声を聞くや、棚倉口を守備していた仙台、会津藩 兵が急遽正面に回り、防衛する。ここで西軍を食い止めたかに見えたが、卯の上刻 ( 午前六時 ) 、 今度は棚倉口に西軍の右翼部隊が奇襲攻撃をかけてきた。白河城を見下す雷神山 ( 標高四一一三メ ートル ) 攻略を目ざす薩摩兵である。正面攻撃に気をとられた同盟軍はたちまち苦戦に陥った。 そこで仙台藩瀬上主膳が防戦に向かい、仙台兵四小隊と砲六門で必死に防戦、薩摩兵に手痛い打 撃を与えた。 しかし、西軍の攻撃は執拗をきわめた。伊地知は攻撃隊の左右の森に必ず伏兵をひそませ、同 盟軍が攻め込むとたちまち銃火を浴びせる。鳥羽、伏見の戦いと同じである。骸のように銃弾が 撃ち込まれ、瀬上主膳の兵は、次々に朱に染まっていった。 「退け、退け ! 」 瀬上主膳は棒立ちになって、絶叫する。 一方、右翼の原方ロ方面は、薩摩五番隊、長州一中隊、大垣一中隊が立石山に布陣する会津 兵に戦いを挑んだ。 白河城は前面に雷神山、稲荷山、立石山の三つの丘がある。東軍はここに大砲を据え、迎撃し たが、伊地知は、正面の稲荷山を一一十ドイム臼砲で粉砕し、両翼の陣地を奇襲した。しかも作戦 は巧妙だ。攻撃隊の左右には狙撃兵をひそませている。 あられ

3. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

前哨兵が飛びだして、敵の番兵に短刀をつきつけた。 「騒ぐな ! 。あの陣地に何人の兵がいる」 敵兵は唇をワナワナとふるわせ、言葉がでない。 「いわなければ殺す ! 」 「十数人」 敵兵は、ロを開いた。 六百名の黒い塊りは、風のように敵の胸壁に向って突撃した。 奇襲を受けた西軍は、絶叫し、狼狽し、小銃を乱射して逃げる。前軍は、直ちに長岡城攻撃の のろし 烽火を上げた。これを合図に正面攻撃の会津、米沢瀋兵も総攻撃に移り、砲焔は天をこがし、長 岡一円に火災が発生、白昼のような明るさとなった。 敵陣は大混乱に陥った。西軍は拡大した越後戦線に兵を分散していたため、西軍総督府軍将西 きんもち 園寺公望、参謀山県狂介は、命からがら逃げた。 よ せ長岡市民は、町の大通りに酒樽を持ちだして長岡藩兵をもてなし、老若男女は道ばたに平伏し 死て河井らを迎えた。 を 潟「おおー、戻ったぞ」 河井は、一人一人に手をさしのべ、声をかけた。 149

4. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

の防衛についた。相馬藩も援軍を送った。 六月二十九日、湯長谷、泉を攻めた西軍は、平城に迫った。 同盟軍は、仙台、相馬、米沢、平兵約一千名。米沢藩銃砲隊が目ざましい活躍を見せ、大小 砲を霰のごとく撃ち出して防戦、市街は猛火に包まれ、西軍に重大な打撃を与え、潰走させた。 平潟に防衛陣を張っておけば、西軍の上陸は不可能に近いとおもわれるほど、同盟軍の反撃はす さまじかった。 よっくら 戦いは七月十二日まで、平周辺の小名浜や四倉で行なわれたが、小名浜の戦いで仙台藩兵が敗 れ、中ノ作港から汽船で逃れようとしたが、あいにく干潮のため沖合いの汽船に向った小舟が進 めず、そこを西軍に狙撃された。仙台兵を満載した小舟は、浜べに引き寄せられ、そこへ霰のよ うに銃弾が飛んだ。一瞬にして五十数名が、小舟の上で、撃ち斃された。仙台兵の弱さがここで も露呈した。 七月十三日。朝から一寸先も見えない濃霧だった。霧が晴れたころには、平の市街は西軍で埋 め尽されていた。 こうさか 平藩家老上坂助太夫は、三百の平藩兵を率いて最後の決戦にでた。前藩主安藤信正は、幕府老 中を勤めた大物である。坂下門の変で失脚したが、今更おめおめと薩長の軍門に下ることはでき 仙台兵の姿はなく、米沢藩兵も弾薬が切れて城外に退いた。 120

5. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

死闘白河城 河 、 , シ、を第を第 最初の正面攻撃は少数精鋭の兵で行う。立石 山の場合もそうだ。会津藩兵が必死の戦いで正 面の敵を撃退し、山を下って追撃するや、左右 の森林から強烈な乱射を浴びてしまう。 隊長の日向茂太郎はあっという間に撃ち抜か れ、守備兵は大混乱に陥った。仙台、会津の指 揮官は狼狽し、冷静さを失っている。これが敗 戦に拍車をかけた。仙台藩参謀坂本大炊は、前 後の見境いもなく、兵数名を率いて飛び出し あぶくま た。阿武隈川を渡り、敵の後方にでて援護しょ うとして、頭を撃ち抜かれた。 「参謀がやられた ! 」 従者の知らせで副参謀の今村鷲之介が単身阿 武隈川を渡り、坂本のそばに行くと、まだかす かに息がある。今村を見つけた狙撃兵が激しく 、になったま 小銃を撃ちまくる。今村は腹這 > ま、身動きできない。ようやく従者が駆けっ

6. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

二本松落城は、同盟軍に重大な打撃を与えた。白河口の防衛に当った仙台藩が、なすところな く、逃げまどい、二本松を見殺しにしてしまったのだ。仙台藩を担い、同盟軍を指揮する坂英カ の決定的な敗北でもあった。 土湯峠から応援に駆けつけた会津藩士辰野源左衛門の一隊は、この姿に我を失なった。 ( いずれ会津が、阿修羅の戦場となる ) 辰野は、二本松の残兵を集めて二本松奪回を図った。しかし、二本松藩兵に戦意はない。ト 銃、弾薬もない。 敵を受け、糧食、弾薬を絶たれたため、再挙を図る必要があり、会津に退いて、米沢を経 こおり て、桑折にでて、仙台国境を固めることにした。 二本松藩は、玉砕した。 仙台藩、会津藩兵の一部も各地で死闘を繰り広げたが、武器、弾薬の補給もなく、一一本松城下 には累々と斃体が横たわり、薩摩兵は、商家に押し入って、掠奪した。そこには三春藩兵の姿も あった。 174

7. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

藩主容保の指揮も見事だった。搦手に土佐兵が転陣したと見るや、容保は城内の兵の志気を鼓 舞するため、下士を中士に、中士を上士に昇格させる布告をだし、藩兵は皆感激して、敵前に突 撃した。格式の高い会津藩にとって、昇進は、何ものにも勝る栄誉なのだ。 てるひめ 城内には、容保の義姉照姫を護る婦人の一団がいた。銃砲、大小、薙刀をかついで多くの婦人 が籠城、藩兵たちを助けている。 梶原は崩れ落ちた瓦礫を踏みながら天守閣に上った。ときおり鬨の声が起こる。会津軍が夜襲 をかけたのだ。敵兵の激しい銃弾が夜空にこだまし、いたるところに点々と敵の火が見える。梶 原にとって、この日の敵軍の襲来は、予想だにしないものだった。母成峠破れる、と聞いたとき も、二、三日は十六橋で食い止められると判断していた。そうすれば、国境の精鋭が帰城し、敵 の背後を衝くこともできるはずだった。会津軍の作戦の甘さに胸が痛んだ。婦女子の痛ましい自 刃は、梶原の耳にも入っており、田中土佐、神保内蔵助、河原善左衛門らの壮絶な死も頭の下が るおもいだった。 会津はあすからどのようになるのだろうか。 梶原は、暗澹とした気持で、落涙した。もとより死を決した戦いであり、最後の一兵となるま で、城を枕に戦い抜く決意には変りないのだが、この無惨な城下の戦いに慟哭した。会津の最高 指導者として、敵軍を城内に入れない戦略はなかったのか、梶原の心は雲のようにちぎれ、男泣 きに泣いた。 222

8. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

小銃を構えるひまもなく、心臓にぐさりと槍が突きささる。 「ワアー ! 」 半狂乱の修羅場である。誰しも死ぬのは怖い。小銃も弾薬もかなぐり捨てて逃げる。膝がガク せんじん ガク震え、千仞の谷底に転落する。追う方は強い。 「当ったあー、撃て、撃て ! 」 すさまじい迫力で引き金を引く。武器、弾薬に乏しい同盟軍には敵兵の遺留品は貴重だ。手当 り次第にかき集める。斃した敵兵の懐から一通の手紙がでて来た。奇兵隊と書いてある。「あの 奇兵隊 ! 」手紙を読んだ長岡藩兵は背筋が氷るのを覚えた。 濁流の信濃川を渡り、小千谷に戻った長州兵は、ガタガタと震え、戦おうとするそぶりすらな ( 負けた ) 山県狂介は、おもった。 ( いま長岡、会津兵に攻め込まれたらわが官軍は崩壊する ) 山県は焦った。 る 陥「大砲を撃ち続けるのだ。撃って撃って、撃ちまくるのだ ! 」 岡山県は、砲隊を叱咜した。敵の突撃を食い止めるには、大砲を撃ち続けるしかない。両軍は、 信濃川を挟んで再び激しい砲撃戦となった。

9. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

薩摩兵は、鋭い太刀さばきに圧倒され、銃を捨てて逃げる。後年、野津は、「このときほど肝 を冷やしたことはない。見事な太刀さばきであった」と述懐した。二人は、逆襲して来た薩摩兵 けさ に取り巻かれ、青山は銃撃されて即死、山岡は袈裟切りに斬り殺された。 大壇口には、木村銃太郎の率いる少年隊がいた。 木村銃太郎二十二歳。江戸で砲術を学び、少年たちに砲術を教えていた。長身、色黒く、筋骨 逞しい青年である。二十数名の少年を率いて、陣地を構築、敵兵の襲来を待っている。 「撃て ! 」 木村の号令一下、少年たちは雨霰のように銃弾を浴びせた。大砲三発が薩摩兵の頭上に炸裂、 隊長の日高郷左衛門が馬もろとも吹き飛ぶ。 「狙いが高い ! 、低く ! 」 木村の正確な砲撃に敵はひるむ。 「ダアーン」 両軍の撃ちだす大砲が安達太良の山野にこだまする。しかし、少年たちの善戦もほんの一瞬だ 城 落った。火薬で真っ黒になった少年たちに狙撃兵の銃弾が命中した。得意の迂回作戦で、少年たち を包囲したのだ。一人、また一人、少年たちが倒れたまま動かない。 「高橋 ! 、奥田 ! 」 171

10. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

ほふく け、坂本を抱えながら田のなかを匍匐して、阿武隈川に飛び込み、坂本を収容したが、すでに息 ほんろう 絶えていた。仙台藩兵にとって初めての火力戦であり、伊地知の作戦に翻弄され尽した。 会津軍副総督横山主税の死も哀れだった。横山は幕末の多難な時期に江戸家老を勤め、藩内の 俊英を集めて公用局を設けた横山主税常徳の嗣子である。海老名郡治とともに徳川昭武に随行、 フランスに修学した前途ある青年だった。パリで撮影した写真を見ると、理智的で、端正な顔を している。 両翼を西軍に占領され、正面の稲荷山に敵兵が攻め登るのを見た横山は自ら果配を揮って、稲 荷山に駆け登った。 稲荷山は右下りで、西北に斜面が流れている。すでに斜面の上には長州兵が登っており、横山 の突撃隊は両翼と上から十字火にさらされた。前方からは霰のように弾丸が撃ち込まれる。横山 は数発の銃弾を浴びて、もんどり打って倒れた。即死である。後続の会津藩兵は顔色を失った。 「副総督がやられた ! 」 沈痛な叫びが、斜面に響く。しかし、収容することもできない。辛うじて従者が横山の首を刎 ね、持ち帰った。いまや三つの砦が落ちた。 西軍は、占領した稲荷山、雷神山、立石山に携日砲を運び上げ、城内から突進してくる仙台、 あねは 会津藩兵に砲撃を加え、両翼から火を放って城下に侵入した。仙台藩軍監姉歯武之進は抜刀して 侵入してくる敵兵に立ち向い、数人を斬り、血路を開いて白河城中までたどり着き、そのまま絶