も、領内に敵を引き入れ、決戦に向うべきだ。冬が来れば勝利の道はある」 いしもたたじま 議論は沸騰した。但木土佐は、いまや指導力を失ない、代って中島外記、石母田但馬、遠藤主 かなめ 税、大内筑後、松本要人、片平大丞が家老職に就き、意見は真っ二つに分れた。中島、石母田、 遠藤は非戦を唱え、大内、片平、松本の三人は城を枕にしての焦土作戦を主張した。両派は、互 いに譲らず、抗戦派の松本らは、恭順派の一斉逮捕を計画し、坂英力、星恂太郎、細谷十太夫ら と、二本松奪回、会津救援を練った。 しかし、藩論の分裂は、致命的だった。兵は戦意を喪失し、動こうとしない。仙台瀋は危機的 様相を呈し始めた。それに拍車をかけたのが米沢藩である。米沢藩には土佐藩から秘かに接触が あり、領土保全の寛典と引き換えに、降伏のすすめがあったのだ。越後の戦闘に破れ、すでに領 、こ頁土を守るかにあった。軍事総督 土拡大の夢が消えた米沢藩にとって、最大の関心事ま、 千坂太郎佐衛門、参謀甘糟継成も米沢藩の兵備では西軍に抗し得ないことを知っている。千坂は 恭順を決意し、家老木滑要人に仙台藩の非戦派との接触を命じた。 奥羽越は乱れに乱れた。北部日本政権の樹立という壮大なロマンは、砂上の楼閣となり、秋 田、新発田、三春が裏切り、いままた盟主仙台藩、さらには米沢藩が風前の灯なのだ。仙台にい いちる る南摩綱紀、中沢帯刀、小野権之丞、諏訪常吉ら会津藩の外交方は、焦った。一縷の望みは、近 く仙台湾に入るという榎本武揚の艦隊である。 ( 榎本よ来い。天下無敵の大艦隊こそが、この奥羽越の混乱に確固たる信念を与えるのだ ) たてわき きなめ 178
松蔵は河井を物陰に運ぶと、手ぬぐいを裂いて膝をしばり、兵士たちが急造の担架を作って、 長岡藩の軍病院である昌福寺に移した。 どの顔も沈痛のあまり、声もない。長岡藩兵にとって、河井がすべてなのだ。河井がいなけれ ば戦いにならない。誰が指揮をとり、誰が長岡を考えるのか。越後の戦いは、河井継之助を欠い てはありえない。翌二十六日、長岡城に入った米沢の千坂太郎左衛門、会津の佐川官兵衛らも呆 然とした。 ( 敵兵は一両日中に総攻撃をかけてくるだろう。河井を欠いて長岡の防衛はできない。越後もこ れで終りだ ) 二人の胸に去来するものがあった。 米沢藩は、このときから早くも退却を始める。米沢藩軍事総督千坂太郎左衛門は、絶えず米沢 藩兵の温存を考えている。他国で藩兵を消耗すれば、自国の防衛が不可能になる。そのために攻 撃も消極的で、会津や長岡藩兵との間に不信感も芽生えていた。 「米沢は相手にならん ! 」 よ せ佐川官兵衛は、ときおり口ぎたなくののしった。寄せ集めの同盟軍の悲劇である。 死会津藩首席家老梶原平馬は、米沢の千坂を信じたが、千坂は政治家であり、政略で動く。 潟河井の重傷は、越後の同盟軍を崩壊させた。それを決定的にする西軍の新潟上陸作戦が行なわ れた。同盟首脳がもっとも怖れた新潟港の占領である。 151
裏切り 同盟軍の危倶は新発田藩の動向にあった。新発田藩の不穏な動きは、早くからあった。これに いち早く気づいた会津藩は、仙台、米沢藩と共可で、新発田藩主を人質に取ることにし、三藩の 兵を新発田に向けて、藩主溝ロ直正を拘束した。少々、手荒い処置だが、新発田が同盟を離脱す れば、新潟港が危ういのだ。 小藩の新発田が、会津、仙台、米沢に抵抗できるはずはない。藩主は米沢に転居することにな むしろばた あが 、城下を出発、米沢に向かったとき、多数の農民が竹槍や筵旗を持って、城下にあふれ、阿賀 野川の橋を撤去して、道をふさいだのだ。農民を相手に戦争することはできない。 会津藩首席家老梶原平馬は、怒った。 「このままでは同盟の今後に悔恨を残す。強硬手段をとっても新発田藩を抑え込め ! 」 梶原は、命令したが、仙台、米沢が消極的で、ずるずると時間が過ぎてしまったのだ。この間 に、郷士たちが長岡の西軍と連絡を取り、新潟上陸の手はずを整えていたのだ。新発田藩の処置 をめぐり、三藩の意見が不統一で新発田を見逃してしまったことが、重大な問題を引き起こす。 七月一一十五日。佐渡の小木港に集結した西軍の海上部隊は、二十五日早朝、新発田領の太夫浜 こっ霍ん 沖合に姿を現わした。のどかな漁村の沖合に軍艦二隻と輸送船四隻が、忽然と近づいたのだ。も くもくと黒煙を吐き、ポー、ポーと蒸気音を響かせている。米沢、会津藩兵が守る新潟港を避 け、近くの漁港に敵前上陸をかけたのだ。蒸気船の後ろには、軍需品を積んだ三十隻近い漁船が やってくる。大船団だ。 153
米沢藩兵は、八幡神社に身の安全を祈り、諏訪峠を越えて、手の子に一泊した。 翌朝、宇津峠 ( 四九一メートル ) に登り、はるかに米沢をあおぐが、小雨がパラつき、なにも 見えない。晴れていれば長井、米沢の二つの盆地が見下せる。このころから雨は、音を立てて降 おぐに り注いだ。空は漆黒の闇となり、大きな灌木に身を寄せて雨をしのぎ、ようやく小国までたどり 着いた。 六百名の兵士は、山中の民家に分宿するが、貯えの薪もなくなり、濡れた木を運んでいぶす始 末だった。雨は激しく屋根を叩き、滝のように流れ落ちる。四方は何も見えず、一行はここで六 日間も足留めを食ってしまう。ここまでは米沢領で、米沢からは西北十五里 ( 六十キロ ) の距離 にある。小さな支城もあり、鉄砲三十挺が常備されている。 情報を閉ざされてしまった米沢藩兵は、退屈のあまり将棋や碁を指し、歌を詠んで気をまぎら わせた。 五月九日、小雨となったため、兵糧、草鞋を腰に、雨合羽を身にまとい出発、足をすべらせな しばた にいっ がら大関峠を越え、越後領に入り、新発田から新津に着いたのは、五月十八日になっていた。実 に十八日間もかかって、戦場に着いたのだ。 月 五新津から長岡までは、約十二里 ( 四六キロ ) の距離である。十九日早朝、一里半ほど前に進む の と、猛火天をこがし、砲声が聞える。 魔 「遅かったかリ」 わらじ こ
死の海 戦いにさらされた。 ひばら 母成峠で敗れた大鳥圭介も猪苗代の山中をさまよっていた。盤梯山の裏側、桧原にでた大鳥 は、続々と米沢に逃れる長岡藩兵の一行に出会った。山路は膝まで没する泥土で、そのなかを奥 方や婦女子が手をとりあって歩いてくる。庄内藩士本間友三郎に出会い、若松の情勢を聞くと、 完全に包囲され、敵の猛攻を受けているという。しかし、大鳥の率いる一一百余名の伝習歩兵は、 病気困憊、食糧、弾薬もなく、如何ともしがたい。桧原村は一人の村民もおらず、皆家財道具を 持って、山に隠れ、食糧の調達もできない。ある一軒の農家に入り、米ニ升と味噌少々を探しだ し、粥をつくって飢えをしのいだが、寒気肌を刺す気候となり、ガタガタと震えながら夜を過ご す始末だっこ。 米沢口には多くの会津人が逃げ込んだ。人々は米沢を目ざして、必死に逃げてくる。新選組の 土方歳三もそのなかにいた。 「予は庄内に行き再挙を期す」 土方はそういって姿を消した。 大鳥軍も米沢に援護を依頼しようと、桧原をでて険しい峠を越え、米沢の関門にたどり着く と、堅く門が閉ざされ、一切通行を認めない。長岡公や桑名公の一行も着いていたが、関門の役 人は、何をいっても馬耳東風、食糧、弾薬の補給など一切の便宜を断わられ、大鳥は米沢藩の変 心を知って、慨嘆する。 225
山川には戦う確信があった。高い城壁、深い濠、敵の侵入を防ぐ絶妙の構造を持っ天下の名城 があれば、一カ月は籠城して見せる、という自信があった。その間に仙台、米沢、旧幕府兵の応 援が来よう。今度は城下の西軍が同盟軍に包囲され、戦いは逆転すると考えた。山川はまだ同盟 軍の崩壊を知らない。 山川を迎えて会津藩軍事局は、直ちに籠城作戦を練った。この難局を乗り切る軍事総督は山川 大蔵をおいて外にいないことは衆目の一致するところだった。 「山川、君に全軍を托す」 容保がいった。 家老梶原平馬容保の側で政務を担当。 家老山川大蔵本丸で軍事を統轄。 家老内藤介右衛門三の丸を指揮する。 家老原田対馬西出丸を指揮する。 家老海老名郡治北出丸を指揮する。 若年寄倉沢右兵衛一一の丸を指揮する。 236
が、とり返しのつかない長岡落城に結びついた。 米沢藩は、第一陣出兵の日を五月一日と決めた。どんなに遅くても十日までには長岡に着ける と踏んだ。続いて第二陣、第三陣と兵を出し、越後から西軍を一掃すると意気込んだ。 越後は、同盟軍の武器、弾薬の補給基地である。越後を頑強に守ることが、同盟軍の勝利への 道なのだ。 五月一日。米沢城下は、朝から混雑を極めた。 城下の人口は三万人余。このうち半数強は武士とその家族である。生活は決して楽ではない。 大半の武士は二十石から五十石で、下級武士は五人扶持から七人扶持だった。一人扶持というの は、一人一日米五合を食べるとして一年分、一石八斗が支給された。食べるだけの生活である。 下級武士は、農耕地を与えられ、自給自足をしている。領土の狭い貧乏藩にとって、越後への領 土拡大は、藩祖謙信以来の夢である。 米沢城大手前に武備を固めた十三小隊、六百名の精鋭が並んだ。黒山の市民が取り囲むなか、 なりのり 米沢藩主上杉斉憲が閲兵し、軍事総督千坂太郎左衛門が、激しく演説した。 月 五「一統奮発し、累代の君恩に報いよ。戦場に臨んでは、米沢藩の名を汚さぬよう死を恐れず戦 の 魔 会津との固い約東を守り、長岡の救援に向うのだ。
三春が卑劣な裏切りをしなければ、二本松もあるいは降伏したかも知れなかった。しかし、 同盟の一員から銃撃を受け、多くの犠牲者をだしたことで、二本松の決意は固まった。 「殿、米沢にお立ち退きを」 一学は、藩公に米沢退去をうながした。 「予も皆と運命をともにする」 丹羽長国がいったが、一学は、 「なりませぬ」 と、断った。 丹羽長国は、眼に涙を浮かべ、家族、奥女中、医師、料理人、護衛の兵など六十余名を連れ て、米沢に落ちた。 西軍は、伊地知正治、板垣退助の率いる白河口、平潟ロの合併軍である。 「戦だ ! 」 町民たちは、家財道具を荷車に積んで、続々、町を出た。 二十九日、早朝から戦闘が始まった。丹羽一学は、二本松藩兵の主力を郊外の高地に配し、正 面の大壇口に三小隊と砲隊を据えた。 1 大壇の南で銃声が響いた。二本松藩軍師小川平助が迫る敵に一斉銃火を加えたのだ。薩摩藩兵 が、もんどり打って斃れる。 しくさ おおだん 169
( 最後の頼みは、榎本の艦隊だ。榎本が藩公を説き伏せれば、会津援護はある ) 玉虫は、榎本の艦隊に一沫の望みを賭け、 「梶原 ! 死ぬな ! 」 と、暗い夜に叫んだ。 一方、米沢の城下も、暗い悲しみの底にあった。軍事総督千坂太郎左衛門は、自宅に引きこも 、苦悩に打ちひしがれていた。米沢藩兵は、圧倒的な西軍の火器に撃ち負かされ、二本松落城 を境に、西軍の軍門に屈する藩論を固めていた。国境は厳重に固め、すべての兵を国元に引き上 げたのだ。 ( 武士道も地に墜ちた ) 千坂は、自嘲した。夢と現実とのあまりにも激しい落差だった。千坂が見た越後の戦争は、狂 気、狂乱であった。藩祖謙信から伝えられた紺地に日の丸の旗も薩長の銃火には、色あせた戦国 時代の遺物でしかなかった。逃げまどう民衆、新発田藩の裏切り、河井継之助の壮絶な死、千坂 の胸に様々なおもいが去来する。 ( とても薩長には勝てない。城を枕に討ち死にしてどうなるというのか。米沢には、とてもその 力はない。残念ながら奥羽は薩長に遅れをとったのだ。梶原よ、許せ ! ) 千坂は、押し黙ったまま動こうとしなかった。 西軍会津城下に侵入 ! は、会津を支援する多くの人々に落胆と失望を与え、会津藩は絶望の 224
炎の海 突然、港から伝令が駆け込んだ。 「なに ? 」 梶原は狼狽した。 ( 来たな ! ) 梶原は、がばっと立ち上るや、シュネル兄弟とともに港へ一直線に疾った。 とおめ恭ね 港を守る同盟軍の兵力は、米沢藩八小隊、会津藩三小隊の約三百五十名にすぎない。遠眼鏡で はるか沖合いを見ると、二隻の軍艦が煙を吐いている。薩摩、長州の藩旗が翻っている。まさし く敵だ。薩摩の乾行丸、長州の丁卯丸である。 ( 順動丸を沈めた敵艦に違いない ) 梶原の膝は小刻みに震えた。 「港ニハ、イタリアノ船ガ入ッティル。薩長ノ軍艦ハ攻撃デキナイ」 ヘンリーがいった。ヘンリーの言葉どおり、二隻の軍艦は間もなく視界から消えた。 翌日から会津、米沢藩兵による砲台の建設が始まった。ヘンリーも汗だくになって指揮をとっ た。四日には浜べで、会津、米沢藩兵の調練があり、この日もシュネル兄弟が閲兵した。シュネ ル兄弟が外交特権を持っている限り、西軍も港を攻撃することはできない。 五日には、イタリアの蚕種買い付け商人がイギリスの汽船「アルビオン号」に乗って入港し た。船倉には大量の小銃、弾薬が匿されていた。 かく