奇兵隊員がもんどり打って斃れる。 時山は意外な展開に顔が引き攣った。側面からの乱射は、奇兵隊がもっとも得意とする戦法 。蹴散らしたはずの会津から側面攻撃を受けたのだ。 時山にとって、奇兵隊は不死身のはずだった。下級武士、農民、漁民によって組織された奇兵 隊は、あらゆる戦いを通じて絶えず勝利者であり、いまや神話にさえなろうとしている。この北 越の戦いも、当然のことながら勝利者でなければならなかった。 「そんな馬鹿な」 時山は、信じられない表情で立ち竦んだ。しかし、退却は許されない。奇兵隊にあるのは勝利 、死か、の二つしかない。 そもそも、この日の攻撃は、山県狂介の援軍を待って、二人で頂上を目指す手はずになってい た。山県の援軍が遅れ、時山は独自の判断で、一気に奇襲をかけたのである。 「ひるむな、続け」 時山は、隊員を叱咜し、山上に駆け登ったとき、顔面を一発の銃弾が撃ち抜いた。即死であ る。時山を狙撃した同盟軍の兵士は、桑名雷神隊の三木重左衛門とされている。一説には、会津 る 陥藩兵に射殺されたともいう。 岡 いずれにせよ、北越の戦いは、無敵奇兵隊の神話が崩れるという壮絶な戦いで幕をあけた。 長 参謀を失った奇兵隊は逃げまどい、三十九名の死傷者をだして敗れた。 すく
小千谷から戻った山県狂介が激しい銃声を聞きながら山頂を目指すと、血だらけになった味方 の兵が、よろけるように下りて来る。 「どうした ! 」 山県が声を掛けると、 「時山参謀がやられた」 悲痛な声で叫んだ。 山県は、河井を敵に回したことを悔んだ。 ( 若造の岩村精一郎に交渉をまかせたのが失敗のもとだった。あのとき、河井を捕えておけば、 こんなことにはならなかった ) 「時山をなぜ殺した ! 」 山県は兵士たちを怒鳴り散らした。 越後の長州軍は、山県狂介、時山直八が指揮を執っていた。山県狂介は後の陸軍大将、総理大 ありとも 臣の山県有朋である。山県と時山は、萩の松下村塾でともに学んだ同志で、越後ロから会津攻撃 を目指し、進軍して来た。 初戦で参謀を失ない、西軍は事の重大さを初めて認識した。 >—、いったん敗れると、もう止めようがない。撃たれた兵士が「ウ、ウー」ところげ回 、鮮血がほとばしりでる。それを見た兵士の足が竦む。そこを槍隊が突きかける。
小銃を構えるひまもなく、心臓にぐさりと槍が突きささる。 「ワアー ! 」 半狂乱の修羅場である。誰しも死ぬのは怖い。小銃も弾薬もかなぐり捨てて逃げる。膝がガク せんじん ガク震え、千仞の谷底に転落する。追う方は強い。 「当ったあー、撃て、撃て ! 」 すさまじい迫力で引き金を引く。武器、弾薬に乏しい同盟軍には敵兵の遺留品は貴重だ。手当 り次第にかき集める。斃した敵兵の懐から一通の手紙がでて来た。奇兵隊と書いてある。「あの 奇兵隊 ! 」手紙を読んだ長岡藩兵は背筋が氷るのを覚えた。 濁流の信濃川を渡り、小千谷に戻った長州兵は、ガタガタと震え、戦おうとするそぶりすらな ( 負けた ) 山県狂介は、おもった。 ( いま長岡、会津兵に攻め込まれたらわが官軍は崩壊する ) 山県は焦った。 る 陥「大砲を撃ち続けるのだ。撃って撃って、撃ちまくるのだ ! 」 岡山県は、砲隊を叱咜した。敵の突撃を食い止めるには、大砲を撃ち続けるしかない。両軍は、 信濃川を挟んで再び激しい砲撃戦となった。
「河井は手ごわい」 西軍参謀の山県狂介もおもわぬ強敵に肝を冷やしている。これを攻め落すには、軍艦を新潟港 に向けて、シュネル兄弟を押え、敵前上陸するしかない、と江戸の大総督府を説き続けて来た。 河井もそれは十分に承知している。会津の梶原から同盟軍海軍創設の相談があったとき、 「話は判るが手遅れだ」 と、断った。仮りに甲鉄軍艦「ストーン・ウォール・ジャクソン号」を手に入れ、さらに奥羽 越列藩が共同出資して軍艦を購入したところで、運用できる海軍士官がどこにいるというのか。 河井は、それを知っている。 ( 同盟軍海軍など見果てぬ夢だ。それよりも占領されている長岡城を奪回し、越後から薩長を追 オ > 。これしか い出すことが先決だ。やがて冬が来る。南国の兵は越後の冬に耐えられるはずはよ、 勝っ道はない ) 河井は確信していた。 越後の戦いは、両軍ともギリギリの段階に来ていた。 山県狂介の新潟攻撃が先か、河井の長岡奪回が先か、両者は、刻々とその準備に入っている。 機先を制した者が勝つのだ。 もう一つ、河井が気がかりなのは、新発田の農民たちの不穏な動きだった。後方で領民が反戦 の動きにでれば、もはや戦いの続行は不可能だ。秋の収穫期の前にケリをつけなければ、人夫の 144
佐川官兵衛も今度ばかりは持久戦にでている。 ( 佐川も水は苦手らしい ) 河井は笑った。 小千谷の西軍本営も、じりじりとした気持ちで濁流の信濃川を眺めていた。 「朝日山にかかわっていたのでは、いっ長岡が取れるか判らん。誰か信濃川を渡って、長岡城を 奇襲する者はおらんか」 山県狂介は、戦線を駆け回っていた。長岡の対岸に布陣していた長州の三好軍太郎が名乗りで 五月十八日、雨が止み、川の流れがゆるやかになった。月夜である。三好の兵は川岸で仮眠 し、翌朝、長岡を目指して、渡河作戦にでた。川岸からは援護の大砲が、間断なく撃ちだされ、 長岡藩兵は飛び起きた。 「敵が来る ! 撃て ! 」 堤防を守る二個小隊が舟を目がけて一斉に撃ったが、舟は矢のような早さで、川岸に乗りあ る 陥「ワーツ」 岡 と、攻めて来た。 長 河井は大砲の音で飛びだした。 げ、 こ 0
山県は援軍を連れに小千谷に戻り、時山らは朝日山の山麓に夜営して夜明けを待った。 五月十三日、朝日山は濃い霧に包まれていた。 時山は最精鋭の奇兵隊を率い、西の山麓の会津軍陣地を奇襲した。 朝日山の同盟軍は、濁流の信濃川を時山が渡河したことを知らない。朝もやの立ち込める砦に かやの 枯れ木を集め、朝食の準備をしている。最初の砦を守るのは会津藩萱野右兵衛の隊である。 「ガサ、ガサ」 薮をかき分ける音がした。 「敵兵」 気づいたときはすでに遅かった。 小銃の乱射を浴び、たちまち周りは血の海だ。 「しまった ! 」 萱野は白刃をかざして斬り込んだが、会津の精鋭も奇襲にはひとたまりもない。右往左往に散 乱し、「谷底に転び落ちる者。数知れず」という惨敗を喫した。 命知らずの奇兵隊はさすがに強い。歴戦の会津藩兵も一方的に敗れ、朝日山の一角が崩れた。 る 陥時山は、 岡「一気に攻め落せ ! 」 と、山の下に向って、空砲を撃たせながら、桑名雷神隊が守る頂上に攻め上がった。これを見
前哨兵が飛びだして、敵の番兵に短刀をつきつけた。 「騒ぐな ! 。あの陣地に何人の兵がいる」 敵兵は唇をワナワナとふるわせ、言葉がでない。 「いわなければ殺す ! 」 「十数人」 敵兵は、ロを開いた。 六百名の黒い塊りは、風のように敵の胸壁に向って突撃した。 奇襲を受けた西軍は、絶叫し、狼狽し、小銃を乱射して逃げる。前軍は、直ちに長岡城攻撃の のろし 烽火を上げた。これを合図に正面攻撃の会津、米沢瀋兵も総攻撃に移り、砲焔は天をこがし、長 岡一円に火災が発生、白昼のような明るさとなった。 敵陣は大混乱に陥った。西軍は拡大した越後戦線に兵を分散していたため、西軍総督府軍将西 きんもち 園寺公望、参謀山県狂介は、命からがら逃げた。 よ せ長岡市民は、町の大通りに酒樽を持ちだして長岡藩兵をもてなし、老若男女は道ばたに平伏し 死て河井らを迎えた。 を 潟「おおー、戻ったぞ」 河井は、一人一人に手をさしのべ、声をかけた。 149
会津藩死者二千五百余名。 仙台藩死者一千余名。 米沢藩死者三百余名。 長岡藩死者三百余名。 二本松藩死者三百余名。 平藩死者五十余名。 桑名藩死者九十余名。 棚倉藩死者六十余名 中村藩死者百余名。 庄内藩死者三百余名。 奥羽越に多くの血が流れた。 九月二十二日巳の刻 ( 午前十時 ) 鶴ケ城北追手門に白旗が立った。白布はことごとく使いはた し、小さい布切れを集め、籠城婦人たちが涙ながらに縫い合わせた白旗である。 停戦の砲声が轟然と響き、梶原平馬、内藤介右衛門、秋月俤次郎、清水作右衛門、野矢良助が 麻の上下の礼服に身を包み、甲賀町の降伏式場に向った。 つくも 午の刻 ( 正午 ) 西軍軍監中村半次郎、軍曹山県小太郎、使番唯九十九が薩摩、土佐藩兵に護ら 252
出撃に当り河井は、 じゅうりん 「薩長の鼠どもは、王師の名を借り、わが領士を蹂躙し、私憤を晴らそうとしている。なんらな すところなく、これを見逃すのは男子の恥だ。公論を百年後に托し、われらは玉砕せんのみであ る」 と、声涙下る演説をした。 らいじん たつみ 会津の佐川官兵衛、桑名藩雷神隊長立見鑑三郎も感動して、これを聞いた。 さだあき 桑名藩主松平定敬は会津藩主松平容保の実弟である。定敬はすでに会津に入っていたが、雷神 隊の精鋭は越後に留まり、決戦のときを待っていた。立見はわずか二十一歳。激動の京都で青春 時代を過ごし、藩主とともに故郷〈帰った。佐川官兵衛とも気が合った。後年、立見は陸軍に身 を投じ、弘前第八師団長として日露戦争に参戦、勇猛な戦いを見せた。薩長閥の陸軍のなかにあ って、陸軍大将まで上りつめた有能の士である。 「おい立見、われわれ三人が手を組めば、向うところ敵なしだ」 佐川官兵衛が立見の肩を叩いた。 そのころ山県狂介と時山直八は、増水の信濃川に小舟を出し、二百余名の兵士と弾薬の輸送を 開始していた。 「金はいくらでも出す。舟を出せ ! 」 時山はいやがる農民たちを金で釣り、濁流の信濃川を強引に渡った。
両軍の兵士たちは一斉に外に出た。 西軍は、一日も早い会津攻撃を目指して、薩長が先陣を競い、同盟軍は、狂暴な薩長兵を一人 でも多く撃ち殺そうと、銃身を磨いた。侵略する側と、祖国を防衛する同盟側との決死の対決で ある。越後戦争は、いままさに火蓋を切ろうとしていた。 おじゃ 小千谷に本営をおいた西軍の狙は、長岡城である。長岡攻略には、信濃川を渡河し、敵前上陸 をしなければならない。だが、この増水では舟を出せない。 戦闘は信濃川を挟んでの砲撃戦となった。 河井継之助は、信濃川を見下す榎峠に砲台を築き、長岡を目指す西軍と対峙した。 なおはち 西軍参謀山県狂介は、親友の長州藩士時山直八に榎峠の攻撃を依頼した。榎峠の中心、朝日山 の古戦場は、いま車で頂上まで行ける。眼下に信濃川が雄大に流れ、対岸までは相当の距離があ る。この川を挟んで砲撃戦が繰り広げられた。 戊辰戦争は、火力による近代戦になっていた。 長岡藩は、同盟軍のなかではもっとも近代化が進んでいる。会津の梶原平馬とともに、横浜や 函館から大砲、小銃を運び、砲十四門、銃隊二大隊を持っていた。 る 陥しかし、その兵力は農兵も入れて千名強であり、会津、桑名、旧幕府を加えても五千に満たな 岡 い。二万を越える西軍の前に、はたして何日耐えられるか、決戦を前に河井の胸には悲壮なもの 長 があった。 ねらい えのき