東北 - みる会図書館


検索対象: 白虎隊―続会津藩燃ゆ
36件見つかりました。

1. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

エドワードの戦略は、蚕の貿易という商業上の観点から新潟開港を迫り、諸外国は奥羽越列藩 同盟とも商取引をすることを薩長政府に認知させることにあった。 「新潟ニ武器、弾薬ヲ運プノデハナイ。アクマデモ蚕ノ貿易ノタメニ新潟ニ寄港スルノダ」 イタリア公使は強引に薩長政府にねじ込み、横浜から船をだした。エドワードの外交上の勝利 である。 「私ノ肩書ハオランダ国ノ領事ダ。薩長ハ手ガ出セナイ」 エドワードは、胸を張った。 エドワードは、兄のいる会津藩との約束を守るべく、汽船をチャーターし、小銃、弾薬を積ん で、太平洋を北上、下北半島を回って、五月十二日新潟に入っていた。 ( カジワラガ、待ッティル ) エドワードの心も東北のサムライたちにあった。 不思議な兄弟であった。勿論、武器、弾薬の取り引きという商売はある。しかし、それだけで はない。アラビアのローレンスのように誠に生きる東北のサムライに魅かれた。奥羽越が勝て さんぜん ば、兄弟の未来は燦然と輝く。だが、それはあまりにも危険な賭けだ。江戸、大阪を押えられ、 イギリスは完全に薩長政府を支持している。どう見ても勝っチャンスは少ない。だからこそ自分 たちが応援しなければ。兄弟には、強い義侠心がある。判官びいきは、何も日本人だけの特性で まよ、。 兄弟の冒険心が、東北を選択させた。

2. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

した重さがある。 「梶原殿、貴殿こそが、奥羽に新しい時代をもたらす指導者です。できるだけの御協力はしま 友三郎は、梶原をじっと見た。 「心強い」 梶原は、勇気が湧いてくる己を感じた。 会議にはエドワード・シュネルも出席し、仙台藩玉虫左太夫が議事を進めた。いつもながら玉 虫の議事進行はあざやかである。 「今度の戦いは、アメリカの南北戦争と同じである。南北戦争は、不幸にして南軍が敗れたが、 南部と北部は、お互いに産業や文明を異にする二つの国であり、ともに正義の戦いだった。奥羽 越も同じである。この地にいまや北部政権が樹立されたのだ。この日本に薩長政府と北部政府の 二つの政府があるのだ」 玉虫は、南北戦争の例を引いて、薩長対奥羽越の二つの世界を説明した。 ( うまい。さすがにアメリカ帰りは違う ) 梶原は感心した。 玉虫の狙いは、中立政策をとっているアメリカを意識したもので、諸外国に北部政権を認知さ せることによって、新潟港、仙台港、酒田港など東北、越後の港を確保し、武器、弾薬の補給を

3. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

人生には、必ず絶頂をきわめる瞬間がある。新潟にいる梶原平馬がそうだった。東北、越後の 指導者たちの注目を集め、この時期、東国を左右するニューリーダーの一人にのし上った。会津 武士という鉄の軍団を率い、シュネル兄弟を同盟軍の顧問に据え、薩長と戦っている梶原は、ま さにヒーローであった。狂暴な薩長に死を賭けて立ち向う、男の雄姿があった。梶原の柔軟な外 交力は、京都時代から頭角を現わしており、奥羽越列藩同盟の結成で、見事に開花したのであ る。会津藩の財政は火の車だが、酒田の本間家をはじめ、東北、越後の商人の間にも会津の梶原 の名前が知られるようになった。会津が勇猛果敢に戦っている限り、北部日本政権をつくろうと いう、東北、越後の獅子たちの夢と希望があった。 すべてが梶原の計算どおりに動いた。シュネル兄弟は、単なる死の商人ではない。東北、越後 北方は仁

4. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

慶応四年ー。 みぞう 東北、越後は未曽有の混乱にあった。 徳川幕府があえなく崩壊し、薩長は、怒濤のごとく江戸に進軍した。 「まさか」 東北、越後は、狼狽した。 京都守護職として、薩長と激しい死闘を繰り広げてきた会津藩は、朝敵の烙印を押され、奥羽 城 河越諸藩に会津追討の命令が出された。救会か討会か、奥羽越諸藩は揺れた。 闘孝明天皇の絶大な信を得、京都に君臨した会津兵は、固く城門を閉ざし、会津国境に兵を送 っこ 0 死闘白河城 らくいん

5. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

「うむ」 「貴殿の勇気には、ほとほと敬服する」 千坂がいうと、梶原は、黙って頷づいた。 梶原には、一つの希望があった。海軍である。梶原は、よく鶴ケ城天守閣にのぼり、鯲豊連峰 を眺めた。すると、雲の間から越後の海が浮かぶのだ。黒煙をあげて、軍艦が白波を切る。甲板 にずらりと大砲が並び、水兵たちが操練をしている姿であった。海軍こそが、この戦いを勝利に 導く神なのだ、梶原は信じていた。 それは、夢ではなかった。会津に来ているヘンリー・シュネルの弟、エドワード・シュネルと の男の約束があった。 「必ズ、軍艦ヲ手ニ入レテ見セル」 というエドワードの言葉を信じていた。 てつのじよう その日のために、梶原は旧幕府の軍船「順動丸」を押え、神尾鉄之丞らに航海訓練をさせてい た。軍船というよりは、輸送船だったが、大砲も積み、佐渡や酒田を往復し、軍需物資の輸送に 当っている。「会」の旗が船尾に翻き、新生会津の意気、天を衝くものがあった。 出梶原と千坂は、京都以来、お互いに東北の未来を賭けて奔走して来た同志である。奥羽越列藩 きづな 命同盟も二人の友情がなければ、実を結ぶことは難しかった。いま、二人は、運命共同体の深い絆 で結ばれている。東北の夜明けをつくる覇気に満ちあふれている。薩長なにするものそ、という

6. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

星亮一 一九三五年仙台市生まれ。高校時 代を岩手県で過ごす。一関一高、 東北大学文学部国史学科卒。福島 民報記者を経て、福島中央テレビ 入社。番組プロデューサーとして、 「アメリカからの報告、野口英世・ 炎の生涯ー「越龍吼ゅ / 嵐の会津・ 長岡同盟」「風雪″【斗南藩ー北斗 以南皆帝州」等を制作した。 著書 / 『会津白虎隊』『猪苗代湖』 『斗南に生きた会津藩の人々』『松 平容保とその時代』『会津藩燃ゅ』 他がある。 現在、福島中央テレビ販促事業局 長、東北史学会会員。 ・著者星 ・発行者堤 0 発行所教育書籍株式会社 東京都新宿区高田馬場 〒一六〇 電話〇三 ( 二〇五 ) 〇〇一一七 印刷 / 明和印刷製本 / 渋谷文泉閣 続会津藩燃ゅ 白虎隊焦死す 一九八六年十一月二十日初版第一刷発行 一九八六年十一一月一一十日初版第四刷発行 定価一、五〇〇円 933811 。

7. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

北、越後は、保守的な「みちのく」を守ろうと決集した。その意味で、戊辰戦争も西南と東 越後の宿命的な対決であったのかも知れない。だが、 梶原 ~ 、 000 考」、単」保守 0 決集〕』 どまるものではない。それを乗り越え、薩長と対抗する北部政権の樹立を目指したのだ。 東北の革新である。それは、壮大な実験でもあった。二人が立っ基盤は、保守という頑迷な風 土である。各藩の兵士間の連帯も稀薄だし、兵備、戦法もバラバラである。国家というのは藩で あり、東北、越後は一つ、という新たな意識はひと握りの上層部のものでしかない。最後はお家 大事と逃げだす危険が絶えずつきまとう。新発田内の農民層に反戦の空気が濃厚にでており、 出兵を阻止している。情勢は予断を許さないのだ。 かがりびも この夜、梶原平馬は、宿舎の「会津屋」で酒宴を催した。「会津屋」の前に篝火が焚され、武 装した会津兵が警備した。長岡や米沢の代表は、戦いの場に戻り、仙台、会津、庄内の顔があっ た。エドワード・シュネルもいた。 会津屋の奥座敷には、テープルがあり、肉とワインが並んだ。ヘンリー・シュネルの餞別会 は、芸妓を混えての大宴会だったが、この夜の酒宴は、男だけで始まった。玉虫はすぐ仙台に戻 らなければならないし、梶原にも君主容保から帰城の催促が来ている。白河の戦況が悪化してい 仁 はる、というのだ。 方 静かに揺れる燭光が、彼らを照らした。陽光のなかでは判らない疲労が、鮮やかにでている。 玉虫は、ワインをぐいと呑み干し、器用にナイフとフォークを操った。梶原も旺盛な食欲で肉

8. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

足を負傷し、新選組兵数人を連れて、会津に入り、東山温泉で湯治していた。白河口で戦ってい る新選組の督戦のため福良に駆けつけたのだ。 新選組副長土方歳三と聞いて、少年たちの眼はキラキラと光った。土方の周囲には、いつも少 年たちが集まり、鳥羽、伏見の戦いや日光ロの奮戦の模様を聞いて、胸をときめかせた。 鶴ケ城に残った梶原平馬は、主君容保と、日夜、戦況の分析に当っていた。伝令の報告は、一 向にはかばかしくなく、火器の増強を訴える沈痛な声があいついだ。新潟から細々と送られてく だじゃく る小銃、弾薬のほかは、補給のすべはないのだ。しかも、肝心の仙台兵が臑弱で、ひどい損害を だしていた。梶原は仙台に急使を飛ばし、白河城の攻防が東北の死命を制すると訴え続けた。 夜の鶴ケ城は、日中の喧噪が嘘のように消え、月が昼のように樹木を照らしていた。時おり雷 鳴が響く。梶原はいい知れぬ孤独感に襲われた。戦線を拡大しすぎたのではなかろうか。越後、 日光、白河、三方部に大部隊を派遣し、城下に残るのは、老兵やわすかの客兵に過ぎない。兄の 内藤は白河口を督戦し、右腕の山川大蔵は日光ロで戦い、佐川官兵衛の精鋭は越後で血を流して いる。日々、貴重な人命が失なわれ、農兵の採用も限度に来ている。白虎隊までも出陣し、この 城は孤城と化している。 恐ろしい、とおもった。 戦いが始まるまでは、果てしない夢があった。東北を決集し、越後を同志に迎え、まさに天を

9. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

九条総督は、薩長政府が東北に仕掛けた巧妙な餌だった。仙台は、これを自家薬籠中のものと して、生かし切れず、逆に秋田が食いついて釣り上げられた。 薩長政府は、戦わずして秋田を東北の拠点として抑えた。九条道隆という「玉」を失った同盟 すべての人が願望した「玉」、それは孝 軍は、火急速やかに新しい「玉」を抱かねばならない。 明天皇の弟君 ( 仁孝天皇養子、伏見宮第九皇子 ) 、幼帝の叔父に当る輪王寺宮法現親王である。 これこそ、北部日本政権の帝であり、帝を抱くことによって同盟軍の兵士も官軍となるのだ。奥 羽越の盟主、仙台藩は、九条総督転陣の失策をカバーするため、必死に輪王寺宮の行方を探っ た。その一報は、会津藩からもたらされた。会津には、おびただしい人々が亡命している。薩長 に追われた旧幕府閣僚の板倉勝静、小笠原長行をはじめ、古屋作左衛門、大鳥圭介、土方歳三、 ただくに さらには長岡藩主牧野忠訓も家族を連れて会津若松に逃れていた。 向会津若松こそは、全藩をあげて薩長に立ち向う奥羽の牙城であり、天高くそびえる鶴ケ城は、 宮 い、このみちの いかなる敵をも一歩もよせつけない、巨大な要塞であった。江戸からはるかに遠 寺 けんそ 王くは、亡命者たちを安堵させるにふさわしい、山塊の奥にあり、特に会津若松は、険阻な幾つか ぎかん の峠を越さなければ、領内に入ることはできない。上野寛永寺の傑僧、覚王院義観も彰義隊が敗 みかど えさ 105

10. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

同盟軍の最大の問題は、仙台兵の臑弱である。いくら大藩意識を振りかざしても、薩長の撃ち かんぶ だす霰のような銃弾の前に完膚なきまでに打ちのめされた。仙台藩の近代化は焦眉の急なのだ。 ( 仙台藩も確実に変っている。この男は、必ずや何かをなすに違いない ) 梶原は直感的に感じた。そこへ庄内の本間友三郎が割り込んだ。本間は米沢藩の千坂と前後し て会津を訪れ、軍艦購入について梶原と相談している。酒田を知らない人でも、庄内の本間家と いえば、日本一の大地主として知らない人はいない。庄内藩が新徴組をかかえ、強力な火力を持 っているのは、ひとえに本間家の財力によった。 本間友三郎は、本間家の当主、光美の従兄弟で、若くして江戸にでて洋学、剣術を修業した。 東北に風雲急を告げるや、友三郎は、函館に飛んで外国の汽船「ロバ号」をチャーター、蝦夷地 警備に当っていた庄内兵七百数十名を運んだ。また函館の商人、柳田藤吉を通じ、三万四千五百 両もの小銃、弾薬を買い入れ、庄内藩兵の近代化を進めた。やることのスケールは、けたはずれ に大きい。庄内藩だけではない、財力を駆使して米沢藩にも大砲、小銃を買い与えた。ちなみに 慶応三年における本間家の収入は二十六万八千両、当時の一両は現在の約三万円に相当するの で、約八十億円になる。強大な資本家であり、東北の大名は大半、本間家から借金している。本 は間家の人々の魅力は、「金持喧嘩せず」で、常に相手と争うことは避け、地域にできる限りの恩 方恵を施す度量の広さにある。 梶原は、友三郎と気が合った。本間家と手を握れば、軍艦などお手のものだ、というずしりと みつよし