エドワードの戦略は、蚕の貿易という商業上の観点から新潟開港を迫り、諸外国は奥羽越列藩 同盟とも商取引をすることを薩長政府に認知させることにあった。 「新潟ニ武器、弾薬ヲ運プノデハナイ。アクマデモ蚕ノ貿易ノタメニ新潟ニ寄港スルノダ」 イタリア公使は強引に薩長政府にねじ込み、横浜から船をだした。エドワードの外交上の勝利 である。 「私ノ肩書ハオランダ国ノ領事ダ。薩長ハ手ガ出セナイ」 エドワードは、胸を張った。 エドワードは、兄のいる会津藩との約束を守るべく、汽船をチャーターし、小銃、弾薬を積ん で、太平洋を北上、下北半島を回って、五月十二日新潟に入っていた。 ( カジワラガ、待ッティル ) エドワードの心も東北のサムライたちにあった。 不思議な兄弟であった。勿論、武器、弾薬の取り引きという商売はある。しかし、それだけで はない。アラビアのローレンスのように誠に生きる東北のサムライに魅かれた。奥羽越が勝て さんぜん ば、兄弟の未来は燦然と輝く。だが、それはあまりにも危険な賭けだ。江戸、大阪を押えられ、 イギリスは完全に薩長政府を支持している。どう見ても勝っチャンスは少ない。だからこそ自分 たちが応援しなければ。兄弟には、強い義侠心がある。判官びいきは、何も日本人だけの特性で まよ、。 兄弟の冒険心が、東北を選択させた。
した重さがある。 「梶原殿、貴殿こそが、奥羽に新しい時代をもたらす指導者です。できるだけの御協力はしま 友三郎は、梶原をじっと見た。 「心強い」 梶原は、勇気が湧いてくる己を感じた。 会議にはエドワード・シュネルも出席し、仙台藩玉虫左太夫が議事を進めた。いつもながら玉 虫の議事進行はあざやかである。 「今度の戦いは、アメリカの南北戦争と同じである。南北戦争は、不幸にして南軍が敗れたが、 南部と北部は、お互いに産業や文明を異にする二つの国であり、ともに正義の戦いだった。奥羽 越も同じである。この地にいまや北部政権が樹立されたのだ。この日本に薩長政府と北部政府の 二つの政府があるのだ」 玉虫は、南北戦争の例を引いて、薩長対奥羽越の二つの世界を説明した。 ( うまい。さすがにアメリカ帰りは違う ) 梶原は感心した。 玉虫の狙いは、中立政策をとっているアメリカを意識したもので、諸外国に北部政権を認知さ せることによって、新潟港、仙台港、酒田港など東北、越後の港を確保し、武器、弾薬の補給を
人生には、必ず絶頂をきわめる瞬間がある。新潟にいる梶原平馬がそうだった。東北、越後の 指導者たちの注目を集め、この時期、東国を左右するニューリーダーの一人にのし上った。会津 武士という鉄の軍団を率い、シュネル兄弟を同盟軍の顧問に据え、薩長と戦っている梶原は、ま さにヒーローであった。狂暴な薩長に死を賭けて立ち向う、男の雄姿があった。梶原の柔軟な外 交力は、京都時代から頭角を現わしており、奥羽越列藩同盟の結成で、見事に開花したのであ る。会津藩の財政は火の車だが、酒田の本間家をはじめ、東北、越後の商人の間にも会津の梶原 の名前が知られるようになった。会津が勇猛果敢に戦っている限り、北部日本政権をつくろうと いう、東北、越後の獅子たちの夢と希望があった。 すべてが梶原の計算どおりに動いた。シュネル兄弟は、単なる死の商人ではない。東北、越後 北方は仁
慶応四年ー。 みぞう 東北、越後は未曽有の混乱にあった。 徳川幕府があえなく崩壊し、薩長は、怒濤のごとく江戸に進軍した。 「まさか」 東北、越後は、狼狽した。 京都守護職として、薩長と激しい死闘を繰り広げてきた会津藩は、朝敵の烙印を押され、奥羽 城 河越諸藩に会津追討の命令が出された。救会か討会か、奥羽越諸藩は揺れた。 闘孝明天皇の絶大な信を得、京都に君臨した会津兵は、固く城門を閉ざし、会津国境に兵を送 っこ 0 死闘白河城 らくいん
「うむ」 「貴殿の勇気には、ほとほと敬服する」 千坂がいうと、梶原は、黙って頷づいた。 梶原には、一つの希望があった。海軍である。梶原は、よく鶴ケ城天守閣にのぼり、鯲豊連峰 を眺めた。すると、雲の間から越後の海が浮かぶのだ。黒煙をあげて、軍艦が白波を切る。甲板 にずらりと大砲が並び、水兵たちが操練をしている姿であった。海軍こそが、この戦いを勝利に 導く神なのだ、梶原は信じていた。 それは、夢ではなかった。会津に来ているヘンリー・シュネルの弟、エドワード・シュネルと の男の約束があった。 「必ズ、軍艦ヲ手ニ入レテ見セル」 というエドワードの言葉を信じていた。 てつのじよう その日のために、梶原は旧幕府の軍船「順動丸」を押え、神尾鉄之丞らに航海訓練をさせてい た。軍船というよりは、輸送船だったが、大砲も積み、佐渡や酒田を往復し、軍需物資の輸送に 当っている。「会」の旗が船尾に翻き、新生会津の意気、天を衝くものがあった。 出梶原と千坂は、京都以来、お互いに東北の未来を賭けて奔走して来た同志である。奥羽越列藩 きづな 命同盟も二人の友情がなければ、実を結ぶことは難しかった。いま、二人は、運命共同体の深い絆 で結ばれている。東北の夜明けをつくる覇気に満ちあふれている。薩長なにするものそ、という
星亮一 一九三五年仙台市生まれ。高校時 代を岩手県で過ごす。一関一高、 東北大学文学部国史学科卒。福島 民報記者を経て、福島中央テレビ 入社。番組プロデューサーとして、 「アメリカからの報告、野口英世・ 炎の生涯ー「越龍吼ゅ / 嵐の会津・ 長岡同盟」「風雪″【斗南藩ー北斗 以南皆帝州」等を制作した。 著書 / 『会津白虎隊』『猪苗代湖』 『斗南に生きた会津藩の人々』『松 平容保とその時代』『会津藩燃ゅ』 他がある。 現在、福島中央テレビ販促事業局 長、東北史学会会員。 ・著者星 ・発行者堤 0 発行所教育書籍株式会社 東京都新宿区高田馬場 〒一六〇 電話〇三 ( 二〇五 ) 〇〇一一七 印刷 / 明和印刷製本 / 渋谷文泉閣 続会津藩燃ゅ 白虎隊焦死す 一九八六年十一月二十日初版第一刷発行 一九八六年十一一月一一十日初版第四刷発行 定価一、五〇〇円 933811 。
北、越後は、保守的な「みちのく」を守ろうと決集した。その意味で、戊辰戦争も西南と東 越後の宿命的な対決であったのかも知れない。だが、 梶原 ~ 、 000 考」、単」保守 0 決集〕』 どまるものではない。それを乗り越え、薩長と対抗する北部政権の樹立を目指したのだ。 東北の革新である。それは、壮大な実験でもあった。二人が立っ基盤は、保守という頑迷な風 土である。各藩の兵士間の連帯も稀薄だし、兵備、戦法もバラバラである。国家というのは藩で あり、東北、越後は一つ、という新たな意識はひと握りの上層部のものでしかない。最後はお家 大事と逃げだす危険が絶えずつきまとう。新発田内の農民層に反戦の空気が濃厚にでており、 出兵を阻止している。情勢は予断を許さないのだ。 かがりびも この夜、梶原平馬は、宿舎の「会津屋」で酒宴を催した。「会津屋」の前に篝火が焚され、武 装した会津兵が警備した。長岡や米沢の代表は、戦いの場に戻り、仙台、会津、庄内の顔があっ た。エドワード・シュネルもいた。 会津屋の奥座敷には、テープルがあり、肉とワインが並んだ。ヘンリー・シュネルの餞別会 は、芸妓を混えての大宴会だったが、この夜の酒宴は、男だけで始まった。玉虫はすぐ仙台に戻 らなければならないし、梶原にも君主容保から帰城の催促が来ている。白河の戦況が悪化してい 仁 はる、というのだ。 方 静かに揺れる燭光が、彼らを照らした。陽光のなかでは判らない疲労が、鮮やかにでている。 玉虫は、ワインをぐいと呑み干し、器用にナイフとフォークを操った。梶原も旺盛な食欲で肉
足を負傷し、新選組兵数人を連れて、会津に入り、東山温泉で湯治していた。白河口で戦ってい る新選組の督戦のため福良に駆けつけたのだ。 新選組副長土方歳三と聞いて、少年たちの眼はキラキラと光った。土方の周囲には、いつも少 年たちが集まり、鳥羽、伏見の戦いや日光ロの奮戦の模様を聞いて、胸をときめかせた。 鶴ケ城に残った梶原平馬は、主君容保と、日夜、戦況の分析に当っていた。伝令の報告は、一 向にはかばかしくなく、火器の増強を訴える沈痛な声があいついだ。新潟から細々と送られてく だじゃく る小銃、弾薬のほかは、補給のすべはないのだ。しかも、肝心の仙台兵が臑弱で、ひどい損害を だしていた。梶原は仙台に急使を飛ばし、白河城の攻防が東北の死命を制すると訴え続けた。 夜の鶴ケ城は、日中の喧噪が嘘のように消え、月が昼のように樹木を照らしていた。時おり雷 鳴が響く。梶原はいい知れぬ孤独感に襲われた。戦線を拡大しすぎたのではなかろうか。越後、 日光、白河、三方部に大部隊を派遣し、城下に残るのは、老兵やわすかの客兵に過ぎない。兄の 内藤は白河口を督戦し、右腕の山川大蔵は日光ロで戦い、佐川官兵衛の精鋭は越後で血を流して いる。日々、貴重な人命が失なわれ、農兵の採用も限度に来ている。白虎隊までも出陣し、この 城は孤城と化している。 恐ろしい、とおもった。 戦いが始まるまでは、果てしない夢があった。東北を決集し、越後を同志に迎え、まさに天を
九条総督は、薩長政府が東北に仕掛けた巧妙な餌だった。仙台は、これを自家薬籠中のものと して、生かし切れず、逆に秋田が食いついて釣り上げられた。 薩長政府は、戦わずして秋田を東北の拠点として抑えた。九条道隆という「玉」を失った同盟 すべての人が願望した「玉」、それは孝 軍は、火急速やかに新しい「玉」を抱かねばならない。 明天皇の弟君 ( 仁孝天皇養子、伏見宮第九皇子 ) 、幼帝の叔父に当る輪王寺宮法現親王である。 これこそ、北部日本政権の帝であり、帝を抱くことによって同盟軍の兵士も官軍となるのだ。奥 羽越の盟主、仙台藩は、九条総督転陣の失策をカバーするため、必死に輪王寺宮の行方を探っ た。その一報は、会津藩からもたらされた。会津には、おびただしい人々が亡命している。薩長 に追われた旧幕府閣僚の板倉勝静、小笠原長行をはじめ、古屋作左衛門、大鳥圭介、土方歳三、 ただくに さらには長岡藩主牧野忠訓も家族を連れて会津若松に逃れていた。 向会津若松こそは、全藩をあげて薩長に立ち向う奥羽の牙城であり、天高くそびえる鶴ケ城は、 宮 い、このみちの いかなる敵をも一歩もよせつけない、巨大な要塞であった。江戸からはるかに遠 寺 けんそ 王くは、亡命者たちを安堵させるにふさわしい、山塊の奥にあり、特に会津若松は、険阻な幾つか ぎかん の峠を越さなければ、領内に入ることはできない。上野寛永寺の傑僧、覚王院義観も彰義隊が敗 みかど えさ 105
同盟軍の最大の問題は、仙台兵の臑弱である。いくら大藩意識を振りかざしても、薩長の撃ち かんぶ だす霰のような銃弾の前に完膚なきまでに打ちのめされた。仙台藩の近代化は焦眉の急なのだ。 ( 仙台藩も確実に変っている。この男は、必ずや何かをなすに違いない ) 梶原は直感的に感じた。そこへ庄内の本間友三郎が割り込んだ。本間は米沢藩の千坂と前後し て会津を訪れ、軍艦購入について梶原と相談している。酒田を知らない人でも、庄内の本間家と いえば、日本一の大地主として知らない人はいない。庄内藩が新徴組をかかえ、強力な火力を持 っているのは、ひとえに本間家の財力によった。 本間友三郎は、本間家の当主、光美の従兄弟で、若くして江戸にでて洋学、剣術を修業した。 東北に風雲急を告げるや、友三郎は、函館に飛んで外国の汽船「ロバ号」をチャーター、蝦夷地 警備に当っていた庄内兵七百数十名を運んだ。また函館の商人、柳田藤吉を通じ、三万四千五百 両もの小銃、弾薬を買い入れ、庄内藩兵の近代化を進めた。やることのスケールは、けたはずれ に大きい。庄内藩だけではない、財力を駆使して米沢藩にも大砲、小銃を買い与えた。ちなみに 慶応三年における本間家の収入は二十六万八千両、当時の一両は現在の約三万円に相当するの で、約八十億円になる。強大な資本家であり、東北の大名は大半、本間家から借金している。本 は間家の人々の魅力は、「金持喧嘩せず」で、常に相手と争うことは避け、地域にできる限りの恩 方恵を施す度量の広さにある。 梶原は、友三郎と気が合った。本間家と手を握れば、軍艦などお手のものだ、というずしりと みつよし